脱獄犯と春の川べり③
「それじゃ、学生さん。サボタージュもほどほどに」
警察官は手を振ってパトカーを発車させたが、わたしはそれに応えることができず、ただ呆然とその場に立ち尽くした。脱獄。指名手配。聞き慣れない単語が脳内でぐるぐる回る。
物騒な言葉に遭遇してしまったのは初めてじゃなかったが、そうした異常が日常に溶け込んできた際、目の前の景色から現実感が褪せていくのは防げない。春の情景が途端に嘘っぽくなった。晴れ渡る青空はチープな青ガラスに、一面に生える若草は弁当箱のバランに、川向こうに広がる住宅地はハリボテの偶像に成り下がる。
眼下に見える二本の白い棒が自分の両足と気付くのにさえ、十数秒を要した。
そんな上の空の状態で惚けていたものだから、背後から伸びる腕を察知できなかった。
はっと人の気配を感じ取ったときには手遅れだった。
突如、わたしは何者かに組み付かれた。
痛みを伴う圧迫感に、失われていた現実感が目の奥で弾ける。
「きゃっ──」
痛みを伴う圧迫感に正気を取り戻したわたしは、とっさに悲鳴を上げようとするも、すぐさま口元を片手で覆われてしまう。もう片腕は両腕ごとわたしの腹部を拘束していた。両腕と声の自由を失ったわたしに、もはや抵抗の術は残されていなかったが、素直に諦めることもできず必死でもがく。
「んむ~っ! ん~っ!」
すると、頭上から声が落ちてきた。
「騒がないでくれ」
声量をギリギリに絞ったハスキーボイスだった。
他に心当たりがあったわけでもないが、わたしは声の主を確認すべく、首を後ろに回す。
案の定、薄茶色のトレンチコートが視界いっぱいに広がった。
「騒がず、おれの言うとおりにして」
石橋の下で休んでいたはずの彼女、もとい脱獄犯は、わたしの身体と口を押さえ込んだまま静かに続ける。
「まず、このまま橋の下に移動しよう。誰かに見られたくない」
身体の自由を奪われたわたしに拒否権などあるはずもなく、脱獄犯に指示されるがまま、じりじりと土手を下る。身長が二○センチも違う相手と身体を密着させたまま歩くのは思いのほか難しく、わたしの足取りは遅々としたものだったが、脱獄犯は急かすことなくこちらのペースに合わせてくれた。
「よし。ここなら人目につかない」
レジャーシートの場所にまで戻ると、脱獄犯はわたしの耳元に唇を押し当てて囁いた。
「いいか、おれは今から君を解放するけど、君は逃げたり大声を上げたりしちゃいけない。君は、おれの質問にだけ答えればいい。約束できるか?」
確約できる自信はあまりなかったが、身体を拘束される不自由があまりにも煩わしく、それから逃れたい一心でこくこくと首を縦に振る。
「よし。君は利口だ」
幼児を褒めるように言い、脱獄犯はわたしから両腕を外した。
締め付けられるような不快感から解き放たれ、わたしはすぐさま身体を反転させた。脱獄犯と向かい合う。石橋が作る薄闇の中、棒のように直立している脱獄犯は、当然ながら警察官に見せてもらった写真と目元以外は完全に一致している。
わたしを真正面に見据えると、脱獄犯は落ち着き払った口振りで語り始めた。
「警察官との会話は聞かせてもらった。やつの言っていたとおり、おれは脱獄犯なんだ。この服は逃亡中にゴミ捨て場で拾ったものだ。当然、着替えを買う金がないんで、こんなのを着続けている」
「へえ、そう」
適当なリアクションが思いつかず、間の抜けた相槌で返してしまう。
「おれは、まだ、捕まるわけにはいかないんだ」
脱獄犯は微かに身を震わせ、全身から絞り出すような力強い声で続ける。
「おれには行かなきゃいけない場所がある。やらなくちゃいけないことがある。それを果たすまでは、何があっても刑務所に戻るわけにはいかない。今ここで逮捕されたくないんだ」
「……じゃあ、その目的を達成したら、自分から刑務所に戻るつもりなの?」
「そうしたってかまわない。裁判なんかせず死刑判決を下されたって受け入れるさ」
わたしの問いに対し、脱獄犯は凛然と言い切った。強がっているようには到底見えない。
犯罪者のくせに、どうしてこうも胸を張って堂々としていられるのだろうか。わたしは目の前の存在が理解できなかった。この人は本当に脱獄犯なのかと疑わしくさえなる。
だが、脱獄犯は決意に満ちた顔を途端に曇らせた。
「……しかし、残念ながら、今のおれじゃあ警察から逃げ切るのは難しい」
悔しそうに下唇を噛む姿を見て、わたしは彼女が高熱に苛まれていたことを思い出した。
この人は病人だ。本調子ならまだしも、衰弱しきった身体のまま逃走を続けていれば、遅かれ早かれ取り返しのつかないことになってしまう。
本人もそれを自覚しているのか、痛苦を堪えるかのように自身のトレンチコートの裾を握り締める。まだら模様のトレンチコートに、大地を引き裂く亀裂のような皺が走る。
「そこで、君に頼みがある」
トレンチコートを固く握ったまま、脱獄犯が決意を感じさせる声を放つ。
「君はろくに家にも帰らず、学校にも行かず、ここでキャンプしているんだな?」
「ま、まあ、そうだけど」
迷いのない声色に貫かれ、わたしは嘘をつけなくなる。ついでに敬語も忘れる。
「学校や両親はそれを認めているのか?」
「認めているってわけじゃないけど……学校は怪しまれない程度に出席しているし、家のほうはちょっと特殊な事情があるから親にはバレていないの。つまり、れっきとした非公認なんだけど、今のところは誰からもお咎めされてないんだ」
「この辺りはほとんど人が寄り付かないという、警察官の話は本当か?」
「本当だよ。見ての通り、なんにもない場所だから」
「じゃあ、決まりだな」
「へ?」
脱獄犯の中で何が決定されたのかわからず、膨大な疑問符がわたしを取り囲んだ。
目の前の女子高生の物分りの悪さを、脱獄犯は責めなかった。こちらの顔を覗き込むかのように、わたしと目の高さを合わせ、言い聞かせるようにゆっくりと告げる。
「おれの体調が良くなるまで、君が付きっきりでおれをここに匿って欲しいんだ」
「ああ、なるほど」
ポンと手を叩いて納得してから、はたと事の重大さに意識が至る。
脱獄犯は、善良な一市民であるわたしに脱獄の片棒を担げと言っているのだ。わたしが家や学校に行かない不良少女であるから、自分の世話役として都合が良いと、何日か石橋の下で一緒に野宿してくれと迫っているのだ。
「君が一緒にいれば、誰かに見つかったとしても誤魔化しが利くだろう?」
「うん、町の住人同士は仲良しだからね。あなたの言うとおりなんだけど……」
「ほんの数日でいいんだ。もちろんその間は、君に不自由な生活を強いることになるわけだけし、今のおれには謝礼もできやしないけど……」
しゅんと項垂れる姿に、わたしの良心がウッとたじろいだ。
確かに、彼女が脱獄犯であると知った今でも、彼女について深く知りたい欲求は絶えていなかった。むしろより強くなったと言える。なんのために殺人を犯したのか、行かなくちゃいけない場所とはどこなのか、そこで何を果たすつもりなのか。それらをどうにかして、彼女本人から聞き出してみたい。
そして何より、今までの脱獄犯の言動から、彼女が決してわたしに危害を加えないとわかっているのが大きかった。現に、今も自らの要求を通すために、胸元からナイフをちらつかせてくるような真似は一切してこない。その安心感がわたしに一歩を踏み出させた。
「……わかった。あなたの指示に従うよ」
「本当か?」
「ただし! わたしはあなたに質問しまくるつもりだから、その辺は覚悟しといてよね!」
ビシリと指を突き立てると、脱獄犯は青ざめた唇から白い犬歯を覗かせた。機嫌よく笑っているようにも、こちらを威嚇しているようにも見えるそれは、なんとなく仔犬を彷彿させた。
向かい合うわたしたちの間に、一陣の春風がそよぐ。
その拍子に、脱獄犯の顔に垂れる、束ねられるほど長い前髪がさらりと横に流れた。
隠されていた瞳がキラリと光る。
眼球の中央に据えられていたのは、まるで奈落に通じる穴のような、どこまでも底の見えない不気味な漆黒だった。果たしてそれが、写真で見た脱獄犯の瞳の色と同じだったかは、不思議なことにまるで思い出せなかった。
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