長月、痛みと一緒によるをこえる
九月に入っても、痛みは居座ったままだった。足に走る神経痛は、強くも弱くもなりながら、私の生活の中心を占拠していく。整体師は「ゆっくり治る」と言い、夫は「別のところに行けばすぐ良くなるのでは」と言う。どちらの言葉も間違っていないのかもしれない。でも、この体の中で起きていることを、本当に感じているのは私だけだった。私自身も、よくわからないままだ。
翌日、MRIの結果を聞きに行った。黒く丸い影が写った画像を前に、医師は淡々と「ヘルニアですね」と告げた。原因がわかったことに、まず安堵した。名前がつくというのは、それだけで少し救われる。手術は不要、薬で様子を見る。その言葉を信じて処方された薬を飲んだが、今度は吐き気とめまいが襲ってきた。痛みは消えたのに、体は別の形で壊れていくようだった。
起き上がれない朝が続いた。声も出ず、目を開けているだけで酔ってしまう。眠るしかできない時間が、回復なのか後退なのか、判断もつかない。ただ横になっているしかなかった。雨の日は特につらく、体の奥で何かが鈍く鳴っていた。一度よくなったように思えたのは、錯覚だった。
九月半ば、左足の脛に走った激痛は、これまでとは次元が違った。運転席に座ることもできず、病院から戻るころには、限界がはっきり見えていた。布団に横になり、トイレに行くことすら苦痛になり、痛み止めも効かない。夜になるほど不安は増し、ついに救急車を呼ぶ決断をした。
夜中だった。人の目を避けたかったという気持ちが、確かにあった。弱っている自分を、これ以上さらしたくなかった。夫が準備をし、私はただ横になって運ばれていった。病院での時間は、痛みと同時に、奇妙な安心感も連れてきた。座薬、点滴、シャワー。動けない体を、誰かが当たり前のように扱ってくれる。そのことが、こんなにも心に響くとは思わなかった。赤ちゃんに戻ったような感覚と、情けなさと、ありがたさが入り混じる。痛み止めが切れるたびに泣き、ナースコールを押し、子どものように「痛い」と繰り返した。それでも看護師たちは、淡々と、優しかった。
大部屋に移ってから、少しずつ世界が戻ってきた。隣のベッドの人たちの話が聞こえる。六十代、七十代の女性たちの怪我の理由、人生の断片、退院への不安。横になったまま聞くその声は、なぜか私の心を落ち着かせた。痛みだけで縮んでいた視野が、少し外に開いていく。
九月は、体が壊れた月ではなかった。助けを受け入れ、支えられ、回復というものが「一人で立ち上がること」ではないと知った月だった。痛みの中でも、私は確かに生きていて、その事実だけが、静かに残っていた。




