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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人外×少女シリーズ

笑わぬ彼は古書を好む

作者: 七星

 隣に人が越してきた。

 いや、越してきたというよりは、戻ってきたという方が正しいのかもしれない。私の家の隣は、夏だったら肝試しスポットにでもなっていそうな洋館だし、おいそれと引っ越せるような物件ではない。

 その洋館はひどく広くて、そこに越してきたのが一人の男だと知ってからは毎日のように首を傾げた。

 何しろ、私の家の二階のバルコニーから隣の家の木の枝が見えるのだ。しかも細々とした折れそうな枝ではなく、人ひとり乗ってもびくともしなさそうな大きな枝である。どれだけ広ければ、そんな大きな木が植えられるのだろう。

 どんな理由があったら、そんな広い家に一人で過ごそうと思うのだろう。

 けれど人の適応力というのは素晴らしいもので、一週間もすればそんなことは気にせずにバルコニーで本を読めるまでになった。近所に住んでいる同級生の女の子たちは未だに怖がっているようなので、私の神経が図太すぎるだけなのかもしれないが。

「怖くないの?」

 休み時間に、クラスメートが恐る恐るそう尋ねてきた。私の通う女学校では、あそこに住む男は化物の類いなのではと噂されている。確かに、あの病的なまでに細い手足と白い肌に、薄いながらも人の血を塗りたくったかのような赤みを帯びたあの唇は、かの吸血鬼を思わせなくもない。せっかく整った顔立ちをしているというのに、恐ろしさばかりが際立つ顔なのだ。

 けれど、私はすぐに首を振った。

「普通の人よ」

「……そ、そう」

 怯えたように去っていくクラスメートは、多分同じくらい私のことも恐れている。先生に言わせれば、真面目だが何を考えているか全く分からないのが私なのだそうだ。どうやら、表情筋が死滅したかのような顔をしているらしい。自分では分からないので、直しようがないけれど。

「と、いうことなのだけれど、もう少し愛想を良くしてみないの?」

 クラスメートの反応を一通り語り終えてバルコニーから同意を求めてみると、木の上に寝そべっていたその男は視線だけでこちらを一瞥した。「お前に言われたくはない」とその瞳は語っていて、私は肩をすくめる。

「まあ、それはそうでしょうけれど」

 傍から見たらこの風景、奇妙としか言いようがないだろう。かたやバルコニーに設えられたロッキングチェアなるものに腰掛けて本を読む少女と、かたや顔に開きかけの古書を被せて木の枝に寝そべる男である。

 私だって、さしてこの男に興味があったわけでもなかったのだが、いつものようにバルコニーで本を読んでいたら、どこからともなく視線を感じたのだ。木の枝に寝そべりながら妙にぎらついた目でこちらを見ている男に気づいたのは、その時である。

 一瞬、本当に何をしているのか分からなかった。その端正な顔立ちに目を奪われるには、私はちょっと冷静すぎた。

 すぐに思考を巡らせる。どうして彼がこんなことをしているのかを考える。

 朝に外をうろついているのをたまに見かけるが、ほかの女学生に興味を示しているわけではなさそうだった。だったらなおさら私なんかに興味があるわけがないだろうに────

「その本」

 そう、思っていた時だった。何やら冷えているよな、はたまた熱を帯びたかのような、不思議な音が耳に響いた。

「見せて、くれないか」

 妙に真剣な目だった。気がついたら私は、届くはずもないのにバルコニーからその時読んでいた本を差し出していた。

 男はゆらりと立ち上がり、実に自然な動きで枝から両足を離した。目を見開いた瞬間、男は何かに降り立つ。

「……?」

 不思議に思ってバルコニーから身を乗り出すと、そこには隣の洋館を囲むように設置された塀が見えた。なるほどこの上に立ったのかと不思議に納得していると、すっと手の中から重みが消える。

 既に本は男の手の中にあった。棒立ちになったまま、彼は私の本をものすごい勢いで読んでいる。その時ばかりは少し怖かった。

「これは、お前のか?」

 一通り読み終えたらしい男の言葉に、私は曖昧に頷く。

「元々は、祖父のものよ。どうしてか分からないけれど、本はすべて私に相続するようにって遺言書に書いていたみたいなの」

「まだ、あるのか」

 心無しかその目はいつもより輝いているような気がした。「あと五十冊くらいはあるわ」と言えば、その輝きは一層増した。何だろう、野良猫に餌付けしている気分だ。

「なんでもするから、他の本も読ませてくれ」

 本のことになると饒舌になるのだなと思ったが、それにしてもたかだか本を貸すだけでなんでもするとは、何とも太っ腹だ。男は満足するのだろうが、本当にそれでいいのだろうか。

 訝しげに見つめると、男は無表情のままずいっと顔を近づけてきた。背が高いので、座っている私とほとんど目線が同じくらいになる。

「駄目か?」

 反射的に悟った。私が断ったら、この人は大人しく頷いてくれるだろう。きっとそのまま、私には関わらなくなる。「そうか」とだけ言って、私に背を向けて去っていく。

 なんだかそれは、ひどく寂しい。

「私の、話し相手になってくれるなら」

 気がついたらそんなことを口走っていた。男は頷くのに一秒の躊躇もしなかった。






 元々私は友達が出来なかった。まあ、表情筋が死滅しているような人間と友達になりたい子はいないだろう。

 だからこんな男と話す羽目になっているのだが、この男、必要最低限のこと以外は全く話さない。詐欺にでもあったかのようだ。

「次の本は、何がいいの?」

 何度目だろうか、そんなふうに聞いたのは、もう十度目くらいだったかもしれない。会う度に聞いているので、多分そのくらいのはずだ。

 いつも、夕暮れ時に私はこの男と会う。バルコニーにくれば大抵いるのだ。本当に、この男は日中何をしているのだろうと不思議になる。

「お前の持つ本なら、何でもいい。お前に任せる」

 これでも本についての話題なので饒舌なほうなのだが、なんと言うかこう、しっくりこない。本以外のことについては全く何も話さないのだ。

 仕方が無いので彼のことをじっと見つめていると、ふと、あることに気がついた。か細い、か細いその声が、耳に届いた気がした。

 その表情があまりにも珍しくて、私はポツリと呟いてしまう。

「あなたは、本を読んでる時だけ、笑うのね」

 その時だった。

 彼は古書をパタリと閉じて、ぐるっとこちらを見た。えっと言う暇もなく、彼はしなやかにバルコニーに向かって跳躍した。そしてバルコニーの手すりに飛び乗ると私の襟を引き寄せ耳元に口を近づける。とんでもない速さに鼓動が早まった。

 勘違いしている人はいないと思うが一応念を押しておこう。私は決して彼の美しい顔立ちが近づいてきて胸を高鳴らせていたわけじゃない。どちらかと言うと獅子の前に放り出された兎の心境の方がよほど近いものだったと言えよう。

 彼の力は年頃の少女に対するものではなかった。気遣いの代わりに殺意を持ってこられたようなものだったのだ。

「一つ、忠告をしておこう」

 風変わりなくらい、色の無い声だった。それなのに何故か懇願しているように思えて、私の体からふっと力が抜ける。

「俺が笑っていたことを、誰にも言うな。友達にも、家族にもだ。絶対に、誰にも言うな……でないと、俺は君を殺す」

 すうっと、頭が冷えた気がした。殺すと言われたことにではない。そんなことは私の中で意味を持たない。

「……大丈夫よ、友達はいないわ。家族も、もういない」

 完全に無意識だった。声が、ひどく冷たいものになっていた。

「……そうか」

 それだけ言って、彼は手すりから飛び降りた。瞬く間にその姿は塀と木の影に隠れて見えなくなってしまう。

 本くらい返しなさいよ、と思いつつ、私はロッキングチェアの背もたれにゆったりと背を預ける。

 お互い、とても柔らかい部分に触れかけたのだということには、気づいていた。気づいていたけれど、きっとどちらも不器用すぎたのだ。

 どこからともなく聞こえてくる乾いた笑い。誰のだろうとぼんやり考えて、自分のものであるということに気づく。こんなから笑いにすら私の頬はぴくりとも動いてくれないのだから、いよいよ末期なのかもしれないなどと思う。

 そして、その時だった。ぽつ、と頬から音がした。その音は瞬く間に大きくなっていく。やがて耳を突き破らんばかりの大声になっていったそれを、私は全身に浴びて夜を過ごした。

 その時幾度となく頬を流れたのは雨か涙か、判別なんてつかなかった。




 まあどれだけ表情筋が死滅していようと私はれっきとした人間なわけで、もちろん雨の中で一晩過ごしたりしたら風邪を引くことは自明だった。

「はい……はい、休みます。すみません」

 学校に電話をかけながら、もう何日目だろうとベッドの中で思う。時間の感覚など今はほぼ無いので、一日に何度か休みの電話を入れてしまうこともあった。正直、良くなっている感じが全然ない。

 けれどすることもなく、というか出来ることもないので、私は大人しく毛布の中に潜り込む。

 昼はまだいい。問題は夜だ。その日も、気がついたら声にならない悲鳴をあげて、私は飛び起きていた。背中はびっしょりと冷や汗で濡れている。

 荒い息をついて、なんとかベッド脇の棚からタオルを取り背中を拭く。気持ちが悪いのは嫌いだ。

 どうして昼に寝ている時は何も起こらないのに夜に寝ると悪夢を見るのか。気の持ちようってやつなのだろうか。汗が冷えて寒いのと夜特有の恐ろしさに、私はぶるりと体を震わせた。

 ふと、その時だった。

 がたっと何かが倒れるような音がして、私の肩が勝手に跳ねた。

 深呼吸をして鼓動を落ち着け耳を澄ますと、それはもう誰も使わない父の書斎の方から聞こえてくる。

「……」

 無言で燭台を手に取り、そうっと部屋を出て、自分の家だというのにおそるおそる床を踏む。幸いというかなんというか、私はこの家の床のどこが鳴りやすいのか熟知しているので、そこをうまく避けて歩いた。嫌な予感が、胸にじわりと広がっていた。

 書斎は、少し扉が開いていた。どこか冷えた心地でそれを見つめ、またうるさくなってきた心臓をどうにか押さえつけて部屋の中に滑り込む。

 途端に、目の前が開けた。私の父は本を読み始めると何故か床に座り込んで読みふける人だったので、ここは本を読むためのスペースが広く取られている。

 そんないつもなら一面が綺麗なその床に広がっていたのは、本の山だった。雑に放り投げられた価値のある古書の山。

 とりあえず絶句した。私は、間違ったってこんなふうに本を扱ったりしない。

 目線をあげると、そこには男がいた。

 悲しいかな、その人はバルコニーでよく見るあの色白の男ではなかった。

 簡単に言えば、それは強盗だったのだ。

 その時私が悲鳴をあげたのは、強盗に驚いたからではなく、ただただ両親の二の舞になりたくなかったからというだけだった。まだ私が年端も行かない頃に無残に強盗に刺し殺された、あの二人のようになりたくなかった、ただそれだけ。

 けれど力の抜けた足ではそれすら叶わない。床に座り込んだまま、ああ、死ぬなあと冷静に考えている自分がいた。

 悲鳴をあげた私を見て男がにいっと笑ったのは、きっと私があの頃の子供と同じではないからだろう。私はもう、それなりの体つきになっているのだ。

 気づけばその大柄な体にのしかかられ、見る間に両手を固定され、ろくに手入れもされていない汚れだらけの手がまっすぐ伸びてきている。悲鳴はもうあげても無駄だと分かってしまった。

 ただただ無力な自分を呪いながら、静かに目を閉じる。

「死にたくない……」

 笑ってしまう。死にたくないなんて、今更どの口が。

 涙混じりの苦笑をこぼした時だった。

 ざんっ、と小気味いい音がして体の上の圧迫感が消え、思わずえっと声を上げて目を開く。そこには暗くとも確かに天井が見えた。ゆっくりと上体を起こすと、燭台の小さな光に照らされて、ぼんやりとその姿が浮かび上がる。

「あ……」

 色白の肌を返り血でところどころ赤く染めた彼は、その長い体躯と同じくらい長い鎌を手に携えていた。まるで死神だ。

 ぼと、という音がする。

「ひいいっ」

 情けない男の声と手首を押さえる影を見る限り、多分手首を落とされたのだと思う。冷静に見ていられる自分が不思議だった。普通こういうものを見せられたら、大抵の女子供は悲鳴をあげて逃げるものではないのだろうか。いや、知らないけれど。

 そんなことを思っている間にも、返り血を浴びた男はその長い手足をしならせるように振るって、床にうずくまる男の身体を切り刻んでいく。足、肘、胸、頭……差別することなく、区別することのないように細切れにしていく。一体どこからその大鎌を操る力が出るのか。

 そう思いながらも、私はその光景を、ひどく美しいと思った。

 人を殺すのは良くないことで、それを分かっているけれどやむを得ずやっているのだとでも言うような複雑な表情に、私は彼の美しさを見た。優しさを見た。かつては両親から向けられていただろう感情を見た。

 男がただの赤になるまで、大して時間はかからなかったように思う。ぐちゃぐちゃなそれを冷めた目で数秒見つめて、鎌を握りしめた彼は男のそばに膝をつき、身を屈めた。沈黙が落ちる。

 彼の口の中に、赤が吸い込まれていく。

 ああ、なんだ。

 彼は吸血鬼などではなかった。

 彼に『殺される』というのは、きっとこういうことなのだ。

 どれくらいそうしていたのだろう、不意に彼が目の前に立っていたものだから私ははっとして小さな悲鳴をあげてしまった。

「あ……ありがとう」

 力の入らない足を呪いつつ、座り込んだままぺこっと頭を下げる。言いたいことをすべて飲み込んで、ただ微笑んだ。

「いや……」

 しかし彼はふらりと私の方へ倒れ込むようにして、私の目の前に膝をつき、耳元に赤く染まった口を近づける。

「お前の方が、ずっと美味いだろうと思いながら、切っていた。すまない」

 乱暴にぐいっと自分の口元を拭ってから、目を見開いて固まってしまった私の額に口付けを落として、男は何事もなかったかのように手袋をはめて古書を片付け始めた。古書はすべて不思議なくらいに綺麗なままである。目の前の男の方がよっぽどタオルで拭く必要があるだろう。

「ねえ」

 その時何を思って声をかけたのか、私は多分一生分からない。けれどもその時はそれが一番正しい行動だと思っていた。

「どこかへ行くの?」

 男は不自然なほどにびたりと動きを止めた。こちらを見る瞳の中の感情は読めない。

 私は窓を指さした。開け放たれたその枠の中に、不気味な洋館が見える。

「あなたの家はあそこではないのでしょ? どこか、本当の家がある場所まで、行ってしまうのではないの?」

 私の中には不思議な確信があった。目の前の男は、多分ここにいるべき人ではない。彼の帰る場所は別にあるのだ。

「……だとしたら?」

「連れて行って」

 今度は男が目を見開いた。けれどそんなことには構っていられない。

「ここは、とても広いわ。傍系だけれど、私の家は名のある貴族の家系だったから」

 ひどく広いこの家に一人で暮らしていることを思い知らされるようになって、最初は悲しかった。そのうち酷く苦しくなって、最後には気が狂いそうになった。

 最近は父の幻覚を見るようになり、母の幻聴を聞くようになった。遺されたのは膨大な数の古書だけで、文字を追いながら気を紛らわせるしかすることもない。

「風邪を引くと、あの日両親が死んだ瞬間の記憶ばっかり夢に見るの。無我夢中で逃げるなんて、馬鹿なことをしたと思ってるわ」

 あのまま殺されていたらこんなに毎日苦しむ必要もなかったのだ。それなのに、私はあの日の強盗から考え無しに逃げてしまった。両親に言われるままに。

 自殺なんて今更できない。死んだ両親は何も感じないのだと分かっていても、遺してくれた命を断つことはどうしても出来なかった。

 そんな時に彼が越してきて、毎日会って、多少だけれども言葉を交わすようになってしまった。

 もう無理だと思った。

「あなた前に言ってたわね、自分が笑っていたことを誰かに言うなって」

 彼の眉がぴくりと動いた。あの時の尋常じゃない雰囲気を思い出しながら、私は顔を歪める。連れて行ってくれないなら、それでもいい。私はひとりが嫌なだけなのだ。

「誰かに言ったら、私を殺してくれるのよね?」

「………………俺は」

 小さな声だった。けれどもその声は思ったよりも優しくて、私は目を瞬いた。

「俺は、古書の借りをまだ、返しきれていない」

 え、と声をあげた時にはもう、彼の血に濡れた何かが口の中に押し込まれていた。

「俺と同じになるなら、連れて行ってやってもいい」

 口の中にえぐみを伴った苦さが広がって、視界がぐらりと傾く。硬くて強い腕が肩を抱いたような気がしたのと同時に、私はふっと目を閉じた。





 目が覚めた時、私の体はゆらゆらと揺られていた。背中を覆う暖かさと安心感に、怠さを我慢しながら首だけで後ろを振り向く。

「……何だ、まだ泣いているのか」

 するりと頬を撫でた指先はもう赤くなかった。そういえば、目元や頬がパリパリしている気がする。私は泣いたのか。

 その時ぐらりと体が揺れて、私は悲鳴をあげかけた。しかしすぐに力強い手によって肩を支えられる。グラグラと傾ぎそうになる体をなんとか真っ直ぐに保って、私は自分が座っているものを見た。

「……馬なんて初めて乗ったわ」

「俺も誰かを乗せたのは初めてだが」

「えっと……ここどこ?」

 馬にばかり気を取られていたが、周りの景色も様変わりしていた。明らかに私の家の近くではない。

 すると、男の纏う雰囲気が変わった。何だか後ろめたそうだ。

「ここ、どこ?」

 ちょっと語気を強めて言うと、ぼそりと呟くような答えが返ってくる。

「日本ではない」

「ああ、そうなの」

「……驚かないな」

「独りじゃないならどこでもいいもの」

 まさか外国とは思わなかったが。

 びくともしなさそうな彼の体に背を預けて、私はぽつりと呟く。

「……私、どのくらい眠っていたの?」

「丸一日くらいだな」

「今の私は、あなたと同じ?」

「まだ定着しきっていない。もうあと半日はかかるだろう」

 定着とはどういうことなのかとか、私は一体何を食べたのかとか、どうして風邪が完全に治っているのかとか、聞きたいことはいくらでもあった。でも、私はそれよりも何よりも、ただただ嬉しさを噛み締めることにする。

「何を笑っている」

 私は表情筋が死滅していたはずなのだけど、どうやらまだ笑うことができたらしい。不可解そうな顔に、そういえば彼は笑うことをひどく隠そうとしていたなと気づく。

 そして、その時ふと思い出した。

 中世だったかの時代に、感情を表に出すことを嫌う、という風習が外国ではあったのじゃなかったか。

 その頃に存在した本は、今では古書と呼ばれるほど古いのではなかったか。

 もしかして、と思った。もしかして、彼は。

「おい、どうした?」

「……私、あなたの代わりに笑うことにする」

 怪訝そうな顔の彼に、私はただ微笑んだ。ああ、微笑むこともできたのだな、と自分でも分かった。

「私が元気に笑ってたら、あなたが笑っていることに気づかれにくくなるでしょ」

 まずは表情筋を完全に生き返らせようと意気込む私に、彼はよく分からないというように嘆息していた。

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