15.温泉
十六時頃。助手席で腕を組みながら、うつらうつらとしていると、伊織に頭を引っぱたかれた。「私が運転している最中に寝るな」と一喝された。一理ある発言ではある。伊織さんは先輩なのだから。
高速道路にて追っているのは白いワンボックスカーだ。ヤサから尾行している。伊織いわく、車中の奴さんらは麻薬の密売に関わっているとのこと。それ以外の詳しい話は聞かされていない。それにしても、我らがボスである後藤さんは、どうして伊織にばかり情報を寄越すのだろうか。まあ、差し当たってそれで問題はないわけで、だからわざわざ注文をつけたり文句を言ったりするつもりはないのだけれど。
「麻薬絡みの仕事なんて、ちんけなもんだよな。警察に任せとけっての」
「たまにはいいじゃない。幸か不幸か手も空いてることだし」
「疑問がある」
「うん?」
「どうしてヤサに踏み込まなかったんだよ。そうすりゃソッコーで万事解決だっただろうが」
うんうん、おっしゃるとおり。
そうとでも言うようにうなずいてみせた伊織さんである。
「ボスが湯治でも楽しんできなさいってさ」
「あん? どういうこったよ」
「いま、追ってる犯人連中だけど、彼らは二週間に一度、いきつけの温泉旅館を訪れるそうなんだよ。しかも、決まって土曜日。そして、今日ものこのこ出てきて、向かおうとしてる」
「それで、しょっぴきがてら、一泊してこいってか?」
「そ。ボスの優しさだよ」
そうだとしても、めんどくさい。俺は基本インドア派で、暇さえあれば自宅で酒をかっくらっていたいニンゲンだ。いたずらに連れ出されるのは勘弁願いたい。
「伊織さんよ、かったりーわ。とっとと前に出て止めちまえよ」
「高速で停車したり停車させたりしたら危ないでしょ」
「俺、着替え、持ってきてねーぞ?」
「大丈夫。ボクサーパンツ、買っておいてあげたから。感謝しなよ」
「ドンパチってことにゃ、ならねーのか? もしそうなんだったら、旅館の方々に迷惑かけちまうと思うんだけど」
「そこのところは、私達がうまくやるんだよ」
ふふっと笑った伊織さん。蠱惑的なその様を目にして色気を感じない男なんていないのだろうが、もはや耐性がある俺から言わせてもらうと、いろいろと面倒でしょうがない。
「仕事の内容はわかった。でも、スマートじゃねーなあ。しかも全部、こっちの都合じゃねーか」
「ま、ゆっくりお湯に浸かって、たくさん美味しいものを食べようよ」
「ったく。お気楽なもんだな」
旅館に着くと、スイフトスポーツは表の駐車場に止まった。伊織は後部座席から持ち出した小さなボストンバッグを肩に提げる。二人ともスーツ姿であるわけだ。だったら、はたからしたらどう映るのだろう。できる女上司と冴えない部下の密会にでも見えてしまうのだろうか。いや、それは考えすぎか。恋人同士に見えたとしても、いいとこそれくらいのものだろう。
和を強調したおもむきのある建物の二階。結構広い畳の部屋に入ると、伊織はさっさとスーツを脱ぎ、とっとと浴衣姿になった。俺も着替えたのだけれど、丈が短い。つんつるてんの状態だ。でも、これより上のサイズはないらしい。まったく、なっちゃいない。怒りたくもなる。いや。こんなしょうもないことで怒っていたらきりがないのだけれど。
伊織は帯に身分証である手帳を差し込んだ。事件を追っている公務員であることを旅館側に明かすためだ。どうせ事前の段取りは省いたのだろう。そういう女だ。のっぴきならない状況、あるいはアクシデントを楽しむきらいがある。突拍子もないことに悦を得やがるのだ。後輩としてはたまったものではないものの、そのやり方にケチをつければ、たちまちボディブローでももらってしまうに違いない。伊織という奴はとことん身勝手なのだ。まあ、ヒトのことをああだこうだの言えるほど、俺は上等なニンゲンじゃあない。似た者同士なのかもしれないと思う瞬間もある。たまにのことだけれど。
なんとなく大浴場へ。伊織と別れ、男風呂に。あっさりした湯の具合がなかなかいい。湯加減も絶妙で、ずっと入っていられそうだ。だけど俺の場合、カラスの行水なので、すぐにあがった。髪もろくすっぽ乾かさずに部屋に戻った。
畳の上で横になった。早いところメシの時間にならないかなあと思う。腹の虫が鳴ったところで、ちょうど伊織が帰ってきた。お上品かつお行儀よく座るなんてことはしない。座椅子の上で、どっかりとあぐらをかくのだ。
「犯人グループの部屋、わかったよ。撫子の間、だってさ」
「踏み込むのはメシのあとでいいんだろ?」
「そりゃあね。腹がへっては戦はできぬ」
晩飯。神戸牛に黒アワビ。のどぐろの刺身も出てきた。海鮮の類はこのあたりで獲れるのだろうか。そのへん、俺はまったく詳しくない。
先ほどから二人して小さなグラスに入った日本酒を飲み干し、そのたび新しいものをオーダーしているのだけれどで、ちびちびすするのは、お互い、性に合わない。伊織が「金ならいくらでも払うから」と品のないことを言って、女将に一升瓶ごと持ってこさせた。手酌でやる。俺もそれに倣った。中々に切れ味のある辛口だ。伊織は最後にラッパ飲みした。豪快すぎるし、やっぱり下品すぎる。
一通り食事を終えたところで、「さて。そろそろ行こうか」と伊織が腰を上げた。「行かれますか」と答えて俺も立ち上がった。
「ちなみに、なんだけど」
「あん?」
「ここ、別メニューで握り寿司を出してくれるみたい。カタログにのってた」
「まだ食いもんの話かよ」
「仕事が終わったら食べよう。奢るから」
「奢るって、どうせ経費で落とすんだろ?」
「当然」
「胸を張んな。威張んな」
問題の撫子の間へ。部屋の中から男らのご機嫌な笑い声が聞こえてくる。まったく、けったくそ悪い。自分達がやらかしてる悪事をちったぁ顧みろってんだ、この罰当たりどもが。
廊下に人気はない。大浴場にも客はいなかった。恐らく本館よりも規模の大きな別館にでも避難しているのだろう。伊織のオッケーが出るまでの間、従業員のみなさまは肝を冷やしっぱなしでいるはずだ。とっとと片づけてやるのが思いやりというものだ。
出入り口の戸の前に立った伊織。俺は木製の引き戸のすぐ横の壁に背を張りつける。やり方について、わざわざ打ち合わせをしたりしない。どう考えたってイージーな案件だからだ。
引き戸の取っ手に指をかけた伊織。鍵はかかっていないらしい。伊織はガラッと一気に戸を開け放った。俺はソッコーで中へと踏み込む。雪駄履きのまま、ずんずん上がり込む。
畳敷きには四人いた。いずれも膳を前にして酒をかっくらっていたご様子。武器は金庫にでも隠してあるのだろうか。こちらは一応、拳銃を手にしているけれど、結果的に、それは必要なかったようだ。
拳銃を帯に差し込み、「おう、おまえら、逮捕だ。理由は、わかってんな?」と告げると、まだ若いと見えるあんちゃん方は揃ってばんざいをした。聞き分けのいい奴らだ。かわいげがあって素晴らしい。
ゆっくりと伊織が入室してきた。
「酒臭い部屋だね」
「俺達の部屋だって似たようなもんだよ」
「そう?」
「だよ。で、四人で合ってんのか?」
「うん。バッチリ」
「あとは? どうすりゃいいんだ?」
「警察に時間は伝えてあるから。彼らに引き渡してオシマイ」
「それまでは見張ってろってか」
「そういうこと」
まもなくして訪れた刑事とおぼしき人物と制服警官らに、四人の身柄をくれてやった。ミッションクリア。本当に簡単なお仕事だった。
部屋に戻ると、宣言していた通り、握り寿司をオーダーした伊織。ぺろりと三人前をたいらげ、その後、従業員の手によって敷かれた布団の上で横になった。電気を消して、俺も仰向けに寝転がった。自宅のベッド以外で眠るのは久しぶりのことだ。
「しょうもない案件だったな」
「しょうもないからこそ楽だった」
「誰にでもできる仕事なんてやってちゃあ、『治安会』の名が廃るってもんだ」
「兵隊は評判なんて気にしなくていい。事をいかに上手く迅速に解決するか。私達の役割ってそれだけなんだから。っていうか、眠たい」
「だったらとっとと寝ちまえ、馬鹿野郎」
「馬鹿野郎は余計」
「うるせー」
目を閉じた。寝つきはいいほうだ。体を横に向けて眠る態勢に入ると、すぐにまぶたが重たくなってきた。睡魔の鎌に首を刈り取られるまで秒読み段階。
そんな最中にあってだ。伊織がごろごろと転がり、布団に入ってきた。背中に抱きついてきた。ドデカい胸のどぎついまでの柔らかな感触。しかめ面をしたくなるほどうっとうしい。
「なんだよ。なんのつもりだ?」
「私だって、たまには色っぽい思いに駆られたりするんだよ?」
「だったら、男でも作ったらどうだ?」
「そんなの要らない」
「恋人は? いたためしがないってことはねーんだろ?」
「そりゃあね。でも、愛した男は一人だけ」
「そいつはどうしたんだ?」
「姿を消しちゃった」
「なにかの拍子に嫌われちまったのか?」
「そんな単純な話じゃないよ。もっと大人の話」
「俺とその男を重ねたりすんなよ。迷惑だからよ」
「わかってる」
すんなりさっぱりと俺の背から離れた伊織。自分の布団に戻ると、「あーあ」と放り投げるように言った。「彼は今、どこにいるんだろうなあ……」と続けた。
「生きてんだな? そいつは」
「たぶんね。こういう場合、あんたならどうする? 必死こいて探す?」
「なにもしねーよ。めんどくせー」
「悲しい考え方だね」
「俺はそれでいいんだよ」