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脱獄囚と春の川べり①


 空から人が落ちてきた。

 爽やかに澄んだ春空の中央で、薄茶色のトレンチコートが軽やかにひるがえる様は、さながら季節外れの落ち葉のようだった。自由なのにどこか物悲しいそれは、川沿いの土手に身体を打ちつけ、一度大きくバウンドしてから、雑草がひしめく下り坂をゴロゴロと転がった。

 その一部始終をわたしは川の隣、つまり土手の下から目撃したものだから、トレンチコートの人影は空から落ちてきたものだと勘違いしてしまったわけだが、実際はなんてことない。単に、土手の上の小道で足を滑らせてしまっただけなのだと悟る。

 トレンチコートの人影は坂を転がり落ち、わたしのすぐ足元に倒れ込んだ。

 仰向けに晒された身体は存外大きい。横幅こそ頼りないほどに華奢だが、腰から下に伸びる足がすらりと長く、どう見積もっても一八○センチ以上ある。身長一六○センチのわたしと比べれば、その差は二○センチ。並べばちょっとした親子のようになる。

 仰臥する長身のすぐ横で、大して澄んでいるわけでもない西居川にしいがわが滔々と流れる。

 足を滑らせた不幸は認めざるをえないが、ギリギリのところで川に突っ込まずに済んだのは幸運と言えた。町を横断するように流れる西居川は、さして深くもなく水流も穏やかだが、わたしの知る限りではひとりの死者を出している。


「だ、大丈夫ですか?」


 あまりにも盛大な転び方だったので、心配になったわたしは恐る恐る声をかけた。

 だが、トレンチコートの人影は起き上がろうとする素振りを見せなかった。かわりに、低い呻き声を発する。


「うっ、く……」


 目立った外傷はないようだが、どうにも様子がおかしい。

 わたしはその人を助け起こそうと、その場でしゃがみこみ、幅の狭い両肩に手を添えようとした。


「しっかりしてください。どこか痛むんですか?」


 わたしの指が肩先に触れた瞬間、身体に電流でも流されたかのように、その人はビクッと全身を跳ねさせた。どうやらわたしの存在に気付いていなかったらしく、クセの強いショッートカットの黒髪を振り乱すような勢いで、わたしのほうに首をグリンと回す。

 至近距離で直視するその人の顔立ちは、息を呑むほどに整っていた。顔の中心で鼻先が高々とそびえ、唇は薔薇の花弁のように小ぶり。頬から顎にかけての曲線は美しく、そこには一切の贅肉がついていない。

 しかし、肝心の目だけが、無造作に伸ばされた前髪に隠れてしまっていた。瞳というパーツを欠くだけで、こんなにも容姿の印象が曖昧になってしまうというのは、ちょっとした発見だった。


「……きみは」


 前髪が伸びていようと視力は失われていないようで、黒髪の人はわたしの顔をジッと見つめてくる。

 そのとき、わたしは鼻を刺す酸っぱいような悪臭に気付いた。

 鼻を利かせると、臭気の出処は黒髪の人が羽織っているトレンチコートだとわかる。いかにも安っぽいデザインのトレンチコートは、染み込んだ泥水で奇妙なまだら模様が描かれ、至るところに砂や泥がこびりつき、目立たないが血痕のようなシミまで滲んでいる。指先で撫でてみると、やたらゴワゴワした手触りが返ってきた。布というよりは動物の革の触感に近い。

 一体なぜ、こんな汚らしいものを着ているのか。

 自分の中で好奇心がむくむくと膨れていくのを感知するが、今は服装より、この人の容態のほうが気がかりだった。驚嘆と警戒とか綯交ぜになった黒髪の人の視線を余所に、わたしはその人の肩を支え起こす。


「土手の上から落ちたんですね。立てそうですか?」

「…………服が」


 ぽつり、と呟かれた声は、チェロなどの低音楽器によく似た、深みのあるハスキーボイスだった。

 人を包み込むような神秘的な響きが、どこか女性らしいまろやかさを含んでいることに気付き、わたしは黒髪の人の胸元をさっと盗み見た。案の定、そこには女性特有の膨らみがふたつ並んでいた。しかも……わたしのそれと比べて、かなり存在感がある。


「服がどうしました? 着替えが欲しいんですか?」


 断片的な発言の意図がわからず聞き返すと、彼女は恥じらうようにうつむいた。


「……汚れるから」

「服が汚れる? いや、こう言ってはあれですけど、もうかなり汚れていますよ」

「そうじゃなくて……」


 彼女はチラリとわたしを見やり、弱りきった腕でわたしの身体をグイと押しのけた。


「きみの服が汚れるから、どうか、おれに触らないで……」


 痛ましいほどに健気で哀しげな言葉に対し、わたしがまず心に感じたのは涙が滲む感動ではなく、彼女がまるで少年のような喋り方をしたことへの驚きだった。しかし最近では、敢えて乱暴な言葉を遣う男勝りな女性も少なくないため、違和感は瞬く間に消え去る。

 一拍遅れて、わたしは自分の服に視線を落とした。

 紺色のブレザーとプリーツスカート。わたしが通うK高校女子生徒用の春服は、いつものように特徴のない素っ気ない風情であるが、彼女のトレンチコートと触れていた部分にだけ泥のようなものが付着している。断じてオシャレには見えないが、汚れとしてはごく小さなものだった。


「こんなの、どうだっていいじゃないですか」


 端的に言い捨て、わたしは改めて彼女の身体を抱き寄せた。トケンチコートの泥が制服全体に擦りつく感触を覚えるが、この世には殺人だとか死体遺棄だとかいう底なしの不幸があるわけで、それらに比べれば制服の汚れなんてものはあまりにも些細なことだ。女子高生だってそれくらいわかる。


「さ、わたしにしっかり掴まって」


 彼女の躊躇を押しのけるように語調を強めると、彼女はしばし指先を持て余したが、やがて観念したように自らわたしの制服に掴みかかった。体重をかけ、わたしを支えにし、ゆっくりと上体を起こす。豊かな胸の谷間から、雑草の切れ端がハラハラと落ちる。


「随分と具合が悪そうですけど、どこか怪我したんですか?」

「いや、怪我はしていない。ただ、ちょっと体調が優れないんだ……」


 はあ、と疲れきったように吐き出された息は、まで蒸気のように濡れた熱を持っていた。そう言われてみれば、トレンチコートの襟から覗く白い首筋に、珠のような脂汗がじっとりと浮かんでおり、心なしか呼吸のペースも早いようだ。

 見ただけでは病名の特定はできそうにないが、とりあえず高熱を発していることだけは確かだった。

 服装のことなど、訊きたいことは山とある。場合によっては救急車や警察の手配も必要だろう。だが、今は彼女を横になれる場所で寝かせてやるのが先決だと判断する。


「とりあえず、あそこまで頑張って歩いてください」


 そう言って、わたしは人差し指をピンと伸ばした。

 指先からほんの十メートル離れた地点に、西居川をまたぐ石橋が架かっている。小ぶりな西居川に比べ、石橋は大きく頑強に作られており、まだ歴史が浅いのか老朽化も見られない。

 橋の下の暗がりには、西居革と、その両脇に畳一枚分くらいの地面がある。そこも雑草にまみれているわけだが、地面の片側にはブルーのレジャーシートが敷かれている。


「あの青いシート、わたしのなんです。あそこでちょっと休みましょう」


 自分より二○センチも高い女性を支えて歩くのは、決して楽な作業でなかったが、彼女自身も自立して前に進む努力をしてくれたので、さほど時間をかけずレジャーシートにまで辿りつくことができた。


「ささ、どうぞどうぞ」


 自室に友達を招くような感覚で、彼女をレジャーシートに座らせる。

 雑草の絨毯に囲まれたレジャーシートは、四隅を拳ほどの石でしっかりと固定しており、さらに片隅に自前のリュックと薄手の毛布を置いている。わたしは毛布をくるくると丸め、頭を置くのに丁度いい高さに調節してやる。


「これ、よければ枕の代わりに使ってください。本当は座布団か百科事典がいいんだけど」


 こちらの冗談にはまったく取り合わず、彼女は無言で毛布を受け取った。

 頑なに閉ざされた唇からは、自分の素性を明かしてくる気配がまるで見られない。その秘密主義に女子高生の好奇心がむしろ駆り立てられる。

 わたしは元来、さして賢いわけでもないのに自分の能力を過信するところがあり、何か思いついたのなら、他人に相談せず自分の力だけでやり遂げようとする性格だ。何が何でも、小汚い服装を初めてする、彼女にまつわる事情のすべてを暴き出してやりたい。こんなにも胸が熱くなるのは実に久しぶりのことだった。

 とにかく、今は彼女を手厚く介抱してやらねばならない。


「あっ、そうだ。今からわたし家に戻って、解熱剤とかドリンクとか持ってきますね」


 すくっと立ち上がり、何気なく石橋から顔を出す。そのときだった。


「……あれ?」


 土手の上に、一台のパトカーが停車しているのが見えた。



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