仁藤新菜の下校イベント
部活の本入部から一週間ちょっとが過ぎ、練習に慣れてきた4月下旬のある夕方、私は森山くんと一緒に下校していた。
「意外と部活が終わる時間って、かぶらないものなんだな」
「ね。一緒に帰るの、初めてだもんね」
私たちが付き合い始めたのは小学校卒業の日からだけれど、通学班は別だったから、小学生の時は一緒に下校したことはない。中学校の入学式の日は、式の後私を待っていた父親と一緒に帰宅したので、森山くんとの下校は今日が初めてだ。
「野球部、どう?」
「思ってたより楽、かな。人数もけっこう少ないし、和気藹々って感じでやってるよ。悪く言えば緩いとも言えるけど、おれには合ってるかも」
「そうなの? 森山くん、真面目な雰囲気の方が好きそうだけど」
「別にふざけてるわけじゃないし、真剣にはやってるよ。でも、辛いとか厳しいっていうのとは、違うかなって感じ」
「なるほどね」
運良く同じクラスになれたから話す機会はこれまでもあったけど、こうして一対一でお喋りすることはあまりなかった。だから、彼の声を私だけが聞いている今の状況が、それだけでたまらなく嬉しい。
「仁藤は? 女バス楽しい?」
「楽しいよ。バスケって授業でしかやったことなかったけど、2年生の先輩が丁寧に教えてくれるの」
「そっか」
森山くんはそう言って、前を向いたまま微笑んだ。
「何笑ってるの?」
「ん、いや、仁藤が楽しそうだから、よかったなって」
森山くんは今度は私に向けて笑った。つられて私も笑う。彼が私を思って笑顔になってくれる。こういう瞬間が、私は好きだ。
ぽつぽつと街灯がつき始めた、ひとけのない道を歩いていたところで、森山くんが突然「いてっ」と小さく呻いた。
「どうしたの?」
「ああ、ちょっと今日手の皮が剥けてさ……今こすれちゃって」
そう言って森山くんは、左手の掌を私に見せてきた。私はそれを両手で掴んで観察する。
「やっぱり、マメとかけっこうあるんだね……」
…………。
反応がないので、私は森山くんを見上げてみると──
「…………っ」
森山くんは、頬を赤くして、私に握られた左手を見つめていた。
「あ……」
私たちは恋人にはなったものの、まだ手を繋いだことはない。でも今、私は自然に彼の手をとってしまった。
「…………」
私も恥ずかしくなってきた。私は手を離して、視線を斜め下に逸らした。……顔が熱い。
私たちはそのまま、しばらく無言で歩いた。
「あ、あのさ」
「は、はい」
唐突に、気まずそうに森山くんは切り出した。
「あの……えっと」
まだ照れを引きずっているのか、なかなか話が進まない。
数呼吸置いて、彼はようやく捻り出した。
「下の名前で、呼んでもいい?」
「はい!」
「うおっ」
私が急に勢い良く返事をしたからか、彼は身を一瞬震わせて驚いた。……ごめんね。
「……何その元気なお返事」
「いや、あの……ちょっと、呼んでみて」
「え? ああ……新菜」
「……くぁ」
「いやどうしたんだよ」
謎のうめき声をあげ、両手で顔を覆った私を見て、彼は怪訝そうに訊いてきた。そりゃそうだよね。
「あのね……彼氏に名前で呼んでもらうのって、憧れだったの」
「ああ……そうなんだ」
私がかねてからの夢を告白すると、森山くんは安堵したように言った。……そんなに挙動不審だったかな。
「ねぇ、私も、清磁くんって呼んでいい?」
「もちろん」
「やった……清磁くん」
その日、別れ道に至るまで、私たちはお互いの名前を何度も呼んだ。