11.朝食
リビングで仰向けに引っくり返っていた。ぐっすり眠っていたようだ。むくりと体を起こす。伊織の姿は見当たらない。どうやら引き揚げてくれたらしい。とても喜ばしいし、非常にめでたいことだ。
ピンポーン。インターホンが鳴った。玄関に出てみると、お隣の橋本さんちのガキんちょ、元英が立っていた。
「よっ、朔夜。朝飯、そろそろできるぜ?」
もうそんな時間かと思う。空腹だ。なので、ありがたい話ではある。しかし、橋本さんには普段からなにかと世話になりっぱなしだ。気が引けないわけがない。
でも、元英ときたら、「早く来いよな」とだけ言って、自宅に戻ってしまうのだ。そうなると、もうごちそうにならないわけにはいかない。昨日もそれなりに飲んだ。だから酒臭いだろうなと思いつつも、戸を開け、隣室に入った。キッチンに顔を覗かせると、橋本さんはにっこりと笑って、「おはようございます」と弾んだ声で言った。「おはようございます」と、こちらも返した。
ダイニングテーブルにつく。向かいに元英が座った。
「なあ、朔夜、聞いてくれよ」
「なんだよ」
「元英って名前、メチャクチャダセーと思わねー? なんか戦国武将みてーだし」
「戦国武将は嫌いか?」
「いや、そんなことはねーけど」
「ダサい名前じゃねーよ。賢く健康に育って欲しいっていう願いが込められてるんだからな」
「そうなのか?」
「そうなんだよ」
「ふーん。だったら、そう悪い名前でもねーのか」
「橋本さんと親父さん、どっちにつけられた名前なんだ?」
「母ちゃんだよ。親父っつーか、あんなヤツにつけられたなら、うげーって感じ」
「おまえの気持ちはわかるよ」
「だろ?」
「ああ」
元英が「母ちゃん、まだー?」と大きな声で呼び掛けた。「はいはい」と答えると、橋本さんはおぼんを持ってやってきた。てきぱきと配膳する。出揃ったメニューは、白飯にあご出汁の香る味噌汁、それに野菜炒めとアジの開き。朝からなんとも豪勢だ。しかし、くだんのガキんちょときたら、「魚も野菜も嫌いなんだよなあ」と言う始末。まあ、子供らしい感じ方ではある。
「朝からこれだけバランスのとれた食事ってのは、そうそうないぜ?」
「でも、ぜってー魚は嫌いなんだよ。骨、多いし」
「それでも食え」
「朔夜って変に厳しいのな」
「おまえのために言ってやってんだ。ありがたく思えよ」
「ちぇー」
ガキだからしょうがないのだけれど、元英は魚を食べるのが下手くそだ。だけど、俺も全然、うまいほうではない。骨は容赦なく噛み砕いて飲み込んでしまう。だから食べたあとには頭しか残ってなくて、なのでまあ、きれいにたいらげるという意味ではよしとしている。味噌汁も野菜炒めも実にうまい。本当に橋本さんは料理上手だ。
「なあなあ、朔夜。今夜はカレーなんだぜ? 絶対に食べに来いよな」
「つってもだな」
「なんだよ。なんか問題があんのかよ?」
「早く帰れるかどうか、わかんねーんだよ。つーかおまえ、カレーの野菜なら大丈夫なのな」
「ああ。ニンジンだって食えるぜ? 母ちゃんのカレー、メッチャ美味いもんよ」
「たしかに美味いな」
そう褒めると、元英の隣の席にいる橋本さんは、「そんな。カレーくらい、誰にでも作れますし……」と奥ゆかしいことを言った。箸でつまんだアジの身を小さな口へと運ぶ。その愛らしさに思わず微笑んでしまう俺。
元英がちょうど食事を終えた時、ピンポーン、インターホンが鳴った。ガキのくせして女のガキと一緒に登校することは知っている。同じマンションに同級生が住まっているのだ。
テレビドアホンのモニターを確認すると、元英は「ちょっと待ってろよ、チグサ。歯磨きしてうんこしたらすぐ出るから」と応答した。
カレーの話をしたあとに大便の話を持ち出すのはどうかと思う。謝罪したのは橋本さんだ。「ほんとうにすみません……」と恐縮したような表情。
いってきまーすと大きく言って、黒いランドセルを背負った元英は出ていった。
時刻は八時を少し過ぎたところ。
「いつも思うんスけど、いいんスか? 始業は九時なんスよね?」
「メイクは十分もあればできます。それに会社はここから十五分くらいですし」橋本さんはにこりと微笑んだ。「本庄さんの出勤時間は何時なんですか?」
「バラバラッスね」俺は肩をすくめた。「ま、気楽なもんスよ」
「でも、公務員なんですよね?」
「それは間違いないッス」
真面目な顔をして、橋本さんが「本庄さん」と呼びかけてきた。だから俺はなかば目を丸くして「はい?」と訊ねた。
「私、本庄さんに息子の相手をしていたいていることに、とても感謝しているんです」
ああ、そんなことかと思う。
「遊んでやるくらいはしますよ。ぶっちゃけ、子どもは苦手なんスけどね」
「いつもいつも、ほんとうにありがとうございます」
「ですから、いいんスよ。お隣さん同士になったのも、なにかの縁スから」
「そう言っていただけると」
「助かるッスか?」
「助かるというか、嬉しいです」
橋本さんの笑顔は俺にいつも癒やしをくれる。
やっぱり尊い存在だ。
「さて、そろそろお時間なんじゃないッスか?」
「はい。そうですね」
「今日も気をつけて出勤してくださいッス」
「ありがとうございます。あっ、えっと、その」
もじもじするような素振りを見せたのち、橋本さんは「お時間の都合がつけば、元英が言った通り、ぜひ、今晩もいらしてください。しょせんはカレーですけれど」と笑った。「されどカレーです」と言って、俺も笑った。
「そうですか?」
「そッスよ」
「つくづく、本庄さんは不思議なヒトですね」
「そんなつもりはないんスけど」
「いいえ。とってもとっても不思議なヒトです」
「褒めてもらってるんスかね」
「もちろんです」
ふふと微笑むと橋本さんは速やかにテーブルの上を片づけ、キッチンで皿洗いを始めた。「じゃあ、失礼するッス」と告げる。「はい。おそまつさまでした」と、にこやかな笑みが返ってくる。あまり世話になるわけにはいかない。そう思いながらも、この関係がなるたけ長く続けばいいのになあとも考えた。彼女とはこれからも良好な間柄を保ちたい。それはまぎれもない本音だ。