星さそい(新)
星はただ、そこにある。空に、町に、人の心の中に。
思い出の中で輝く星はきっと、誰かを照らす光になる。
わたしは一人だった。わたしは、孤独だった。
当時のわたしは間違いなく「孤独」なんて単語もその意味も、そもそも自分の感情をなんと表したらいいのかもわからなかった。三歳児にそんなことを求められても困る。
けれど、わたしは孤独だった。
渇いていた。願っていた。望んでいた。
けれどそれは、決して叶わぬ祈りだった。叶わないと、幼いながらに理解もしていた。
それでも、わたしは祈った。願った。求めた。渇望した。
わたしは、奇跡を求めた。もし自分の願いが叶うならば、それは神仏に等しい強大な存在によってのみ実現する、かもしれないと思っていた。
わたしは、星に願った。神とか、そんな超常の存在を理解していなかったわたしにとって、星は遠く、けれど確かにそこにある不思議な存在だった。
夜のとばりが落ちた海辺にて。無数に輝く星に願った。
けれど、願いは叶わなかった。祈りは届かなかった。
それでも、わたしはずっと、奇跡を望んでいた。故郷を後にしても、その在り方が変わることはなかった。
だからだろうか、わたしはより一層、新しい環境になじめない日々を送っていた。
海のそばに広がる町から、都会に移り住んで。そこには、初めてのことが多すぎた。
大きな環境の変化に、何よりも心に空いた空虚に、わたしは耐えられなかった。
いつだって、お父さんとお母さんの姿を探していた。いなくなってしまった二人にきっと会えるだなんて、そんなおかしな確信を胸に、二人の影を追い求めた。
けれどいつだって、見慣れない家で姿を見かけるのはおじいちゃんとおばあちゃんだけだった。
そのたびに落胆して、そうして二人に誰を探していたのか気づかれて苦しそうな顔をさせていた。
わたしはひどい子どもだった。息子を亡くした二人だってつらかっただろうに、それをおくびに出すこともしなかった。
そんな真綿で包むような生活が、苦痛だった。
わたしは、保育園にもなじめなかった。
「死」を知ってしまったわたしは、保育園年少クラスの特大の異物だった。
なんの苦しみも知らないような子どもたちの中、わたしは暗鬱とした空気を放っていた。あるいは、ただ無だったかもしれない。
慣れないわたしを、保育園の先生は必死になってみんなの輪に入れてくれようとした。けれど、駄目だった。わたしは、みんなと一緒に走り回る生活に耐えられなかった。
同級生の元気な声を遠くにして、わたしは無性に、海の音が聞きたかった。あの懐かしい、耳の奥に残った音を聞いて、お父さんとお母さんとともに砂浜に寝転んで太陽の日差しを浴びていたかった。
けれどそれがもう叶わないことであるということだけ理解していて。
静かに涙を流すわたしを前に、ただ先生たちは右往左往するばかりだった。
静かに、息をひそめるように時間が過ぎた。
夏が少しずつ主張を強くしていく。故郷とは違う暑さがわたしを襲った。照り付ける太陽はアスファルトをこれでもかと熱して、わたしを上から下から攻撃した。おばあちゃんに渡された麦わら帽子をかぶって、わたしは苦痛な保育園への道を歩いた。
都会は緑が少なかった。林も森も見渡す限り存在しなくて、ただ人工物ばかりが視界を埋め尽くしていた。セミが泣き叫ぶ灰色の町を、わたしはおじいちゃんに抱き上げられて進んだ。
秋が来て、少しだけ涼しくなった。この頃には多少わたしも新しい環境に慣れ始めて、わずかに余裕が生まれていた。それでも残暑は厳しくて、わたしは保育園の建物の中でほとんどずっと絵本を読んでいた。星の絵がある作品ばかりだった。赤や黄色、緑といった色鮮やかな星たちがそこにあった。手を伸ばせば、星に触れることはできた。けれどどうやっても星を捕まえることはできなくて、わたしは無性に悲しくなった。星をつかみたい。けれどつかめない。
なぜか泣けてきて、わたしは激情のままに本を捨てた。
冬が来ても、わたしは一人だった。おじいちゃんとおばあちゃんは過保護で、食事の好き嫌い以外では基本的に声を荒らげることもなかった。ただ、二人はわたしの友人になるには関係が近すぎて、さらには年齢が離れすぎていた。
だから、わたしは一人、ちらちらと舞う雪を眺めながら灰色の空を見上げていた。それは、幼いわたしの目には牢獄のように見えた。周囲に立ち並ぶ建物と同じ、灰色の建造物群。それから、逃げたかった。けれど、幼いわたしには逃げる手段なんて思い浮かぶことはなかった。
そんな時だった。おじいちゃんがわたしに、お父さんとお母さんのお墓参りに行かないかと誘ったのは。
故郷の町。そこに眠る二人のもとへと、わたしは旅に出た。
冷たい、石を前に、わたしはただじっとしていた。
見つめる御影石には、父と母の、そしてわたしの苗字が刻まれていた、らしい。
大垣。両親が残した、わずかなつながり。それを前に、わたしはただ立ち尽くすしかできなかった。
墓参りの意味すら、わたしはわかっていなかった。ただ、亡くなってしまった両親に会いに行くと、そういわれて。わたしは心のどこかで奇跡の時がやってきたことを予感していた。
だからこそ、無機質な石を前に、わたしはどうしたらいいのかわからなくなっていた。
冷たい風が吹いていた。木々は葉を落とし、枝の先に一つだけ残った枯れ葉が北風を浴びてカサカサと揺れていた。
照りつける太陽は力なく、にぎやかな虫たちの声も聞こえない。
無数にそびえる御影石の森の中、わたしは祖父とともに立ち尽くしていた。
12月24日、両親が死んだ、およそ半年後。
月命日のその日、そうしてわたしは、生まれた土地へと帰ってきていた。
その町は、おじいちゃんとおばあちゃんの故郷でもあるという。そんな町から二人が離れた理由は、知らない。けれど二人とは違い、両親はこの町に残り続けた。
そこに何があったのか、わたしは知らない。けれどその話をすると、決まっておじいちゃんはつらそうな顔をした。
それは、わたしと同じ、死を思う顔だった。
おじいちゃんに抱かれて、わたしは見知らぬ町を進んだ。故郷は、わたしを温かく迎えることはなかった。
冬のその日、訪れた故郷はわたしの知らない世界だった。たった半年離れていただけで、わたしの中からはすでに故郷の記憶は消えつつあった。
心から帰郷を求めていたはずだった。両親の記憶が残る町に帰りたいと、そう思っていたはずだった。
けれど故郷は、わたしを来訪者として迎え入れた。
そこはもう、わたしにとっての故郷ではなくなっていた。
おじいちゃんの腕の中で見渡す町は、わたしの知らない町だった。
保育園に行くために通った道も、友人の家も、お母さんと一緒に行ったスーパーも、すべてがわたしを異分子としているように思えた。それはまるで、町が、そこにある建物が、物理的に迫ってくるようで。そんな圧迫感、あるいは閉塞感をわたしに与えた。
恐怖に心震わせるわたしが泣き出さずにいられたのは、背中に添えられたおじいちゃんの手のぬくもりがあったからだった。しわがあるかたい手。お父さんともお母さんとも違うその手は、けれど確かに、わたしを受け入れてくれていた。灰色の、色あせて見える故郷の町並みとは違って。
車がわたしたちの横を通り過ぎた。冷気が背中に吹き付ける。いつの間にか世界は薄暗くなっていて、そこをまばゆい光が走り抜けていく。
見上げた空は絵の具を塗りたくったような重い灰色をしていた。そこから、はらりと雪が舞い落ちる。
雪の降る世界、わたしは一層強くなった寒気に体を震わせ、おじいちゃんの手に小さな手を添えて、まっすぐ前を見据えた。
通り過ぎていく車の光は、温かみのない人工の光。太陽の光とは違う、無機質で、冷たい光。それは、御影石が反射した陽光にも似ていた。
冷たくて、わたしのことなんてまるで気にしてないような光。
そんな光がひどく怖かった。
わたしの恐怖に、おじいちゃんはたぶん気づいていなかった。
一緒に進みながらも、わたしはひどく孤独だった。
お父さんとお母さんが生まれ育ち、死んでしまった町。
そこでわたしは、確かに孤独を感じていた。
だからその日、旅の疲れて眠ってしまったおじいちゃんを一人宿に残して、わたしは町に飛び出した。
何かを探していた。それは、亡くなったお父さんでもお母さんでもなかったと思う。
わたしはただ、わたしの心の穴を埋めてくれる何かを探していた。
わたしを孤独から解放してくれる何かを渇望して、一人世界を歩いた。
そうしてわたしは、それと出会った。
それはあるいは必然だったかもしれない。
わたしはただ、それの存在を望んでいた。それはわたしにとって、たった一つ、祈るべき存在だったから。
その日、わたしは闇夜を照らす、強くまばゆい一つの星を見た。
それは美しく、荘厳で、そしてあたたかな光だった。
そうして、その光の星が照らす広場で、わたしは一人の女性と出会った。
◆
友人は臆病な人だ。その臆病さが、たまにひどく嫌になる。
堀田真帆は、どちらかというと思ったことをズバズバ言ってしまうタイプだ。心の中で相手を罵倒したり、その人のいないところで陰口をたたいたりするのは趣味じゃない。ああ、別に友人が――友人たちが、そんな悪いことをする人だというわけではない。
ただ彼女たちは、思ったことを口にすることも、行動に移すこともできない臆病な存在だった。けれど、わたしは彼女たちに、彼女の抱えるものに、踏み込むことができなかった。
一度彼女が見せた顔に、わたしは声を失った。そこには、わたしの知らない大きな傷を抱えた、手負いの子どもがいた。迷子と、そう呼んでもいいかもしれない途方に暮れた様子で、けれど自分に触れることを拒絶するような彼女を前に、わたしは結局、事情に踏み込むことができなかった。
彼女――由利は、傷つき、けれどその傷を他者に見せることを嫌った。自分を汚いと、あるいは異常であると感じて、人と距離をとる。けがれた自分をみせたくなくて、大切な人とこそ距離をとる。わたしの友人は、そんな女の子だった。
彼女の人生を、経験を、その詳細をわたしは知らない。知ったところで、どうにかなるとも思っていない。ただ、彼女は時折わたしの知らない顔をした。絶望とも、失望とも違う、ただすべてを飲み込み、あきらめたような無の顔。そんな顔をした友人が嫌いで、友人にそんな顔をさせてしまう自分が、わたしは嫌いだった。
自らの領域に踏み込まれることを嫌う由利に、わたしは何をしてあげることもできなかった。ただ微妙な距離をとって、彼女の心労にならないほど良い友人関係を続けた。それが、わたしと由利のすべてだった。
けれど、他者を拒絶する由利が、わずかに受け入れた存在がいた。それが、雪村俊介で、板垣峻佑だった。どちらもシュンスケという名前だったのは偶然なのか、必然だったのか。
雪村くんはたぶん、由利にとって大切な人だった。はたから見ていても、由利が彼に思いを寄せているのがわかった。けれど由利は、雪村くんに一歩を踏み込ませなかった。自分が抱えるものを、自分の傷を、見せようとしなかった。
でも、雪村くんもたぶん、由利が好きだった。確信はないし、他の友人が話していたことをまた聞きした程度だから、正確にはわからない。わたしはあまり雪村くんと話したこともないし、雪村くんと由利の関係も知らなかった。けれどもし二人が両想いだったのだとすれば、じれったくて仕方がないと思ったし、板垣君との関係を匂わす由利には怒りも覚えた。
板垣くんは……正直、由利にとってどのような存在だったのか、わたしはよく知らない。ただ、二人はよく一緒にいた。そして、由利は板垣くんに自分の懐に踏み込むのを許しているように見えた。二人の間に距離はなく、すべてを分かち合っているように見えた。板垣くんは、由利に重いものを打ち明けられても、「親友」だと公言して支えることができるような懐の広い人だった。
板垣くんのおかげか、由利は少しずつ元気を取り戻していった。傷を癒していった。けれど、時間が経てば経つほどに、雪村くんと由利の距離は広がっていった。
このころになると、わたしはもう、由利は板垣くんと付き合っていると思っていた。だって、休みの日にはたいてい板垣くんの家に遊びに行っているというのだ。これが付き合っていない男女だと、本気で言っていたのだろうか。それはもう、家族公認の関係だろう。
そんなわたしの邪推はともかく、わたしはただ、高校生になっても大学生になっても、時々由利と会って話をする程度の距離感を保っていた。
最新の注意を払って、わたしは由利との友人関係を続けていた。ただ、それだけだった。そのはずだった。
『真帆、お願いがあるの』
大学三年生の冬、わたしはおそらくは初めて、由利から頼みごとをされた。雪村くんをある場所へ向かうように誘導してほしい、そんなお願いだった。
そこで初めて、彼女は自らの傷について話し始めた。それはもう傷ではなく、確かに癒えた傷跡になっていたから。
語られるその内容は、わたしの息をのませるものだった。
狂った家庭環境がもたらした彼女の痛みは、わたしには想像することも難しかった。けれどそれがひどく痛くて、ひどく苦しくて、他者には決して見せたくないものだということを、わたしは何となく理解した。
そして、そんな苦痛の中にいた友人に手を差し伸べることができなかった自分が嫌になった。
贖罪、というと少し違うのかもしれない。
わたしは、彼女が初めて見せた救援要請を受け入れた。雪村くんを駅前のイルミネーションに連れていく――そのための話術を、話の構成を考えた。その際、雪村くんが自分と同じ大学に通っていることを知って驚いたりもしたが、それはともかく。
わたしは無事に雪村くんに興味を持たせることに成功した。けれど確実とは言えない。
わたしは与えられた役割を遂行するべく、雪村くんの後を追った。
駅前。乗り換えの駅に向かいかけた雪村くんはふと足を止め、改札の出口に向かった。わたしの、誘導通りに。
去っていく彼の背中は、イルミネーションの暖かな橙色の光の中に消えて行って、わたしはホッと息を吐いた。
これで、わたしの役目は終わりだ――そんな充足感の中、わたしは外へと一歩を踏み出し、近くの壁に背中を預けて行きかう人たちをぼんやりと眺めた。
「何してるんだろう、わたし……」
途端に、虚しさがこみ上げた。他人の恋愛に手を出せるほど、わたしは恋愛強者じゃない。クリスマスイブにもかかわらず、というか生まれてこの方恋人がいたことのない人間が何をしているんだろうと、そんな思いがずっしりと肩にのしかかった。
来年は就活で忙殺されるだろう。でも、わたしは大学三年生のこの段階になってまだ、進路が全く見えていなかった。
何になりたいのか、どう生きたいのか、何を仕事にしたいのか、何もわからなかった。
これまでわたしの前にはずっと道があった。進学という、大多数が選ぶ道が。そのレールを、わたしは何を考えることもなく歩き続けた。
だからまあ、このまま大学院に進学してもいいかな、なんて。そんな甘ったれたことを考えながらぼんやりと試験勉強をしているくらいだった。
歩む先は暗闇に閉ざされていて、道なき道を前にわたしは恐怖していた。
わたしは、どうしてこんなところにいるんだろう?孤独が、わたしの心にしみこんでいく。
漏らした吐息は、温かみのある光に照らされて淡い橙色を帯びていた。空に昇るその息を何となく見上げていた。
視界に、白が映る。舞い落ちる雪を見て、わたしはもう一度大きく息を吐いた。
イルミネーションの光に照らされながらひらりひらりと雪が降る。幻想的なその光景の中、夫婦、あるいは恋人たちが歩いていく。
わたしは一人、ぽかんと口を開いたまま空を見上げていた。そのことに気づいて、わたしは恥ずかしさからマフラーをたくし上げ、存在感を消すように身を縮こませて。
ふと、視界にわたしと同じように頭上を見る人影を見た。一心不乱に空を見上げるその影は、わたしよりもだいぶ――いや、視界に移る誰よりも小さかった。
雑踏の中、時折わたしの視界に移るのは、まだ三歳かそこらの、小さな女の子だった。真っ黒なワンピースに身を包んだ少女。
行きかう者は彼女に目を留めない。彼女の周りには、保護者と思われる者もいない。
何となく、わたしは一歩を踏み出していた。
それはたぶん、彼女の背中に、友人に似たものを感じていたからだと思う。
近づいて、その横顔を斜め上から見て確信した。彼女は、由利と同じものを抱えていた。
究極の、孤独を。
「……ねぇ、一人なの?」
わたしの声に、少女は返事をしない。その目はただじっと空を見上げていた。その視線を、何とはなしに追って、気づく。彼女が見上げていたのは、空ではなく、その下で美しく輝く大きな星だった。
駅前のロータリー、その中央。広がる木の枝に電灯が巻き付けられ、その頂上で美しい星が存在を主張していた。
星の飾りに子どもが熱中している――それだけなら、わたしは何も思わずその場を去ったと思う。その少女の目には、確かに熱があった。けれどその熱は、感心や歓喜という言葉は生ぬるい、どこか狂気じみたものだった。
「……両親はどこ?」
瞬間、わたしは言葉を間違えたことを悟った。それまで熱に浮かされたように一心不乱に星の飾りを見ていた少女が、勢いよくわたしを見た。その目には、何の光もなかった。ただ虚無が広がっていた。それは、拒絶の光とも、救いを求める視線とも、諦めにハイライトが消えた目とも取れた。
その目を知っていた。わたしの友人、由利と同じ目だった。かつてわたしが失言した時、由利の両親について言及したとき、彼女は似たような反応を示した。これほど明らかなものではなかったけれど。
「……いない」
ぽつりとつぶやかれたその声は、雑踏にかき消されてしまいそうなほど小さくはかないものだった。
少女は再び空を見上げた。その目は、星を見ているようで、けれど何も見ていないようにも見えた。
なんとなくしゃがんで、彼女と同じ目の高さになった。彼女が見ているものを、景色を、自分も見たいと思った。
名も知らぬ少女と並んで、わたしは、わたしたちは煌々と輝く人工の星を見続けた。
くしゅん、と少女が小さくくしゃみをする。その頬は赤く、同時にとても冷たそうだった。思わず触れた小さな手は氷のように冷たかった。
『――いない』
囁き声が、再び頭をよぎる。いない。両親が、いない。この場にいないということでは、たぶんない。きっとこの子の両親はこの世界のどこにもいないと、そんな確信があった。
けれど、この子の保護者はいるはずだ。近くにいるかどうか、その人が、この子が心を寄せるに足る良識のある大人であるかどうかはわからないけれど、ここで一人寒さに身を震わせておくよりはましだと思った。
「……帰らないの?」
何も言わない。反応もしない。ただ、小さな呼吸に合わせて口から吐き出された真っ白な息が、空に昇って解けていく。
「星が、好きなの?」
「……好き」
今度は反応があった。視線は向かないけれど、少しだけ彼女がわたしに反応した。もう一度、視線を巡らせる。この子の保護者らしき人はいない。
「……寒くない?」
「だいじょーぶ」
「そっか。わたしは寒いかな。ねぇ、風の届かないところに移動しない?」
やっぱり、返事はない。こんな小さな女の子から目を離す保護者も、このまま見ないふりをして離れるのもだめだ。
別に、わたしは正義感が強いほうじゃない。ただ、たぶん、わたしは目の前の少女に手を貸すことで、由利を助けてあげられなかったという心残りを解消しようとしているのだと思う。
どうするかと考える。このまま寒空の下でじっとしていては風を引いてしまう。このままここにいて保護者が来る確証もない。迷子センターに向かうか、せめて温かいところに移動すべきだけれど、この子は星の前から動きそうにない。
星……星、ね。
「ねぇ、もっときれいな星を見に行かない?」
なんだか甘言を囁く誘拐犯にでもなった気分だ。実際、保護者でもないわたしがこの子を連れて行こうとするのは、場合によっては犯罪ととられかねないと思う。けれど、このままここでこの子を放っておいて、肺炎にでもなって死なれてしまうのは嫌だ。
「きれいな、ほし?……みえないよ」
ああ、その通りだ。今日は雪が降っていて、空には星一つない。視界にあるのは、大きな一つの星飾りだけ。寒空の下、ただ孤独に輝くその星は、今見るとひどく寂しげに映った。先ほどまで、温かな光だと思っていたのに。
「もっときれいで、たくさんの星よ。どう?興味が出てきたんじゃない?」
少女が小さく目を瞬かせる。その目には、確かな関心があった。わずかに持ち上がった手は、ためらうように降りていく。
その手を取って、少女を抱き上げる。
「よし、行こうか」
腕の中から逃げ出そうとはしなかった。ただ名残惜しそうに星のイルミネーションを一瞥してから、その目をわたしに向けた。わたしの中の何かを見通すような、澄んだ瞳。
ああ、まったく。そんなところまで由利と一緒だ。
駅前の雑踏を歩く。舞い散る雪から守るように少女を抱きしめながら数分ほどかけて向かったのは、大通りの一歩内側、公園の向かいにあるビルだった。吹き抜けのホールの脇にあるエスカレーターを登って三階へ。そこに目的地があった。
現在開催中の絵画展。なんとなく目にしてきれいだなと思って、けれど行く機会なくずるずると日々を送っていたわたしにとっては渡りに船だった。
絵画展というと少し首をかしげざるを得ないそれは、正確には飾られているのは版画。無数の色を重ねられた美しい風景画。荒廃した町で、誰もいない屋上で、見上げる美しい星空の絵たち。これが版画かと、わたしは広告にある絵を驚きをもって見ていた。
受付を済ませ、少し後悔する。予約をしていなかったせいで、特典の品が少なかった。まだ開催期間はあるし、予約特典が欲しければもう一度くればいい。無料なのだから、交通料さえ気にしなければ何度来たっていい。
わずかに薄暗い展示場へと足を踏み入れる。大ヒットした映画の音楽が耳に飛び込んでくる。あの映画もきれいな画だった。空を切り裂く彗星を思い出しながら、わたいは展示されている作品へと視線を向ける。
息をのむ音がした。わたしか、あるいは腕の中にいる子か。
そこには、星空があった。天の川なんて生ぬるい、美しく光り輝く銀河があった。藍色の空に瞬く星々の海。ああ、それは川というよりも海として強く存在を主張していた。
星の海の中、わたしたちは旅をつづけた。苔むした建物の背後に広がる星空。屋上から見上げる星空。工場の後ろに煙のように立ち上る星の川、海岸沿い、座り込む少女の背後に、海までその軌跡を広げながら輝く星々の流れ。
そこには、大いなる力の流れがあった。星々の活力が感じられた。
版画の中には、夕日や不思議な空間を描いたものもあった。巨大なクレーンに影を落とす茜色の世界。魚眼レンズで見たような、あるいはタイマーセットして放置しておいた夜空を見たような、弧を描いた夕暮れの橋を歩く人たち。窓の先に四季がある廃屋。
不思議で幻想的ではかなくて、けれど力強く何かを主張する絵の森を、わたしと少女は無言で歩いた。一つ一つの作品の前で足を止め、その全体像に息をのみ、細部を眺め、再び全体を見て。
もう終了の時間に近いからか、ほとんど人がない絵画展の中、わたしたちは流れ出した閉館の音楽に背中を押されるようにして出口付近、数点存在する絵画のほうへと足を向けて。
その目に、見覚えのある背中が飛び込んできた。知っているようで、知らない背中。
記憶にあるよりもずいぶん背が伸びていて、精悍な顔つきの「迷子」が、そこにいた。
滅びた小さな工場の絵。その前に彼は、板垣峻佑は立ち尽くしていた。
日に焼けた頬を、一筋の涙が伝う。視線の先にある絵の中には、一人の少女の後ろ姿があった。白いワンピースに身を包んだ、顔の見えない少女。その背には、孤独と、拒絶があった。
「……由利」
思わず、その名を告げていた。私の声に気づいて、板垣くんが顔を向ける。再び、その頬を涙が伝う。思い出したように目元をぬぐった板垣くんが、何とか笑みを浮かべて見せる。けれど、まったく笑えていなかった。その顔にある悲しみが、わからないはずがなかった。
ここに彼がいる理由は察しがついた。わたしが雪村くんを駅前に連れてきたように、板垣くんも由利を連れてきたのだろう。あるいは、心配になって見に来たか。
だって、板垣くんはいつだって由利のために動いていたから。まるで妹か、あるいは――
腕の中で少女が身じろぎした。孤独を映した瞳が、わたしと板垣くんの間で揺れる。ようやく、その光のない瞳にある感情の一つを理解した。それは、悲しみだった。
ああ、やっぱりこの子の両親はもうこの世界にはいない。
板垣くんを見る。何も言うことなく、ただじっとわたしを見る彼を、見つめ返す。
由利はまだ、この世界にいる。けれどもう、彼女は歩き出したのだ。たとえ羽をもがれようとも、体を休めた彼女は、仮宿から飛び出したのだ。衝動にその身を動かして。
鳥かごから飛び出した蝶はもう帰ってこない。たとえその場所が、どれだけ心地よかったとしても。
「……馬鹿ね、ちゃんと伝えればよかったのに」
くしゃりと、板垣くんの顔がゆがむ。一言、たった一言告げればよかったのだ。隠してきた、隠し続けてきた本音を。親友なんて言葉で塗り固めて心の奥に押し込んでいた言葉を。
たとえその言葉が、由利の羽ばたきを止めてしまう呪縛だとしても。
乾き始めていた頬を再び涙が濡らす。もう、板垣くんは頬をぬぐうことはしなかった。
せかされるまま、三人、並んで歩き出す。
一瞬、瞬きの際、瞼の裏にまばゆいほどの星の海が浮かび上がった。その中で、彼は泣いていた。
気を遣いすぎて後戻りできないところまで自分をだましぬいた板垣くんのゆがんだ笑顔は、どれだけ振り払おうとしてもわたしの中から消えることはなかった。
無言で来た道を歩き、数分で駅にたどり着く。身をよじらせた少女が地面に降り立ち、板垣くんをじっと見上げる。何か、思うところがあったのだろうか。
星を見ていた孤独な少女は、そっと板垣くんの足にしがみつき、ズボンに顔をうずめた。
「ばいばい」
小さく告げた少女は、少しだけその口の端を笑みの形にして、一人改札のほうへと歩いて行った。
「……しゃんとしなさいよ」
「……ああ」
小さなその背中が雑踏の中に消えて見えなくなってもしばらく、わたしたちはその場に立ち続けた。