18.誘惑の赤ワイン
結局、家が見えるところまで送ってやると、理沙は「バイバーイ!」と元気よく手を振ってから玄関のほうへと姿を消した。かわいい奴だなとまた思ってしまった。だからって、女として見られるかというと、そんなことはない。つまるところ、なんだかんだ言っても、ガキはガキでしかないわけだ。
零時頃。自宅に戻った。すると、また来客の姿アリ。部屋の前にお隣さんの橋本さんが立っていたのだ。なんとも涼しげな浅葱色のブラウス姿。今夜も清楚で可憐だとの印象。こちらに気づくと、笑って見せた。花が咲いたような笑顔に心を奪われそうになる――というか奪われるのだ、毎度毎度。
俺は会釈をしつつ歩を進め、橋本さんに近づいた。
「こんな遅くにどうしたんスか?」
「ええ、遅いですよね。だから、お誘いしてもいいものか、散々迷ってしまって……」
「お誘い? 迷った?」
「とにかくよかったです。まだ起きていらっしゃったようなので」
「えっと、話が飛んでるように思うんスけど」
「あっ、そうですよね。ごめんなさい」
「謝ることはないッスよ。それで、なんの用事ッスか?」
俺は無作法だし、誰が相手であろうと結論を急ぐきらいがある。だから「なんの用事ッスか?」などとド直球で訊いてしまうわけだが――。
「あの、えっと、一緒にお酒でもどうかなと思って」
橋本さんはそんなふうに言った。酒? 橋本さんが? ちょっと混乱してしまい、それでも俺は自分自身を立て直す。女性経験はともかく、人生経験はそれなりにあるつもりだ。
「酒スか?」
「赤いワインを買ってきたんです。スーパーで、ですけど」
「とことん珍しいッスね」
「相変わらず、独特な言い回しをされますね」
「性分なんスよ」
「私自身、お酒は久しぶりです。息子の前で飲むわけにもいきませんし」
「えっ。元英のヤツ、いないんスか?」
「今日はお泊り会なんです」
「あー、そうなんスか。それはまた、なんつーか、その……」
「付き合っていただけませんか……?」
元英がいない、すなわち、橋本さんしかいない空間に、男の俺が足を踏み入れるのは、あまりよろしくないように思う。だけど、恥ずかしげな、それでいて訴えてくるような上目遣いで見られてしまっては、なんというか即死、断れるはずもない。「いいッスよ」と快諾するしかなかった。橋本さんは「ありがとうございます」と言って、ほっとしたような笑みを浮かべたのだった。
ダイニングテーブルの上には、もう赤ワインのボトルが立っていた。席につきつつラベルを確認するとフルボディ。造詣が深いわけではないので、いいものなのかそうではないのかまではわからない。スーパーで買ったとなると、程度はたかが知れているのかもしれない。そんなこと、どうだっていいのだけれど。
橋本さんは様々なチーズがのった中皿をテーブルの真ん中に置き、それから椅子に腰を下ろした。ワイングラスをそれぞれの前に並べる。彼女はまた笑ってみせた。
「グラスまで買っちゃいました」
「付き合いで飲むとか、そういうこともないんスか?」
「飲まないようにしています。一度、危ない目に遭ったことがあって」
「危ない目?」
「軽く酔ってしまって、当時の部長に、その、ホテルに……」
「えっ、入っちゃったんスか?」
「入る直前に、はっと我に返ったんです」
「お断りしたと?」
「はい。丁重に」
「そうスか」
なんだか、かなーり安心してしまった。もし「寝た」とかいう話だったら、橋本さんを見損なう前に部長とやらを殴り殺したかもしれない。
「でも、橋本さん、お綺麗だもんなあ」
「そんな。枯れ切った女をつかまえてなにをおっしゃるんですか」
「俺、そんな枯れたところが好きだったりするんスよ」
「えっ」
「あっ、いや、紛らわしいことを言ってすみませんッス」
「い、いえ」
橋本さんはウェーヴのかかった前髪を右手でせわしなく掻き上げると、肩をすぼめて、もじもじするような素振りを見せたのだった。
スクリューがついているだけの簡易的なオープナーを使って、橋本さんは「うーん、うーん」と一緒懸命にコルクを抜こうとする。だけどなかなかうまくゆかず、だから俺が代わりをやった。すぐさま抜き取った。彼女はぱちぱちと手を叩いて称えてくれた。
それぞれのグラスに赤い液体を流し込んでチンと乾杯。橋本さんは喉をこくりと鳴らした。本当に細い首だ。片手で握り潰せてしまえるだろう。彼女がグラスを空けたところで、次を注いで差し上げた。その頬はもう紅潮している。アルコール耐性は低いらしい。
「本庄さん」
「はい?」
「本庄さんって、カッコイイですよね」
「また、いきなりッスね」
「だって、刑事さんなんでしょう?」
「それとはちょっと違うって言った覚えがあるんスけど」
「なにかあだ名があったりするんですか?」
「あだ名?」
「ほら、ジーパンとかマイコンとか」
思わず吹き出しそうになった。
「ジーパンなんてはいてないでしょう? つーか、マイコンって。古いドラマが好きなんスか?」
「いえ。なんとなーく訊いてみました」
「あえて言うなら、筋肉バカとか言われてるッスね。あと脳筋野郎か」
そのへんは事実だ。
特にバディが俺のことを軽んじてくれる、なぁ……。
「聡明そうに見えますよ?」
「ウチの先輩がたのほうが、ずっとやり手だし、頭がいいんス」
「ですけど、本庄さんには唯一の価値がある。だから、そんなやり手のかたがたの中にあっても、居場所を保っていられるんじゃありませんか?」
「そうなんスかね。あんまり深く考えたことはないんスけど」
「私はほんとうに、本庄さんってスゴいと思っているんです」
橋本さんがいったい、俺のなにを知っているのだろう、なにを知った気になっているのだろう。だけど、彼女に持ち上げられると、悪い気はしない。とはいえこれ以上、自分のことを探られ、下手に褒められるのもなんなので、話題を変えることにした。
「どうして、前の男と、あ、いや、旦那さんと別れちゃったんスか?」
「元英が言ってましたよね? 捨てられたんだって」
「それは、はい、まあ」
「やっぱり私が至らなかったんだと思います。じゃなきゃ、不倫なんてされなかったでしょうし。具体的には、君との将来のビジョンが見えない、そんなことを言われてしまったんです」
「つくづく馬鹿な男ッスね」
「そう思われますか?」
「嘘は言わないッス」
「実は、最近になって、やり直さないかって連絡が……」
そんなふうに言われると「そうなんスか?」と驚かざるを得ない。やっぱ後悔してやがるのだろうか、元夫は。「そんなの、もうあり得ない話なんですけれどね」と言い、橋本さんは笑った。
「なにより元英が嫌がるでしょう?」
「はい。だから、到底、無理な話なんです」
「だけど、もし元英がいいっつったら、オッケーするつもりなんスか?」
「それもナシだと考えています。一度壊れてしまった関係なんです。そう簡単に修復できるわけがありません。修復したいとも思っていません」
「そこにあるのはプライドみたなもんスか?」
「そうなのかもしれませんね」
俺はカマンベールチーズをつまんでから、ワインを一口飲んだ。すると、橋本さんが、すっとグラスを差し出してきた。
「ほっぺた、真っ赤ッスよ?」
「それでも飲みたいんです」
「だけど」
「飲みたいんですっ」
強く言われては仕方がないので、また次を注いでやった。
橋本さんはグラスに口をつけると俯いた。
小さく鼻をすすったようにも見えた。
「私に足りないもの……。本庄さんは、それってなんだと思われますか?」
「俺は橋本さんの表面だけしか知りませんけれど、足りないモノなんてないと思うッスよ」
「セックスが得意だとは言えないんですけれど……」
「またなにを言い出すんスか。つーか、テクどうこうは男の話であって、女性に求めるべきものじゃないッスよ」
「男らしいですね、本庄さんは、ほんとうに」
「そんなつもりで言ったわけじゃないッスけど」
「私、セックスが気持ちいいだなんて感じたことはないんです。初体験の時だって痛いだけで、以降もあんまり……」
「そういうめぐり合わせだったんッスよ」
「本庄さんはいかがですか?」
「俺もあんまりイケたことはないスね。ああ、イケたとか、下品なこと言ってすみませんッス」
心の底から謝罪したつもりだったのだけれど、「気を遣わないでください。二人きりなんですし」と微笑まれてしまった。優しい、ほんとうに。この女性は、ほんとうに。
「阿保みたいにというか、馬鹿みたいに求め合えるようなセックスが理想だとは思うんスけど」
「同感です。そして、好きな男性に抱かれる時は、母親ではなく、一人の女でありたいです」
「そうなんスか?」
「そうなんです。それっていけないことでしょうか?」
橋本さんはじっと目を見つめてきた。
いけないことであるわけがないので、俺は微笑むに留めた。
「たしかに、野郎に抱かれてる時くらい、元英のことは忘れたっていいんじゃないスかね」
「でも、それってきっと難しいことなんです」
「でしょうね。悩ましいところッスよね」
「こんなことを打ち明けるなんて、初めてです」
「そうスか」
「そうに決まっているじゃありませんか」
橋本さんは目を細め、「うふふ」と笑ったのだった。
ワインボトルが空いたところで、おいとましようと椅子から腰を上げた。橋本さんも立ち上がった。見送ってくれるらしい。だけど玄関から出たところで、彼女はふらふらとよろめいた。横に倒れそうになった。そこで思わず右手を出して、背を支えた。
「ごめんなさい」
「やっぱり、橋本さんは酒が得意じゃないみたいッスね。だけど、今夜、誘っていただいたことについては、感謝してるッスよ」
「あの……」
「はい」
「しっかりと、立てません……」
「大丈夫ッスか?」
「ダメみたいです……」
「了解ッス」
俺は橋本さんの細い腰を抱きつつあらためて部屋に入り、奥へと進んで寝室のドアを開けた。ベッドに座らせてやると、彼女は「はあ……」と息をついて、両手をそれぞれの頬に当てた。
「酔っぱらっちゃいました」
「たまにはいいんじゃないスかね」
「横になってもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
橋本さんはベッドの上で横たわり、それから仰向けになった。とろんとした目で天井を眺める。
「部屋のキー、お借りしてもいいッスか?」
「どうしてですか?」
「いや。だって鍵はしめないと。明日、お返しするッスから」
「優しいんですね」
「当然のことッスよ」
だけど、橋本さんはどこに鍵があるか教えてくれなくて。
「ねぇ、本庄さん……?」
聞いたこともない、甘えるような声だった。
「抱いて、くださいませんか……?」
驚いた。彼女からそんな言葉を聞くことになるなんて、思いもしなかったから。
ベッドの端に腰を下ろしている俺は、断ることなく彼女の頬に右手を当てた。
「お願いです。抱いてください。あなたに抱かれたら、私の中で、きっとなにかが生まれるはずだから……」
「やっぱ、酔ってんスよ、橋本さん」
「橋本さん、じゃないです」
「えっ」
「紫苑って、呼んでください……」
橋本さんの顔に顔を近づけた。彼女は求めるようにして、俺の後ろ髪に両手の指を絡ませる。むずむずした。抱きたいなって、むずむずした。
……だけど、やめておいた。橋本さんはほんとうに欲しがってくれているのかもしれない。だけど、酒のせいでできあがってしまっていることもたしかなのだ。酔った女を抱くほど、俺はもう、若くない。
俺は前や上だけを向く。
そうすると、抱きたいという思いはいっそう、薄まって消えた。
「意地悪です、本庄さんは……」
「でも、勘弁してやってください」
「私がいいと言っているのに……」
「それでも、勘弁してやってください」
「だったら、せめてそばにいてください。ずっと、ずっと……」
また頬に手を添えてやると、彼女はその手を両手で包んだ。大事そうに包み込み、そのまま、すーっと眠ってしまったのだった。
翌朝、橋本さんから謝罪の弁を述べられたことは言うまでもない。彼女は「はしたない真似をしたんだと思います。本当に本当にごめんなさいっ」と頭を下げた。俺は「いいんスよ」とだけ返した。このへん、俺はやっぱり馬鹿だ。もっと気の利いた返答のしようがあっただろうに。
俺は橋本さんのことが本当に好きだ。一緒になりたいと思うくらいに。