1.殴
繁華街。夜の路地裏。
わたくし、草薙理沙様はピンチピンチ大ピンチ。平たくかつ率直かつ大胆に表現すると、レイプされてしまいそうなのだ。
現場はワンボックスカーの後部座席。椅子を後ろに倒せばベッドに早変わりという非常に便利な仕組みだ。広いとは言えない。言えないけれど、天井の低ささえ気にしなければ、女子の一人くらいはじゅうぶん手籠めにすることができる。
両腕を二人の男にそれぞれ抱えられ、また両方の太ももをそいつらにそれぞれ押さえつけられ、まったく身動きをとることができない私。口にはハンカチを詰め込まれていて、つらいし、息苦しいし、吐き気がするし、「んー、んーっ!」と、くぐもった声を発することしかできない。実に不自由な状態だ。ゆるしがたい状況であるとも言える。
私は女子高生ながらもモデル業を営んでいて、客観的に見ても結構な評判になっている。十二分に人気を博していると言っていい。ある意味、カリスマ。ある意味、教祖。そんな偉く尊い私に大いなる悪戯を仕掛けてきている事務所社長の息子、すなわちこせがれには、以前からよくない噂があったのだ。
事務所に所属している女のコを複数で襲い、その様子を容赦なく撮影して、「動画サイトにアップされたくなくなかったら言うこと聞けよ」なる文言を並べて繰り返し悪さをする。弱味を握って逃げられなくするという手法だ。
アホみたいな話。
だけど、なんというデフレスパイラル。
悔しさがなにより先に立つ反面、恥ずかしさがあってのことだろう。同僚は揃って泣き寝入りした。さばさばとした性格の先輩からは、「理沙は気をつけなよ」と忠告され、目に入れても痛くないくらいかわいいかわいい後輩からは、「理沙先輩は同じような目に遭わないでくださいね……」と忠告、あるいは警告された。
なのにいま、ひっとらえられてしまっている私は馬鹿なのだろうか。いや、馬鹿だ。強い警戒心はあったものの、促されるままに言うことを聞く格好で、乗車してしまったのだから。でも、社長の息子という肩書きがある以上、打ち合わせがあると言われたら出向くしかない。車にだって乗るよりほかにない。選択肢なんて一つしか用意されていなかったことも事実なのだ。
ハンディカメラをかまえているこせがれが、私の自慢のGカップにレンズを近づける。「いっひっひ」という癪に障る笑い方をする。私はとにかく「んー、んーっ」と抵抗する。だけど、なにせ両腕、両脚を拘束されているわけで、だから腕も脚もばたつかせようがないわけで。
涙が出そうになる。ヴァージンというものをそれほど大事にするつもりはないけれど、こんなのあんまりだ。できることなら、初めては大切なヒトにあげたい、捧げたい。
こせがれが私のブラウスのボタンを上から一つずつ外してゆく。妙に丁寧な手付き。すんごく気色悪い。胸を露出する羽目になった。「イイ感じでちゅねー。理沙ちゃんのおっぱい、本当にイイ感じでちゅねー」とか言ってきた。なぜに赤ちゃん言葉? 左の手足を拘束してくれている男は、「ホント、すんげーデケー! いいわ。マジいいわ!」と嬉々とした様子。右の手足を捕らえてくれている男は、「あ、やべー。リアルに勃ってきた!」とか抜かした。
こせがれが言う。「いやー、やはりJKが相手だと高ぶりますなあ」って。「理沙ちゃんみたいな美少女が相手となると尚更たまらんですなあ」って。今度はなにゆえオッサン言葉? いや、そんなこと、いまはけっこうどうでもよくってだな。
最悪。ホント、サイアク。こんなところでこんなヤツらにああだこうだされるくらいなら死んだほうがマシだ。けれど、本音を言ってしまうと、まだまだ故人にはなりたくないわけで。だから胸の中は「くそぅ、ちくしょう、こんちくしょうっ」といった具合に悔しさに満ちてゆくわけで……。本当に心底悔しいわけで……。
でも、ホント、もうダメかも。
神様ぁ、アンタ、無情すぎ。
私、悪いことなんて、なーんにもしてないのに……。
そんなふうに諦めかけた、その時だった。
助手席のパワーウインドウがコンコンコンとノックされた。
誰?
ううん、誰でもいい。
助けてっ!
っていうか、助けてくださいっ!!
私は精一杯、手足を動かそうと試み、ハンカチが押し込まれた口から「んー、んーっ!」と声を出す。すかさず右手で口に蓋をしてきたこせがれが、助手席の男に向かって「誰だよ。おまわりか?」と訊いた。「わかんねー」という回答。「黒スーツの野郎だ」という返答。スモークガラスの向こうに男が立っているらしい。やはりここぞとばかりに私は救いを求めようとする。だけど悲しいかな、大声は上げられないわけだ。もはや運は尽きているのだろうか。そうは思いたくない。
しんとなった車内に、ノック音だけが響く。
コンコンコン。
コンコンコン……。
そしてそれはいきなり起きた。
パワーウインドウをぶち破って、車内に拳が飛び込んできたのだ。助手席の男はそのとばっちりをもろにこうむる格好になった。顔面をド正面から殴られ運転席のほうへとぶっ飛んだのだ。車の窓なんてそう簡単に破壊できないだろう。だからびっくり仰天、目を見開くしかなかった。
割れた窓から、ぬっと手が伸びてきた。ロックが解除され、ドアが開け放たれた。運転席のほうにぐたりと体を傾けたまま気を失っている助手席の男を引きずり出して、ヒトが顔を覗かせた。後部座席に顔を向けてくる。重めのマッシュにニュアンスパーマ。黒髪の男だった。
こせがれらは一斉に男のほうを見て、私は男と目が合った。
男は「よぉ。お楽しみの最中、邪魔するぜぇ」と言い、にやりと笑った。「だだ、誰だよ、おまえ」とはこせがれのセリフ。
「強姦未遂ってとこか。現行犯だな、くそったれの馬鹿野郎」
「だ、だから、誰だってんだよ、おまえ」
「ガキ風情が俺様のことをおまえ呼ばわりしてんじゃねーよ」
「ぐっ」
「後ろのドアの鍵開けろ。あんまり俺を怒らせんな」
やむなくといった感じで、こせがれが後部座席の鍵を解いた。パワースライドのドアがゆっくりと開く。男が腰を屈め、中を覗き込んできた。
「ダセーな。いまどきレイプなんて流行らねーぞ」
「そそ、それで、誰なんだよ、おまえは」
「おまえ呼ばわりすんな。しつこいぜ」
こせがれの顔に男が右の拳をぶつけた。コツンといった感じの軽いパンチだったけれど、食らったほうは鼻血ブー。
男が顎をしゃくって、外に出るよう促してきた。解き放たれ、自由になった私は、口の中のハンカチを取って、ブラウスの前を掻き合わせながら、急いで車外へと飛び出した。
なんだかよくわかんないけど、ラッキー、なんとか助かった?
そう思った矢先に、向こうから歩いてくる黒人に気づいた。うげげっと声が出そうになった。ピンチはまだ続くらしい。
黒人がゆっくりと近づいてきた。男の真ん前に立ちはだかる。
男は驚いたようで、「うおっ、デケーな」と上半身をのけ反らせた。
びっくりするのも無理はない。黒人は二メートル超の大男なのだ。男だって百八十なかばくらいはあるだろうけれど、比較するとやっぱり一回り小さく見える。
男に「テメー、名前は? なんてーんだ?」と訊かれると、黒人は片言の日本語で「ボブいいますデース」と答えた。
そう。ボブだ。トレードマークは長いドレッドヘア。事務所で何度かすれ違ったことがある。そのたび、私のことを見て、白い歯をむき出しにして、にっと笑った。その笑顔が大嫌いだ。嫌悪感を覚えるしかなかった。メチャクチャスケベそうに映ったから。
「見た感じ、オメーはボディガードかなんかなんだろ? なのに、今までどこほっつきあるってやがったんだよ」
「近くの居酒屋で一杯ひっかけてましたデスネー」
「不真面目な野郎だな」
「理沙ちゃんをどこに連れていく気デスカー? 連れていかれたら、ボブ、困りますデスネー」
「ほぅ。オメーもハメ撮りに参加するつもりだったのか」
「そうデスネー。ボブ、女子高生大好きデスネー。女子高生、いろいろおいしいデスネー」
「ナカがキツいからサイコーだってんだな。この俗物野郎が。面倒だから、とっとと言うぜ。ボブ、交渉するまでもねーよ。おまえはいま、俺の敵になった」
「ハッハッハ。ボブを倒せるとでも思っているのデスカー?」
「倒せるか倒せないかじゃねー。やるんだよ」
「だったら、かかってこいデスネー」
「そうさせてもらうわ」
男が早速、下から突き上げるような右のボディブローをズドンッと見舞った。余裕で耐えられると考えてのことだろう。ボブは真っ向から受け止めた。だけど、そのボブの顔が見る見るうちにゆがむ。前屈みになり、両手で腹部を押さえ、醜い液体を「がはっ」と吐き出した。男は手を緩めない。ドレッドを掴み上げて顎に右の膝蹴りを食らわせ、どっと仰向けに倒れたところに執拗なまでにストンピングを浴びせる。そのあいだに逃げればいいのに、ワンボックスカーは凍りついたように止まったまま。こせがれらは、ご自慢のボディガードが呆気なくやられてしまった光景を見て、震え上がっているのだろう。
ボブがぴくぴくと痙攣するまでガンガンガンガン蹴り続けた男は、黒いジャケットのサイドポケットからスマホを取り出した。どこぞに連絡。話の内容からして警察だろう。居所と車種とナンバーと犯人の数を速やかに伝え、「さっさと来いよ、おまわりさん」と締め括った。
なかば唖然としながら一部始終を見守っていた私は、男に近づき「アンタ、誰……?」と訊ねた。男は「アンタ呼ばわりすんな、JKが」と舌打ち交じりに、不機嫌そうに答えた。
「JKじゃない。理沙。草薙理沙っ」
「誰もテメーの名前なんざ訊いちゃいねーよ」
突然だった。レイプされそうになったこと。その事実が怖くて怖くてしょうがなくなって、脚ががたがたと震え出した。立っていることすらままならなくなり、体を支えようとして思わず男の体に抱きついた。服の上からでも筋骨隆々なのがわかった。とてつもなくマッチョだ。分厚いタイヤみたいな身体だ。
「……ありがと」
「ああ。運がよかったな、JK」
「だから、JKって呼ばないで」
「JKはJKだろうが」
「アンタはいったい、何者?」
「アンタって呼ぶな。くどいぜ」
相手の気の強さとテキトーさに負けそうになりながらも、私はぎゅっと唇を噛んで睨んでやった。根っこの強さでは誰にも負けないつもりだ。だから「ねぇ。何者なの?」と問い質すように訊くことだってできる。男は「警察官みてーなもんだ」とだけ答えた。
「おまわりさんとは違うの?」
「ちぃとばかし違ってる」
「じゃあ、なんていう組織のニンゲン?」
「言うかよ、んなこと」
「どうして教えてくれないの?」
「秘密だからだ」
「秘密?」
「とにかくそういうことなんだよ」
大人の世界の話なのだろう。その一言で済む話題ってある。しょうもないことなら速やかに引き下がってもいい。だけど、本件ばかりはそうもいかない。
「あのさ」
「あん?」
「LINEしよ?」
「ああん?」
ひょっとして「LINE、知らない?」とにやりと笑ってやると「馬鹿にすんなよ」とわかりやすいリアクションがあった。その瞬間、「あっ、こいつってかわいいかも」とか思ってしまった。
「いいじゃん、いいじゃん。こうして巡り会えたのも、なんかの縁じゃん」
「めんどくせーのは御免だ」
「ちゃんとお礼がしたいの。ごはんくらいは奢りたいの」
「JKに施しを受けるほど貧乏してねーよ」
「いけず。意地悪」
「ああ、そうだ。俺はいけずで意地悪なんだ」
「じゃあ、メアドでいいから教えて?」
「ヤダね」
「教えて」
「ヤダっつってんだろうが」
「教えてっ!」
私が怒鳴ると、男は指で耳に栓をしたのである。
「デケー声出すな。ガキの女の声はキンキン響いてうっとうしいんだ」
「もう一回言います。教えてっ!」
「ああ、くそっ。なんでガキってのは、こうもうざってーんだよ」
嫌気が差したような男ではあるけれど、メアドを教えてくれた。いや、教えてくれたっていう表現は正確じゃない。だって、早口で諳んじただけだったから。やっぱり意地悪でいけずだ。
「うん、わかった。覚えた」
「嘘つけ」
「名前は? なんていうの?」
「なんだっていいだろうが」
「答えて。じゃないと離れないから」
「ああ、ちくしょう。ホンジョウだ。ホンジョウ・サクヤ」
「サクヤ?」
「いきなり呼び捨てにしてくれんな、どあほうが。おら、離れろよ」
言われた通り、私はサクヤを拘束していた手を解いた。彼を見上げ「へへっ」と笑った。
サクヤ、サクヤ、ホンジョウ・サクヤ。
綺麗な名前だ。
美しい響きだ。
ちょっと忘れられそうもない。