01.斎王代とヴァンピール、それからお菓子【前編】
「ん? ……アンドラーシュ、か?」
御簾の内から気配を問う声がした。人間の子は、時々妙に勘がいい。
蒸し暑い夜闇の中、点った灯りが、簾(すだれ)の内側を透かしている。傾いた幼い肩から黒髪が滑り落ちる様子まで見える。
ナジ・アンドラーシュ。日本移民で彼の名を正しく発音出来るのは、若干八つの彼女だけだ。アンドラーシュとしては、鼻を鳴らして彼らを馬鹿にしたいところだが、実のところ日本人街の識字率は高い。様々な欠点はあれ、彼らの教養好きは確かだ。そしてとりわけ御簾の内側の少女は特別だった。この杜(もり)に巫女として仕える今世の斎王代(さいおうだい)は、珍しい早熟児であり、一歳の頃には大人と会話が出来たと聞く。
白木造りの家屋に似合わない豪奢な金髪を揺らして、アンドラーシュが灯りに近づくと、その瞳は血赤から蒼へ色を変えた。吸血鬼(ヴァンピール)の不気味な身体特徴だ。
だが本人はそれを一々自覚も気遣いもせず、無造作に御簾を巻って中を覗く。
「入るぞ」
「ええっ? あ、ま、待っ」
「……斎王代。お前は」
苛烈に眉を顰めた顔は、元が端整で甘い造りなだけに、やけに残酷そうになる。
アンドラーシュに睥睨された斎王代は飛び上がり、慌てて手元を隠そうとして結局果たせず、しまいに溜息をついて誤魔化すことを諦めた。
「どうも、そなたは動きが早すぎる」
幼い指が押さえた本は、分厚い紙束にびっしりと文字が埋まっている。幾ら日本移民でも、そこいらの子供が挑めるものではない。
頭の発達は早いのだろうが、この子供が訳も吸血鬼をけろりと受け入れている『疎さ』は、やはり世間知らずの八歳児らしい。大陸全土で疎まれ恐れられる者達の噂を、聞く術もないのだろう。
「僕はそこを買われて、こんな辺鄙な所で雇われる羽目になったんだ。文句があるなら、政府(アドミラル)に言うんだな」
片やのアンドラーシュは、彼女の五倍近くの年を経ていた。ただし成長は人間の半分、寿命は倍ほどだから、未だ年若い青年だ。白皙で視線の強い、吸血鬼らしい妖しいまでの美貌を持ってもいるが、幼児相手ではそれも空しい。
「夜更かししたいなら、後見の僕への厭味を止めろ」
「したが、わたしは風邪など引いてないのだぞ。今日は昼も大人しくしていたのだから、本をめくるぐらい良いではないか」
ちんまりと畳の上に座った少女の、餌を貯めたリスに似た下ぶくれ気味の小さい顔が、眉根にぐぐっと皺を寄せる。
「……真似をするな」
ほとんど杜に閉じこめられて暮らすこの子供は、本が好きだ。
世の中、本自体決して安価ではない上、ここの蔵書は彼女らの祖国で出版された古いものになる。場合によっては一冊でひと財産だろう。それでも後見役の方針で、彼女は好きに読むことを許されていた。
斎王代は年頃になれば代替わりとなるため、それもあと何年かの自由だろうが。
「子供らしく動かないから、夏負けで食欲が無いなんて無様を晒す」
アンドラーシュは冷たく決め付け、かさりと紙袋を突き出した。対する斎王代はキツい言葉を気にした様子もなく、首を傾げながら受け取る。
「うん? これは何じゃ」
子供は中を覗いてしばらくは黙っていたが、やがて驚いた顔でぱっと上向いた。
「これは……もしや、そなた、あそこまで行って来たのか?」
吸血鬼は煩そうに、問いかけを無視した。袋の中身は外で買った。米で作った他愛のない、安い菓子だ。
見掛けは原材料そのままで、アンドラーシュの目にはどうにも貧相な代物に見えた。だが斎王代は、温もりが残る袋を大事に抱えて、それが何よりの宝のように丸い目を輝かせている。
「た、食べても良いかっ?」
適当に頷けば、嬉しげに袋の中を掻き回す。
見たことがないほど無邪気な仕草に、アンドラーシュが内心驚いていると、彼女は得々と蜜で引っ付いた菓子の塊を取り出してみせた。
「ほら、ほら。こうゆうところが、美味しいのだぞっ」
「あ、ああ」
「……そうじゃ、アンドラーシュも食べる、か?」
惜しそうにその塊を差し出され、即刻、迷惑顔で断る。
俗信とは違い吸血鬼は普通の食事も取るが、菓子にしてまで米を食いたいとは思わない。
片ひざを立てて座る吸血鬼からさっさと菓子に視線を戻し、斎王代はぱくりと口に入れた。
「うむ。美味しいのう。うふふ、確かにこうゆう味だったのう」
特別気にしていた訳ではないが、最近の食欲不振など忘れた顔でいる子供に、吸血鬼の苦笑が漏れた。




