第七十三羽 「受け継がれる心」
扉の前に、黒く長い艶やかな髪をした女性が立っていた。その背には一対の翼があった。
清潔感のある白色の壁の廊下に備えられたその扉をノックすると、中から入室を許可する声が聞こえてきた。
「セレ博士、お久しぶりです」
「やあ、エマ。よく許可が下りたね」
「はい、おじい様…… ビネ議長の取り計らいのお陰です。……お体の具合はいかがですか?」
「落ち着いているよ、ありがとう。君こそ調子が良さそうだ。やっぱり私のような老人では力不足だったようだね」
「そ、そんな! ……そうでしょうか?」
「ははは、そうだとも」
髪の手入れも行き届き、薄く紅も引いている。床に伏している老人の元に配属されていた時はそのような身だしなみもろくにしていなかった。追い詰められた精神が解放されたことは化粧などをする余裕だけではなく、彼女の表情そのものに如実に現れていた。それを感じ取っていた老羽ありは心から安心していた。
「君はきれいだよ。その方が良い。私ももっと若かったら間違いなく求婚していただろうね」
「またまたぁ。お上手ですね」
黒髪の羽ありは半強制的に仕事に携わっていた時にはこのような笑顔を見せたことが無かった。彼女の変化はこの老人にとって何より嬉しい事で、胸が透くような気分であった。
―73―
床に就いたままの老人は手招きをしてベッドのすぐ脇にある腰掛に黒髪の羽ありを導いた。一つ断りを入れた後にそれに座った女は笑みを浮かべたまま、別れた後に何があったのかを語っていった。
預かった最終兵器を守るために作った機獣で彼女を救いに来た男達と戦ってしまった事。
孤独と不信で判断を誤り危うく取り返しのつかない事をしてしまうところだった事。
特殊書を提供した男が将軍の孫でしかもそれが最適な物であった偶然に驚いた事。
アースで出来た親友までが無理を押して救助に来てくれており、感謝してもしきれなかった事。
「しかもその子、女の子なんですよ? 私より少し小柄な体格なのに、男性でも誰も敵わないような力持ちなんですよ。……そうなんです。こっちにはハイランドでは想像もできない事がたくさんあって。学ぶ事は山のようにあって。アースとハイランドはどちらが上かではなくて、互いに必要としているはずで……」
「もう良い。君の言いたい事は、もうすでに多くのゴンドワナの民に伝わっているよ。だから、泣くのは止しなさい」
穏やかな声でベッドの老人が諭す。諭すと言うよりも頼むと言う方がふさわしいかもしれない。
停戦後から彼女は随分涙脆くなっていた。ずっと抑えていた心に溜まり続けていた物が一度出切ってすっきりするまでには、もうしばらく時間がかかりそうだと老人も感じていた。黒髪の羽ありは人さし指で瞼に溜まった涙を拭い、もう一度笑顔を見せた。
笑顔でいよう。そう病室の外で決意した事をもう一度思い出した。
彼女の笑顔を見て口を開きかけた老人が数度軽い咳をした。その身を案じた黒髪の羽ありが慌てた様子で席から腰を浮かせて近寄ったが、老人は口に当てた手とは反対の方を伸ばして、心配いらないから席に戻るように命じた。
彼女は聞いていた。世話になったこの老人が酷く胸を病み、その治療は困難を極めている事を。そして病状は進行しており、緩和できるのも限界に近づいている事まで報告を受けていた。ハイランド「パンゲア」にあると言う古の技術であれば治療の可能性があると医師の間で実しやかにささやかれていたが、彼はそれを望まなかったと言う。だから急ぎ、彼女の祖父の伝手を利用してまで面会の許可を取ったのだ。
その上で心配をするなと言われるのも無理がある。だが確かに咳はすぐに治まり、彼も特に苦しそうな顔つきをしてはいない。落ち着いた老人が改めて口を開いた。
「時折アースとの共存について、私に言っていたね。その時も答えたかもしれないが、違う世界で生きていた者がそれを理解するには時間がかかるのだよ。そしてそのために必要だったのが、この戦の時間だったと言う事なのだよ。大丈夫、心配する事はない」
「はい。これからが本当の始まりだと、私も思います」
「この事に関してはロディニアの君の方が先輩だからね。私の推測が間違っていないと信じられるよ」
祖父とその孫娘。誰が見てもそう思っただろう。それほどまでにお互いが心を許し、信頼している事が見て取れた。穏やかな笑い声が病室に響き渡っていた。
「博士。お聞きしたいことがあるのですが」
笑い声が治まり再度静かな時間が流れ始めた頃、黒髪の羽ありが聞いた。
「Fユニット、こうなると分かっていて私に預けたのでは?」
「……やはり君は気付いたね。他に気付いているのはおそらくシモンくらいだろうね」
彼女はどうしてもそれが偶然だとは思えなかった。片羽の少年と言えど純粋な戦闘で軍神に勝てる見込みは極めて薄いと思っていた。現に託された力が解放できなければ負けていた。勝つための要素があらかじめいくつも用意されていたと考える必要があると思っていたのだ。そしてそれを導いたのはどう考えても今目の前で横になっている老羽あり以外にない。その推察は正しかったが、一体いつからこの男がこの筋書きを立てていたのか。それはやはり分からなかった。
老人は横になったまま、その問いに穏やかに微笑みながら答えてくれた。
「戦争が始まってすぐさ。ネフュー中佐、あのシモンの孫が負けた時、こうなるだろうと思っていたよ。
彼のケルベロスが一般火器で倒されたと耳を疑う報告を受けた時、ロディニアにもシモンと同じ存在がいると確信してね。戦略的体力に欠陥のある我々がそんな相手に勝てるかね? いや、シモンなら勝つかもしれない。だが彼と言えど勝利するまでに極めて甚大な被害を出す事を避けられはしないだろう。
君も分かるだろう? そうなってしまったら勝ったとしても負け戦さ。
我々に残されているのは納得して負ける道。もうそこから先の戦闘は我々の悪あがきでしかなかったのだよ」
「ならなぜレッドクリスタルを軍に……」
「言ったろう? 戦争が技術を発達させると。これはとても非道な事だけれども否定が出来ない事なんだよ。あの時、君無くしてレッドクリスタルが完成する事は無かった。それと同時に国の援助は不可欠だった」
そこまで言うと老人は一呼吸置いた。体調は芳しくない。その事を理解している黒髪の羽ありは老人の言葉を継いだ。
「もちろん分かります。レッドクリスタルが戦力を著しく増加させる事が自明である以上、不利な戦局が続けば開発への援助は確約され、そして実戦使用によるデータ収集も大量で確実に行えます。予期しなかった問題点へのフィードバックまででき、レッドクリスタルをより完全な物へと近づけることができます」
「そう。……喉から手が出るほど欲しかった環境だよ。
これは必ず人々に明るい未来を届ける。例え敗北すると分かっていても、成さなくてはならない事がある。だから黙っていたのさ。酷い男だろう?」
「そんな! 博士ほどの方が酷いなんて、そんな事……」
「ありがとう。でも、私の判断で出さなくても良い被害者を出させたのは事実だ。その事は受け止めなくてはならないよ。だけど、進言しなかった理由はそれだけではない」
天井を見上げていた老人は体を起こし、真っ正面から黒髪の羽ありの目を見て話を続けた。
「さっきも言った通り、納得して負けるためさ。全力を出した上で、ね。当時停戦を上訴した所で理解はされなかっただろう。体験しなくては納得できない事がある。体験してもなお受け入れ難いかもしれないが、歩みを進める事はできる。それは未来を決める大きな選択であるほどそうなのだよ。
……私がそうだったからね。初めてミスリル適性検査を受けた時と、それと一年前に精密検査を受けた時の二回、ね」
それを聞いた黒髪の羽ありはわずかに表情を曇らせ俯いてしまった。笑顔の決意を上回る慚愧の念が抑えられない。
「気付いていませんでした……。申し訳ありません。自分の事ばかりで、他の人達の事を全く見ようとしていなかった。本当に嫌になります。博士のお体の事を存じていれば、こんなにも博士に負担をおかけしなくても良かったはずなのに……」
「良いのだよ、エマ。これは私が望んだ結果だからね。最期まで携わっていたかったのだよ、この世界の未来のためにね。しかしレッドクリスタルは完成目前にして行き詰まった。さらにその時ゴンドワナがこの地に落ち……」
黒髪に向かって手が伸び、優しく撫でた。そして見せた笑顔は慈しみに満ち、いかなる苦難も受け入れ許す聖人を思わせた。
「そして君が連れてこられた。絶望の底に希望の女神がやってきたと思ったよ。おかげで私は人生を充実した意味ある物として生ききる事が出来た。私こそ感謝してもしつくせないよ。ありがとう」
老人は笑顔を浮かべたまま再びベッドに背を預け、深呼吸するように大きく息を吐いた。
「黙って行こうと思っていたのだけどね。結局のところ知られる事となり心配させてしまった。こちらこそ謝らなくてはいけない。……私はもう余命幾ばくもない。だからこそ、この国を死なせたくなかった。シモンは生かすために勝つと言っていたが、きっとあのまま戦争に勝っていたとしたら、この国は死んでいたよ。
君達のような生き方が、これからの私達の国に必要なんだ。苦難を乗り越える為に、ぶつかりながらも分かり合う。それをはっきりと体現した若者達の為に、我々は負け、生きなくてはいけない。これはきっとものすごく勇気がいる事だろう。だけど、できないとは思わない。今から死にゆく老人に言われたくはないだろうがね。だけどはっきりと言おう。この結末を見る事が出来て良かった。
本当の、幸福な未来を歩むための戦いだったと、後々に語り継ぐことが出来るようになる事を祈っているよ」
胸を患いながらも、最後まで途切れる事無く心を伝えた。その覚悟、そして未来への希望は、傍らの若い女性にこそ受け継いでほしい。命を懸けた彼の言葉は、何よりも強く、何よりも優しく彼女を包んでいた。
黒髪の羽ありは老人の手を両手で取り頭を下げた。大粒の水滴が床にいくつも落ちる。しかしもう一度上げたその顔に悲哀はなく、感謝を込めた笑顔があった。




