星すくい
彼女は元々、体が弱いひとではあった。
季節の変わり目には必ずと言っていいほど体調を崩したし、激しい運動をすれば次の日は布団の中の人となった。
それでも、彼女は必死に生きていた。弱い体を抱えながら、凛と背を伸ばしてまっすぐに生きていた。
特に挫折することはあった。一人、膝を抱えて涙を流しているところを見た。それでも立ち上がり、その苦悩をすっかり覆い隠して気丈に笑って見せた。
そんな彼女から、目が離せなかった。
同じ町で生まれ育ち、同じ学校に通い、時には離れることもあったけれど、気づけばよく話をしていた。そうして、幼い頃からの友情は強固な信頼感となり、恋を飛び越えて愛へと至った。
彼女を、愛していた。彼女の隣にいるだけで、幸せだった。彼女も、僕の隣にいるだけで幸せだと言ってくれた。
互いに互いを支えあい、足りないところを補い合いながら、僕たちは二人で生きて来た。
彼女が隣で笑っているのを見るだけで、頑張ろうと思えた。彼女のためと考えれば、辛いことも苦にはならなかった。
仕事から帰れば彼女がいる。お帰り、とどこかくすぐったそうに告げる彼女を前にして。
僕はいつだって言葉にすることもできない感動に震え、それを示すように彼女をそっと抱きしめて「ただいま」と告げた。
腕の中、恥ずかしそうに身をよじる彼女のぬくもりは、今もこの手の中に残っている。
僕たちの生活にはいつだって彼女がいて。
いつしか、それが当たり前になっていた。
家を前にすれば、小さなピアノの音が聞こえた。彼女の実家。ここには狭い家には置けないアップライトピアノが置いてあって、それを使って彼女はピアノ教室を営んでいた。
音楽大学を出て、教職免許を取りはしたけれど教師になることはなく、彼女はここで仕事をしていた。学校の先生とやっていくにはこの体は弱すぎる――漏らした弱音を抱えるように、そっと彼女を胸に包み込んだ。
僕の胸の中、すすり泣く彼女の声を覚えている。
響くピアノの曲は時折止まっては、思い出したように再び進み始める。指がもつれるように止まる。練習中の子どものもの。
その子をサポートするように、短く彼女の指が音を奏でる。あの、ほっそりとした白い指が鍵盤の上を踊っている姿を想像する。
なぜだかそれは、ひどく淫靡な光景に見えた。
黒鍵が沈む。白鍵が次々と沈んでは起き上がる。それは挫折を繰り返した彼女の人生にも似ていた。
たくさん、あきらめたことがあった。体の弱さが理由で、袖を濡らした日々があった。
けれどそのピアノはどこまでものびやかで、そこには何の後悔も含まれてはいなかった。
ピアノ教室の邪魔をしないように、インターホンは鳴らさずに鉄門を開く。庭の中を抜ける道を進む。
みずみずしい葉を広げ、実をつける家庭菜園の野菜たち。それを横目に、僕は玄関へとたどり着く。
鍵を開きながら、彼女のことを考える。
話したいことがあると、覚悟を胸に告げた彼女。彼女が告白の場所に選んだここは、彼女にとって最も心落ち着く場所。
いつか、僕たちの家が一番落ち着ける場所になればいいと、そう思いながら僕はそっと玄関扉を開いた。
大きくなったピアノの旋律に包まれた僕の心には、わずかな不安と期待、彼女のことを求める強い愛があった。
妊娠した――そう聞いた時、僕は興奮よりも不安でいっぱいになった。体の弱い彼女が、果たして妊娠に耐えることができるのか。もし彼女が亡くなってしまったら――そう思えば、僕はとてもじゃないけれど手放しに喜ぶことはできなかった。
けれど、彼女は心から笑っていた。僕たち二人の子どもが、いつしかやって来るだろう我が子を見ることが、待ち遠しくて仕方がないと。
僕たち二人は、何度も話し合った。最終的には、互いの両親を交えて激論を交わした。彼女に無理をさせたくない僕たちと、子どもを産みたい彼女。どれだけ自分たち二人の子どもを待ち遠しく思っているか、何度も語られるその言葉にほだされて、やがて僕たちは彼女の意志を尊重することに決めた。
姫のように彼女を守り、些細な風邪をひくことがないようにと注意した。実家が近い僕たちの両親も、度々彼女を見守りに来てくれた。そうでもしなければ、彼女は町内会の仕事等、大変な作業を気にすることなく行ってしまうから。
彼女のことが心配でたまらなくて、けれど少しずつ大きくなっていく彼女のお腹を見て、実感が強まっていく我が子の存在に心が躍った。
きっと、可愛い子が生まれるだろうと思った。彼女に似て、心優しい子になるのではないだろうかと思った。優しげに微笑を湛えて我が子を抱く彼女の、聖母のような姿を幻視した。子どもは男の子だろうか、女の子だろうか。どんな名前がいいだろうか。どんな子に育つだろうか。
たくさんのことを、彼女と話した。
いつしか僕たちの間には、希望だけがあった。
希望だけを見ていた。胸に抱いたその光は、決して消えないと、そう思っていた。
幸せだと、彼女は笑った。
幸せだねと、僕は言った。
そうして、手を取り合って生きていた。
海に面した小さな町。あまり人が来ることもない、どこか閉塞感のある町でもあった。
生まれ育ち、そして僕たちは骨をうずめるだろうと思っていたその町は、小さく、けれどだからこそ近隣の付き合いの豊富な、温かな町だった。挨拶が絶えず、心温まる社会が、そこにあった。
そのため、僕は安心して彼女に留守を任せ、もしもの時はお願いしますと近隣の人に頼み、その日も仕事に向かった。
彼女のお腹ははっきりと大きくなっていた。どうにも過保護になっていた僕を遮り、適度な運動が大事なのだからと、彼女は一日三十分ほど散歩をするようになっていた。夏の日差しに耐えるため、出歩くのは大抵、陽が落ちる少し前。やや涼しくなったその時間、いつものように海沿いをのんびり歩いている彼女のことを思いながら、僕は職場で仕事をしていた。
子どもが成長したら、三人で海に遊びに行こう。砂浜で彼女と手をつないで、元気いっぱいにはしゃぐ子どもを見ながら苦笑を交わすのだ。
夕日に照らされる砂浜を走る子どもが振り返る。大きく手を振る。隣で、彼女が口元に手を当ててくすくすと笑う。僕もまた、子どもに向かって手を振り返す。
温かな妄想を切り裂くように、一本の電話が入った。
手が震えた。動かなくなった手から、受話器が落ちた。
地面を転がった子機の蓋が外れ、甲高い破壊音を響かせた。
その言葉に、視線が集まる。誰かが、息をのんだ。そんな周囲の様子にも気づかず。
僕はただ茫然と立ち尽くしていた。
――彼女が、死んだ。
その知らせを聞いてからしばらくのことが、僕には全く思い出せなかった。
捜索隊からの知らせを、じっと待ち続けた。暑い夏の夜のはずなのに、ひどく体が冷えていた。ガタガタと音を立てそうになる歯を、ぐっと噛みしめた。不安を、飲み込む。
大丈夫、きっと大丈夫だ。彼女は、無事なはずだ――
けれど、どれだけ待っても彼女が見つかることはなかった。
彼女は、妊婦であるにも関わらず、溺れている子どもを助けるために海に入り、流された。そんな彼女の帰りを、僕はただただ待ち続けた。
この町で海に入る者はほとんどいない。離岸流のために、とりわけ子どもは決して海に入れない。けれどたまに、親の言いつけを破った子どもが保護者の監視なく海に入る場合がある。
今回もその事例だったという。
そんな馬鹿な子どものために、彼女が死んだ。彼女と、お腹の中にいる子が、死んだ。
いや、違う。死んでしまったはずがない。だって、今日だって、彼女はいつものように屈託のない笑みを浮かべて僕を仕事に送り出してくれた。
あたたかな、陽だまりのような笑顔。頬に浮かぶ片えくぼを彼女は気にしていて、けれどそんな彼女のすべてがいとおしくて。
そっと抱きしめた彼女のぬくもりが、この腕の中には確かにあったのだ。
顔を覆っていた手を、じっと見つめる。虚空に、何かを求めるように手を伸ばす。
その手は、何もつかめない。誰も、抱きしめられない。
ただ僕は、おのれの胸を抱いて震え続けた。
お願いだ。お願いだから神様、どうか彼女を救って下さい。彼女を守って下さい。
都合のいい時だけ神頼みをする僕に、神様は応えてくれなかった。
結局、彼女が見つかることはなかった。生きているのか、死んでいるのか、それすらもハッキリすることなく、捜索は打ち切られた。
僕はただただ、空虚な日々を送ることとなった。
いつも、彼女の姿を探していた。二言目には自然と彼女に言葉を投げかけていて、彼女がもういないということを突き付けられた。家が、異様に広く感じた。
誰もいない僕たちの愛の巣は、けれど絶望を突き付けられるだけの場所に変わっていた。彼女がいないという事実だけがそこにあった。彼女のいない日常が、当たり前のように僕のところにやってくる。引き裂かれるように胸が痛んだ。ぽっかりとあいた空虚な穴が、日に日に広がっているような気がした。
その苦痛に、彼女がいないという現実に、耐えられなかった。
僕は生まれて始めて、旅行以外の理由で町を出た。町から逃げた。彼女との記憶から逃げた。
逃げるしかなかった。だって、それ以外に僕は自分を守る方法を思いつかなかった。
彼女のことを忘れてしまえば、きっとそれなりに幸福に生きていくことはできたのだろう。けれど、それを僕は許さなかった。彼女のことを忘れてしまう僕自身を、決して許せなかった。
だから、消極的に、彼女のことを頭から一時的に排除する道を選んだ。
これは忘れようとしているわけではないと、心の中で言い訳を重ねながら。
現実から目を逸らすように、僕は故郷から遠く離れた町でがむしゃらに働いた。家に帰れば倒れこむように寝て、休日もまたひたすら惰眠を貪り、会社に行く。その、繰り返し。
最初は心配していた同僚も、けれど次第に何も言わなくなった。
僕はただひたすらに働いて、けれどやっぱり、彼女のことを忘れることはできなかった。
夏の一日。僕は一年でその日だけは、仕事を休んで故郷に向かった。彼女の実家で線香をあげ、彼女の姿を探して海岸をさまよい歩く。
その目は、遥か遠くに続く海の、その水平線の先を見ていた。いつか、彼女が沖から帰って来るのではないか。そう思いながら、僕は嵐の日も、日差しが厳しい暑い日も、彼女がいなくなったその日だけは、心に広がる絶望と空虚感を押し殺して、彼女の姿を探し続けた。
でも、見つからない。見つかるはずがなかった。彼女はもう、帰らぬ人となったのだ。
それを受け入れることすら、僕にはまだできなかった。
「もう、十分だよ。あの子は幸せだった。あなたに愛されて、本当に幸せだったよ。だから、もうこれ以上、亡くなったあの子のせいで苦しむのはやめてくれ。あの子は、あなたがこのまま絶望の中で生きることを望んでなんかいないはずよ」
そう言われたのは、彼女が死んで三年目のことだった。苦しそうにはきだされたその言葉を聞いて、僕は激しい怒りに襲われた。
何を言っているのか、最初はわからなかった。
続いて、激しい耳鳴りがした。次第にその音は、嵐の日の海の鳴き声のように、荒々しいものへと変わっていった。
「彼女は、まだ、死んでいない」
そう、彼女は死んでいないのだ。僕はまだ、彼女が死んだとは思っていなかった。いつか彼女は、水平線の向こうからやって来る。その、はずだった。だから僕は、こうして、辛い記憶を呼び覚ますだけの故郷に、帰ってくるのだ。
彼女が死んだとは限らない。死体は見つかっていない。それに、少なくとも僕の心の中では、確かに彼女は生きていた。
――本当は、わかっていた。彼女は、もうこの世界にいないと。けれど、それを真正面から受け止められるほど、僕は心が強くなかった。
可哀そうな人を見るような彼女の母を、僕はただにらむことしかできなかった。
黒い傘を片手に、彼女の家を飛び出した。
雨が降っていても構わなかった。その音が、少しだけ僕の心を絶望から救ってくれた。
代わりに、孤独感が強まった。傘に打ち付ける雨の音が、世界の音を消していく。雨に煙る灰色の世界に、僕は一人。
誰にも理解されない、狂った一人の男がそこにいた。
あぁ、確か彼女が死んで一年目のあの日も雨が降っていた。あの時は嵐が来ていて、外は出られたものではなくて、僕は傘もささずにずぶぬれになりながら海をにらみ続けた。
あの日に比べれば、この程度の雨はどうってことない。
僕の足は、自然と海の方へと向かっていた。
降りしきる雨の中、黒ずくめの恰好の僕は薄暗い世界に紛れて海岸沿いを歩き続ける。
水面に暗い影をたたえる海は、押し寄せては引き、白い泡で荒れ狂っていた。
その白波は、まるで怒りを表現しているようだった。
あるいは、泣いているようだった。見つけてもらえない悲しみを叫んでいるようだった。
涙で、目がにじんだ。彼女は今も海の中に沈んでいるのだと思うと、悲しくて仕方がなかった。
さみしくはないだろうか。寒くはないだろうか。
僕は寂しい。悲しい。つらい。苦しい。それに寒い。暑いはずなのに、寒くて仕方がないんだ。
ねぇ、僕の名前を呼んでよ。僕の声を呼んでよ。会いに来てよ。ねぇ、君はどこにいるの?会いたいよ。会いたいんだ――
一人暗い海の底で眠っている彼女を思って、僕は泣いた。
気づけば、夜になっていて。道脇に並ぶ明かりだけが、ただぼんやりと世界を映し出していた。真っ黒な海は、のっぺりとした顔でそこに存在し続けていた。
静かに、潮が引いては満ちていた。
ふと、暗闇の中、かすかな明かりに照らし出されるように白い小さな影を見て、僕は砂浜へと走った。
彼女が、帰って来たと思った。幽霊のような姿をしたその人物が、僕に会いに来た彼女だと、そう思って。
けれど近づくほどに、彼女とは全く異なる人物であることが分かった。
小さな、少女。真っ白なワンピースを着た彼女は、裸足で水際に座り、ぼんやりと空を眺めていた。
僕もまた、空を見上げる。気づけば雨は上がっていて、雲の切れ間から星がのぞいていた。明かりの少ないここでは、やけにはっきりと星が見えた。
いや、多分町のどこでもここと変わらないくらい星が見えただろう。ただ、雲の切れ間から覗く星の海に、僕が久しく目を向けていなかっただけだった。
遠く離れた都会では、星なんてほとんど見えやしない。その前だってそう。彼女が死んでから、僕が空を見上げたことなんて、憂鬱な雨空を睨んだくらいだった。
閉じ時を失った傘を差したまま、僕は少女を見ながら砂を踏みしめた。
まだ三歳かそこらの、小さな少女。周りには彼女の保護者らしき人影はいなかった。幽霊のように星明りの中にいる少女のもとへと向かったのは、彼女の死の記憶があったから。
子どもを助けるために海に消えた彼女。助けに向かった子どもは、彼女のお陰で九死に一生を得たという。だからもし、少女が大波に飲まれて海に引きずり込まれたら、僕が少女を助けに向かって、彼女の下へと向かおうと思った。
波打ち際の少女は、動かない。その少女の視線を閉ざすように、僕は彼女の視界を傘で覆った。
「何をしているんだ?」
小さく目を瞬かせた少女は、わずかに小首を傾げる。その顔に、彼女の面影を見た気がした。
「……おとーさんと、おかーさん」
小さな、丸みを帯びた指が傘――の先にある雲の切れ間を指す。
「はなちゃんが、いってたの。おそらに、おかあさんはいるんだって。でも、いないの」
その顔に見たのは、彼女の面影ではなかった。鏡の中の僕の顔に張り付いた、孤独の気配がそこにあった。
少女を見守る人は、いない。一人海岸沿いにいる少女の両親は、彼女の言動が正しければ遥か遠く、空の上にいるのだ。
空の上に、彼女もいるのだろうか。波にさらわれた彼女は、空に昇ることができたのだろうか。
傘をずらして、空を見上げる。点在する雲の切れ間から覗く星々の中に彼女の星があるとは、僕には思えなかった。
「亡くなった人は空に昇ってみんなを見守っている、っていう言い伝えがあるんだよ」
「おそらに、のぼる?とべるの?」
「うーん、とぶんじゃなくて、そうだね、お星さまになるんだよ」
よくわからないと言った顔で、少女が首を傾げる。きゅっと眉間にしわを寄せる少女は、すぐに再び空を睨む。指さしていたその手を開いて、握るように虚空をつかむ。
「おほしさまつかまえたら、おかーさんとおとーさん、あいにくる?」
「どう、だろうね。星を捕まえられるような奇跡が起こったら、君に会いに来てくれるかもしれないね」
もし、彼女が生きていて、女の子が、生まれていたとしたら。このくらいの年齢の、彼女に似た可愛らしい子だったんじゃないだろうかと、そう思った。だから、少しだけ、絶望と孤独に沈んだ心を闇から引きずり上げて、彼女に答えた。
何度も、何度も、少女が星を捕まえようとその手を伸ばす。小さな手で、必死になって。
死を知らず、両親との永遠の別れだって十分には理解していないだろう少女のその姿は、ひどく痛々しく僕の目に映った。
「おいで。協力してあげる」
そう言って、僕は少女を抱き上げて海に進んだ。革靴が海水に浸るのも、ズボンが濡れるのも、気にはならなかった。きょとんとした様子の少女を抱えながら、僕は海を進む。
差し出した傘を、少女は両手で握る。けれど成人男性用のそれは、少女の手には重すぎてすぐに海へと落ちていく。少女の手を支え、海を掬う。
「ほら、見て」
真っ黒な傘は、海の水を少しだけ掬う。引いては押し寄せる海水から隔離された水面は静かに揺蕩い、その表面に星々を映し出す。
わぁ、と少女が静かに歓声を上げる。身もだえする少女を落とさないように気を付けながらしゃがめば、少女は伸ばしたその手で、水面の星をつかもうと足掻く。
どれだけそうやっても、星は少女の手の中に収まらない。けれど手を握ることで星が消え、少女はそれを、つかんだと考えたようだった。
「おとーさんと、おかーさん、あえるかな?」
「会えるといいね。……君は、これからどうするの?」
何度も何度も星をつかもうとしている少女を見ながら、僕は尋ねた。動きを止めた少女が顔を上げる。漆黒の瞳には、もう孤独の光はなかった。
「うーんとね、おひさまがのぼったら、おじーちゃんがくるんだって」
「……そうか。いい人だといいね」
「わかんないの。おじーちゃんって、だぁれ?」
「会ったことないのか。そうだね、君のお父さんの、お父さんのことだよ」
「おとーさんの、おとーさん」
ちらりと、少女が空を見上げる。その先に、手を伸ばす。
僕もできるだけ少女の手が少しでも空に近づくように、膝を伸ばす。
やっぱりその手が星をつかむことはなく、けれど少女は、どこか満足いったようにうなずいた。
「……あ」
ふと、少女が小さな声を上げる。視線の先、僕たちの手から離れた傘が、奇跡的なバランスを持って、星を掬ったまま、静かに海の向こうへと引き寄せられていった。
まるで、誰かに運んでいるように。
その、傘が揺蕩う先。雲から覗いた月に照らされた海の光が、一瞬、彼女の姿をとった気がした。こちらに半身を振り返って、舌を覗かせてからかうように笑う彼女が、いた気がした。
「どうか、風花に届きますように」
空にいるのか、海の中にいるのか。行方もしれない彼女にひと掬いの星空が届くように願いながら、僕たちはじっと傘の行方を追い続けた。