表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星と海  作者: 雨足怜
3/26

星うたい(新)

 海が、泣いていた。

 嵐が吹きすさんでいるというわけでもない。ただ曇天に覆われて今にもぐずつきそうな空の下、冷たい風に揺れる白波は、確かに泣いていた。

 湿り気を帯びた風は、彼女の声を届けようと必死に走る。

 海鳥が、彼女の意をくもうと、大きく翼をはためかせる。

 潮騒が泣いている。歌っている。声を届けようと、必死に波立つ。


 海の中、一人の女がいた。

 体は世界に溶けてしまっていて、彼女を見つける者はいない。

 泳ぐ魚が、海鳥が、貝が、海藻が、彼女をじっと見つめていた。

 海に消え、海にとらわれ、それでも彼女は現世を旅立つこともできず、そこに揺蕩っていた。

 まだ日が出ているのか、揺れる海面は淡くきらめき、星空のような輝きを彼女の目に届ける。わずかに目じりを下げた彼女が、手を伸ばす。水面を、指先が突き抜ける。

 そこにある光を揺らめかせることさえも、今の彼女にはできない。

 落胆に目を閉じ、意識を広げる。

 海は、今となっては彼女の体でもある。そこには、海にとらわれたたくさんの者が眠っていて、その中には生前の思いにとらわれて狂った者や、心を摩耗させて何も反応をしない抜け殻になり果てた者もいる。

 海に囚われた彼女たちの末路は、狂うか擦り切れるか、その二択。

 それでも、彼女は構わずに世界を見回す。海辺で泣き続ける男を思えって、声を届かせようと魂を震わせる。

 愛しい人が、そこにいるのだ。自分を思って、泣いているのだ。

 砂浜に座り込み、動くこともできずに、ただじっと海を見て泣き続ける彼。彼に、笑顔を取り戻したかった。一度だけでも、彼にお別れを言いたかった。

 もう、自分のせいで苦しまなくていい、そう思いたかった。

 その顔に笑顔を取り戻せるのなら、私の記憶をすべてなくしてくれたって言い――それは少し言い過ぎたかもしれない、と女性は胸に手を当てる。

 そこにはまだ、たくさんの思い出が詰まっている。愛おしい日々の記憶が、確かに胸の中にある。けれど、少しずつ、生を謳歌する者に比べれば、大変ゆっくりと、記憶は薄れていく。存在の格となる記憶は、いつか摩耗してなくなってしまう。

 自分が、少しずつ壊れていく。それに恐怖することはない。恐怖という感情は、死とともに置いてきた。

 だから彼女は、ただ想い続ける。ただ、叫び続ける。

 海に座り込む男へと、声を届かせようとする。

 涙は枯れない。自分を想って泣いてくれている――そのことが、ちょっぴりいとおしくて。

 けれどそんなんじゃだめだと、己を律する。

 願い、祈り、歌う。

 この声よ届と、神に祈りながら。

 やがて夜になる。死者の時間がやってくる。

 海の束縛が少しだけ緩んだ世界で、彼女は海面を突き破って空へと飛び出す。

 曇天の下、月明かりの一つもない海はのっぺりとした黒さをしていた。まるで、黒の絵の具を塗りたくったよう。

 そんな亡者の世界から顔を出した彼女は、海岸へと飛ぶ。

 男は、もうそこにはいなかった。わかっていた。彼女の母が、男を連れて行ってくれた。けれど、もう少し、もう少し近くで彼を見ていたかったと、女は心の涙を流す。

 海が鳴く。ザザァと、潮騒が響く。寂しげな音に合わせて、女は歌う。

 その歌が届く日はいつになるのか、届くことがあるのか。

 何もわからず、死者はただ、生者を想って祈り続ける。


 どうか、笑っていて。どうか、幸せでいて。


 それは、はかなくも尊い愛の(うた)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ