不動産の営業の呟き
これは僕が不動産に勤めて三年目のことでした。
今では多くの人が知っている【事故物件】という名の幾つかの部屋。
滅多に紹介しないのですが、安ければデても構わないという物好きな人も中にはいるもので時々契約にまで到達します。
まぁ、数ヵ月後には退去されるんですけど……。
ある日、そんな部屋を貸してほしいという、年若い女性が来店されたのです。
年の頃は25才くらいでしょうか。
正直言って、外見は極々普通。
特に目立ったところのない方でした。
なるべく安く、でも快適な物件をお求めでしたが、そんな都合の良い物件はありません。
唯一あるのが、そう【事故物件】です。
流石に最初から紹介は出来ません。が、お求めの条件と合うと言うことで是非内見だけでもと言われて渋々お見せすることになりました。
「こちらがお部屋になります」
ニコニコ微笑んでみたものの、僕も怖かった事をよ~く覚えています。
彼女は玄関に入るなり、ショルダーバッグの中から細い棒のようなものを取り出しました。
細い棒……、イヤ正直に言いましょう。
どう見ても、ハエ叩き。
ハエ叩きそのものです。
えっ、なんでソレ?、と思った僕は極めてマトモでしょう。
彼女はソレをおもむろに振り上げると、玄関横の壁をピシリッ!
あまりの寄行に動けずにいる僕に、「虫がいるみたいなので」と呟くと先程叩いた壁とは反対側をまたピシリッ!
暫くあちらをピシリッ!
こちらをピシリッ!
した後、漸く靴を脱ぎ室内へ。
僕はピシリッ!ピシリッ!と打たれた綺麗な壁を振り返りつつ部屋の中に足を踏み入れました。
お客様曰く、虫を叩きのめしたというには跡がないという異常な状況に僕の小さな頭脳は、ソレ以上考えるのを拒否したようでした。
今でも深くは考えないようにしています。
……アレは虫を叩きのめしただけ、なのです。
キッチンとリビングが繋がったような所謂1DKの室内に入った彼女は、量販店で購入したと思われるハエ叩きを振り回し始めました。
「虫がいますねぇ。ほらココにもいるでしょう~?」
「……そうですねぇ~…」
僕も接客のプロです。無茶な要求ではない限り、お客様の要求は受け入れます。
……ココでは同意が正しいはずです。
……ええ、先輩方が言っていたアル出来事が起こる箇所を的確にハエ叩きがピシリと鳴らされていたなんて見ていません。
……ハエ叩きがピシリと鳴る度に、甲高い、何とも言えない音?声?が聞こえるはずがありません。聞こえません。
僕が必死に笑顔を貼り付けて立っていること30分。
漸く出番が終了したらしいハエ叩きをバッグに仕舞ったお客様は、僕を振り返りニッコリ。
「もう少し陽当たりのイイ部屋、ありませんか?」
「……店に戻って探してみませんと、ハイ」
今日は用事があって店まで戻れない、というお客様と部屋の前で分かれて事業所に帰りましたとも。ヨロヨロと。
何が起きたのか飲み込めずとも状況を社長に説明。
社長は半信半疑ながらも付き合いのある専門家に部屋を見て貰ったらしいのです。
………何の専門家なんでしょうね?
結果、部屋は全くのまっさら。
異常な位にまっさらになっていたとのこと。
何が行われて、何がまっさらなのか……。
僕は考えるつもりもありません。
でも思うのです。
あのお客様は、……きっと虫を退治しただけのつもりなのだろう、と。
社長にも言えなかった、あのハエ叩きで。