第3章 王子の初恋は忘れた頃に
第三章 王子の初恋は忘れた頃に
フィリアとクロドの関係がだいぶ良好なものとなった頃、ラディエント王国にある人物が訪れた。
「お久しぶりですわ。殿下方」
豪華な衣装に身を包み可憐な笑みを振りまいて現れたのは、ラディエント王国に負けず劣らず広大な領土を持つ北の国、ロシュエト帝国の第五皇女だった。
「ようこそいらっしゃいました。ロザーラ姫。出迎いが間に合わず申し訳ありません」
「いいえ。こちらも急な訪問でしたもの。迎え入れていただき感謝しています」
アルマデスが姫の手を取り挨拶をする。
姫も礼儀をもって返すが、姫の視線はあくまで横に立っていたクロドに向かっていた。
公の場には出席しなくなっていたクロドだったが、今回は相手側の強い希望でその場に立ち会っていた。
姫はアルマデスへの挨拶もそこそこにクロドのもとへ向くと、驚く周囲を置いてクロドの手をとった。
クロドの体が強張る。
「殿下、本当はもっと早くお会いしたかったのですが、あいにく父に足止めをされてしまいまして、こんなにも遅れてしまったことをお詫びいたしますわ」
ストロベリーブロンドの髪をなびかせ、エメラルドの瞳を潤ませる皇女の姿は、見るもの全員に強い庇護欲をかきたせた。
クロドは姫の勢いに押されて身を引いたが、なんとか踏みとどまって挨拶の形をとった。
「姫、火急な要件ということでしたが、いったいどのような案件でしょうか?」
ロシュエト帝国とは交流が盛んにありロザーラ姫も何度もこの国に足を運んでいたがが、今回ロザーラ姫は非公式の訪問としてラディエントを訪れていた。そして、その経緯は未だ知らされていなかった。
本来ならあり得ないことだが、『今から伺います』といった形の書状を国境手前で出してきたためラディエント側は急な対応に追われたのだ。
「はい。大至急、殿下にお会いしなければなりませんでした。全てはわたくしの未熟さが引き起こした過ちではありますが、どうしても諦めきれなくて……」
目を伏せるようにして陰る姫の表情に、その場に居るものたちもいぶかしむ。
そんなに深刻な事態なのか。
「落ち着いて下さい、姫。いったい何があったのですか?」
アルマデスが労わるように優しく声をかける。
ロザーラ姫は意を決したように顔を上げると、隣に立っていたクロドへ向き直った。
その時、ようやくクロドは姫の熱い視線に気が付いた。
「クロドベルトス様。まだ、あのお約束を覚えていらっしゃいますか? まだ、守ってくださいますか?」
姫が何を言おうとしているのか、クロドがはっとしたときはもう遅かった。
頬を紅潮させ、緊張した声で姫はクロドに訴えた。
「わたくしを妻にするとのお約束は、まだ有効ですか?」
静かな部屋のなか、突拍子もない問いが響き渡った。
ロシュエト帝国の姫が滞在して三日目。
城内はフィリアにとって、以前よりさらに居心地の悪い場所となっていた。
姫が対談の時に発したありえない発言は、瞬く間に噂話として城内広がっていた。
「姫様、ただの噂です」
「わかってるわ」
フィリアは窓の外の景色を見ながら力なく呟いた。
窓の外には、城の庭園を連れ添って散歩するクロドとロザーラ姫の姿が見える。
美貌の姫の隣には首無し王子。しかし、これが以前のクロドであったなら、美男美女の素晴らしい光景になっていたことだろう。
それを考えると、フィリアには噂を否定する気力は残っていなかった。
呪いを受ける前、クロドとロザーラ姫は恋仲だった。
身分的にも申し分ないため特に反対するものもおらず、まさに順調な交際を続けていたといってよかった。
しかし、三年前にクロドが呪いを受けてから全てが変わってしまった。
ロザーラ姫の父であるロシュエトの帝王はすぐさま娘とクロドの交流を切り、姫はクロドとの連絡を取れなくされてしまった。
悲しんだ姫だが、それでもクロドと連絡を取ろうと模索し、一度だけ手紙を出した。
『必ずまた、会いに行きます』
そして説得に説得を重ね、ようやくロザーラ姫はクロドのもとにやってきたのである。
「ふふ、まさしく純愛というやつかしら?」
フィリアは虚ろな目で遠くを見やった。
この、流行りの恋愛小説のような恋愛事情はすぐにフィリアの耳にも届いた
姫の滞在理由は一応ロシュエト帝国との関税についての対談となっているが、第五皇女にそんな案件が任されるはずもなく、単なる建前でしかなかった。
「今日は私とお散歩する約束だったはずなのだけれど」
「ロザーラ姫が庭園を見たいとおっしゃったそうですよ」
「初めて来たわけでもないでしょうに」
ジゼルと自分しかいない部屋で、フィリアは憮然と呟いた。
ロザーラ姫とクロド王子の恋物語は、必然的にフィリアの立場を悪役としていた。
呪いにも負けない愛を示した姫が、お金目当てで嫁いできた姫から王子を取り戻す。
物語として皆が望む展開はこうだろう。
「追い出されたりして」
「あり得ません」
「……そうね」
フィリアとクロドの婚姻は国同士の取り決めで決定したものであり、なにより既に式を済ませているのだから、今更ロザーラ姫が何を言ってもフィリアとクロドが夫婦なのは変わらない。また、一度婚姻した相手を破婚とすることはラディエント王国ではほとんどないため、フィリアかクロドの命が尽きない限り二人は夫婦である。
しかし、かえってそのことが皆の興味を引いていた。
いつの時代も、障害のある恋は人を引き付ける。
ロザーラ姫を不憫と思うとともに、無責任に応援しているものも何人かいるのだ。
「お気になさらず、と言っても無駄でしょうね。またお菓子を持って行ってはいかかですか?」
「ロザーラ姫のいるところへ行くのはいやだわ」
最近は、クロドのいるところにはロザーラ姫が付きまとっている。鉢合わせすると、姫は潤んだ目で睨みつけてくるのだ。
フィリアに対しては全く効果のない攻撃ではあるが、それを見た周りの人間が姫にほだされフィリアを微妙に敵視してくるのはいただけない。
「美しいって便利なものね」
綺麗な顔が悲しみに歪む姿は周囲の人間の心を打つ。
フィリアは何もしていないのに悪役の気分だ。
「姫さまも十分お美しいですよ。それに、愛嬌というものがあります」
「それって褒めてるのかしら?」
「もちろんです」
フィリアは苦笑すると机の引き出しから日記をだした。
「これもお渡ししたいのだけど、今日は無理かしらね」
直接会って話すことが出来るようになったのだが、未だに交換日記は続けていた。
これはクロドとティーダ、フィリアとジゼルの四人しか知らない秘密だ。
その秘密があることが、フィリアの心労を少しだけ軽くしていた。
「今日は、殿下とお食事をご一緒するのでは?」
「どうせまたロザーラ姫が一緒でしょう。あんな雰囲気で食べるくらいなら、一人の方がましよ」
約束がおじゃんになったのはこれで何回目だろうかとフィリアは考える。少なくとも、ロザーラ姫が来てから一度もフィリアはクロドとお茶が出来ていない。
「なんで今頃来たのかしら? クロド様が私と結婚なさったことは知っていたでしょうに」
不思議なのはそこだった。むやみに他国の乗り込んできて、既婚者である王子に公衆の面前で想いを告げたのだ。本来ならあり得ない暴挙だった。
「アルマデス様も何もおっしゃらないようだし、どうなっているのかしら?」
さすがにアルマデスが姫にほだされるということはないだろう。
一度だけ見たあの冷たい目を思い出し、そう思った。
しかし、沈黙を貫いているということに何か政治的思惑があるのではと思ってしまう。
「気になるのでしたら、姫様から何かお聞きになってはいかがですか?」
「そうね。でも、アルマデス様はお忙しいようだし……」
さすがに、多忙な王弟殿下をわざわざ捕まえて問いかけるのも気が引ける。
「では、殿下にお聞きしては?」
フィリアは、視線を日記に向けた。
「そう思って一応書いては見たんだけれど、これを渡せるのがいつになるのか」
フィリアはため息ををついた。
ロザーラ姫が常時クロドに張り付いているため、なかなか以前のように頻繁に交換できなくなった。
『明日は一緒に食事をしよう。食事のあとに話がある』
クロドからの伝言はそれが最新ものだ。
「話ってなんなのよ」
フィリアはふてくされたように机の上のペンをはじいた。
いい加減にしてくれ、というのが今のクロドの心情だった。
彼に声を発する機能が残っていれば、間違いなく言っていたことだろう。
「クロド様、今日は一緒にお庭をお散歩してくださらない?」
クロドはいやいやながら、腕にすり寄ってくるかつての恋人へ目を向けた。
彼女は以前と変わらずストロベリーブロンドの髪をなびかせ、真珠のような美しい肌に今流行のドレスをまとっていた。
『失礼ですが姫、私には仕事があります。他のものをよこしますので』
あいにくティーダは別件の仕事で席を外していて、この場にはクロドとロザーラの二人きりだ。
「でしたら、わたくしもお手伝いしますわ。わたくしは殿下のおそばにいたいのです」
甘えるようになだれかかるロザーラに、クロドは疲れたように内心ため息をついた。
三年前なら愛しさがこみあげてきたはずのその仕草が、今のクロドには響かない。
「お茶を用意させましたの。殿下のお好きな北の茶酒です。体が温まりますわ」
ロザーラの言葉と共に運ばれてきたものに、クロドは青ざめた。
北の茶酒とは、ロシュエト帝国で常飲されているお茶のことだ。渋みが強く飲みすぎると喉が焼け付くように熱くなることがある。
ロシュエトでは子供の頃から飲むため、ロシュエトの国民は皆お酒に強い。
室内に酒の香りが漂い、クロドの肩が強張った。
「このお茶に合う菓子も用意いたしましたの。気に入って下さるといいのだけど」
同じく運ばれてきた皿の上には、赤い焼き菓子が盛り付けてあった。
「最近ロシュエトの城下で流行っているもので、わたくしも好きなんです。この辛味が癖になるんですよ」
にこにこと楽しげに語るロザーラに、クロドは気分が悪くなった。
「クロド様は辛いものがお好きなのですよね? 今度は料理人にとっておきのロシュエト料理をつくらせますわ」
あ、俺死ぬかも。
本当は辛い物が苦手で、甘い物が大好きなクロドは戦慄した。
昔、恋人にもっと好かれたいばかりについた嘘が、今のクロドを苦しめていた。
あの頃は彼女のことを思えば耐えられたが、今同じように耐えられるとは思えない。
(フィリアの焼き菓子が食べたい)
そう時間はたっていないはずだが、クロドにはエクエアが懐かしく感じられた。
最後にフィリアとお茶したのはいつだったか。
少なくとも、ロザーラ姫が来てからはしていない。
「そうですわっ。今日の夕食に作らせましょう。ロシュエトの料理はとっても刺激的ですのよ」
すっかりその気になっているロザーラに、クロドは慌てて待ったをかけた。
声が届かないぶん、放っておくと彼女は一人で話を進めてしまう。
『待ってください姫。今夜はフィリアと食事の約束をしている。また後日に』
「でしたらご一緒にいたしましょう。わたくしもフィリア姫とはお話ししたいですわ」
クロドの言葉を半ば無視して話続けるロザーラ。
(筆談はこういう時に不便だな)
書く速さを上回る速度で話されると、遮ることも出来ない。
今まで特に不便と思っていなかっただけに、クロドは止めるすべがなかった。
(フィリアのおかげか)
今まで主に接していたのはティーダやフィリアだが、彼らに対して不便だと思ったことはなかった。
それは、彼らが常に気付かって会話をしていてくれたからだと、クロドは今気が付いていた。
『とにかく姫、今夜は無理なのです』
なんとか書いた板をロザーラに見せると、途端にその顔が不快に歪んだ。
「どうしてですの?」
彼女は自分の意志が通らないことが許せない人種だった。
彼女の容姿をもってすれば、周りの者は彼女のために最善をつくした。
政治に絡まない第五皇女は、帝国でも愛すべきものとして平和に大切に育てられたにちがいない。
そんな彼女に許されないことはほとんどなかったのである。
「クロド様は、もうわたくしのことを愛してはくださらないのですか?」
詰め寄ってくるロザーラに、クロドは無い頭を抱えたくなった。
愛するも何も、クロドはすでに結婚している身なのだ。彼女の行動は国の威厳を汚すものでしかない。
『姫、その話はもう済んでいるはずだ。これ以上は姫の品を落とすことになりかねない』
「そんなことっ。わたくしは納得していません」
叫ぶようにして抱きついてきた姫を、クロドはとっさに支えた。
その拍子に、首の部分を覆っていたベールが取れる。
(しまったっ)
なんとか抑えようと伸ばした手は虚しく空を切る。
「い、いやあああああああっ」
どこか既視感を覚える絶叫を聞きながら、クロドは突き飛ばされた。
錯乱したロザーラ姫がふらふらとしながら後退していく。
落ち着かせようと手を差し伸べるが、取ってくれるはずもなく。
(ちっ、早く他の者を……)
ロザーラの後ろにテーブルが見えたため、危ないと思い思わず一歩前にでる。途端に叱責が飛んだ。
「近づかないで!! 化け物っ」
瞬間、クロドの胸に痛みが走った。
いつかの光景がよぎる。
化け物。愛した人間から言われた言葉は、クロドの心の一番深いところに突き刺さったまま。今日まで凍結させ忘れていた。
(まだ、結構効くんだな)
フィリアと対峙した時には絶叫されて気絶までされたというのに、ここまでの痛みを感じなかった。
それが彼女の言葉はここまで刺さるのだから、最早これはトラウマといっていいだろう。
「どうしました!!」
衛兵と一緒にティーダが血相を変えて飛び込んできた。
「いやああっ……」
姫が力尽きて気絶する。
慌ててティーダがそれを支えた。
「殿下、いったい何があったのですか?」
問いかけたティーダだったが、その問いはクロドの姿を見て悟ったようで、取り合えずロザーラ姫を部屋の長椅子に横たえた。
その間クロドは何とかベールを被りなおしたが、すでに見てしまった衛兵たちは硬直したように顔に恐怖を浮かべたまま固まっていた。
叫び声を上げなかったのは彼らのささやかな意地だろう。
「お前たち、ロザーラ姫をお部屋までお連れする。一応医師を呼んでおいてくれ」
ティーダの指示でようやく我に返った彼らは、弾けるように反応して部屋をでていった。
嵐が去ったように静まりかえる室内。
クロドは椅子に項垂れるように座り込んだ。
「殿下……」
ティーダが気遣うように声をかける。
しかし、筆談する気にもなれなかったクロドは、手を軽く振りかえすだけでそのまま目を閉じた。
いつかの情景が浮かび上がる。
まだ呪いを受けて間もない頃。
まだ、自分の未来になんとか希望を持とうとしていたときのことだ。
恋人だったロザーラ姫が心配して見舞いに来てくれた。
自身の姿を不安に思っていたクロドは会わない方がいいと言ったのだが、姫は聞かずにクロドの寝室までやってきてしまったのだ。
正直に言うと嬉しかった。そこまで自分のことを心配して来てくれたのだと。
しかし、いざクロドと対面した彼女の口からは聞いたこともないような悲鳴が溢れ、駆け寄ったクロドの手は無情にも叩き落された。
『近づかないで、化け物!! 誰か、誰か来てっ』
まるでおぞましいものを見たかのように彼女を顔は恐怖で歪んでいた。
叫びながら飛び出して行った彼女の姿は、今も鮮明に覚えている。
その後、彼女は逃げるかのようにラディエント王国を去り、以降は手紙のやり取りすらしなくなった。
それが真実であり事実だ。
「クロド様」
不意にかけられた声で記憶の渦から戻された。
見ると、心配そうな顔をしたフィリアが傍にいた。
「申し訳ありません。私がお呼びしました」
ティーダが謝るが、上手く対応できなかった。
「クロド様」
再度呼びかけられ、フィリアに目を向ける。
彼女は真っ直ぐとクロドを見ていた。
この青々とした瞳が、クロドはお気に入りだった。
フィリアがそっと、クロドのベールへと手を伸ばす。
はっとしたクロドが手を止めるが、フィリアはそれを制した。
「大丈夫です、クロド様」
はらりと落とされる薄い布。
露わになった部分を痛ましげに見つめたフィリアは、そのまま腕を伸ばした。
(っ!!)
気付けばクロドはフィリアの腕の中にいた。
「私は、逃げません」
フィリアの温もりがクロドを包む。
人の温かみを感じたのはいつ以来だろうか。
「逃げません」
そうだ、フィリアは逃げなかった。
初めて対面したとき、衝撃を受けたフィリアには、もうクロドと会わないという選択も出来たのだ。その選択肢を、クロドは残していたのだから。
しかし、フィリアはクロドから逃げることをせず、あまつさえ交流の糸口を見つけようとあらゆる方法を試みた。
例え受け入れられない姿だとしても、クロドが望んでいたのはその姿勢だったのだ。
親も、恋人も示してくれなかったことを、彼女はしてくれた。
「私はずっと、お傍にいます」
生きている証ともいえる体温を感じて、クロドの心は解き放たれた。
フィリアにすがりつくかのようにきつく抱きしめ、音もなく涙を流した。
数年ぶりの涙だ。
凝り固まって、奥底で溜まっていた感情が一気に流れていく。
声なき声で泣きつづけるクロドの背を、フィリアは気が済むまでさすり続けた。
『すまなかった。みっともないところを見せてしまったな』
「とんでもありません!! 全然、みっともなくなんかないです」
しばらくして泣き止んだクロドは、恥ずかしげに立ち上がった。
もうすっかり調子を取り戻したのか、その動きは機敏だ。
対してフィリアは、大胆なことをしてしまった自分に今頃赤面している。
『ありがとう』
穏やかな文字で感謝を告げるクロドがやはり輝いて見えるように見え、直視できない。
(なんでなのかしら?)
混乱するフィリアだが、クロドはいたって普通だ。
『フィリア、手が』
「え?」
見ると、いつ切ったのか指先に小さな傷ができ、血が出ていた。
さっきの騒ぎで割れてしまった陶器の破片で切ったのだろう。
「すぐ手当てを」
ジゼルが道具をとりに向かう。
「大丈夫です。このくらい、なんともありませっ」
フィリアが言い切らないうちに、クロドが動いた。
素早く近づくと、彼はフィリアの手をとって心配そうにさすった。
あまり意味のない行為だが、不意打ちで触れられたフィリアの顔はその瞬間、沸騰したかのように真っ赤に染まった。
「お待たせいたしました。姫様、お手をお出しください」
ジゼルが包帯を持って戻ってきたが、クロドは手を離さない。
「殿下? フィリア姫の手当てをしなくては」
ティーダが声をかけるが、クロドはフィリアの手を離さず、代わりに反対の手をジゼルに差し出した。
「殿下が自らなさると、いうことでしょうか?」
肯定するクロド。
クロドは待ちきれなかったのか、ジゼルが何かを言う前に、彼女から包帯をひったくってフィリアの手当てを始めた。
「あ、あの、クロド様? そんな、わざわざしていただかなくても大丈夫ですから」
申し訳なさそうにするフィリアだが、結局クロドは手当てが終わるまでフィリアの手を離さなかった。
『俺がしたかったからした。気にしないでくれ。それとも、迷惑だったか?』
クロドが書いた言葉に、フィリアは胸が熱くなった。
「とんでもないです。ありがとうございます、クロド様。嬉しいです」
満面の笑みで返したフィリアの髪を、クロドは満足げに撫でた。
途端に、またフィリアの体温が上昇する。
『それと、様は止めてもらえないか?』
「え?」
『クロド、と呼んでもらえないだろうか?』
「えっと、それは……」
呼称はもはや癖のようなものだ。それに、フィリアとクロドではいくら夫婦と言えど身分的にはクロドが上だ。今更難しいと言いよどむフィリアに、クロドは言いにくそうに理由を説明した。
『思い出してしまうんだ。その呼び方は』
そこでフィリアは思い当たった。
彼女も、クロド様と呼んでいた。
クロドは違うと思っていても、その呼び名に彼女を重ねてしまうのだ。
「わかりました。えっと……クロド」
顔を赤くしたフィリアが拙く呼ぶと、クロドは上機嫌に腕を回した。
『今夜は温室で食事にしよう。見せたいものがある』
「あ、はい。温室って初めて行きます」
なにやら態度が変わったクロドに戸惑うフィリアだが、嫌な雰囲気ではない。
『そうか、きっと驚く』
以前よりも格段に雰囲気が優しくなったクロド。
フィリアは嬉しくなって頬が緩んだ。
『綺麗に支度してきてくれ』
「はい……」
フィリアはうっとりと頷いた。
ドレスは空色のフレアにした。祖国から持ってきた中で一番のお気に入りのドレスだ。
髪と化粧はジゼルに整えてもらい、ガラスがちりばめられた小さなカバンを持つ。
「ジゼル、変じゃないかしら?」
フィリアはせわしなく鏡で確認をしていた。
「大丈夫です。さっきから何回鏡をみているんですか。迎えが来てしまいますよ」
フィリアは温室の場所が分からないため、クロドが迎えをよこしてくれることになっている。
丁度ジゼルが言ったとき、扉から声がかかった。
「ほら、姫様。いらっしゃいましたよ」
ジゼルが扉をあけると、ティーダが立っていた。
慌ててフィリアは扉に向かう。
「ティーダさん、ありがとうございます」
ティーダはフィリアに微笑んで一礼する。
「殿下がお待ちです。私についてきてください」
フィリア達は、ティーダに続いて歩き出した。
城内は方角に合わせて大まかに四つの区画に区切られている。主に来客用の貴賓室や娯楽用の施設があるのは南区。会議室や執務室、資料室などの政務区画が北区。王族用の私室、居住区があるのが東区。聖堂や講堂、パーティー用の広間があるのが西区である。
温室があるのは、その中でも王族の私室に近い東区に面した場所だ。
王族以外の立ち入りを禁じられているそこは、ある意味純粋なプライベートな空間だった。
「こちらになります」
ティーダの後ろをついて歩くこと数分。
示された場所には、見たこともないほど大きなガラスのドームがあった。
「綺麗……」
月の光を反射して輝く姿は温室そのものが宝石のようであり、フィリアは目を奪われた。
「凄いわ。殿下の言っていた通りね」
うっとりと見入るフィリアは、温室の入り口に立つクロドに気が付いた。
「クロド!!」
フィリアが思わず駆け寄ると、クロドはその手をとって優雅に一礼した。
『ようこそ、ラディエントが誇るガラス宮殿へ。驚いただろう?』
「ええ、本当に綺麗。素晴らしいわ」
興奮して答えるフィリアの笑顔に、クロドは眩しく思った。
こんな風に自分に笑いかけてくれる人間は、何年ぶりだろう。
今の光景が、奇跡のように思えた。
『さあ、中に入ろう。中も気に入ってくれるといいが』
クロドに促されて中に入ると、そこはもう別世界だった。
「温室の中に川があるわ」
温室の中を横切るように小さな小川が流れていた。
『水辺に咲く花を育てたいと王妃が言ったものだから、国王が作らせたんだ。この先に、小さな池がある』
クロドの指す先には、確かに小さな池があり、水面にいくつかの花が浮いていた。
『ここは王妃の要望であらゆる種類の花が一年中育てられているんだ』
「そうなんですか。王妃様は本当に花がお好きなんですね」
クロドの薔薇園を思い出す。あそこも、もとは王妃のものだった。
『ここだ』
川の少し先のところに、二人分の椅子とテーブルが置かれていた。
二人が席につくと、ティーダとジゼルが食事を持ってくる。
料理はどこから調べたのか、全てフィリアの好きなものだった。
「美味しい」
一口食べてフィリアの顔がほころぶ。
『それはよかった』
クロドもまた頷いて食器を手に取る。
彼は少し躊躇ったが、フィリアはクロドの躊躇を感じとり彼の被っているベールに手をかけた。
「大丈夫よ」
そっとかけられたベールを取り払う。
「大丈夫」
フィリアはもう一度、クロドに言い聞かせるように繰り返した。
食事をするためにはどうしてもベールをとる必要がある。
しかし、そうすれば食事時に生々し好い光景を晒すことになるため、今までクロドは誰かと食事を共にすることは避けてきた。
焼き菓子程度ならベールの中に入れて食べることは出来るが、食事ともなれば、そんな失礼な態度はとれない。
「一度傷つけた私がこんなことを言うのは図々しいかもしれませんが、そんなに気負わないでください」
フィリアはとったベールを丁寧に畳むと、テーブルのわきに追いやった。
「もう、私には隠さなくて大丈夫です」
真っ直ぐにクロドを見て微笑むフィリアに、クロドから動揺した雰囲気が漂った。
いくら受け入れられたからといって、こうも真っ直ぐに笑顔を向けれては堪らない。
最近になって思い出した想いの衝動。
先ほどは衝動のままにフィリアを抱きしめたが、今はそうもいかない。
クロドは湧き上がる想いを胸にくすぶらせたまま、目の前の料理に手を伸ばした。
「美味しい?」
可愛らしく聞いてくるフィリアに、頷くクロド。
微笑ましい情景に、端で見ていたティーダはほっと胸をなでおろした。
しばらく二人は何気ない会話を楽しんでいたが、不意にクロドは食器を置き、天井を指さした。
『上を見て』
「え?」
言われるままにフィリアが見上げると、円形に広がった天井には、満天の星が輝いていた。
「まあ……」
目を輝かせるフィリア。
これがクロドの言っていた見せたいものだったのだと、フィリアは理解した。
『私は、もう誰も心に入れることはないと思っていた。』
フィリアが顔を戻すと、クロドはそう書いた板を見せた。
それは、クロドが今まで心に澱ませていた孤独の感情。
『この姿になって、皆が私から離れていった。父も、母も、恋人も』
恋人の言葉に、フィリアの胸が痛みを帯びる。
『受け入れられない姿なのは理解していた。しかし、理解していても、簡単に割り切れないのが感情だ。私は、悲しかった』
明かされるクロドの苦しみに、フィリアは泣きたくなった。
彼は三年も、その孤独に耐えてきたのだ。
『どうして生きていられるのかと皆に聞かれ、しかし、私自身どうしてこの姿で生きていられるのか不思議でしょうがなかった。調べたところ、どうやらこの身の呪いは失敗していたようで、中途半端に呪いがかかってしまったらしい。本来なら、体全てが消えていたはずだと、興味深そうに専門家には言われたよ』
「そんな」
改めて聞く真実に、フィリアは驚いた。
『私の存在を消そうとして、誤って首だけ消してしまったらしい』
肩を竦めて呆れを示すクロドだが、誤っていなければ今頃クロドはいないのだ。
フィリアはその事実に恐怖した。
『まあ、かえってこちらは困ることとなったわけだから、ある意味成功と言えるだろうな』
今だから簡単に言えることである。
数日前のクロドでは、きっとここまで軽く話すことは出来なかっただろう。
それほど、フィリアがクロドに及ぼした影響は大きかった。
『そんな私のもとに、君がきた』
はっとフィリアはクロド見た。
クロドの瞳を見ることは出来なくても、確かい温かい思いが向けられているのを感じることが出来る。
『初めは適当に私の傍から追い払おう思って、わざとベールを取っていたんだが』
対面したときを思い出す。確かに、あのときのクロドは普段のベールをつけていなかった。そのせいで、フィリアは恐怖で気絶までしたのだから。
「あ、あのときは本当に、申し訳ありません」
思い出すと、フィリアは胸が痛くなる。
あの時の自分と、先ほどのロザーラ姫との間に、いったい如何ほどの違いがあるだろうか。
『いいんだ。あれが普通の反応だ。フィリアはなにも悪くない。逆に、怖い思いをさせてしまった私が謝るべきだ』
「そんなっ。殿下は悪くありません」
互いに互いを庇い合い、フィリアとクロドは向かい合って笑った。
『でも君は、私との関わりをやめなかった』
そう、次に渡された日記を見て、クロドは驚いたのだ。
あれを見て、まだ近づこうとするものがいるのかと。
『それから少しずつ、君は私に近づいてきた』
好きなものを聞いてくれた。興味があるものを勧めてくれた。知ろうとしてくれた。
その全てが、クロドの望んでいたものだ。
『菓子を作って持ってきてくれた。お茶にも誘ってくれて』
変に取り繕うことをしない関係は、とても心地いいものだ。
『来てくれたのが君で、本当に良かった』
その言葉を見た瞬間、フィリアの瞳から温かいものが流れた。
「っ、クロド……」
『君が来てくれて、私の世界は再び色を帯びた。ありがとう』
真摯な言葉に、フィリアの胸がいっぱいになる。
通じたのだ。
孤独だった王子にフィリアが精いっぱい注いだ思いやりは、時間と共に愛情という花を咲かせていた。
「そんな。私の方こそ……ありがとう、ございます。クロド」
なんとか言えたのはそれだけだった。
嗚咽を堪えて震えるフィリアの背を、クロドが落ち着くまで支えていた。
それからの二人の距離は飛躍的に近づいた。
クロドはフィリアを大切に扱ったし、フィリアもクロドに寄り添った。
『もうすぐ建国祭がある』
「そうですね。どんな催し物をするんですか?」
クロドの部屋で、フィリアはクロドの隣に座っていた。
『花を飾った神輿に子供を乗せて城下を一周する』
ラディエントの建国祭は、主に王族と子供を主役とする。未来あるものを尊ぶという意味で、この日はラディエントの子供たちにとって待ちに待った日でもあるのだ。
「素敵ですね」
『見たいか?』
「はい」
返事をしてしまってから、フィリアはしまったと思った。
クロドは祭り中、城から出られないのだ。
国民の前での挨拶もアルマデスが行う。
この姿では仕方がないものわかるが、寂しい。
「ティーダに言っておこう。王族の席には座れないが、席は用意しておく」
クロドの言葉に、フィリアは胸が締め付けられた。
彼は、一緒に見ようとは言ってくれない。
「いいえ。クロドと一緒にいます」
『無理しなくていい』
「いいえ。」
フィリアは反論した。
「私はクロドと見たいと思ったのです。貴方がいなのなら、私も行きません」
きっぱりと言ったフィリアに、クロドは驚いたように動きを止めた。
『いいのか?』
震える文字が愛おしかった。
「はい」
返事をすれば、クロドに抱きしめられた。
「ク、クロド!?」
フィリアが焦った声をあげる。
フィリアの焦りが面白いのか、クロドは更にフィリアの手をとって甲を指でさする。
すると、フィリアの顔が真っ赤に染まった。
これはクロドからの口づけの仕草だ。
口づけという最大の愛情表現が出来ないクロドは、最近になって内にあり余る想いを伝える手段として、口づけの仕草を編み出していた。
ただ手の甲をさすっているだけなのだが、クロドがやると妙に色気が出ていけない。
また、実際の口づけよりも人目を気にせず出来てしまうため、クロドは想いのままにこの仕草を使う。
意味を知っているフィリアだけが恥ずかしさに頬を染めるのだが、それもまた、クロドを喜ばせるものとなっていた。
フィリアの恥じらう姿はまた、とても可愛らしくクロドの目には映るのだ。
フィリアは真っ赤になった頬をもう片方の手で押さえて耐えた。
(熱くなってる)
ロザーラ姫の一件から、クロドはこのようなスキンシップが増えた。
隙があれば抱きしめてくるし、歩くときは手を握ってくる。
頬を撫でられると、くすぐったさとともにむず痒い気持ちが湧いてきて恥ずかしくてたまらないのだ。
「クロド」
いつまでたっても終わりそうにないスキンシップを受け、フィリアが途方にくれたように名を呼ぶと、クロドはようやくフィリアを解放した。
「あの、少し恥ずかしいです」
真っ赤な顔で目を潤ませて訴えてくる妻の姿に、クロドは眩暈がした。
湧き上がる欲望。
今すぐ押し倒してしまいそうな手を握ることで押しとどめている。
「でも、温かい」
恥ずかしいと言っておきながら、フィリアは自分からクロドの胸に寄りかかった。
どきりとクロドの胸が跳ねた。
「あ、どきどきしてる?」
嬉しそうにくすくすと笑うフィリア。
(なんだこの小悪魔は!!)
クロドは試練だと呻きながらも、幸せをかみしめていた。
「殿下」
そこへ水を差す声が聞こえた。
「ティーダさん」
ティーダがなんとも言えない表情で立っていた。
彼には主夫婦が長椅子の上でいちゃいちゃしているのがよく見えた。
「仲がよろしいのは大変良いのですが、仕事はしてください」
じとっとクロドの視線が虚空から向けられたが、それで引くティーダではない。
だてに首無し王子の側近を何年も続けていないのだ。
ティーダの手には何枚かの書類があった。
「こちらに目を通してください」
クロドは内心ため息をついた。
「クロド」
フィリアにも促されて立ち上がる。
クロドはティーダから書類を受け取ると、執務机に向かった。
「では、私は部屋に戻っていますね」
フィリアは邪魔にならないように腰を上げた。
クロドに告げるが、クロドはじっとフィリアを見ていた。
「クロド?」
首をかしげるフィリアに、クロドが板をかざす。
『一緒の部屋で寝ないのか?』
「っ!!」
読み上げた瞬間フィリアの顔から火が噴いた。
今までフィリアとクロドは夫婦ながら距離を取っていたため別々の部屋で暮らしていた。
しかし、距離が埋まった今、その必要はないと言いたいのだ。
「え、で、でも……」
考えたことがないとは言えない提案だ。しかし、意表をついて提案され、フィリアはパニックになった。
『駄目か?』
「駄目では、ない、けど」
『夫婦は一緒に寝るものだろう?』
「ねっ」
露骨な言い方に、フィリアはとうとう限界に達した。
「ジ、ジゼルに相談してから決めます!!」
そう言い残してフィリアは遁走した。
「殿下、あまりいじめるのは勧めませんよ」
『可愛いだろう?』
呆れるティーダに、クロドはご機嫌で仕事に取り掛かった。




