森山清磁の社会研究部
この部分は読まなくても物語の把握に重要な影響はありませんので、退屈に感じられたら読み飛ばして頂いて構いません。
また、この部分で議論されているテーマについて、筆者は専門的に学んだわけではありませんから、間違いがあるかもしれませんが、ご容赦ください。
社会研究部の活動は週に1度、社会科講義室という場所で行われる。この教室はHRとしては使われないため、人の荷物や備品が少なく、もの寂しく感じられる。しかも今日は部活の参加者がおれ・新菜・3年生の黒澤先輩しかいないので、余計に閑静だ。
「ぽりあもりー? 聞いたことないです、それ」
黒澤先輩の提示した本日のテーマを、新菜が復唱する。おれも聞いたことないです。
「簡単に言ってしまえば、『当事者間で認められた浮気』のことだ」
「……それでも意味わかんないです」
黒澤先輩は細身の男性だ。声が低くてゆっくり話すので、この人の説明はいつもわかりやすい……のだが、ちょっと今回はそうではないようだ。
「今から説明するから、落ち着きなさい」
『はい』
おれと新菜の返事が重なる。黒澤先輩はひとつ頷き、説明を始めた。
「まず、AさんがBさんと、恋人として、交際していたとしよう。その間に、AさんはCさんにも恋をした。そこで、AさんがCさんとも、恋愛関係になる。これがポリアモリーという形態のひとつだ」
「いやそれただの二股じゃないですか」
おれが当然の突っ込みを入れる。それも予想通りだったようで、黒澤先輩はまた頷いて続ける。
「そう、普通ならそれは、咎められるべきことだ。何しろ、この場合Aさんは、Bさんの気持ちを踏みにじったようなものだからね。しかし、AさんがCさんと付き合うのを、Bさんが承諾していたとしたら、その限りではない。そうだろう?」
「……ちょっと、想像できないです」
新菜が眉を顰める。おれも同感です。
「もちろん、所謂浮気なら、Bさんも認めはしないだろうね。ただどうだろう、さっきは便宜上浮気と表現したが、そうではなくて、『本気』だったとしたら」
「本気……ですか」
「それは、2人の人を同時に、心から愛するってことですか?」
おれと新菜が順に言う。黒澤先輩は「その通り」とばかりに右手の人差し指を立てた。
「そういうことだ。身近な話で考えてみても、家族みんなに対して愛情を持つということは、不思議ではないだろう。その対象が、家族ではなく複数の人間、恋人になり、感情の性質が恋愛感情になったというだけのことだ」
まあ……確かに、そういうこともあるかもしれない。でも、
「でも私だったら、清磁くんに他の人と付き合ってほしくないです」
という風に思うだろう。
「もちろん、さっきの例でいうBさんが『嫌だ』と言ったなら、別の話だ。それでもAさんがCさんと交際をしようものなら、それはよくないことだと言えるだろうね」
「ああ……だから『当事者間で認められた』なんですね」
「そうだ」
黒澤先輩は満足そうに息を吐いた。
「なるほど、とりあえず概念については理解しました。で、そのポリアモリーがどうしたんですか?」
おれは黒澤先輩に尋ねる。まさかただ紹介しただけで終わらないだろう。
「そう、話はここからだ。もう一度、先程の例を思い出してほしい。Aさんが、BさんCさん、2人と付き合っている。この時、同時に、BさんとCさんも付き合っていたとしよう。これを、ポリアモリーの中でも特に『トライアッド』と呼ぶ」
「……うん?」
新菜が首を傾げる。確かに少しややこしくなってきた。
「つまり、ABCが全員、自分以外の2人に対して、両向きの矢印で結ばれている状態ってことですか?」
「図にすると、そうなるね」
おれが頭の中で描いた相関図を説明すると、新菜も理解できたようで、頷いた。
「この時、性別が男と女の2つしかないとすると、この3人の関係を表す矢印のうち、少なくともひとつは同性愛の関係になることが、わかるかい?」
「まあ、そうですね」
鳩の巣原理ってやつだ。因みに「性別が男と女の2つしかないとすると」っていうのは、パンジェンダーとかXジェンダーなんかを念頭に置いた仮定だ。そういう性自認があると、以前黒澤先輩が言っていた。
「加えて、この三角形に男と女が両方含まれるとすると、3人のうち2人はバイセクシャルということになる」
「それもそうですね」
「つまり」
黒澤先輩はそこで1拍空け、
「ポリアモリーという考えひとつを導入するだけで、様々な恋愛形態が可能になるということだ」
と、ドヤ顔で言い放った。
「はあ……」
だからなんなんだ。
「森山君、まだこの概念の起こすパラダイムシフトの可能性に気付いていないね?」
「パラダイムシフトて。じゃあポリアモリーの導入で、何が起こるんですか?」
「ひとつは、文学、小説の世界でのことだ。ポリアモリーに対して一対一の婚姻形態をモノガミーというが、イスラム圏を除く今の世の中はモノガミーに支配されているだろう。だが、ポリアモリーを知ると、モノガミーの正当性に懐疑的になる人々も現れるはずだ。例えばそういった人たちがダブルヒロインを掲げる恋愛小説やライトノベルにポリアモリーを適用したら、それだけで描かれる物語はいかようにも変えられる」
ひとけのない社会科講義室に、黒澤先輩の興奮した声が響く。かなりテンション上がってるな。
「確かに、純愛をテーマにした作品とかだと、1人と結ばれる展開しかないですもんね」
新菜が黒澤先輩に同調すると、先輩はにんまりと笑った。すっげ嬉しそう。
「そうだ。もちろん、君たちにポリアモリーを実践しろと言っているわけではないが、どうだい、この概念の秘める無限の可能性には、ロマンがあるとは思わないか」
「なんとなくわかりました」
おれがそう言うと、黒澤先輩は机に手をついて立ち上がった。
「よし、今日は、新しい考えを学んだということで、部活はお開きとしよう」
『ありがとうございました』
「うん、おつかれさま」
一言労いの言葉をかけ、黒澤先輩は教室を出ていった。
「確かに、そういう考え方に基づいた小説とか、面白いかもね。あったら私、読んでみたいかも」
「まあ、フィクションだったらね。でも現実で新菜がCさんを好きになったら嫌だなあ」
「それは大丈夫だよ。私は清磁くんしか見てないから」
「ま、そうだね。おれも新菜以外の女子にドキドキしたことないし」
おれたちはさっきの議題について感想を言い合いながら、帰り支度をする。カーテンを閉めて電気を消して、社会科講義室を後にする。廊下の窓から空を見上げると、まだ空は明るいけどうっすらと月が見える。それ以外に星はない。
「さて、帰ろうか、新菜」




