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憬とフミ  作者: 943
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同居して二週間

『……あ?』


 目を開けると見慣れた天井がある。

 起き上がりゆっくり辺りを見渡すと、実家の俺の部屋であることがわかった。

 小学校の頃から使い続けた古い学習机の上はいつのものかわからないプリントやら教科書やらで埋め尽くされている。

 壁沿いに設置された本棚には隙間なく様々なジャンルの本が収納されていて、床には収まりきらなくなった本が平積みされてホコリを被っていた。

 カーテンからの日差しで今が朝方であることを理解した。


 ドアを開けて部屋を出ると、一階から味噌汁のいい匂いがする。

 包丁がまな板を叩く音、テレビのニュースキャスターが話す声。


 この階段を降りてリビングに行けば、台所で朝ご飯を作る母親とソファで新聞を読む父親、その隣でテレビを眺める眠そうな兄がいる。


 何十回、何百回と繰り返した変わらない朝の景色。

 この先もずっと変わらないと思っていた、景色。


 俺は一階へと続く階段の手前でどうしても動けなかった。

 ただ降りておはよう、と挨拶するだけでいいのに。たったそれだけの事が出来そうになかった。

 どうしてこんなことになったのか、どうすればこんなことにならなかったのか。何千回と考えた答えのない問いをもう一度考える。

 そのうち視界が暗くなり、意識が遠のいていった。




「……あ」


 見慣れた天井。

 だがそこは実家ではなく今の俺の部屋だった。

 さっきまで見ていたものが夢だったことに今更気づく。実家の夢なんて久しぶりに見たな。


 ベッドから起き上がり、欠伸をしながら部屋のドアを開けると味噌汁のいい匂いがする。

 台所に目を向けると寝起きの目には刺激が強すぎる赤、黄色、青の縦縞模様エプロンをつけた憬が料理をしていた。


「おはよー、フミぃ。朝ご飯もうすぐ出来るよ」


 手際よく卵焼きをひっくり返しながら朝の挨拶をする憬。


「おはよ。なぁ憬。そのエプロン変えない?目がシパシパする」


「えぇ?ヤダ」


「寝起きにその信号機エプロンはキツイって」


「フミはわかってないなぁ。朝から目が覚めていいじゃん」


「はよ顔洗ってこい」と言う憬を背に洗面所へと向かう。


 憬が住むようになって二週間。家事の大半を憬に任せたことで、俺のQOLは以前と比べ物にならないくらいに向上した。


 まず食事が一日三食になったこと。今まではあるものを食べる、もしくは忙しい時は食事を抜くなど食生活を疎かにしてきたが、憬が栄養バランスを考えた食事を提供してくれるので最近は肌ツヤが良くなったように感じる。あと普通に飯が美味い。


 そして部屋が片付いたこと。つい気を抜くと足の踏み場がなくなってしまったが、あれから憬の監督のもとゴミの分別、整理整頓などなどをすすめて今では入居一ヶ月並に部屋が片付いている。


 最後に苦手な家事からの解放によるストレスフリーな生活を手に入れたこと。もちろん何もしないと言う訳では無いが洗濯、ゴミ回収とゴミ出し(部屋の片付けの際にゴミ収集日カレンダーが見つかったため、問題なく行える)、皿洗い程度が今の俺の役割だった。

 ほとんどのことを憬にしてもらっているお陰でとても快適な毎日を過ごしている。


 この分担になった時、本当に無理をしていないか聞くと、「小さい頃から家事はやってきたし、僕自身好きでやってることだから大丈夫」と話していた。

 世の中には家事が好きだと言える人が本当にいることに衝撃を受けたのをよく覚えている。


 蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗う。特に外に出る予定もないので髭はそのまま。タオルで拭き、黒縁の眼鏡をかける。

 昔から目は悪かったが最近は常に視界がぼやけるようになり、眼鏡が手放せなくなった。


 リビングへと戻ると憬が朝ご飯を配膳しているところだった。炊きたてのご飯を二人分茶碗によそい、片方を憬の席へと置いて座る。

「あんがと」と言いながら憬も自分の席へ座ると手を合わせる。


「「いただきます」」


 今日の朝ご飯はご飯、味噌汁、鮭の切り身、卵焼き、納豆、漬物。

 この浅漬けは憬が作ったものだ。柚を加えるのがポイントらしく、いい塩梅が気に入っている。


「フミ、今日の予定は?」


「んー?何もないよ。のんびり過ごす」


 俺は漬物を口に運びながら答える。

 校正も終え、残るは装丁などのデザイン関係だがまだ時間はあるため、今日一日ぐらいだらだらと過ごしても問題ない。


「そっか。……よし!じゃあ散歩行こ!」


「はぁ?嫌だよ、今日は羽根伸ばして休むって決めてるから」


「それ昨日も言ってた」


 チッ、バレたか。


「少しは身体動かしといた方がいいんじゃない?身体が資本!フミ、仕事中はずっと座りっぱなしなんだから」


「散歩ねぇ……」


「最近、若い子の中では伊能忠敬界隈とか流行ってるらしいよ」


「は?伊能、え?」


「伊能忠敬。すごい歩いて日本地図作った人」


「いや、それは知ってる。何その界隈、それが流行ってんの?」


「うん、歩くことが流行るなんて今時の若い子は健康志向だねぇ」


 憬はおじさんのような口調で味噌汁をすする。

 まぁ二人とも三十過ぎなんだから、今時の学生の流行りにはついていけないよな。


「若い子が健康づくりに励んでるんだから、僕たちも頑張らないと!負けてらんないね」


「そんなことで対抗意識燃やすなよ、俺は行かねぇから」


「えぇー」


 俺は食事を終えて温かいお茶をすすり、ほっと息をつく。お茶がうまいと感じられる幸せ、最高。

 憬はじとっとした目つきをしてから、何とも思ってないように話題を振った。


「……そういえば近所にドーナッツ専門店できたらしいよ」


「……」


「中にホイップ入ってて、さらに上にもホイップ増し増しのドーナッツが人気なんだって」


「…………」


 コイツ、俺が甘いものに目がないの知ってて言ってやがる。


「大人気商品だから開店時間に行かないとないらしい。確か十時からだったかな。今が九時前だからちょうどいい時間だよね、何とは言わないけど」


「………………」


「フミぃ、僕ドーナッツ食べたいな。一緒に行かない?」


「………………わかったよ、俺も食べたいし行く」


「よしっ、じゃあ支度してくる!」


 お茶を煽り、「皿洗いよろしくっ」と手を振って自室へと戻る憬。

 一度ため息をついて、これもドーナッツのためだと切り替えることにした。




「お待たせ」


 二十分後、憬はオレンジのスウェットに黒いカーゴパンツの格好で現れた。面倒だったが髭を剃り、コンタクトをつけた俺は白シャツに黒のカーディガンを羽織り、ジーパンといういつも通りの服装で「おう」と答える。

 玄関に鍵をかけ、目的のドーナッツ屋へと向かう。


「少し寄り道してみようか」


「えぇ……」


「運動した方が疲れた身体に甘いものが染みておいしいよ」


「はいはい」


 どちらにせよドーナッツ屋の場所を知っているのは憬しかいないのだ。着いていくしかない。

 時刻は午前九時三十分を少し回ったところ。

 前方から犬の散歩をするお婆さんとすれ違う。

 憬が耳打ちするように顔を寄せて話しかけてくる。


「さっきのワンちゃん、可愛かったね」


「俺、犬より猫派」


「知ってる」


 憬はやっぱり、とでも言いたそうな顔をして笑う。知ってるなら言うなよ。


 いつものスーパーへの道を一本横に逸れると、商店街が見えてきた。

 ここ商店街なんてあったんだな。スーパーばかり行ってたから気づかなかった。

 今時、商店街と聞くとシャッター街のイメージが強いが、ここは繁盛しているらしい。青果屋、肉屋、魚屋など忙しく開店準備を進めている。


「あら、憬ちゃん!おはよう!」


「あぁ、おはようございます。おばさん。この前おまけしてくれたじゃがいも、おいしかったです」


「あらそう、よかったわぁ!」


「よう、憬!コロッケ食ってくか?揚げたてだぞ」


「おはようございます、いいんですか?」


「おう、サービスだ!そっちの兄ちゃんも食っていきな」


「あ、ありがとうございます……」


 肉屋のおじさんから貰った熱々のコロッケを持ちながら憬に話しかける。


「お前、なんでこんなに馴染んでんの」


「え?だって最近はここで買い物してるし。みんないい人たちだよ」


「最近ってまだ二週間ぐらいだろ。それでこんだけ仲良くなれるの才能だな」


「褒めても何も出ないよー」


 あちっ、と頬張ったコロッケの熱さに驚く憬。

 昔から社交性のある奴だったが、ここまで愛想良く振る舞えるようなタイプではなかったはず。やっぱ人間、変わるもんだな、としみじみと思う。


 商店街の出口が見え始めた頃、一角の古本屋に目が止まる。

 店頭に並ぶワゴンに積まれた本たち。

 俺はふらりとそちらへ向かおうとするが「はい、ストップ。ドーナッツ屋の開店まで時間ないから先に行こうねぇ」と憬に腕を掴まれ、引きずられるように商店街の出口へと連れていかれる。




 そこから十数分後。いくら五月の陽気と言っても三十分以上歩いたため、じんわりと汗をかいてきたあたりで、目的のドーナッツ屋に到着する。

 そこには開店十分前というのに入口に並ぶ十人ほどの列が見えた。


「あー、平日でも結構並んでるね」


「だな」


 俺たちは列の最後尾に並び、開店を待つ。

 暇つぶしにスマホの歩数計アプリを見てみると五千歩ぐらい歩いたようだ。下半身が怠い訳にも納得がつく。

 明日は筋肉痛だなぁ、帰って湿布貼ろ。いや、歳的に明後日ぐらいにくるのか?


「ね、フミはドーナッツ何が好き?」


 俺と同じように自分のスマホを見ていた憬が聞く。


「ポンデリング」


「王道だね」


「あと中にホイップ入ってるやつ」


「あー、エンゼルクリーム」


「憬は?」


「うーん、僕はそうだなぁ……。オールドファッションかな?チョコかかってるやつがいい」


「わかる、美味いよな」


 どうやらこの店のメニューを見ていたようで、俺にスマホ画面を見せてくれる。

 画面には『三十個限定!いつものホイップドーナッツがホイップ増し増し増量中!』という派手な文字とともにこれでもかと上からも中からもホイップクリームがはみ出たドーナッツの写真が映っている。

 どうやって食べるのだろうか。


「これ、さっき言ってたドーナッツね。何回見てもホイップすごいなぁ」


「美味そう」


「さすが甘党」


 このドーナッツと温かい紅茶、最高の組み合わせだ。

 前方の列が動き出す。開店したようだ。列の流れに沿っていると程なくして店内へと進む。

 入るなり甘い生地や砂糖の匂いが鼻をくすぐる。

 俺たちはトレイとトングを持ち、選ばれるのを待つドーナッツへと視線を向ける。


「何にしようかな」と悩む憬を置いて、俺は一目散に目当てのホイップ増し増しドーナッツへと足を進める。狭い店内で密集する客を何とか掻き分けた俺が売り場に着いた時にはもう十個程しかなかった。

 三十個限定だったため、既に二十個は売れたという計算になる。

 少し迷ってから俺の分と憬の分をトレイにのせて他のドーナッツ売り場へと向かった。


 会計を待つタイミングで俺たちは合流する。

 憬のトレイにはチョコのかかったオールドファッションと中に抹茶ホイップが入ったドーナッツがのっている。


「あ、ホイップのやつ二個買ってる」


「うん、俺と憬の分」


 俺の言葉に憬はぽかん、と呆けた顔をする。


「なんだよ。要らなかったら別に俺が食べるだけだし」


「いや、食べるよ!食べたいです!……まさかフミが僕の分取ってくれてると思わなくて驚いただけ」


 慌てる憬に俺をそんな薄情な奴に思ってたのかと言いたくなったが、憬がホイップドーナッツへ向ける瞳が揺れたように見えて口を噤んだ。


 ただドーナッツをお前の分まで取っただけじゃないか。

 何故そんな顔をするのか。

 昔のお前はもっと遠慮なんてなかったのに。


 そこまで思考した俺の脳にストップをかける。

 ダメだ、なんでも昔と比較したがるのは俺の悪い癖。時間が経てば変わるなんて当たり前のこと、今更忘れてどうする。もう俺が覚えている憬じゃないんだから。




 先に会計を済ませて店外にて憬を待つ俺は、去り際にもらったポイントカードを眺める。

 五百円分購入ごとに一つスタンプがつき、十個貯まると二割引になるらしい。

 今日の買い物で四つスタンプがついているカードを財布にしまう。


「お待たせ、フミ」


「おう」


 小さな紙袋を持って憬がやってくる。


「今度は寄り道せずに帰ろう、早く帰って食べたい」


「そうだね」


 そう言って俺たちは帰り道を歩く。

 少し進んだあと、「あ、フミ」と憬が紙袋からクッキーの袋詰めを手渡した。確かレジ横に並んでいたものだ。


「どうしたんだよ、これ」


「ドーナッツ買ってもらったからそのお返し。お茶請けにちょうどいいと思って。執筆活動、頑張ってくださいよ。先生?」


「お、おう。ありがと」


 憬は貰ったクッキーと俺を見てニコニコと機嫌が良さそうにみえる。


「……何?」


「こういうの良いな、って」


「?」


「こうやって相手のことを考えて、相手も僕のことを考えてくれてるってやつ」


「なんかいいじゃん、愛みたいで」


 そう憬が俺の顔を見て言った。


 愛……、愛か。

『愛』と一括りにしても様々ある。恋愛しかり、友愛しかり。

 では、俺たちの関係はどんな『愛』だと言えるだろうか。

 俺は、憬のことをどう思っているのだろうか。


 俺が夢見る『良き隣人』とは、つかず離れずの関係性で相互に観測できる距離を保つことが前提として存在する。

 憬には俺の隣人になってもらえる可能性があると感じている、それは確かだ。だが、憬にこの一方的な俺の我儘を押しつけることはしたくない。

 憬の人生は憬のものだ。俺が許可なく深く介入すべきではない。

 ただの同居人、それが今の俺たちの関係だった。

 このまま憬が住んでくれたなら、ふと浮き上がってきた思考を脳の奥深くへ押し戻す。


「いい天気だねぇ」


 隣を歩く憬が呑気な声で呟く。


「そうだな」


「たまには散歩もいいでしょ」


「どうだろ」


「そこはそうだな、じゃないんだ」


 憬が呆れたように笑う。こうやって気兼ねなく言い合える相手がいるのは高校以来で自然と笑みがこぼれる。


「まぁ、悪くはない、か」


「お、じゃあ明日も散歩する?」


「しない」


「えー」


 その後、俺たちは散歩に行く行かない論争をしながら家路に着き、美味しくドーナッツを食べた。

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