星くずし
星が、嫌いだ。星は、わたしに何も与えてくれない。
昔、おばあちゃんが倒れた時、わたしは星に願った。どうか、死なないでと。おばあちゃんに生きていてほしいと、いなくなっちゃいやだと。海の音がするお手玉を天井に投げて、貼り付けてあった蛍光の星の飾りを落とした。それを流れ星に見立てて、三回、お願い事を繰り返した。
わたしの願いを星が叶えたように、おばあちゃんは一週間ほど入院してから、何事もなかったように退院した。
星が、わたしに答えてくれたと思った。お父さんとお母さんとは違って、おばあちゃんはいなくなることなく帰ってきた。
そうしてわたしは星を愛することになって、わたしにとって星とは信仰の対象になった。
星に祈ればすべてが解決するだなんて思っていなかったけれど、本当にどうしようもない時に祈れば、お星様はわたしの願いを聞き届けてくれると思っていた。
そんなわけが、ないのに。
星は星だ。意思のない、遥か遠くの恒星。そんな星に、わたしの願いをかなえることはできない。わたしの祈りを聞くことだってできやしない。それはただの無機物に過ぎない、天井に飾ってあった蛍光の星の飾りも同じだった。
そして、商店町にひっそりと設置された、赤い幸運の星のイルミネーションも、同じだった。
赤い星に、わたしは祈った。友人の陸と一緒に、いつまでも星の話ができますように、と。
星は、けれど初めて、明確にわたしを裏切った。少なくとも、わたしはそう感じた。
再び星を見に行くと約束した日、陸はわたしに会いに来なかった。その日の深夜。外を出歩いていた陸がトラックにひかれて事故死したことを、わたしは知った。
そうしてわたしは初恋の人を失って、そして星に対する思いをも失った。
何もない、真っ暗な天井を見上げながら、わたしは声を押し殺して泣いた。そこには、緑色の光はない。わたしを孤独から救ってくれた光は、わたしがはぎ取った。昔は両隣で寝ていたおじいちゃんとおばあちゃんも、わたしが大きくなったから、今は別の部屋で寝ている。
畳の上に敷いた布団の中、わたしは暗闇で一人、そこにいた。
おばあちゃんが倒れて救急車で運ばれた日のことを思い出した。おじいちゃんが付き添いで向かってしまい、わたしはひとり、この家に取り残された。寂しさと不安と恐怖でいっぱいになっていたわたしを、けれど天井の星が見守っていた。わたしはその星を落とし、流れ星に見立てて――当時のわたしにとってそれは紛れもなく流れ星だった――願い事をした。
その星もなくなり、わたしは本当に一人だった。陸も、もういない。どうやったって、会うことはできない。わたしのお父さんとお母さんのように。
辛くて、悲しくて、涙が止まらなかった。ティッシュを求めて、床の間に手を伸ばした。暗闇の中、勘で動かしていたわたしの手が、籐のかごに触れた。じゃらり、と小さな音がした。
なつかしさで、胸がいっぱいになった。最近触っていなかったお手玉を、手探りでつかんだ。
海の音だった。幼い頃に体に、耳に染み付いた、波の音。引いては押し寄せる潮の音を感じるべく、お手玉を優しく耳元で動かす。
ゆらり、ゆらりと波が揺れる。そのうえで漂う黒い何かに、わたしは手を伸ばしていた。
誰かが、わたしを抱いていた。お父さん、だろうか。
「……朝?」
目にかかる日差しに目を覚ます。カーテンの隙間から差し込んだ日差しが顔に直撃していた。
それなりに眠ったために、体のだるさはなくなっていた。
それでも、動く気にはならなかった。いまだに体が重く、わたしは上半身を起こしたまま、布団に座ってぼんやりとしていた。
ふと、柔らかな味噌の香りが鼻腔をくすぐり、わたしは空腹を主張するように自分のお腹が鳴る音を聞いた。
どれだけ苦しくても、疲れていても、人間は生きるために食べ物を望む。生きるとは食べることだ――そう言って、おじいちゃんが幼い頃、畑でわたしに野菜を育てさせた。野菜嫌いのわたしは、自分で育てた野菜が育っていく光景を驚きと興奮を感じながら観察を続け、苦い野菜を食べた。野菜が生きているということを、生物を糧としてわたしが生かされていることを知って、わたしは自分が食べたものの分まで生きないといけないと、そう思った。
それから、遠い目をしたおじいちゃんが、お酒に酔って語った話を思い出した。おじいちゃんも、自分のお父さんにわたしと同じようなことをされたという。漁師の息子でありながら魚が嫌いだったというおじいちゃんは食卓に出された魚を食べず、怒ったお父さんに無理やりまだ生きている魚を捌かされたのだという。痙攣した魚の体から力が抜け、血が流れ、肉を切って骨を除く感触を、命を糧としているということをその手で感じて――おじいちゃんはそれからしばらく、魚を見ると吐きそうになってしまったという。
それでも今では自分のお父さんがやったことは荒療治だったけれど間違ったことではなかったと、そう懐かしそうにおじいちゃんは話していた。
「ほら、みう。食べるぞ」
ぶっきらぼうに告げたおじいちゃんに小さくうなずきを返して、わたしはいただきますの挨拶をして、おばあちゃんがよそってくれたご飯を口に入れた。ふんわりと甘い香りが口いっぱいに広がる。噛みしめるほどに、米は甘味を強めていく。
白味噌の汁を飲む。ほうれん草と里芋の入った冬の味噌汁が、じんわりと体の芯からわたしを温めた。絶望に固まっていた心が、解きほぐされていく。
あれだけ泣いたのに、またしてもわたしの頬を一筋の涙が伝った。
「泣ける時には泣きなさい」
短く告げたおじいちゃんは、「オレは見ていないぞ」と言いたげに食事に集中する振りをして、勢いよく白米を口に運んだ。おばあちゃんから注意が飛ぶ。困ったように眉尻を下げるおじいちゃんがおかしくて、わたしは小さく笑った。
少しだけ、心が軽くなった。
陸がいなくなっても、今日という日は続いていく。陸が死んでしまった悲しみはいまだに大きくて、心に空いた穴は全くふさがっていない。それでも、わたしは生きていくためにご飯を食べ進めた。
今が冬休みでよかったと、心から思った。かつてなく静かな正月を過ごし、わたしは軒先でぼんやりと庭を眺めていた。立派な渋柿の木と、松の木。その周りには名前を知らない観葉植物と、ブルベリーとサクランボの木。横に長い植木鉢にはたくさんのパセリが生い茂っていた。庭の端には緑の網が張られ、ブラックベリーの蔦が絡みついていた。すっぱくて甘いあれが癖になるのだと、おじいちゃんが話していた。けれどわたしにはただすっぱいだけだった。
大人になったらわかると、笑いながらおばあちゃんが言っていた。大人になると、味覚が変わるらしい。わたしには、その時間がある。けれど、陸には?死んでしまった陸は、ブラックベリーのおいしさを理解することもなく死んでしまった。
陸は、ブラックベリーを食べたらどんな顔をしただろうか。酸っぱい、と叫んで口をすぼめただろうか。それとも、案外平然と食べただろうか。陸は意外と隠し事が上手だから、すっぱくても口には出さないかもしれない。特にわたしの家の庭でとれたブラックベリーだと知ったら、きっと気を使って「おいしい」と言っただろう。
ああ、だめだ。また泣けてきてしまう。考えないようにしているのに、気づけば陸のことを考えてしまう。事故で死んでしまった陸。一緒にまた星を見ようという約束を破った陸。
陸、陸、陸――わたしは、陸が好きだった。他の人とは違って、星を愛していたわたしを馬鹿にすることなく受け入れてくれた、おじいちゃんとおばあちゃんを除くただ一人の人。いつだってわたしの話に嫌な顔一つせずに付き合ってくれた。陸との話が、楽しかった。陸と一緒にいる時間が好きだった。陸と、もっと一緒にいたかった。なのに、なのにっ。
「どうして死んじゃったの、陸……」
嗚咽が漏れた。気づけば隣に座っていたおじいちゃんが、何も言わずにわたしの肩を抱いた。おばあちゃんが、優しくわたしの頭を撫でた。二人の手のぬくもりを感じながら、それでも満ち足りないわたしの心は陸を求めていた。
気づけば周囲は暗くなっていて、風邪をひくぞ、とおじいちゃんが立ち上がる。けれどわたしが動こうとしなかったからか、おじいちゃんは部屋の中に行くことなく、わたしの隣に立っていた。
台所では、おばあちゃんが巧みな包丁さばきを披露している。こんこんこん、と規則正しい、優しいリズムが響く。そのうちにお砂糖とお酢のにおいが香ってきた。
小さくお腹が鳴る。
わたしの体は、生きたいと告げていた。
「……北極星だ」
おじいちゃんがつぶやく。
旅人たちの導きの星が、塀の上、軒の間の空の隙間で煌々と光り輝いていた。
その明かりは憎いほどきれいで、心を引き付けるような強さがあるような気がした。
けれどわたしは、その星に導かれることはない。わたしはもう、星に期待しない。星に願わない。星に導いてもらおうなんて、思わない。わたしを導くように手を引いてくれた陸はもういないけれど、それでも再び星にその役割を求める気にはならなかった。
心のどこかで、まだ星が好きだという思いがあった。そのことを無視して、わたしはおじいちゃんと並んで、ただじっと燦然と輝く星を見つめていた。
時は、少しずつ記憶をあいまいにしていく。幼いわたしが両親の顔や声をほとんど全部忘れてしまったように、陸との記憶もまた、少しずつ輪郭を失いつつあった。
冬休み最後の日、わたしはおじいちゃんに付き添ってもらって一緒に陸が死んでしまったところへ向かった。
家から駅の方へ向かった先にある大きな道路。わたしや陸の家から学校や駅など、町の中心へと向かうのに必要な道の途中、開けた道路の角にたくさんの花がお供えされていた。
わたしもまた、そこに花を置く。それから、陸が好きだった。化学実験の本を供える。誰が置いたのか、そこにはよく見れば花だけではなくたくさんのものがあった。野球ボール、冬なのに形を保ったままのセミの抜け殻、鉛筆。多分学校のみんなが供えた雑多なものの中に、わたしは本を加えた。
「ねぇ、陸。死んだ人は空に昇ってわたしたちを見守っているって、本当かな?」
そんな非科学的な、と笑い飛ばしてくれる声を期待した。代わりに聞こえたのは、走り去る車の音と、自転車が鳴らすベルの音、そして、こちらに近づいてくる、小さな足音。
「……貴女、大垣みういさんよね?」
名前を呼ばれて、わたしはゆっくりと顔を上げてその女の人を見た。髪を肩の上でバッサリと切った、釣り目がちな女の人。見覚えがあるのも当然で、陸のお葬式で見た、陸のお母さんだった。
「はい、大垣みうい、です。こっちは、わたしの祖父です。……ええと、長谷部陸くんのお母さん、ですよね」
「そう。晴香よ」
目の下に濃い隈を浮かべた晴香さんは、じっとわたしのことを見つめていた。その目に、あっという間に涙がたまる。こらえきれなくなったしずくが一つ、頬を伝って流れ落ちる。
「……ごめんなさいね。どうにも涙腺が緩んでしまって」
ハンカチで目元をぬぐった晴香さんが、手に持っていた鞄から、ビニール袋に入った赤黒い斑点模様の紙袋を取り出してわたしに差し出てきた。思わず受け取ってから、それを眺めた。記憶にないそれが何かを問いかけるより早く、晴香さんがゆっくりと口を開いた。
「みういさん。貴女への贈り物だそうよ。クリスマスイブの日に、渡すはずだった――」
それ以上の言葉は、わたしの耳には入ってこなかった。破るようにビニール袋を開け、包装を取り出す。黒い粉が、パラパラとビニールの底に落ちて、わたしは動きを止めた。
模様だと思っていた黒っぽい点々は、模様ではなかった。それが何か、わたしはもう答えを得ていた。
陸の、血。だとするとこれは、陸が死んだときに持っていた物。
じゃらりと、包装の中で砂がこすれるような音がした。壊れているのか――恐る恐る、わたしは紙包装を開けて中を覗き込んだ。
散った青色の粒、割れたものもあるが、その多くは穴が開いた小さなビーズだった。そして、ちぎれた透明のテグス。
破片が落ちないように、そっと手のひらの上にビーズのまとまりと取り出して、息をのんだ。
「……あ、」
転がり出てきたのは、四本のとがった先端を持つ、青いビーズストラップ。事故のせいで一部が壊れてしまったせいで本来の形を失っていたけれど、元がどんな形だったか、一瞬でわたしは答えを得ていた。
銀の差し色が入った、青色の、星。星。わたしが愛していた、星。
ビーズが一粒、コロンとわたしの手の中を転がった。
「あの子、ずっと自作のそれをポケットの中に入れていたの。大事なものだって、楽しそうに笑っていたわ」
晴香さんの言葉が、耳鳴りに混じって頭に届く。
考えるなと思っているのに、思考がぐるぐると動きはじめる。
ポケットに入れていたにしてはしわのない紙包装。血がついているということは事故の時に持っていたということ。最近ポケットに手を入れていることが多かったのは、ビーズの星のプレゼントをわたしに手渡すタイミングを計っていたため。深夜、これをプレゼントするその日の夜中に事故を起こした。場所はここ、家から町の中心――夜遅くにも開店しているコンビニへと向かう最中にある、大通り。コンビニで包装用の紙を買ってその場で包装して、それをもって家に向かう途中、事故に遭った。
だと、すれば。陸が死んだのは――
「わたしの、せい?」
強く、風が吹いた。お供えの花々の花弁が空に舞い上がる。風に飛ばされないように、包装ごと、形を保っているビーズを両手で包み込む。
「わたしにこれをプレゼントしようとした、せいで」
違うと、そう叫んで、これまで黙っていたおじいちゃんは背後からわたしを強く抱きしめた。
ゆっくりと、顔を上げる。怒っているだろうなと、責めるような目をしているのだろうなと思っていた晴香さんは、なぜだか大きく目を見開いて、「違う、私は――」と何かをつぶやいていた。
「わたしの、せいで!わたしが、わたしが!あぁ、ぁ、ぁあああああああああああああああ!」
喉が張り裂けるほどに、声が漏れた。もう出尽くしたと思っていたのに、涙がとどまることなく頬を流れ落ちた。
馬鹿だ、陸は、馬鹿だ。どうして、包装なんて気にしたの?わたし、陸がくれたなら、何であっても大事にしたよ。星であれば、絶対に大切にしたよ。なのに、どうして、星を残して、陸がいなくなっちゃうの?ねぇ、陸。どうして?どうして陸はここにいないの?どうして陸が手渡ししてくれなかったの?陸、陸。会いたいよ、陸。
じゃらりとこすれて音を立てるビーズを握りながら、わたしはずっと、冬の風に吹かれていた。
数日後、疲れ切ったように歪んだ文字で、晴香さんから手紙が届いた。
そこには、陸が病に侵されていたこと、余命宣告を受けていたことが書かれていた。そして、死の間際、陸が残した伝言も綴られていた。事故に遭って瀕死の中、力強く救命隊員の人をつかんで、途切れ途切れに言ったそうだ。
『星の前で、みういに、病のことを告白するつもりだった。そうして、僕がいなくなってからも、幸せに生きていってほしいと、僕の代わりにこの星が見守っているからと――』
それが陸の最期の言葉になったという。
やっぱり、陸はバカだった。星なんかどうでもいい。星に見守られるくらいだったら、陸に見守っていてほしい。せめて星に託すんじゃなくて、自分は星になって見守っているからくらい言えないのか――
陸の病気のことを、わたしは知らなかった。いいや、その予感くらいはあったかもしれない。他の人に比べて体が弱く、よく学校を休んでいた。体育の授業もたいてい見学していた。体の線が細くて、病的なほど肌が白かった。二人で商店町に向かった時も、古本屋のお兄さんに体の細さについて言われていた気がする。
わたしは、星しか見ていなかった。星の話を受け入れてくれる陸のことしか、見ていなかった。そんなわたしを、陸はこんなにも思ってくれていた。
手紙を、大事にたたんで、胸の中で、陸の言葉を何度も繰り返した。
(ひどいよ、陸。陸なしで、どうやってわたしは幸せになればいいの?ねぇ?寂しいよ。苦しいよ。辛いよ。陸の代わりにこんな壊れた星をもらったって、うれしくないよ)
陸は答えない。天を仰いでも、陸だとわかる星はただの一つも見つからなかった。
星が、好きだった。おばあちゃんを救ったかもしれない星は、わたしにとっての希望だった。
星が、嫌いになった。陸を死なせる原因になったビーズのストラップも、お願いを聞いてくれなかった幸運の星も、嫌いだ。
嫌い、だけど。陸が作ってくれた、陸がわたしのことを思って作ってくれたこれを、捨てることなんてできなかった。けれど、星を見たくもなかった。
わたしは、一つ一つ、丁寧に星を崩した。それを、おばあちゃんにもらった、昔星の砂を詰めていたという小さな瓶にしまった。
星は散り、崩れ、小さな輝きとなって瓶の中に納まった。青と銀のビーズが詰まったそれを、耳元で鳴らす。
ジャラリ、ジャラ。
音が響く。波が引いては押し寄せる。動く砂が、音を立てる。
ジャラリ、ジャラ。
遠く、耳の奥で響く海の音。その音を聞きながら、わたしは今日も目を閉じる。
いつか、星を許せる日が来て。晴香さんにもらった教本と残りのビーズを使って、陸の星を取り戻そうと思えるまで。
わたしは今日も、陸を想いながら星の音を聞き続ける。