美醜の王国
誰もが、分かっていること―――――。
美しい人間など、溢れかえるほどいるのだということ。
「きれいね、あの子」
氷鈴が頬杖をついて、柔らかく言葉を発すると、彼女の友人はそれにいつも通り応じた。
「あは、氷鈴さんの方が。分かってるでしょ」
氷鈴は薄い笑みを浮かべる。
黒髪はゆらゆらと揺れる。声を出さずに笑っているのだ。その姿は傲慢で、耐えがたい程の脆弱さに見えた。
三間湖玉という名に新入生だと伝えたのは、彼女の友人だった。
「へえ、変な名前」
氷鈴はつまらなそうに言った。毒を含んでいるのに、しっとりとした纏わりつくような口調は依存性があるのか、彼女の周りには人が多くいた。全員、同じような笑い声で追従した。
氷鈴は笑わなかった。凍りついたような無表情のままで、その笑い声を無視した。美しさを塊とした唇は、真っ赤で何か異様なものさえ感じられた。その唇はゆるく弧を描いている。いつもそうだ。彼女の無表情は口角だけを上げているもので、しかし、誰だってそれが、無表情だと分かるように、瞳はうつろだ。
「三間君の、妹ですよ」
誰かが言った。勿論、その人物にも名はあるが、氷鈴は知らない。
「三間」「三間、あの」「変人」「眼鏡」「ヲタク」「最下位」「無礼者」
ざわざわと一斉に、端的に情報を出し合う。そんな情報が無くても、氷鈴は三間と言う男のことをよく知っている。
そう、眼鏡をかけた不細工、頭も底辺で、学年最下位、アニメ調の筆箱、そして氷鈴のことを『それほど美しくない』と言った無礼者。
「いもうと」
言葉に肉感があるのなら、たっぷりとした味わいの奇妙な程柔らかい肉、そんな感じの喋り方だった。
取りまきはいつも通り、躾けがほどこされた風に黙った。犬、というのは言い過ぎで、何となく罪人のようにも見える。罪に取りつかれ、それを氷鈴に取り払ってもらい、従属している。
「あは、妹ちゃんなのか~」
友人が氷鈴の肩に顔を置く。人差し指を氷鈴の唇にあて、ぐねぐねと弄る。
「気に入らないですかぁ~? うん~、どうしたの? 三間君の妹だから、いちゃもんつけるのはやめたげなよ。三間君のこと結構すき~」
「私は、今まで誰にも難癖をつけた覚えはないのだけど。はじめからそんなつもりも何もないのに」
例えていうなら機械音声に人間味を多少加えた感じだ。光のない目を瞬きしている。
「そうだっけ? じゃあ、濡れ衣かけたみたいで悪かったね」
怒ってる? 彼女の友人はへらへらと笑いながら、言う。氷鈴は「リボン、襟に入ってる」と言って、視線を窓の外に向ける。
「ふゆかいね」
さりげなく、風が言葉を周囲に運んだ。
氷鈴の通う高校は、私立大学の付属校であり、二十年前に校舎は建て替えられ、窓を増やして光をとりこめるデザインになっている。ただ校舎から渡り廊下を歩いていける図書館は煉瓦造りの古い建物だ。
氷鈴はこの学校でどのグループにも属していなかった。
生徒会、委員会、部活、数あるコミュニティと距離を置き、クラスの人間にも自分から話しかけることはめったにない。無所属と言う、所属になることも拒否していたようで、彼女は流動的な自身のグループの中央に、幻のように存在していた。
友人はあはあは言いながらも、色々な部活動に参加していた。眼鏡をかけ、根暗そうに見える外見だが、性根はああいう風なので、ある程度どこでも受けいれられていた。
ただ、やはり二人は一緒に行動し、一緒に帰ることも多かった。
「どぉなつ」
食べたい、と友人が車内で言った。氷鈴は学校への通学は送り迎えつきだ。
「ドーナツ」
氷鈴は本から目を上げて、繰り返した。ドーナツと言うものは知っているが、それが実物とは結び付かないのだ。
「あなたの、お家のシェフに作ってもらったら」
「ばっ、馬鹿にしてるの? どぉなつは! 買うものなのぉおおお。
あのさぁ、いや、家で作るさあ、小麦と砂糖のあれもまあまあ美味しいけどね。やっぱり、チョコレートとかかけたやつがいいわけ~」
氷鈴は無言だったが、車は帰宅ルートから外れ、どうやらドーナツ屋に向かっているようだった。運転手に氷鈴は視線を向けるが、その裏切り者は平然とした顔で前を向き運転に集中している。
運転手が車内で食事をすることを嫌うので、二人は店内に入った。
「わぁ、美味しいねえ~~。ふぇ~」
じろじろとした視線が無遠慮に来るので、氷鈴は「あなたのせいだから」と眉を寄せた。
「違うね。氷鈴さんがきれいだから」
心底そう思っているという調子である。友人は氷鈴の美しさを信じているのだ。そう言われれば言い返せずに、黙り込む。氷鈴と友人はどちらも長年に渡る付き合いで、氷鈴という女は友人のことを友人だと思っている。だから少し友人に対しては素直なのだ。
「あは。ねえ、まだむかついてるの、あの新入生のえっとコンタに」
氷鈴は薄く笑う。三間湖玉のことなのだろう。友人は氷鈴よりも頭がいい、名前など一度聴いたら覚える人間であり、その台詞は明らかに氷鈴への媚であった。そんな分かりやすい媚が面白かった。
「文芸部に入ったらしいわね」
文芸部、彼女の通う高校で最も格式のある部活で、入るのは教師の推薦と部内の人間の許可が必要だ。今期の生徒会役員は全員文芸部から出ている。文芸部は部とつくが、自由参加であり、称号としての意味合いが強い。
言外に含めた、調子に乗っている、という言葉に友人は肩をすくめた。
「意地悪~。文芸部はつまんない部活だよ。ほら三年の折原先輩が女王様すぎてね」
氷鈴はもう聞いていなかった。ただドーナツをまるで初めて食べるかのように賞味していた。
「デート、楽しかったねぇ」
車内に戻って、友人は非常に満足そうに、どこからともなく爪楊枝を取り出した。
氷鈴はそんな友人を少し満足そうな顔で見ていた。
氷鈴は手にもったシャープペンシルを強く握った。
「ほんとに先輩って、面白いですね」
口を手で隠して笑ってるのは、湖玉だった。話しかけているのは氷鈴の友人だった。友人は困ったように笑っている。
「あは。面白いかな? なになに、三間さん笑わしてほしいの?」
その言葉に湖玉は一層笑い声を大きくする。
「そんなのじゃないですよ。先輩のこと見てるだけで、面白いです。ほんとうに」
三人がいるのは氷鈴の机で、放課後友人と残っていたら、三間が現れたのだ。文芸部にも行っている友人とどうしてだが交流があったらしい。三間の要件は今日の部活に出ないか、ということだったが、話はそれていた。
腕時計を見た氷鈴は、静かに立ち上がる。その表情は不機嫌だった。口が真一文字で、つまらなそうに視線を遠くに向ける。
友人は僅かに慌てて、氷鈴に追従した。
「じゃあね」
三間にそれだけ言って、氷鈴の横に並ぶ。
「待たせて、ごめんなさい」
謝罪に一瞥くれて、ぽつりと平生の表情でゆっくり言った。
「無理してるね、あなた」
沈黙が落ち、それが冷えていく。二人の間にある間は両者の含みと、重い結びつきだった。分かり切ったことだが、忍耐が弱いのは氷鈴の方だった。それしかできないというように、いつものように、何かを放棄して、何をしていいか考えずに、ただ一つの友情すら嘲弄し、吐き出した。
「あなた、とっさのときは、普通の返事しか返せないのね」
氷鈴の生家はそれなりに裕福だ。ただ氷鈴はそれほどとは思っていない。付き合う人間のほとんどが氷鈴よりも良好な経済状態なので、そういう風に思っている。
そしてその日、氷鈴は付き合っている人間たちと食事に出ることにしていた。
彼女は憂鬱だった。そういう集まりを拒否していて、そしてその日は友人が来ない。その女同士の集まりにおいて、氷鈴の権限は少なく、中心人物ではなかった。ただ友人は由緒のある家柄なので、二人でいると扱いはいい。
氷鈴が気の乗らない理由はそれだけではなかった。
友人と同じ由緒ある家で、そして豊かな財力を誇る新上家の次女が来る。
蜂蜜色の髪の毛のヘーゼル色の目をした少女。
ぐぎり、と歯を噛み締めて感情を炎のように立ち上らせる氷鈴は普段の幽玄さも相まって、恐ろしく見えた。
新上という少女は客観的――誰が見ても――氷鈴よりも美しかった。
スコーンを一口食べて、ジャムの甘ったるさに氷鈴は眉をよせ、ナプキンに吐き出した。
そのときだった。
「変わった礼儀ですね。下品」
鈴を転がすような声で、貶められた。氷鈴はゆったりと首を傾げて、振り返る。それはなかなかのわざとらしさだった。勿論、氷鈴は声の主を理解していた。
いつもは周りを囲まれている新上が一人で立っていた。
「御機嫌よう」
新上は微笑んで、挨拶した。氷鈴は勿論しない。その笑みはだんだんと消えていく。
「ははっ、挨拶も出来ないんですね。面白い人」
それは腹立ちを抑えこめるための時間だった。数秒待って、氷鈴は
「なにか、御用?」
とあくまで上品に尋ねた。どちらもこのやり取りが、相手よりも品位で上に立つことだと分かっていた。そしてこの場合新上は挑む立場であり、攻撃することには大抵品位はない。あくまで圧倒的に氷鈴の優位から始まった勝負であり、わざわざ応じる必要はなかったのだ。
ピクリと新上は口を震わせたが、無理に笑みをつくった。
「今日はあの『ご友人』はいらっしゃらないの?」
「ええ、知っているでしょうに」
「そう。今日はね、ご友人に邪魔されたくなかった真面目な話があるの。とっても真面目な話」
新上は笑った。
「あのね、貴女のような下品な河原乞食の娘が身の程をわきまえてくれるのか、不安なのだけど、お兄様を返してほしいの」
突然表れた『お兄様』という単語に氷鈴は眉を寄せる。
「貴女がたぶらかしたお兄様は」
言葉を切り、挑むような視線になる。
「すごく、素晴らしいかたなの」
「ごめんなさい。言っている意味が分からないのだけど」
「お兄様を返して! このっこのっ。なんでっ。貴女みたいな品性の卑しい女に」
「錯乱してるようね。人を呼びます」
スタッフを呼ぼうと、あたりを見回す氷鈴に、泣きそうな少女の姿が映った。
泣き顔も美しく、氷鈴には『泣き顔も美しいでしょう』と固辞されている気分になった。
「お兄様の誇りと、優しい笑顔を返して……。お兄様の誇り、誇りを」
河原乞食、酷い蔑称を投げつけられたと氷鈴は車内でため息をついた。
運転手は前を向いている。氷鈴の薄い微笑が崩れた。ゆっくり仮面が剥がれるように、本性がむき出しになる。
いたのは呆然とした幼い少女だった。
傷ついたような瞳、噛み締めた唇、寄せられた眉。
肩幅が異様に狭く見える姿は、ほとんど同情が寄せられそうなくらいだった。
氷鈴の本性は本当にそんなところだった。
ただの傷いた少女。
そう氷鈴は傷ついていた。自我が確立した直後に、深手を負ってしまったのだ。
氷鈴の母親は歌手だった。美しい容姿をして、声もきれいで、お洒落で、洗練されていた。そんな人間が親だった。そして、尊敬し、憧れ、自分もこうなりたいと思った。
生まれたときからチヤホヤされ、美人だ美人だと言われ続けた。
氷鈴は美しさを誇り、かけがえのない財だと思うようになっていた。頭もよく、周りから何でもできると感嘆され満足していた。
母と親子でテレビに出て、美人だと言われ、将来は芸能人にでもなるの、と聞かれる。それもいいかもしれないと、氷鈴は思った。
ある日、母が緊張した面持ちで、『パーティーに一緒に出席しましょう』と言った。
会場に入って、氷鈴はどうしようもない違和感に襲われた。
母があちこちを駆けずりまわり笑顔を浮かべて擦り寄っていく。何人かの中年男性に肩を触られ笑っている。まるでホステスだった。氷鈴は母の横で微笑んでいたが、一言二言『綺麗だね』と言われたら、その後はほとんど無視された。
母の顔は同じ笑顔で固定されていた。華やかな顔。目立つ顔。けれど、氷鈴が愕然としたのは、まったくその顔が美しくなかったからだった。華やかなだけ、その言葉で表されるだけの顔。
ただ茫然と母に付いていっていた氷鈴は会場の中央で囲まれている人間を見た。
五人いた。
中年の男性と、外国人らしき女性、二人の子供。そしてその四人と話している男。
子供たちは笑顔だった。子供たちに話しかけるのは男で、笑顔で何かを言っている。そして男は中年の男性に話しかける。
母が氷鈴の手を引いて、意を決したように『挨拶するわよ』と言った。
近づいて、氷鈴は恐怖を覚えた。いきたくなかった、怖かった。
四人に対峙したとき、氷鈴は笑い出しそうになった。
外国人の女性は勿論のこと、その二人の子供の美しさは、比べる対象にもならないほどだった。別物の美しさだった。どこをどうすればこんなに美しい顔になれるのか分からないほど。
中年の男性は新上と名乗った。
「歌は若いころに聞きました」
そう言って軽やかに笑って、
「最近は娘さんとご活躍されてますね」
と氷鈴に目を合わせた。目尻にしわの寄った優しそうな顔で、ただ瞳の奥は全く笑っていなかった。
「可愛らしいね」
氷鈴はひくりと笑って、子供たちを見た。同い年の少年は小さなスーツのようなものを着て、ぴっしりと立っていた。優しそうな顔で、笑いかけてくる。本当に育ちがよく、こちらのことを無条件で好ましく思ってくれていると確信できるような暖かな笑みだった。
そして妹らしき、こちらを怯えたように窺っているふっくらとした頬の女の子。
可愛らしい、氷鈴はもう一度ひくりと笑った。
馬鹿にしていると思った。馬鹿にしているのだ。
「それじゃあ。芸能活動応援していますよ。ほらお前たちも」
四人で一斉に微笑みかけてくる。
馬鹿にしている、ともう一度氷鈴は思った。
車内で、氷鈴の意識は覚醒した。
ふふと笑う。家には氷鈴が幼いころ母と共に出ていたテレビのデータがある。それを見て、氷鈴はもう羞恥なしで生きていくことはできなかった。
そこにいたのは、完全に自己認識を間違える母親とこましゃくれてたいして美しくもない餓鬼だった。
昔に流行った歌手。何となく気を使われる立場の女は『一時期日本を圧巻してましたからね、当時はすごい人気だったんですよ!』という司会者の常套句におどろされていた。
美人な子供紹介くらいにしか、出られない程度の、そういう昔の歌手なのだ。誇りという名の妄執に囚われ、娘を差し出す。そういうところでしか生きていけない人なのだ。
氷鈴は母がそれほど儲けていないことを知っている。けれどいつも無理をして高い服を買い、同窓会へ行けばつんと澄ましている。そして自分をのけ者にする女の集団を僻みだと決めつける。
氷鈴は思う。
自分は美しい。でも美しい人間はほんとうに目を見張るほどたくさんいて、そして私はその中で普通なのだ。
芸能人の美しい子供という括りではそれなりに評価された。けれど、ものすごくそれが悲しく、不愉快だと。
世の中にたくさんいる、美人過ぎる何何。
そんな括りにいれられるのは嫌だった。
自身のない分野で、周りから小さな箱に入れられて、監視されるのはいやだ。小さな箱の中で踊るのは嫌だ。
けれど、未だに自分は小さな箱で踊っているという、悲しい虚無が襲った。
そして新上のことを考えた。
新上の兄は、上等な人間という表現にぴったりと当てはまる、そういう人間だった。
世間知らずが過ぎたが、真面目で利発で、親が可愛がる典型のような子だった。そして完全に擦れた氷鈴に妙に惹かれた。
二人は仲良くなった。仲良くといっても、新上の兄の能動だけで、氷鈴は受動すらしなかった。
真面目な新上の兄は氷鈴と仲良くしようと、ばかげたことだが、新上の父を通して勉強会を開いて、氷鈴を呼んだ。氷鈴は妙に、一緒に勉強をして仲良くなろうとした、真面目さと潔癖さをかわいく思った。
だから仲良くなった。両方の同意で。
新上の兄は可愛い人間だった。
たくさんの人間が集まるパーティーなどで、新上の兄は話したがっていることはバレバレな態度でそわそわと氷鈴を探した。
けれど、色々な人間に話しかけられ真面目に返して話しているうちに、一言も話せなかったため、駐車場で氷鈴を待ち、車まで歩く間だけ話したりした。
そして、毎回パーティーの後は『話せて楽しかったです』とカードを送ってきた。
気に入っていた、全ての部分が。
けれど氷鈴は一点――――その美しい顔だけが大嫌いだった。
年月が経ち、劣化していくと期待した外見は、残念ながら美しさを増した。そして氷鈴の方から、もう仲良くしたくないと伝えた。
「あは。不機嫌そうな顔。お茶会で氷鈴さんのご機嫌伺いがうまく出来ないやつがいたのかな~」
「べつに」
素気ない返事に、友人は首を傾げる。
「どうちたの?」
「考えてたのだけど、あなたと友人関係を解消したいと思うの」
早口の言葉に、友人の顔は凍りついた。
「じょーだん」
「ううん。冗談ではないけど。あまり性格があっているとは思えないし」
冗談、でしょ。呟く声が震えていて、氷鈴は瞑目した。
信者が神殿が壊れていくのを見ているような、青ざめて、虚脱した姿は哀れを誘った。
「どうして! なんで……。どこが悪かったの? 直すから、冗談だと言って」
黙っている氷鈴に、神殿が壊れたなら直せばいいと開き直ったのか、普段のあはあはした顔に戻った。
「んー、今回の氷鈴さんの不機嫌は長いと見た! しばらく距離を置くね!」
「ずっと置きたいと思ってるの」
もはや精神への苛めだった。友人の顔は哀れの凝縮にさえ見えた。
「なんで……。前みたいに改善するから、するから」
氷鈴は友人のことが好きだった。目の前の表情に耐えがたい苦痛を覚えるほど程、好きだった。
友人の伊達眼鏡を外した。
ヘーゼル色の瞳がぽろぽろと涙をこぼしている。彫刻のような完璧な頬のラインをなで、瞳の涙を指で救う。
「二度目だ、今度はどこを直せばいいの」
友人の新上宗一に氷鈴は土下座したかった。
彼女はずっと宗一に拷問をしいていた。
間違いなく拷問だっただろうと思う、この数年間。
彼女が仲良くしたくない、と伝えたとき宗一はきょとんとしていた。友人関係において、絶交という制度を知らなかったのだ。けれど数日間で、その言葉の意味を思い知らされ、彼は父親に相談して、何故仲良くしたくないのかと理由を聞いてきた。
『美しい人間の横にいるのが嫌いなの』
氷鈴は言った。
美しく、真面目で、優しい純粋な人間の横にいるのは嫌いなの。
彼は頑張ったのだ。友人のそばにいるために。
彼からすると、きちがい染みた言葉遣いを日常使い。あは、と気持ち悪く笑い。そして面白おかしい道化を演じて、比べる対象ではない、そんな存在になった。
女と行動し、制服は一応ズボンだがネクタイではなくリボンをつけて、笑いものになって、時折ゲイのような発言をして、ランク外としていた。
わざとらしいへたくそな演技で――たぶん初めて知り、女の子が好きだと聞いたのだろう――ドーナツ屋に連れていく。女同士の集まりにも変人として横に居座り、守ってくれた。
氷鈴は気づいていた。過剰なまでのそれは、ただ私といるためではなく、私が恐れていたことを知っていたからだ。変人と行動している人。それだけの人にしてくれたのだ。
「もういいの」
氷鈴は言った。
きちがい染みた女、自信を喪失して、だからこそそれに執着し続けた。自分は一番自分が可愛い、だから辞めていいよと言えなかった。宗一が言うのをぽかんと待っていた。
氷鈴は多分通常の宗一と一緒にいることはできなかった。
「ごめんね、宗一。嫌だったでしょう」
ずるい、氷鈴はそう思いながらも謝る。
宗一は悲痛に顔を歪めながらも、「違う」と首を振った。
「そんなことなかった。確かに、いつも演じることは大変だったよ。だけど、ああいう風な人物を演じていると、いつも氷鈴さんに『きれいだ』って言えた。恥ずかしくて、軟派かもしれないと気にしてたけど、三回も好きって言えたし、氷鈴さんも笑ってくれた。それに本質的には、自分が好きでやっていたことなんだ。
謝ることなんてないんだよ」
「知ってると思うけど、氷鈴さんのこと、好きだよ」
小さな声だった。
氷鈴は首を振った。
「愛してる」
囁いて、氷鈴に手を伸ばす。
「世界一きれいだと思ってる」
「嘘をいわないでよ。宗一よりも不細工で、しかもこんなことしか言えないような小さな人間なの。狭くて」
「氷鈴さん以外の人間の顔なんて、きれいかなんて考えないよ。興味ないんだ」
氷鈴は顔を上げた。ヘーゼルの瞳が光っていた。
「氷鈴さん、もうどうだっていいよ。氷鈴さんのこと以外どうでもいい人間になってしまったんだ。だから助けて」
「無理なの。考えてしまうの」
周りが自分を、自分の容姿をどう見ているか。小さな箱で踊りながらも、氷鈴はもう踊りをやめられない。くだらないとか、醜いとか、全部わかっているのだ。
でも、人にはどうしようもないところがある。謝罪して焼き捨てたいほどの汚点だと分かっているけど、どうしよもないのだ。
「もっと狭い世界に行けばいい。美しさみたいな大きなものを見なくても……僕だけを見ればいい。
僕は、氷鈴さんを世界一だと思ってる。ずっと世界一にしてる」
できるかもしれない、と氷鈴は思った。だけどもっと狭い世界に行くのは、これよりももっと一つのものに執着してしまうのではないかと思った。
「それは、駄目でしょう? 余りにも狭い」
言えたことではなかったが、氷鈴は言った。
「氷鈴さん、生き方に善悪なんてないんだよ。人が人の考え方に文句をつける筋合もない」
氷鈴の震える指先を、宗一は握りこんだ。
そして抱きしめて、「大好きなんだ」と言った。