10.ライバル
放課後。今日はモデル業、すなわち仕事はないのだけれど、親にはあると嘘をついた。<撮影開始が遅れているので、いつもより帰宅が少し遅くなります。>とLINEした。すると両親ともステータスはすぐに既読になった。お母さんからは<気をつけて帰ってくるのよ>という返事があり、お父さんからは<タクシーで送ってもらうように>との返答があった。ホント、優しくて心配性のパパとママなのだ。
うきうきしている。会える。また会える。きゃあぁって叫びたくなる。照れ臭いけれど、向こうは、絶対、うぜーくらいにしか思っていないだろう。いい。それでもいい。
最寄りの駅に着いた。すると、駅の構内でちょっとした迷惑を被ることになった。チャラい男三人にナンパされたのだ。うち一人が「理沙ちゃんじゃーん」と嬉しげな声を発した。どうやら私のことを知っているらしい。
私が「興味ないから」と突っぱねてとっとと立ち去ろうとしても追ってくる。また取り囲まれる。むぅと眉根を寄せながら「どいてよ」と言った。けれど、逃がしてくれない。本当に邪魔だ。たいへんうっとうしい。
そんなふうに面倒さを覚えている最中のことだった。背にそっと手を添えられた。左隣にぬっと巨大な人影が出現した。黒いTシャツに黒いハーフパンツというラフな恰好の朔夜だった。
「わりーな。コイツ、俺のツレなんだわ」
なにせのっぽでゴツい朔夜だ。彼がにっと笑うと、男らはなにも言わずに慌てたように逃げ出した。ビビったのだろう。そうであることは明らかだった。
「ありがとう! やっぱり私LOVE?」
「んなわきゃねーだろ」
「とにかくありがとう!」
「声デケーよ。いいから、とっとと歩け」
目的地に向かって道のりを歩く。途中、隣から朔夜が訊ねてきた。
「おまえよぉ、俺が家にいなかったら、どうするつもりだったんだ?」
「朔夜が帰ってくるまで、ずっと待つつもりだった」
「待つ?」
「顔を見たいわけだから、顔が見られるまでは待つよぅ」
「そんなことされたら困るんだよ」
「でも、こうして会えたんだから、結果オーライ?」
「やっぱ、うざってーヤツだ」
「今日の仕事は?」
「あがりだ。これといった事件もなかったんでな」
「事件?」
「ああ。事件だよ」
私は右手を顎にやり、しばし思考する。
むぅと唸りもした。
「詳しいことは聞かされてないままだけど、朔夜の仕事ってなに? やっぱり、刑事さんとか?」
「似たようなもんだ」
「ちゃんと教えてよ」
「もっと仲良くなったらな」
「もっと仲良くなれる余地ってある?」
「まったくねーよ」
「あー、またそうやって冷たいことを言うー」
「ホントのこと言って、なにが悪いってんだよ」
住所からわかっていたことだけれど、朔夜んちはマンションだった。小奇麗だ。四階まであるグレーの建物で、彼の住まいは最上階にあるらしい。エントランスを抜けて、エレベーターで上がった。部屋の中へと通してもらった。
想像していたのとは違った。なんというかこう、一言で述べてしまうと殺風景なのだ。ポールハンガーが立っていて、リビングの真ん中に黒くて小さな丸いちゃぶ台が置かれているだけ。その上には角ばったウイスキーボトルがある。グラスはない。散らかっているようならお掃除してやろうと、せっかく思っていたのに。
お風呂場に向かった朔夜である。そのうち、シャワーの音が聞こえてきた。その隙に探検探索。ポールハンガーに近づく。黒いジャケットが引っ掛けられていて、その下の棒にはズボンハンガーに掛けられた黒いパンツが吊るされている。なにより目を引いたのは拳銃がショルダーホルスターにおさめられ、それが無造作にぶら下がっていることだった。
寝室を覗いた。ダブルのベッドがあり、サイドテーブルの上に小さなノートパソコンがある。クローゼットを開けると、スーツが、ひぃ、ふぅ、みぃ……計十着、ビニール袋を被ったトレンチコートが一着、収納されていた。いずれも色は真っ黒である。
リビングに戻り、ちゃぶ台の前にぺちゃんと座っていると、シャワーを浴び終えた朔夜が出てきた。迷彩柄のボクサーパンツ一枚だ。わっと驚いて、思わず顔を覆った。だけど、指の間はあいている。やっぱりマッチョだ。この上なくマッチョだ。胸板が分厚い。腹筋は見事に割れている。肩が大きく、二の腕が太いのがカッコいい。
こちらから訊ねた。
「わ、私もシャワー借りていい?」
どぎまぎとした口調になった。
「かまわねーよ。でも、トリートメントなんてねーぞ」
「いいよ、それで」
脱衣所で制服を脱いで、お風呂場に入った。中はピカピカだった。朔夜が大きな体を屈めてせっせせっせとタイルを磨いているいる様子を思い浮かべると少し笑えた。
蛇口のハンドルを回して、シャワーを浴びる。リンスインシャンプーだった。それを使ってごしごしと頭を洗って、スポンジにボディソープをつけて体も洗った。ドキドキする。こういうシチュエーションって、セックスをする前の下準備みたいなものではないか。そう考えると、うふふと含み笑いをしてしまった。
「朔夜、なんか着替え貸してー」
「女もんなんてあるはずねーだろー」
「Tシャツでいいから貸してよー」
朔夜が舌打ちをした様子が目に浮かんだ。だけど、「かごの中に置いとくぜ」と、お願いを聞き入れてくれたようだった。
浴室から出る。竹製のかごには真っ白なバスタオルが入っていた。洗濯機がないあたり、彼はコインランドリーを利用しているのだろうか。そんなふうに思いをめぐらすと、不思議とまた笑えてきた。
青色のTシャツに首と腕を通した。案の定、ぶかぶかだ。彼シャツというやつだ。リビングに戻る。朔夜はもうねずみ色のタンクトップを着て、黒いハーフパンツをはいていた。私は制服をスクールバッグの上に投げ出す。どんな話題を切り出そうかと考えていたところで、朔夜はおもむろに立ち上がった。
「酒、買ってくるわ」
私はテーブル上のウイスキーのボトルを見て、「まだ結構、入ってんじゃん」と言った。でも、「全然、足りねーんだよ」ということらしかった。
「途中のコンビニで買えばよかったのに」
「忘れてたんだ。失念ってヤツだ。冷蔵庫に水が入ってる。飲んでいい」
「へぇ。いいとこあるじゃん」
「うるせーよ」
朔夜は部屋をあとにした。私は早速、キッチンに入った。流し台の隣に冷蔵庫があった。小さい。ホテルに設置されているような背の低いものだ。中では赤いラベルのヴィッテルが幾本も寝転んでいた。一本選んで、ぐびぐびと飲んだ。よく冷えていて、とても美味しい。
まもなくしてのことだった。不意に室内にヒトが入ってきた気配を感じた。朔夜は出ていったばかりだ。帰ってくるにはまだ早い。あるいは財布を忘れて戻ってきたのだろうか。そんなふうに考えながらキッチンからリビングへと出ると、浅黒い肌をした女性がいた。黒いジャケットとショルダーホルスターをポールハンガーに引っ掛ける。パンツを吊るすにあたってはズボンハンガーを使う。上は白いブラウスだけ、下は黒いTバックだけという、あられもない姿になる。
背が高い女性である。とてつもない大人のオーラを容赦なく醸し出している。スゴいスタイル。メリハリが異常だ。胸はブラにおさまりきらないくらい大きい。この草薙理沙様よりずっと大きい。なんだかしょんぼり、情けなさを覚えた。女の価値を評価するにあたって、私は胸の大きさを重視してしまうところがあるらしい。なぜだろう。不思議だ。
女性はフローリングに腰を下ろすと、ちゃぶ台の上にあるウイスキーのボトルを傾け、ラッパ飲みし、あっという間に空にした。ふーっと吐息をつく様子がまた色っぽい。
私もちゃぶ台の前に座った。すると、「君は何者かな?」と目線を寄越され、訊ねられた。「あ、えっと、私はその……」と口籠ってしまった。どうやらかなり気後れしてしまっているらしい。
「見たところ、JKだよね?」
「JKですけど、ちゃんと草薙理沙って名前があります」
「へぇ。君がそうなのか」
「ご存じなんですか?」
「まあね。それで、どうしたの? 朔夜に抱かれにでも来た?」
女性が朔夜と呼んだことについて残念に思った。なんとなく予想がついていたことだけれど、彼とこの女性との間にはなんらかの関係性があるらしい。
「だけど、アイツは抱かないよ」
「どうしてですか?」
「一回りも違う女に欲情するような男だと思う?」
「思いませんけれど……」
「でも、可能性がゼロだとは言い切れない」
「で、ですよね? そうですよね?」
「そう言うあたり、やっぱりしたいんだ?」
「ま、まあ、それはその……」
「アイツは罪な男だなあ」女性は朗らかにはっはっはと笑った。「一応、確認しておこうかな」
「なんですか?」
そして女性は核心に触れるようにして、「君は与党幹事長の娘さん?」と訊ねてきた。私は驚き、「えっ。どうしてそれを……?」と目を丸くした。すると「そのくらいは知る立場にある」と言い、女性はにぃと笑んだ。
「それにしても、彼ってもう六十過ぎでしょ?」
「父は一度、離婚しているんです。それで……」
「若い奥さんをもらったってわけか」
「そうです」
「一人っ子だよね?」
「はい」
「お父様からすれば、目に入れても痛くないって感じなんだろうね」
「実際、とってもっていうか、メチャクチャ優しいです」
朔夜が帰ってきた。女に「おかえり」と言われると、彼は露骨なしかめっ面を見せたのだった。
「なんでおまえがいるんだよ」
「そう珍しいことでもないでしょ?」
そう珍しいことでもない。そのセリフを聞いて、私はまたしょぼんとしてしまう。かすかなつながりでしかないのに、彼にとって一番大切な女は私だと、心のどこかで思っていたのだ。だから、とても無念に思うのだ。
「まあ、座りなよ。飲もう」
「座りなよじゃねーよ。ここは俺の家だ」
「私が満足するまで付き合いなよ。じゃないと帰らないから」
「実に迷惑な話だ。車は? どこにとめてあるんだよ」
「ゲスト用の駐車場」
「もっかい言っとくぜ。家には来るなっつってるだろうが」
「ま、いいじゃない。かたいことは言いっこなし」
朔夜はちっと舌を打ってから床に腰を下ろし、ビニール袋から取り出したウイスキーを三本、ちゃぶ台に置いた。女は早速一本を手にして、またラッパ飲みを始める。彼も同様。二人の間には独特の空気が流れているように思える。色っぽい感じがする空気だ。それがとても悔しい。私は少し体を前傾させた。首をもたげる。そのうち、いよいよ大きく俯いてしまった。
女は「あっはっは」と笑った。「かわいいな、理沙ちゃんは」と笑った。その言い方を耳にして、怒りみたいなものを覚えた。舐められているように感じた。それでもう我慢ならなくなった。私は朔夜からウイスキーのボトルを奪った。琥珀色の液体を口一杯に含んだ。甘ったるくて苦くもあるようなそれをごくりと飲み込んだ。
朔夜に「馬鹿野郎っ」とボトルをひったくられた。「なに考えてんだよ、おまえ」と言われた。
一分と経たないうちに胸が熱くなった。吐きそうになる。下を向くと、瞳からぽろぽろと涙が溢れてきた。悔しい。とにかく悔しい。どうしたって、彼と彼女とのあいだに割って入ることはできないのだろうか。
「泣くなよ、どあほう」
「だって、だって……」
「おまえは見誤ってんだよ。俺は全然、優しい男じゃねー」
「でも、あの晩、助けてくれたじゃない」
「あれは被害者がたまたまおまえだったっつーだけだ」
「でもっ」
四つん這いで進んで、私は朔夜の上半身に泥のように抱きついた。
「やめろよ、JK」
「ホントにやめて。JKって呼び方はやめて」
「つくづくめんどくせーヤツだな」
「めんどくさくてもいい。でも、少しだけでいいから、私のことを見てよぅ……」
「なんでもいいから、とりあえず、水、飲め」
「……わかった」
赤いラベルのヴィッテルを口にした。だけど、ソッコーで酔いがさめるはずもない。気持ち悪いし、なんだか頭もゆらゆらぐらぐらしてきた。
「二十歳になるまで酒は飲むな」
「それ、約束したら、なんかくれる?」
「やらねーよ」
「ひどい……だけど」
「あん?」
「また、ここに来てもいい……?」
「来てもいい時は、そう言ってやる」
「ホント?」
「ああ」
「ホントにホント?」
「ああ」
朔夜は快諾してくれたようにも思えたけれど、その実、それは嘘だろうとも感じた。
私はちゃぶ台に突っ伏して、「わーん! わーん!」と泣いた。朔夜に「落ち着いたらタクシー呼んでやっから、真っ直ぐ帰れ」と言われると、余計に涙も嗚咽も止まらなくなった。「わあんっ! わああんっ!」と泣き続ける。
本当に面倒なヤツだと思われて、以降はいよいよ邪険に扱われてしまうかもしれない。今日、彼は特になにをしてくれたわけでもない。それでも私からすると、彼への思慕の念はたえないわけで。
苦しかった。一人の女として認めてもらえないことが。
悲しかった。彼からすると私は子供にしかすぎないことが。