星さがし 後編
「げほ、ごほっ」
座り込み、咳き込む。喉が焼けるように熱かった。頭は重く、体は怠く、冷え切ったせいか死を前にした恐怖か、体が小さく震えていた。
えぐるように砂を握る。大地の感覚がそこにあった。
「……二度と夜に海に入っちゃ駄目よ」
俺を助けてくれた女の人が、冷たい声で告げる。顔を上げた先、長い黒髪を絞るスーツ姿の女の人がいた。既視感があった。知っている人な気がした。いや、どこかで見たことがあるだけだろうか。
その既視感の訳をさぐろうとして、けれど慌てて目をそらした。着の身着のままで海に入ったからか、衣服はぐっしょりと濡れて体に張り付き、肩から下げた鞄からも水滴が滴っていた。
落ちる雫が砂浜を濡らし、浜の一部が水で黒ずんでまるで影のように浮かび上がっていた。
「ごめ、んなさい」
こみ上げて来た死の恐怖に体を掻き抱きながら、なんとかそれだけ吐き出した。
大きなため息が聞こえた。次いで、髪を掻き上げたその日とは何かをぶつぶつとつぶやく。
「まったく。最近どうにも夜に海に行こうとする子どもが多いのよね。危機感が足りないのよ」
海を睨む女の人の瞳が、何かを探すように揺れる。その視線の先を追うも、そこにはただのっぺりとした暗い海面を晒す海があるばかり。わずかな白波を立たせる海には、先ほどまで満天の星空のように溢れていたあの白い光の球は見えなかった。
その黒い海面がまた俺を呼んでいるような気がして、体が震えた。視線を逸らすように顔を上げる。暗い海とは違って、空には優しげな星の光がちりばめられていた。
水没したスマホを見てため息を吐いていた女の人が、壊れたそれを鞄にしまう。
ちゃり、と何かが擦れる音がした。視界の端で揺れた青いそれに、視線が吸い寄せられた。
「……青い、星?」
「え?……ああ、これね」
女の人の鞄に揺れるのは、海岸沿いに設置された町灯の光を反射する、青い星のストラップだった。それも、見間違いでなければビーズの星。しかも、記憶の中にあるそれとよく似ていた。壊してしまった星凪の星と。
「あ、あの!」
ひどく裏返った声が出た。既に、身に巣食っていた恐怖はどこかに消えていた。高揚感の中、つい先ほど見た景色を思い出した。
海に沈む中、暗い海中でわずかに青くきらめいていた星のこと。あれはきっと、このストラップだったのだと思う。
新月の夜、そうして僕は確かに海に沈む星に出会ったのだ。
これはたぶん、運命なんじゃないかと思った。僕と星凪が仲直りするために、神様か誰かがこの人をここに連れて来てくれたんじゃないかと思った。ビーズの星のストラップを持った、この女の人を。
目が合った女の人は、何かを探るように、あるいはいぶかしむように俺の顔を見ていた。眉間にしわを寄せたその顔には、かなりの疲れが見えた。ひょっとして、仕事帰りとかだろうか。
「その星、どこで買いましたか!?どうやったら手に入りますか!?」
「え……これなら手作りよ」
困惑した様子の女の人をよそに、俺は内心で頭を抱えた。手作り……つまり、仲直りをしたければ俺もストラップを作れということだろうか。
ええい、せっかく希望が見えたんだ。ここで怯んでどうする。
「あの、その作り方を教えてください!」
勢いよく頭を下げたせいで、体が酷く揺れた。地面に広がる水で湿った黒い砂と海の音を聞きながら、俺はじっと返事を待った。
やがて、ため息のような吐息と共に、女の人が口を開いた。
「いいわ。教本があるからそれを上げる」
「あ、ありがとうございます!」
これで星凪と仲直りできる。暗雲立ち込める先に見えた一条の光に、心は昂るばかりだった。
「……けれどまず、帰りましょうか。あなた、家はどこかしら?」
ひどく冷たい声が聞こえて、俺は我に返った。夜に海に飛び込むなんて危険を冒したことにようやく思考が追いついた。父さんの鉄拳を予感した。夢姉さんの呆れたため息が聞こえた気がした。何より、冷え冷えとした女の人の視線が、痛いほどに肌に突き刺さっていた。
「……こっちです」
海水に濡れた体を引きずるようにして、俺は自宅へと歩き出した。道中、必死に言い訳を考えながら、無言の時を過ごして。
◆
俺が家を出て行ったことに気づいていた父さんは、コンビニに向かったのかと俺を追ってきていた。再会してすぐ、父さんはこれまで見たことがないような顔をした。その胸の中に俺を強く抱いた。痛いほどに。
もう決して離さない――そんな強い意志を感じた。
父さんが泣いているところを、俺は初めて見た。頬を伝う涙に気づいたからか、父さんは少しばかり恥ずかしそうに顔を歪め、それから俺の頭に拳を落とした。痛かったけれど、嫌ではなかった。
それから、女の人は軽く状況を説明し、父さんから何度もお礼を言われながら去っていった。
その翌日、改めて家に来たその人から、俺はビーズづくりの本を手に入れた。そしてそこに、あの星を見た。角の一つが欠けてしまったビーズの星と、それは瓜二つどころか、全く同じもののように思えた。
願いが叶う星――青い星の絵と共に、そのビーズの作品はそう紹介されていた。
それから、悪戦苦闘の日々が始まった。
手芸なんてしたことがなかったし、ましてやビーズそのものなんて触ったこともなかった。それでも本を読みながら、買って来たビーズを手に取った。
広げた両手ほどの長さのテグスにビーズを通し、四つ目でクロスさせて形を作る。長いビーズを通し、小さいビーズを通し、クロスし、と形を作っていく。
こんがらがりながら作る俺を見て、夢姉さんは何かに気づいたようにぽんと手を打って、それからにやにやと嫌な笑みを浮かべた。
どこかからかいめいた質問を無視しながら、俺は必死に手を動かした。
慣れないことに頭が熱を帯び、ひどく疲れた。けれどそれでも、体は止まらなかったし、やめる気にもならなかった。
死にそうな思いをしてたどり着いた仲直りのための星。それを捨てることなんてできるはずがなかった。
これを手渡した時、星凪はどういう顔をするだろうか。無事に仲直りできるだろうか。いや、きっとできるはずだ。
希望を胸に俺は星を紡いだ。願いが叶う星を。
そんな俺を、父さんが眩しい物を見るように目を細めて見ていた。その視線はひどく居心地が悪くて、けれど不思議と温かさを感じた。
記憶の中にいる母さんは、こうして色々と小物を作るような人だったのだろうか。いや、多分違う気がする。こう、なんていうか、もっと活発で元気な人だった気がする。
好奇心のままに、俺は父さんに母さんのことをたずねた。
真帆母さん。父さんが愛した人のこと。
恥ずかしそうに、懐かしそうに、父さんは母さんとの思い出をぽつりぽつりと語った。
そこには悲しみがあり、苦悩があり、けれど確かに幸福があった。
いつか俺も二人みたいに、星凪と日々を歩んでいけるだろうか。
◆
出来上がったストラップを包装し、ポケットに入れる。
逸る気持ちのまま、まだ分団の集合時間には早かったけれど家を飛び出した。
学校に近づくほどに、心臓がバクバクと鼓動を刻んだ。
星凪に会いたい。謝って、今度こそ仲直りをするんだ。
その存在を確かめるように、手でポケットに触れる。
願いが叶う星。それが、ビーズが擦れる音によって確かな存在を伝えて来た。
気づけば吹き抜ける風には熱がこもっていて、照り付ける太陽にも夏の暑さを感じた。
じめっとした日本海の夏の到来を予感させる気温の中、俺はただ星凪のことだけを考えていた。
教室に入れば、今日も星凪は俺より先に来て、机に座って何かの小説を読んでいた。
日に焼けた赤い表紙の分厚い本のページがめくられる。
開かれた窓から風が吹き込み、カーテンが大きく揺れる。顔にかかった髪を掻き上げ、耳に掛ける星凪がふと顔を上げる。
目が合った。
その目はけれど、俺を映しているように思えなかった。
瞳から色が消え、再びその視線が本に落ちる。
絶望が心に芽を出す。けれど今日の俺には希望があった。ポケットに入れて置いた星の存在を確かめながら、一歩、強く前に踏み出す。
「星凪。星を壊して悪かった。これ、受け取ってくれないか」
差し出したそれは、けれど俺の手から離れていくことはなかった。クラスメイトから、突き刺さる視線を感じた。
ぺらり、とページをめくる音がする。視線の先、星凪の足が組み替えられる。
ゆっくりと顔を上げれば、星凪は俺のことを見てすらいなかった。本を置くこともなく、ただ物語に集中していた。
「俺が悪かった。ひどいことをたくさん言ったし、無駄にちょっかいも掛けた。そのうえお前の星も壊した。……本当にごめん」
もう一度、頭を下げる。すぐに星を見せれば、仲直りできると思った。けれど、それだけだと駄目だと思った。俺はただ仲直りがしたいんじゃない。仲直りをして、さらに星凪との関係を良くしたいんだ。友人より先に進めるように。
過去の全てが清算できるなんて思ってない。けれどそれでも、誠意を示さないといけない。あるいは、覚悟を見せないといけない。
なぜだか、父さんのことを思い出した。俺を不幸にしないために、母さんの葬式で涙をこらえていたという父さんのこと。悲しみにくれて俺を孤独にしないようにという、覚悟を。そんな、父さんみたいにありたいと、そう思いながら。
俺は頭を下げながら、両手に持った紙袋を星凪に突き出し続けた。
手に、小さな衝撃を感じた。手を叩かれ、その中にあったビーズが床に落ちる。
涙がにじんだ。やっぱり、謝ることもできやしない。もう、星凪との関係がよくなることなんてないんだ。
失望と絶望が足の裏から這い上がる。海に沈み、死を実感したあの瞬間を思い出した。
けれどここには、俺を救ってくれたあの人はいない。あの人が運んで来た、あの青い星はない。
気づけば、足は教室の出口へと向かっていた。
せめて涙は見せるもんかと、うつむきながら教室を飛び出す。
出口で誰かとぶつかりかけた気がしたけれど、それどころじゃなかった。
視界がにじむ。涙が落ちる。
張り裂けそうなほどに心が痛かった。
◆
「……またやっていたの?鷹も懲りないわね」
肩がぶつかった鷹に文句を言おうとして、けれどため息をつきながら友里は教室に入る。走り去っていく鷹の顔は見えなかったけれど、多分ふてくされていただろうとあたりをつけて。
隣のクラスの教室に入れば、今日も星凪は一人机に座って、じっと本を読んでいた。けれどどこか集中できていない。速読家である星凪だが、友里が見ている間に一ページも読み進めることができずにいた。
そのことが気になって友里は観察を続ける。ちらり、と星凪は床を見て、再び本に視線を戻し、それを繰り返す。
「おはよう、星凪」
声を掛ければ、星凪はビクリと肩を跳ねさせる。どこか迷子になって途方にくれたような目をしていた。
「どうしたの?」
「あ、えっと……」
「ひょっとして、また鷹が何かやったのね?」
友里が断定すれば、星凪はへにょんと眉尻を下げてうつむく。星凪の視線を追えば、床にしわの寄った紙の包みが落ちている。
「あら、星凪のかしら?」
「ううん……鷹のだよ」
鷹――名前を呼ぶことさえ嫌だと言いたげに顔をしかめる星凪だが、その口調にはどうにも覇気がない。やれやれ、と思いながら友里は星凪をぎゅっと抱きしめる。その内心では鷹への罵詈雑言が荒れ狂い、同時に星凪を私が守らなければ、という強い使命感が溢れていた。
強く抱きしめられた星凪は、やっぱり途方に暮れた様子で動きを止めていた。その視線は絶えず友里と床に落ちた包みとの間で揺れる。
「……わかっているわ。星凪は心優しい子だもの。無視をすることだって辛いのでしょう?」
「……でも、鷹は意地悪だから」
「そうね。何度も謝られて、許してあげない自分がひどく悪い人のように思えたのでしょう?けれど、悪いのは鷹よ。人の家族のことを馬鹿にして、そのことを気に留めることもないのだから」
「……そう、かな」
ああもう、と友里は心の中に蟠る思いを吐息に乗せて吐き出す。びくり、と肩を震わせた星凪の頭を優しく撫でて腕を離す。
大切な親友のため。星凪のためならば自分は何だってできると友里は考える。鷹から星凪を守ることも。星凪の本当の思いを、くみ取ることも――たとえそれが、生理的に拒絶したいことであっても。
「……私のことは気にしないで拾ってあげたら?」
自分に向けられる眼差しに縋るような光があるのを感じながら、友里は困ったように苦笑を浮かべて告げる。
優しい星凪は、誰かを嫌い続けるなんてできない。謝罪を続ける鷹にほだされることなどわかっていた。星凪にひどいことを言った鷹を、友里はまだ許していない。けれどそんな自分のわがままで星凪を苦しめるつもりもなかった。
(私は鷹とは違うもの。大丈夫、星凪にとっての一番が私であることには変わりないもの)
親友を取られるかもしれない――そんなわずかな不安を心の中で笑い飛ばして、友里は星凪を見守る。
床に落ちていた包みを拾い上げた星凪が、慎重な手つきでシールを剥がして中身を取り出す。手のひらに転がり出たそれは、赤い星。金色の差し色が入ったそれは、友里の見間違いでなければ星凪が失った星と同一のものだった。
「……なんで、これが」
呆然としたつぶやきが星凪の口から洩れる。困惑と、それから縋るような目が友里に向けられる。
はぁ、と友里は心の中でため息を漏らし、ついでに鷹に罵声を浴びせる。けれどそんな内心はおくびにも出さずに、友里は聖母のような慈しみ溢れる顔で星凪を見つめる。
「……行ってらっしゃい」
その言葉が引き金となって、星凪は教室を飛び出す。
その手には、赤い星が握られていた。
◆
まどろみを切り裂くように鳴り響く目覚まし時計に手の平を叩きつける。布団の温もりに包まれたままでいたかったけれど、今日の予定を思い出せばすぐに目は覚めた。
起き上がってカーテンを開けば、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。窓を開けば、温かな春の風が吹き込んでくる。昨日とは打って変わって、今日は門出にふさわしい、とても温かな一日になりそうだった。
「星凪ー?」
「起きてるよ!」
階下から聞こえて来たお母さんの声に叫び返してから、私は吹き込む温かな空気を肺一杯に吸い込む。
部屋から出て洗面所で顔を洗い、リビングに向かう。テーブルにはすでに朝食の用意ができていて、きつね色に焼かれたトーストと野菜のサラダ、湯気を立てるコーンスープが置かれていた。対面の席には、コーヒーを飲むお父さんの姿があった。両手で握りこむようにカップを持つ姿は可愛らしい。
ふぅふぅと息を引きかけるお父さんは、ゆっくりとカップに口をつける。目が見えないお父さんだけれど、その振る舞いはゆっくりでこそあれど違和感はない。もう慣れたよ、となんてことないように言うけれど、きっとそれまでにたくさんの苦労があったと思う。
最近、少しだけそういう、言葉の裏にある思いが分かるようになってきた気がする。
これが大人になるということだろうか。なんて、そんなことを今考えてしまうのは、少しばかりセンチメンタルになっているからだ。
今日は小学校の卒業式。もう六年も通った学校ととうとうお別れになる。それに、小学校を卒業してしまうと私立中学校に通うことになった友里ちゃんとも離れ離れになってしまう。
少しだけ鼻がツンとして、けれど今から泣いていたら始まらないと、私は慌てて頭を振って思考を追い払った。
「おはよう」
「おはよう、星凪」
「おはよう。早く食べてしまってね。わたしは陸音を起こしてくるわ」
お父さんとお母さんと朝の挨拶をしてから、すぐに席に座って手を合わせる。寝坊というわけではないけれど、早く食事を済ますにこしたことはない。
「いただきます」
「どうぞー」
台所にいたお母さんがせわしなく部屋から出ていく音を聞きながら、私は食パンにジャムを塗って食べ始める。今日のジャムはお母さんの手作りの金柑ジャムだ。お母さんがお母さんのおばあちゃんから教わったレシピで、少し金柑の苦みがあるけれど、それが癖になるらしい。大人な味で、私はまだその苦みが美味しいとは思えない。
さわやかな金柑の風味を感じながら、ほのかに甘いパンを食べ進める。途中でシャキシャキとしたレタスやトマトをつまみ、コーンスープを飲む。流石にスープはインスタントだ。
ほう、と息を吐いた時、開かれた扉から寝ぼけ眼をこする陸音が入って来る。まだ四歳の陸音は朝が弱い。あ、私の方が弱いかもしれない。
「……きょうはなにかあるのー?」
「お姉ちゃんの卒業式があるのよ。陸音は普通に保育園に行くわよ」
間延びした口調の陸音が目を瞬かせ、「そつぎょうしき?」とやや舌足らずな口調でおうむ返ししながら首を傾げる。
「小学校最後の日だよ」
「さいご?おねーちゃん、もうがっこうにいかないの?ずっとおやすみ?」
「小学校を卒業したら、次は中学校に通うんだよ」
よくわからない、と言った顔をしている陸音だけれど、話しているうちに目が覚めて来たのか、すぐに朝食に集中し始めた。そんな陸音の頭を撫でてから、私は食べた食器を積み重ね、それを台所に運ぶ。
「ごちそうさま!」
「お粗末様。早く準備しちゃいなさないね」
お母さんの声を聞きながら、私は自室に向かう。友里ちゃんと一緒に悩んだけれど、結局今日は着物ではなくスーツを着ることにした。着付けのために朝早くから起きるのは辛いから仕方ない。おしゃれより睡眠が勝つのね、と友里ちゃんにはおかしそうに笑われてしまった。
紺色のスーツに袖を通しながら、脳裏をよぎるのは小学校での思い出だ。流石に六年も通うと、一年生の頃の記憶はかなりあいまいだ。それでも友里ちゃんと過ごした楽しい思い出はたくさんあって、それを思うだけで中学では友里ちゃんがいないという事実に不安でたまらなくなる。さびしくて、心配で、涙が出そうだった。
軽く頬を叩いて気を引き締める。鏡に映った先には、ひどく大人びた自分がいた。お母さんのおさがりの服に身を包んだ私に死角はない。
「よし!」
もう一度、今度は気合を入れるために頬を軽く叩いて、持っていくものの最終確認をする。昨日のうちに学校に置いてあったものはほとんど持って帰ってきているから、大きな鞄は必要ない。だからランドセルじゃなくてお気に入りの手提げ鞄を持っていけばいい。
星のワッペンが縫い付けられた、お母さんの手作りの手提げ。チョコレート色にピンクや黄色の星がつけられたそれを持ち、ふと、ランドセルへと視線がいった。
昨日で役目を終えた赤いランドセル。くたびれて少し形がゆがんでいるそれの横に、朝日を浴びてきらりと光るストラップがつけたままだった。
願いが叶う星のストラップ。赤いそれを手に取って、少しだけ悩んでからランドセルから手提げ鞄に付け替える。
なんとなく、このストラップを置いていく気にはなれなかった。
これは、私が作った星じゃない。家族みんなでいつまでも一緒にいられますようにと願った星ではない。
それは、仲直りの星。大事な友人との繋がりを示す星。
「……友里ちゃんともお揃いにすればよかったかな?」
手提げかばんで揺れるそれを見ながらつぶやいて、けれど少しだけもやっとした。
私にとって、この星は家族との絆の証なのだ。星が好きなお母さんのために作ろうと決心して、弟の陸音が無事に生まれますようにという願掛けを込めて作った。そうして、陸音とお父さんのためにも作った、お揃いの星。一度壊れてしまっても、そこに込められていた在り方まで変わったわけじゃない。
「……家族の、証?」
なぜだか今、とんでもないことを考えてしまった気がして、私は首をひねる。この星のストラップは家族の証。星を持っている私たち四人と、それから、この星を作り直してくれた――
顔がひどく熱を帯びた。頭に浮かんだ思考を振り払うように、頭上を手でぱたぱたと払う。
「落ち着け、私。え、でもまって。ここで鷹の顔が浮かぶって……」
いつものように、友人の名前を口にしただけ。けれどそれだけで、くすぐられたような痒さと暴れ出したくなるような衝動が私の体に広がった。心が弾み、心臓は高鳴る。
心を落ち着けようと目を閉じ、胸に手を当てて深呼吸を繰り返しても、瞼にこびりついた彼の顔が消えてくれない。
「え、あれ……」
衝動は次第に困惑に変わり、頭がいっぱいになって。
「星凪、時間はいいの?」
「もう出る!」
階下から響いてきたお母さんの声で我に返って、私は慌てて鏡を見て最後の確認をする。
「おかしく……ないよね?」
いつもより慎重に身だしなみを確認してから、私はもう一度部屋を見回し、意識を切り変える。
「よし!」
扉を開けば、開けっ放しだった窓から温かな春の風が吹き込み、廊下へと流れて行く。
今日のために磨いたローファーを履き、外に飛び出す。
「行ってきます!」
家族の挨拶を背中で聞きながら、私は陽光降り注ぐ春の世界に足を踏み出す。少し遅めに開花した蝋梅が庭の端でゆらゆらと揺れていた。小さな黄色い花からは仄かに甘い匂いが漂っていた。
不安もある。寂しさもある。きっと学校に行くほどに卒業の実感が大きくなって、卒業式が終わるころには多分泣いてしまっていると思う。
友里ちゃんがいない学校生活なんて想像もできないけれど、私は一人じゃないから大丈夫だ。
顔を上げる。広がる青空には雲一つなくて。そこには、半分ほど欠けた月と、目に見えないけれど確かな星がある。
歩く拍子に擦れたビーズのストラップが小さな音を立てる。
星に見守られながら、私は旅立ちへと続く大きな一歩を踏み出した。