16.ホマレという名
木曜日の夜。ホワイトドラム。後藤さんの居室にて。俺と伊織は二人掛けのソファに並んで座っている。
「コーヒーでも飲むかい? 言ったらすぐに出てくるけど」
「結構ッス。用件だけ伺いたいッスね」
「朔夜君は本当にせっかちだなあ」
「性分なんスよ」
「せっかちすぎると、色々と損をしたりもするんだよ?」
「そうスかね」
「そういうものさ」
得意げな顔をする後藤さん。意味不明だ。どうして胸まで張るのか。まあ、悪い気はしない。俺もだいぶん、後藤泰造というニンゲンには慣れてきた。
「でも、早いところ本題を話してくださいッス」
「今から二時間近く前だね。外務大臣のSPが撃たれた」
「撃たれたって、狙撃スか?」
「ああ。頭をやられて即死だったらしい」
「場所は? どこッスか?」
「大臣の私邸前だ」
「マスコミは?」
「もう騒いでる。犯人が声明を動画サイトにアップした時点で、事実関係にまつわる情報の操作も遮断も諦めた」
そりゃそうだ。不特定多数が自由に投稿できるサイトにアップされては防ぎようがない。防ぐにしたってそれなりの時間が必要になる。
「発信者はどこのどいつなんスか? もうわかってんスか?」
「わかってるよ。面は割れている。名前もだ。そういう真正直な内容の声明だったんだよ。犯人はシミズ・ホマレという人物だ」
「聞いたことのない名前ッスね」
「僕もないよ」
「そいつを捕らえるか、あるいは殺せと?」
「そういうことだ」
「だとよ、伊織さんよ」
そう話を振った。すると、伊織は実に長い脚を組み直した。
「あーあぁ。めんどくさいなあ」
「おや、伊織さん。珍しく乗り気じゃないね」
「生理中なの」
「それって本当?」
「ボス、当然、冗談だよ」
「荒事は『実行部隊』である君達の専門じゃないか。だからこうしてお願いしているんだよ」
「お願いじゃなくて、指示、あるいは命令でしょ?」
「そうとも言うね」
伊織は肩をすくめてみせた。
「SPを撃ったのは、大臣本人をマークできなかったから?」
「そう考えるのが自然だね。シミズ自身は、これは警告だと発していたけれど」
「そのシミズさんとやらの舌打ちした様子が目に浮かぶね」
「目当ての人物を仕留められそうにないなら撃たなきゃよかったのに。僕なんかは、そう思うんだけど」
「撃たずにはいられなかったんでしょ。トリガーには魔力が宿ってるから」
「そういうものかい?」
「うん」
「へぇぇ」
「それで、シミズのターゲットのつまるところは? 要人なら誰でもオッケー?」
「いや。現状の国の外交方針、外交政策は受け容れられないという旨の発言があった。よって、狙いはあくまでも外務大臣だと考えられる。本丸は総理なのかもしれないけれどね」
「銃の扱いについては? 慣れてるって判断していいの?」
「シミズは軍上がりなんだよ」
軍上がり。それは少々手強いだろうなと感じた。ニッポンの兵隊は世界のそれと比べるとむしろ優秀だ。
「そっか。にしたって、警備を強化すれば済む話だと思うけど?」
「あらゆる方面に対して力を誇示したい。僕達に必要なのは、とにかく実績だ」
「ということは、今回も警察はあえて動員しないってこと?」
「そうだよ。僕達だけでシミズを狩る。大臣を囮にしてね」
「それって危なっかしい考えって思わない?」
「君達二人にとっては、そう難しい案件じゃないと確信している」
後藤さんと伊織が見つめ合う。後藤がどこまで本気なのか、伊織は見極めたのだろう。そしてそこに嘘はないと知ったから、大きくうなずくに留めたのだろう。
「わかった。そういうことなら、おまわりさん連中は微塵も動かさないで」
「そう伝えておくよ。それにしても」
「なに?」
「いや。できないとは言わない伊織さんは、つくづく頼もしいなあと思ってね」
「たぶん、殺ることになるけど?」
「事後は警察に引き継いでもらってかまわない。そういう段取りを組んでおくよ」
「頼んだよ、ボス」
「任せてちょーだいよ」
翌日の夜。昼間に下見をした上で、洒落たカフェや雑貨屋が入っている細長いビルに陣取ることと相成った。五階建てのてっぺんだ。伊織の判断だ。伊織はここから二百メートル程離れている建家の屋上が狙撃ポイントだと睨んだのだ。低層の高級マンションというヤツだろう。三階までしかない。そこから大臣宅までの距離は三百メートルといったところ。
伊織はあぐらをかいていて、スナイパーライフルを片手で抱えている。細い金色のオイルライターでパーラメントの先端に火をつけた。
「門外漢だからよくわかんねーけど、あのマンションで間違いねーのか?」
「距離、角度、遮蔽物。そういった点から考慮するとこうなる。私ならまず間違いなくあそこを選択する」
「そもそも、マンションの前を張るって手はナシだったのか?」
「万一、住宅街でドンパチなんてことになったら危険じゃない」
「ま、そりゃそうか。しかし、昨日の今日で、のこのこ現れるかねぇ」
「イキたいっていう衝動と同じ。オナニーと一緒」
「どういうこったよ」
「一度始めちゃったら、気持ちよくなるまでやめられないの」
「下品な例えだ」
俺は双眼鏡を覗き込む。ややあってから、視界にヒトが入ってきた。ビンゴだ。当たりくじを引いたらしい。対象はこちらに背を向けた格好で、双眼鏡を使って目当ての方角を窺っている。足元の黒いケースにはスナイパーライフルが収納されているのだろう。あるいは外務大臣の帰宅時間を把握している? もしそうであるならどこでその情報を仕入れた? だけど、そんなことはどうだってよかった。俺にとって重要なのは、その容姿だった。白いジャケットにおさまっているのは華奢な肩で、デニムパンツに包まれている脚は驚くほど細い。アイツが敵? そう思うと、背筋を冷たいものが滑り落ちた。
「女、なのか……?」
「男だと思ってた?」
「だ、だって、ホマレって名前だからよ」
「犯行声明、見てないの?」
「ニュースのチェックもしてねーよ」
「この仕事は私に丸投げってわけだ」
「そんなつもりはねーけど……」
「とにかく状況開始。さあ、狩るよ」
煙草をぷっと吹いて捨てた伊織が、鉄柵の間から銃口を覗かせ、狙いを定める。トリガーを引くにあたって、この女はためらったりしないだろう。ターゲットを粛々と駆逐するだけ。それしか頭にないはずだ。
「ま、待てよ」
「この期に及んで、なに?」
「いや、だって、女じゃねーかよ」
「でも、殺人犯で危険人物。あるいは左派の過激派組織と繋がっているとも考えられる。だったらこのあたりで一つ、警告しておかなくちゃいけない。舐められたらオシマイだよ」
「だから、待てって」
俺はライフルの銃身を下げさせた。伊織が仕事モードの冷たい目で睨みつけてくる。
「口では馬鹿だの阿保だのウザったいだのと罵ってるけど、やっぱりあんたはフェミニストだよね。そんな調子だから、いざというとき、動けない」
「そういうわけじゃねーよ。ただ、寝覚めが悪くなっちまうだろうが」
「アンタの寝覚めなんて、どうだっていい」
「ちょっと待てって」
「どいてな」
「待てっつってんだろうが」
「いいから、どいてな」
「殺すなよ? ぜってー殺すなよ?」
「お断り。私ってSだから」
改めて銃を向け、スコープから狙い澄ますと、いっさいの迷いすら見せず、伊織は弾丸を放った。サプレッサーが装着されていることから、銃声が響き渡るなんてことはなかった。慌てて双眼鏡を覗く。その時にはもう、シミズは横倒しになっていた。
「一丁上がり。一件落着。朔夜。まだなにか文句はある?」
ある。大ありだ。だから俺は伊織がライフルをケースにしまったところで、その胸倉を乱暴に掴み上げた。
「テメー、本当に殺りやがったな」
「うん、殺った。悪い?」
「女子供は殺すな」
「それって差別だよ。っていうか、アンタにとっての子どもって何歳まで?」
「青臭い考え方だってのは百も承知だ。けどな、俺は弱いニンゲンを守るために刑事になったんだよ」
「要人の暗殺を企て、実行に移したシミズのことすら弱者だっていうの?」
「ああ。俺からすると、ある意味そうだ」
「そのある意味ってなに? それこそまるっきり意味わからないんだけど」
「ぐっ……」
「アンタはまるでピンぼけしてる。全然、現実が見えてないね」
「それでも俺は――」
「四の五の抜かすな」
「俺が馬鹿だってのか?」
「馬鹿で愚かで阿呆だよ。それすら自覚できない?」
伊織の言うことは正しい。正論すぎて、正論すぎるから、「くそっ」としか吐けない。手を放し、自由にしてやる以外になかった。
「ウチの仕事、いよいよ嫌いになった?」
「ああ。身の振り方、考えねーとな」
「アンタがいなくなったら、ボスは悲しむね」
「テメーはどうなんだ?」
「どうでもいい」
「そうかよ」
「拗ねるのはみっともないよ?」
「俺はおまえみたいにはなれねーよ」
「家まで送ってあげる」
「ふざけんな。俺は今、メチャクチャ気分がわりーんだ」
「潔癖すぎるんだなあ、きみは」
「ウゼーこと抜かしてんじゃねーぞ」
「明日も駅まで迎えにいくから」
「……くそっ」
伊織が車で引き揚げたあと、シミズの遺体を確認しに向かった。後頭部のど真ん中を一撃。本当に伊織って女は腕が達者だ。「馬鹿だな、テメーは」と俺は仏さんに目を落としながら呟いた。「マジで馬鹿だよ、オメーは」と続けて声が漏れた。
伊織は伊織だ。仕事の性質上、そのドライさは受け容れるべきことなのだろう。だけど、根本的なところでは相容れない気がしてならない。
警察にあとを引き継いでから、俺は駅に向かって歩き出した。
くわえ、火を灯した煙草は、一口目からひどく不味かった。