02.斎王代とヴァンピール、それからお菓子【後編】
斎王代が移民街から巫女として連れてこられたのは、三つの歳という。
「通りの先が駄菓子屋での、母がたまに買うてくれるのが楽しみであった」
大概はその頃の記憶など朧になるものだろうが、この子供は、今も生家や辺りの町並みをはっきりと記憶に残しているらしい。話のついでに筆を取った地図は、建屋が様変わりした五年後の今も凡その案内にはなったくらいだ。そこはぺらぺらの物小屋めいた木造が立ち並ぶ、色町に隣した場所だった。飢え売られることのない立場に選ばれた少女は、いっそ幸運だったか。
「恐らく生まれつき言葉が早かったがために、審神者(さにわ)達に候補に選ばれたのであろ」
アンドラーシュが杜に来たのは半年前。その後、ふと斎王代制度を揶揄した吸血鬼の言葉に、彼女は素直に頷いた。他言はならぬがと付け加える。
「わたしに特別な霊威などは、ないと思う。薄々知ってはおったろうが、秘密だぞ」
「……念を押さなくても、僕はここの政治争いなんかに興味はない」
そして吸血鬼の言葉をまともに聞く者もいない。
世慣れた後見役の影響か、崇められて増長することのない斎王代は、かえって小賢しいといえば小賢しかった。この子供は、杜の儀式や自らの役目、生活様式といったものの歴史が、ほぼ天変地異後に作られたことまで理解している。
……子リスか子ネズミのように、無心にもぐもぐ菓子を噛む今の顔には、賢さの片鱗もないのだが。
「本当にアンドラーシュは食べぬで良いのか?」
適当に買ってきて与えた米菓子が、よほど気に入ったらしい。嬉しそうに頬張っていたのが、ふと気が咎めたのか念を押されて、アンドラーシュは鼻を鳴らす。
「良い。まったくもって欲しくない」
「したが、あの街はここから随分遠いのではないか。夕飯には間に合ったのか」
「それは何の侮辱だ? 僕はお前と違って子供でも世間知らずでもない、食事ぐらい自分でどうとでもする」
アンドラーシュが飛び地の移民街へ足を向けたのは、暇だったからに過ぎない。
神祇官らに突然物忌みだの意味不明の理由で追い出され、だが明日には帰ってこいなどと勝手を言われて、腹立ちを紛らわしに遠出をしたのだ。人間の足なら戻るのに朝まで掛かっただろうが、生憎と、彼の足ではそこまで時間が持たなかった。菓子を買い求めたのもただの気紛れだ。
「今日は無理に外にやって、すまなんだの。爺に聞いたが、朝方、杜の何処かで誰ぞが怪我をしたそうだ。恐らくはそれでだろう」
「あいつら、僕がそれで血に狂うと?」
アンドラーシュの瞳孔が、すっと細まる。
彼らを化け物と呼んで忌む者はまず想像しないが、一族が人の血を求めるのは、血液成分の欠陥を補うための薬食いに近い。昔流行ったという数々のフィクションと異なり、吸血行為自体で人を殺すこともない。相手が死ぬほどの血、液体を一気に飲む内臓の持ち合わせはないのだから当然だ。
だからこそ群れず、騒ぎを起こさなければ存在を黙認されている……人間の役に立つ限りは。
「迷信深いものも多いのでな」
「迷信俗信他宗教、お前らは本当に何でもアリだな」
「八百万の神と言うからのう。ところで神祇官ら、建前はわたしを護るためと言いながら、何人かは早々に逃げて一日杜に出てもこなかったそうだ。爺が笑っておった」
光景が目に浮かび、アンドラーシュは嘲笑する。
「そもそも僕は、お前の護衛に雇われているんだろうが」
「うむ」
「護衛を遠ざけて何かあれば、誰が責任を取るつもりなのだか……お前は小さい、ちょっとのことですぐ死ぬだろうに」
「怖いことを言うでない。それにわたしはもう小さくない」
斎王代は菓子を食べるのを止めた。
両手を合わせる日本人街お馴染みの儀式を済ませ、手元で丁寧に菓子袋の口を折る。
「旨かった、馳走になった。アンドラーシュ、有難う」
続いて、さて残りはどこに締まっておけば見つからぬかのうと真面目に悩んでいる。
「ドングリと一緒に、木のウロにでも隠しておけ」
「何の冗談じゃ、それは。意味がわからん」
「お前は他人に自分の寝室まで掃除させているから、そうゆう事になる」
「それは今更じゃ。にしても、ああ、本当は全部食べてしまいたいのう。でも明日の朝餉が入らねば、きっと騒ぎになろうのう」
未練がましく袋を眺めている姿は哀れを誘う。とはいえ袋を預かってやるほどの親切心は芽生えず、アンドラーシュは付き合いきれないとばかりにその場から立った。
「もう行くのか?」
「僕にまだ居てほしいのか?」
子供だな、と目元に嘲りの笑みを浮かべる。
何故だか意地の悪そうな顔をすればするほど、この吸血鬼の美貌は凄みと艶を増す。その瞳に見下ろされれば、八つといえどもやはり女だ。斎王代は一瞬、恥らうか腹を立てるか決めかねるという表情になった。
それから急に悪戯顔をして、ふんと鼻を鳴らす。
「それはそうじゃ。アンドラーシュの傍におれば、不思議と一匹も蚊が寄って来ぬからのう。どうせなら、一緒に寝所におってくれれば助かる」
「……巫女がふしだらなことを言うな」
咄嗟に咎めてアンドラーシュは後悔した。吸血鬼が幼女に真顔で言う台詞ではない。




