星のこし(新)
小学一年生の頃、オレのクラスには秀才がいた。
長谷部陸。頭がよくて、顔もよくて、社交性もある。どこか達観していて、オレたちよりも何歳か年上のようにも思えるあいつは、クラスの中心人物だった。
誰もが陸に一目置いていた。そしてオレは、それが気に食わなかった。
あいつは全てを持っていた。オレが欲しい全てを。オレが手に入れられないものを。
保育園年長の時、母さんが病気で死んだ。オレは苦しくて悲しくて、周囲の人間に当たり散らした。
周りの人間は、最初はオレを慰めてくれた。
可哀そう。大丈夫?頑張って。
けれどそんな言葉は、オレにはひどく心無いもののように聞こえた。足並みを合わせた、外面だけのように響いた。
友人の中には、心からオレを心配していたやつもいたのかもしれない。けれど、オレには信じられなかった。
だって、あいつらは知らないから。いきなり母さんが死んだという経験がないから。その苦しみも悲しみも、胸にぽっかりと開いたこの穴も、知らない。
知らないのに、まるで知っているように言葉を浴びせて来る。オレのこの気持ちが、悲しみが、陳腐で使い古された物語のように扱われているように思えた。
心無い言葉を掃きつけるやつを無視した、あるいは拳を振るった。
そうしてもたらされたのは、本当に心なんてないやつの言葉。
『あいつ、ドウジョウされたがってるんだよ。ただのかまってちゃんだろ』
当時のオレには「同情」の意味はわからなかった。けれど、それがオレを馬鹿にする言葉であることだけはわかった。
だから、オレはそいつらに殴り掛かった。
そうしてもたらされたのは、喧嘩両成敗という判決と、オレを問題児だと考える保育士の疲れたようなため息、そして死んだような父さんの視線だった。
そうしてオレは家族を、友人を失った。日常を失った。
その全てを、陸は持っていた。
許せなかった。許すわけにはいかなかった。オレが、その立場にいるはずだったのだと心が叫んでいた。
――そんなはずがないのに。
結局のところ、オレはただ陸に嫉妬していただけだった。ただうらやましかった。そして、後悔していた。
もしもあの日、オレに差し伸ばされた手を取っていれば。憐憫からかもしれない慰めの言葉を素直に受け取っていれば、もっと違った小学校生活が待っていたんじゃないか。針の筵のような生活じゃなくて、友だちとどうでもいいことでバカ騒ぎできるような、そんな日々があったんじゃないか。そう思って。
けれどすべては過去のこと。オレは選択を間違え、そうしてもう一度、同じ失敗をしようとしていた。
教室の窓側前から三番目。
窓から差し込む陽光に目を細めながら、オレはぼんやりと教室中に響く声を聞いていた。
昼食が終わった昼の休みの時間。いつもは我先に教室を飛び出していく男子はなぜか、今日はそのほとんどが教室に残っていた。
「よっしゃー!」
教室の前方で机を囲む男子の一人から歓声が上がる。ガッツポーズをする彼の顔は心から楽し気で、そんな彼に向かって心の中で罵声を浴びせる。
――オレをかまってちゃんと呼んだクソ野郎が、と。
保育園から続く人間関係がオレを縛る。立場が、環境が変わればボッチじゃなくなるという考えは甘かった。
小学校は保育園の延長線上にある。オレのことを知っている人間が広めた情報は、オレに友だちを作らせなかった。
腫れ物に触るような扱いには、二か月も経てばもう慣れた。
梅雨の合間に覗く陽光を浴びながら、オレは男子たちの中心にいる長谷部陸へと視線を向ける。
女子たちがキャーキャーとうるさいそいつは、確かに顔は整っているような気がする。頭が良くて、テストでは百点ばかり取っているという話で、字もきれい。何より、一年生とは思えない落ち着きがあった。こうしている今だって、陸のやつは男子の輪の中にいるようで、その輪から少し離れたところで皆を客観視するような目をしていた。
その目に、怒りを覚えた。まるで見下しているように感じられた。幼稚だと、低俗だと、友人をそう見ているように思えてならなかった。
オレが持っていない友だちをそんな風に見ている陸が嫌いだった。
「……」
男子たちが一斉に前のめりになり、その両手で机の上にある「コマ」をつかむ。
「レディー、ゴー!」
一斉に、コマが回る。勢い余った男子の一人が隣のやつに肘をぶつけ、バランスを崩したやつが数歩後じさりする。背後の机の脚に踵をぶつけてうめくも、その視線は自分を突き飛ばした相手ではなく、机の上に注がれている。
机の上で回るのは、色とりどりなコマ。コマといっても、ベーゴマとか、芯があって紐で巻いて投げるような奴ではない。おもちゃなんて、学校に持ってくれば没収されるだけだ。
あいつらが遊んでいるのは、牛乳瓶の紙の栓で作ったコマだ。
作り方は、耳にした限りでは非常に簡単。紙栓の中央辺りを鉛筆でぐりぐりと押して反対側をとがらせ、コマにする。後はとがっていない方に色を塗ることで完成。人によっては、母親からくすねて来たマニキュアを塗ることでキラキラしたラメをつけていたが、まあ色塗りの範疇だ。
出来上がった紙のコマは両手の人差し指と親指を使ってまわす。うまく中心を尖らせることができれば案外回る。
そんな栓コマを使った勝負が、このクラス、あるいはこの学年では流行っていた。
ぶつかり合う紙のコマは、木や鉄のそれとは違って派手な音を立てることはない。けれどそれでも、自分が作ったコマが他のコマとぶつかり、時に机から弾き飛ばし、時にバランスを崩されて止まるそこには小学位一年生ならではのひきこもごものドラマがあった。
一喜一憂する男子たちの中、冷めているのはオレと――陸だけだった。
友人たちがコマで勝負する中、陸は一歩引いて彼らを見ていた。まるで、牛乳瓶の栓のコマごときで楽しめるやつらが幼稚だとでも言いたげに。
ふと、横顔が揺れて、視線がオレの方へと向く。慌てて、窓の外へと目を逸らす。
カーテンが揺れる。顔にかかる布に驚いて慌ててそれを払う。窓のそとに飛び込んでくるのは、中庭の緑にあふれる景色。もう何年も使われていない田植え用の浅い水場には苔が張り、やや異臭が香って来た。
歓声が上がる。次の勝者が決まったらしい。
もう一度、陸の方を見れば、友人たちに引っ張られて戦いに参加させられていた。仕方ないとでも言いたげな微笑に強い苛立ちを覚えたのは、オレがおかしいからではないはずだ。
一人通学路を歩く。
緑が多いというこの町は、確かに視線を巡らせればあちこちに林が見える。公園や私有地にある竹林、家の庭に伸びる柑橘系の木。青々と茂る木々の枝葉は、これから夏にわたって強まる日差しを受け止めるために精一杯葉を伸ばしていた。
緑が多ければ、セミも多い。鳴き続けるそれは悲鳴のようにすら聞こえる。
ジジジ、と音を立てたセミが木を飛び立つ。青空を横切るように飛んだセミが、また別の木にとまって鳴き始める。
アスファルトの上、太陽の日差しに熱された黒々とした道の中に見えた白い石に足を伸ばす。
蹴る。カン、と排水溝を塞ぐ金属板にぶつかって甲高い音を鳴らしたそれを追って、だらだらと歩く。
集団がオレを追い抜いていく。にぎやかにこの後の予定を立てる彼らは、同じクラスのやつらだった。その中に、陸の姿もあった。
うつむき、現実から目を逸らすように白い石へと足を伸ばす。
大きく振りかぶって蹴り上げた石は、近くの民家の玄関、生い茂る雑草の海に飲まれて見えなくなった。
坂の多い町。必然的に登下校でも何度も小さな丘や山を上り下りすることになる。
衰えを知らない太陽がじりじりと照り付け暑さに喉が渇く。けれど水筒の中はもう空っぽだった。
顔を上げる。時間が止まったような家、玄関扉はオレのことを食らう悪魔の口のように思えた。
誰もいない家。一人きりの家に、今日もオレは挨拶をすることもなく入っていく。
『おかえりは?』
そんな母さんの声はもう聞こえない。
今日も今日とて、二時間目の休みと昼の休み。長い二つの休みの時間にはクラスの男子たちはコマに熱中していた。逆に女子たちは、うるさいのが嫌なのかそそくさと集団で教室を出ていく。校庭に遊びに行ったのか、図書室に行ったのか。どちらにせよ、どうでもいいことだった。
オレはただ、今日も陸を睨みながら窓際の席にぼんやりと座る。朝から晴れていた空は雲に覆われ、今にも泣きだしそうだった。梅雨の間のつかの間の晴れの日は終わり、また面倒な雨続きの日々がやってこようとしていた。
今日の帰りには振っていないといい。傘は持って来ているけれど、差していたって雨には濡れる。
教室前方からどよめきが聞こえる。そっと視線を耳をそばだてる。
「すげぇ!かっけぇ!」
「そうかな?」
「そうだろ!いいなそれ!で、まわるのか?なぁ?」
「見ててよ」
相変わらずクラスの男子の中心にいる陸は、その手に持つ栓のコマを机の上に置く。一瞬、男子たちが黙る。ぴりりとしたひりつくような空気の中、陸がコマを回す。
シャアア、と涼し気な音を立ててコマが回り出す。その勢いは、普通のコマの比ではなかった。
再びどよめきが走る。コマは止まらない。勢いを失うことなく、テーブルの上で回転を続ける。
ありえない。あんなに回るはずがない。いくら栓の中心にズレなく凸部を作ったところで、元が紙のせいできちんと尖ってくれない。そのせいで牛乳栓のコマはそれほど長く回ってくれないはずなのに。
三十秒は余裕で回転を続けたコマが止まる。
「「す、すっげぇぇぇぇぇぇ!」」
耳が割れるほどの歓声が響いた。
「な、なぁどうやってんだよ」
「そのくっつけてるのなんだよ?」
「これ?スパンコールだよ。百均とかでも売ってる、工作の飾りなんかで使う奴。これを突ければ長く回るんじゃないかと思ったけど、正解だったよ」
誇らしげに語る陸の言葉を聞きながら、オレは腸が煮えくり返る思いだった。
陸はずるをした。牛乳栓のコマに、スパンコールなんてものをくっつけた。それじゃあ面白くないだろ。それに卑怯だ。そもそも、スパンコールなんて使ったら、おもちゃと何が違うんだよ。買わずに作れるもので作って勝負するから面白いんだろ。
そんな言葉は、けれど口を出ることはない。
ただ痛いほどに手のひらを握りしめながら、オレは心の中で陸に対して怒りの言葉をまき散らした。
ずるだ。犯罪だ。卑怯だ。クズだ。悪党だ。
許せない。そんなものを持ち込むな。そんなことをするな。なんだよスパンコールって。
それじゃあ、家で密かにクラス一番の長持ちするコマを作ろうと努力して、認められようとしていたオレがバカみたいだろ。
「どういうのがいいんだ?」
「やっぱり形が対称なのがいいよね。バランスがよくて、後は中心がとがっているのがいいよ」
「それみたいに?」
「そう。でも他の形で試してみるのも面白いかもしれないよね」
「よっしゃ!おれかあさんにかってもらうぜ!」
「ぼくも!」
「あしたはそれでショウブだな!」
泣きそうになって、机に顔を伏せる。男子たちの声から逃げるように、腕で耳を抑える。
怒りと悔しさで、どうにかなってしまいそうだった。
泣きっ面にハチ。
最近覚えたそのことわざは、悪いことは続いて起こるというものらしかった。
悪いこと。例えばそれは、陸がずるをしてオレの頑張りが無駄になったこと。
ものすごく格好良くて、そして長く回るコマを作ろうとしていた。それを見せれば仲直りできるかも、仲間に入れてもらえるかも、そんな考えがあった。そうなるはずだった。
でも、陸のやつがすべてを台無しにした。
牛乳栓のコマにスパンコールなんてものを持ちだした陸は、卑怯で、そして最強のコマがないと仲間に入れてと言い出すこともできないオレも多分、卑怯なやつだった。
「……ない」
そして、続く二つ目の悪いこと。それは、土間に置いていた傘が見つからないこと。
アニメのキャラクターの青い傘。あまり気に入ってはいなかったけれど、母さんにお願いして買ってもらったそれは、オレの密かな誇りだった。それが、どこにも見当たらなかった。
トイレに行っていて、下校するのが遅くなったから、既に傘立ての傘は半分くらいに減っている。こうしている間にも、また一本傘が消える。オレの傘ではなかった。
外は土砂降り。バケツをひっくり返したように振り続ける雨の中、傘なしで帰りたくはなかった。
探しても探しても傘は見つからない。他のクラスのところに間違って差してしまったのかも、そんな希望も儚く散った。
「そうだ、教室におりたたみのカサがあったかも」
そんなもの、置いておいた覚えはなかった。けれど、そう思わなければ泣いてしまいそうだった。
一人、下校しようとする流れに逆らって教室へと戻る。土間の辺りはたくさんの生徒で込んでいたけれど、教室の前にはもう誰の姿もなかった。
教室後方のロッカー。空っぽの自分の場所には、もちろん折りたたみ傘の姿なんてない。
窓際へと足を向ける。自分の席のひきだしをあさるけれど、やっぱり傘なんてない。
ふっと、足から力が抜けた。
そのまま力なく席に座りこむ。
電気が消えた教室、誰もいないそこはなぜだか少し怖かった。ピカ、と窓の外で響く。五秒、十秒と、気づけば数を数えていた。そうでもしないと、誰もいない教室に飲み込まれてしまような気がしていた。
三十秒、そこで雷の音が聞こえた。机に伏せ、目を閉じる。音をやり過ごす。
再び顔を上げた時、ふと、いつものように教室前方へと視線が向いた。陸の席。吸い寄せられるように、足はそちらへ向いていた。
こんなの駄目だと思いながらも、引き出しに手をかける。ずるをした陸が悪い――そう、言い聞かせた。
果たして、道具箱の中に、それはあった。
今日の昼に見た、上を黒一色で塗られた地味なコマ。けれどその下は、普通の栓のコマとはちがう。固い突起物が指に触れる。
ひっくり返したそこには、金色のスパンコールの輝きがあった。
その中心、紙では決して出しえない突起に触れる。
怒りがこみ上げる。気づけば、その角へと爪を伸ばしていた。
接着剤で固定されたスパンコールを栓からはぎ取る。紙の一部も一緒に破れたけれど、胴でもよかった。
達成感に口元がゆがむ。あいつが、陸が悪いんだ、そんなことを心が叫んでいた。
手の中に握りこむそれはトゲトゲしていて痛い。その痛みが、オレを責めているように思えた。
こんなの、泥棒――
窓の外で雷が響き、わずか数秒後にゴロゴロと激しい音が聞こえた。
雷様が、オレを見ている。オレに怒っている。
焦燥が鼓動を早くする。手の中がじっとりと汗ばむ。逃げないと――そう思って。
気づけば脱兎のごとく走り出していた。その手に、陸のスパンコールを握ったまま。
「――光輝?」
慌てていたオレは、その声を聞くことはなかった。窓ガラスを打ち鳴らす雨音は、ささやくような声を隠す。
焦燥に駆られたまま、オレは廊下を走り、靴をちゃんと履くのもおっくうで、踵を踏んだまま外へと飛び出した。
風邪をひいてしまいたかった。そうすれば、すぐの断罪から逃れることはできる。
家に帰れば、罪悪感と後悔で気が狂ってしまいそうだった。
オレは、盗みをした。陸のものを奪った。
自分が許せなかった。こんなことをしてしまった自分に戸惑った。それから、手の中に在る輝きを見て、どうしてこんなどうしようもないことをしたのかと首をひねるばかりだった。
手のひらの上にあるそれに、今のオレは何の価値も見いだせずにいた。スパンコールがどうした。コマがどうした。どうせオレは、最高のコマを作れたところで言い出す勇気なんてありはしないのに。あいつらと仲直りできることなんてないのに。
あいつらが謝ってくれば許してやらないこともない、なんて考えていた。でも、先に暴力をふるったのはオレだった。あいつらが嫌なことを言ったのが悪いけれど、お互いが悪いことになった。
オレから謝れば、きっとこんなにこじれることはなかった。けれど謝れなかった。そしてこれからも多分、謝ることはできない。
「どうすれば、いいんだよ……」
臆病者なオレは、自分が犯した大罪が許せなかった。自分が怖かった。魔が差した自分が、気持ち悪くて仕方がなかった。こうしている今も、心の中では責任転嫁に必死だった。
陸が悪い、学校にスパンコールなんて持ってきたのが行けないんだ。だからオレが奪ってやったんだ。オレは正しいことをしたんだ。
手の中にある金の輝きを机の上に放り出し、雨に濡れたまま着替えることもせずにベッドに飛び込む。
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅッ」
枕に顔を埋めて、感情を吐き出す。そうしていると、気づけば眠っていた。
健康な体が憎かった。あれだけ濡れて、体も冷えていたのに、頭痛の一つもしなかった。
学校には行きたくなかった。今日の二時間目の休みになれば、確実に陸のコマが壊されたことが発覚する。そうすれば犯人捜しが始まる。
クラスになじめていないオレが目を付けられるのも、多分自然なことだ。
……今なら、今すぐに学校に行って、陸に謝ったらどうだ?例えば、帰る時に机に体をぶつけて、落ちて来たコマを踏んだら壊れてしまった……言い訳には十分な気がした。
これで解決する。これで怒られない。わずかな、あるかどうかも分からない希望の光にすがって、オレは重い足取りで学校に向かった。
今日も雨が降っている。しとしとという梅雨の長雨。色とりどりの傘の列に並んで後門をくぐる。
ふと、陸の姿が目に留まった。今日も涼し気な顔をしている彼に、謝らないといけない。
そう思うのに、人気者の陸の周りにはすでにオレの昔の友だちがいて、オレは彼に話しかけられなかった。
ポケットの中、握りしめた手のひらに突きささる角が痛い。
断罪の時が、刻一刻と近づいて来る。
一時間も二時間目も、授業に集中することはできなかった。休みの時間には、陸が一人で席を立たないかと期待した。トイレに行くところで呼びかけて、二人になったところで謝るのだ。
幸い、陸はまだコマが壊れたことには気づいていない。今がチャンスだ。騒ぎにならないうちに誤魔化すのは今しかない――のに。
無情にも二時間目の授業が始まって、そして二時間目と三時間目の間の、十五分休みになった。
「みろよリク!」
「ぼくのだってすごいよ!」
一斉に陸のところに集まる男子が、輝くスパンコールをつけた牛乳栓のコマを高らかに掲げる。少しだけ居心地悪そうに、あるいは嫉妬を剥き出しにしているやつらは、多分スパンコールを買ってもらえなかったのだ。
お金による差が、コマの差を作り出した。これまで平和だった和を乱したのは陸だ。やっぱり陸は悪いことをしたんだ。オレは悪くない――
心臓が早鐘を打つ。陸が、気づいてしまう。痛いほどに握りこんだ手の中は汗でびっしょりだった。
「やろうぜ!シンカしたコマをみせてやるよ!」
早く、今ならまだ間に合う。この場で謝るんだ。発覚して犯人捜しをするよりも早く――
「ああ、ごめんね。実は今日、コマをわすれてきちゃったんだ」
――え?
「まじかよ。じゃあふつうのしかないのかよ」
「あしたこそもってきてよ。ホンキのしょうぶでけっちゃくをつけるんだから!」
「うん。明日ね。ちゃんともってくるよ」
席に座ったままの陸の顔は見えない。ただ、陸がいつもコマをしまっている道具箱の左手前を確認することもなかったことだけはわかった。ずっと見ていたから、確認していないはずなのに、陸はコマを忘れたと言った。
どういう、こと?オレが気づかないところで見ていた?確かに可能性はゼロじゃない。体を陰にして確認するくらいのことはできた。でも、そうだとしても壊されていたとか、スパンコールを奪われていたとか、そういう話になるはずだ。
なのに、どうして。
わからないうちに休みは終わって、新しいコマに歓声を上げていた男子が席に戻っていく。そんな中、僕は陸の背中を見ることもできず、出しっぱなしになっていた二時間目の算数の教科書を睨んでいた。
その次の日、陸が持ってきたコマには、緑のスパンコールがついていた。彼から盗んだ金のそれは、まだ捨てられずに僕のポケットの中にあった。
返さないといけない。謝らないといけない。けれど時間が経つほどに言えなくなった。もう言わなくても良いじゃないかという気になって来た。
言う必要はない。だって陸は盗まれたことを話題に出していない。犯人捜しが始まることもない。だからもう大丈夫だ。
でも、罪悪感は膨らむばかりだった。陸はすごいやつ。そしてオレは、駄目なやつ。
ポケットの中に輝きが、オレにそう突き付けて来る。
痛くて、苦しくて、けれど行動に移せなくて。
それでも、決断しなければいけない日が、唐突にやって来た。
一学期の終業式の日。小学生になって初めての長期休暇に浮かれるクラスメイトの中、オレは驚愕の話を聞くことになる。
「突然ですが、悲しいお知らせがあります。実は、長谷部陸くんが、ご両親の仕事の事情でお引越しをすることになりました」
その言葉に、時が止まる。それはまさに、オレにとっても、クラスのみんなにとっても、青天の霹靂だった。
引っ越し、誰が、陸が?
どよめき、悲鳴が響き、そんな中、陸は恥ずかしそうに、そして少しだけ寂しそうに、壇上に立ってみんなに小さく頭を下げた。
半年。楽しかったこと、もっとしたかったこと。たくさんの思い出を語る陸が、ふと、一瞬オレのことを見た気がした。
まるで、「これが最後のチャンスだよ」と、そう言われているような気がした。
陸は、全てに予想がついている。オレが犯人であると感づいている。そう、思った。
一学期最後の時間は、陸とのお別れ会になった。みんなで陸の旅立ちを惜しむ中、オレはじっと覚悟を決めていた。陸にすべてを打ち明けて、頭を下げること。それを、しないといけない。
下校の時間になって、オレは陸と一緒に帰る男子たちの集団を追った。上級生たちの影に隠れ、後をつける。テレビの刑事のように思えて来て、少しだけ楽しくなって、けれどこれから罪を告白するのだと思い出せば、どっと足が重くなった。
それでもオレは前に進んだ。このまますべてをなかったことにすることだけは、許せなかった。
罪悪感は人を狂わせる――死んだ母さんの言葉を思い出した。どういう意味で言っていたのか、オレはまだそれを知らない。知らないけれど、その言葉を告げた母さんの顔は、今でも鮮明に思い出せる。
苦々しい顔。自分を責めるような、自分をひどく怒っているような顔。
苦悩、という言葉がぴったりな顔をしていた。
そして父さんもまた、似たような顔をしていた。
このまま盗みを隠して生きれば、きっとオレは狂う。断罪されず、罪悪感を抱えながら生きれば、卑屈になって、低俗になって、コソ泥みたいに闇の中で生きるようになってしまう気がした。
そんなのは、嫌だった。
「陸!」
一人になった彼の背中に、声をかける。互いの距離は、まだ十メートルほどもある。
けれど、オレの足はそこから一歩も前に進むことはなかった。そして、陸がオレに向かって来ることはなかった。
その場で振り向いた陸は、ただ真剣な顔でオレを満ちた。オレの言葉を待っていた。
降り注ぐ夏の日差しが喉の渇きをもたらす。ひり付くような緊迫感を打ち破るように、すぐ側で激しくセミが鳴き始める。
「オレが……オレがやったんだ。オレがぬすんだんだ!」
心臓が嫌な音を立てていた。
震える手で、ポケットへと手を伸ばし、盗んだそれを、取り出そうとして。
「……知ってたよ」
その言葉が、オレの動きを、呼吸を、鼓動をとめた。
世界から色が消える。音が遠ざかる。耳の奥で、心臓がドクン、ドクンと鳴っていた。ふらりと、体が揺れて。
唇を噛みしめた痛みに、我を取り戻す。ごくりと喉を鳴らし、震える声で尋ねる。いつから――と。
「あの日、先生と話すためにしょくいん室に行っていたんだ。それでかえる時に教室の前を通りがかったら、君が教室からあわてて飛び出すのを見たんだ。それで、中にはいったら、僕の机がけとばされたようにななめになっていて、机の上にスパンコールのないコマがおいてあったんだ」
……ああ、そう言えばあの日、オレは何も隠さずに教室を出たような気もする。それを、あろうことか陸本人が見つけたのか。そして、陸は隠すことを選んだ……。
オレには、陸が分からない。普通、もっと怒るものだろ?腹が立つだろ。盗まれて、
責めたかっただろ。断罪したかっただろ。
なのに、陸はしなかった。陸は、みんなの前でオレを断罪するような、意地の悪いやつじゃなかった。
「ごめん。ほんとうにごめん。ぬすんでごめん。いままでいいだせなくてごめん。ごめん、ごめん――」
それ以外に、言えることはなかった。涙で視界がにじんだ。けれど、泣くことは許されないと思った。
袖で目元を拭って、ポケットから取り出したものを手に陸の下へと一歩を踏み出して。
けれど、陸は静かに首を横に振って、オレの足をとめさせた。
「……それは、光輝が持っていて。それで、いつかきっと返しに来て」
「なんで、だよ。いつかって、いつだよ」
苦しかった。今すぐ、これを手放してしまいたかった。陸は、オレに苦しめと言っているのだろうか。オレにこの罪の証を持ち続けろと、そう言いたいのか。
太陽の日差しの中、陸がうっすらと笑う。その笑みは、どこか透明な、感情の宿っていない作り物めいたもののように見えた。
「……僕のために、持っていて。未来のために……僕が未来に、手を伸ばすために」
「イミわかんねぇ」
「今はそれでいいよ。ただ、その星が希望の一つになればいいななんて、自分でも不可能だと思っていることを願っているだけだから」
一人で告げて、一人で納得して。陸はそれ以上の質問を許さない。
「……いつか、手紙を出すと思う。ううん、その時のために、手紙を書いておくよ。だから、いつかきっと返しに来て」
そう告げる陸に、何かを言おうとして。けれど言葉は、とうとう口に出ることはなかった。
陸の頬を伝う一筋の涙が、オレの言葉を封じた。
あの泣き顔の意味はわからない。けれどそれでも、罪を犯した者として、オレはいつかという約束に答えないといけない。
そう思いながら、オレは今日も罪の証を手に日々を生きている。
教室で、クラスメイトが牛乳栓のコマを回すたびに、オレは陸のことを、盗みのことを、罪の証のことを考える。
ポケットの中、手放すことのできない黄金の星は、今日のわずかな痛みと共に、オレの心に残り続ける。