第七十二羽 「黒羽と片羽」
一、占拠、強制統治を実施した地域に対する賠償
一、戦闘による物的損害を被った地域に対する賠償
一、街道および海路の支配による流通妨害による経済的損失に対する賠償
一、ロディニアおよびローラシアからの金融支援の受諾
一、被害地域再生事業の実施および他国の実施する再生事業への支援参加
一、力場技術を含むゴンドワナの独自技術の提供、情報公開
この戦役を引き起こしたゴンドワナに対して課せられた制裁の中の主だった物である。本土であるハイランドの墜落と言う悲劇に見舞われ、この戦争が国民の生存権を守るための闘争であったと言う主張の一部は認められたが、その規模が大きく、またアースの他国を侵略しハイランド至上主義に基づく支配層としての振る舞いは目に余るとして、巨額の賠償金の支払い、労働力、知的財産の提供が命ぜられた。
戦争被害を受けた広域への補償を担う事は戦争責任を果たす上で必要な事項である。しかし講和条約として締結された項目の中に一つ、違和感のある記載があった。
一、シモン・パディクトの将軍職の解任、及びゴンドワナ国軍軍役の一切に関与する事の禁止
異例の一文である。現行政権および軍上層部は現在のゴンドワナの建て直しの為に退陣を延期する事が認められたが、実質の最高実力者であり最大の求心力である老人の職務継続は許されなかった。それだけこの老人が恐れられていると言う事の表れだろう。
「この老い先短い爺に対して酷い扱いをするのう」
恨みがましい事を言ったが、当の本人は権力の椅子にしがみつく様な真似も、後ろ髪を引かれる事も無く要求を受け入れた。もともと隠居する事を望んでいたと公言しており、渡りに船とでも言わんばかりだ。
「セレ、こうなる事を知っておったな? まったく。頭の切れは年を経ても衰える事を知らんのぅ。偶然のはずが無い。お主が先見をしておらねば儂は負けておらんじゃろうて。
ケルベロスを持つネフューが離反し、エミリオの孫娘がFユニットを授かり、あの娘を助けに来た小僧が儂に拮抗する力を持っておった。
一つでもパーツが揃わねばフェンリルの使用は不可能じゃ。それもアレを二度も扱うとは。末恐ろしい男よ。のう、セレ」
老人が目を遣った先の椅子の上には誰も座っていない。にやりと口角を上げ、ふん、と一度鼻を鳴らして歩き出した。国における地位を剥奪されたと言うのに老人の顔は晴れ晴れとしているようにすら見えた。
蓄えた長い顎髭を撫でながら一度だけ振り返った。そこには空白の座に向かって長く伸びる老人の影があった。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ。千年前の言葉は今も真理か。
……そうじゃな。未来は子供達に任せるとしようかのう」
そして再び歩みを進めると、夕日の射し込む扉が静かに閉まり、大きな影を受け止めた。
―72―
停戦から四日が経った。
「だめだよ、サンドイールは栄養もあるんだから」
「ですが、この奥に隠れた苦味がどうしても……」
「まあ確かにアグロアナヘビの方がおいしいとは思うけど」
「何ですのそのおぞましい名前の生き物は……っ」
「地禮祭の屋台の名物だよ。そう言えばそろそろ時期だなぁ。今年はどんな風なんだろう」
片羽の少年は現在、制圧した渓谷の城塞にいた。
守護する蛇の王を撃破した後の降伏が早かったおかげで損害が少なく、機能している施設が多く残されていた。その一角に黒翼の少女を収容している部屋がある。片羽の少年は今日も、質素だが栄養のバランスを計算された昼食を運び、少女と一緒に食事を摂りながらとりとめもない会話をしていた。
豪奢なドレスに身を包んでいた少女は今、身柄を拘束しているロディニア軍の所有する捕虜用の衣類を着用させられていた。彼女の体格に合った物がなく、小さなサイズの物でもぶかぶかだ。袖や裾を幾重にも折って長さをあわせていた。彼女のドレスは少年の姉に割り当てられた部屋に保管されている。
裕福に育てられた少女もさすがに捕虜であると自覚しており、贅沢や小うるさい注文をする事はなかった。が、相変わらず片羽の少年または彼の姉の指示しか受け入れず、そのため給仕をはじめとした諸事がこの姉弟に委託されていた。二人で交代制のつもりだったが、戦闘での負傷の治療で姉が不定期に席を外さなくてはならず、大半を片羽の少年が請け負う事になっていた。
少年はと言うと特に嫌な顔もせず黒翼の少女の世話をし、訪れる度に話し相手になっていた。その事に対して彼の姉はあまりいい顔をしていない。しかしそれ以外のほとんどの時間を一緒に過ごせているため容認していた。
少年にたしなめられてもぶちぶちと文句をこぼし、一向に少女の箸が進む様子はない。今日の献立の一つ、スモーク・サンドイールは黒翼の少女の口にどうしても合わないようだ。
サンドイールは乾燥地帯の河川に生息している水生生物だ。サバナ気候帯では細い河川は雨季の降水量が少ないと乾季になった時に容易に干上がってしまう。過酷な乾季を川底に潜ってやり過ごすために、この生物は体内に非常に濃密な栄養素を貯め込む事で知られている。名前に砂とついているのはすっかり乾燥しきって砂漠状となった元河川でも漁獲できるからだ。濃厚な粘液を分泌して乾燥から体を保護し、さらにその粘液を酸素交換膜として呼吸に利用している、れっきとした魚類である。
現地ではそのまま串焼きにして食する事もあるが、貴重な栄養源として保存目的に燻製にされる事が多い。その独特な風味は酒を好む者達の肴として重宝されたりもする。ただこの風味が苦手な者は確かに少なくない。ちなみに片羽の少年は平気だ。
「ちゃんと食べないと体に悪いよ。大きくなれないよ」
「どうしていつも子供扱いなんですの?! 私はもう十六のレディですわ!」
「え! そうなの? 二歳差?! もっと下だとばっかり!」
「重ね重ね失礼ですわね!」
「ご、ごめん。でも、それにしても……」
彼の姉が同じ年齢だった時の姿を重ね合わせる。当時の姉はもう少し女性らしい体型をしていたような記憶がある。ジト目で睨み続けている黒翼の少女の身長、体つきを見る限り、この少女は発育が遅いとしか思えなかった。
「うーん……」
「……何ですの? 失礼な事を考えている事だけは分かりますわ」
「大丈夫、姉さんも地姫の頃まで成長してたから。まだまだ時間はあるよ」
黒翼の少女は烈火のごとく怒りだし、いやらしいとか、やっぱり殿方の目は穢らわしいとか、貴方までそんな風だとは、と散々片羽の少年を罵った。
「もう! そんなデリカシーのない事を言いに来ただけでしたらお引き取りください!」
「ごめんごめん! 来たのはお昼だからだけじゃないんだ、忘れてた」
恐らく今日、講和が結ばれ本格的に終戦となると聞いていた。そうすれば少女も家へと帰る事ができるようになるはずだ。もうじき心配している家族のもとに戻れると伝えに来たのだ。
「あのおじいさん、シモン将軍も君の事を心配していたよ。デュラハンを倒したって伝えた時、とても驚いて僕を急に睨みつけてきたくらいだからね」
ところが突然、少女の顔は能面を付けたようになり、声の調子も一段階低くなった。少年からも彼女の感情が抑圧された事が見てとれた。
「……いいえ、それは私を案じてではなく、貴方が危険だと判断されたに過ぎませんわ。私はあの方が前線に出ずとも良い様に軍を率いるための存在です。私を破ったと言うのはすなわちあの方でなくては対処が出来ない事の証明になるのですから」
「そんな…… それじゃあ君が解放される事を特に望んでいないって言う事?」
「それは…… どうでしょう。私は父も母も健在ですから、両親の為にも解放を望まれると思います。ですがシモン様自身の事は推し量れませんわ」
彼女は部下の失態に対し非常に厳しい老人の性格をよく知っていた。彼女は任務に失敗し期待を裏切った。心酔していた存在から切り捨てられるかもしれない不安は時を追うに従って膨らんでいた。少年や彼の姉が訪れている時はその事を忘れていられたのだが、不意にその蓋を開けられてしまったのだ。それを漏らさぬよう必死に押し込める事は、そのまま感情を奪う事に繋がった。
「……それなのに何でクローヴァリアはこんな危ない任務に就いたの?」
「それこそ私がお聞きしたい質問です。どうして貴方はこんな戦いに身を置かれたのですか? 貴方を観るかぎり、貴方こそ戦いに向いていない性質ですわ。それなのに……」
想像しなかったほどの少女の冷淡さは、事情をまるで知らないお人好しな少年に、彼女を少しでも理解したい、辛い想いを和らげてあげたいと思わせるのに十分だった。ところが逆に問いかけられた。いつの間にか少女の顔つきは元に戻っている。建前を述べるのは簡単だがそれは彼女にとっての答えにならないと彼は感じていた。
「……ただ助けたい一心だったんだ。一人の女の人をね」
「失礼をお聞きしますが、恋人……ですか?」
「ははっ、大分前に振られてるんだけどね」
さすがに気まずいことを聞いたと言わんばかりに少女は押し黙り、さらに黒翼を小さくすぼめた。
「いや、黙らないでよ。別に悪い事を聞いたわけじゃないし。で、その人を助けたいだけだったんだけど、これまでの間でいろいろ見て、いろいろあったんだ。戦争が起きたためにたくさんの人が辛い思いをして、僕はまた大切な人を失いかけて。
こんな事を長く続かせては駄目だ、早く終わらせるために僕の出来る事は何でもやろうって思ったんだ。で、ここまで来ちゃった」
少女はやはり喋らず傾聴し続けた。
「結果、戦争を終わらせる事が出来たし、エマを助けられた。とっても大変だったけど、良かったと思ってるよ。……で、クローヴァリアはどうして?」
この少女のような年齢で戦地に赴くには何か大きな理由があっただろう。人によっては口にできない理由かもしれない。しかし先程見せたような感情の色を消した顔、本当に人形のようだった姿を思い出すといたたまれなかった。何か力になれたら。その想いに嘘はつけなかった。
黒翼の少女も聞けば聞かれると分かっていた。胸のうちに秘めたままでいる事は、他人である自分にまで本心を打ち明けた事に対して公平ではないと、真摯に見つめる男に吐露しようと意を決めた。
「私は…… 私は、広く認めさせたかっただけですわ。私は両親のおかげで何も不自由することなく暮らす事ができておりました。ですが心は腐っていくばかり。何をやっても両親のおかげ、家柄のおかげ、特別な教育のおかげ。私自身の力で成し遂げたと認められる事はなく、必ず私の後ろにある力の傘で守られていると評価され続けておりました。
これ程の屈辱がありましょうか……! ですがシモン様だけは違った。あの方は私の才能を誰よりも、それこそ温室で育て続けた両親よりも早く見抜かれ認めてくださいました。
こんなに嬉しい事は無かった! 私が世に力を示し続ける事がシモン様へのご奉公であり、存在する意義だと信じています。そんな私がこの戦場に身を置かない理由がありましょうか」
彼女には彼女にしか分からない苦悩を抱えていた。聴いていた男も迂闊に口を開けなかった。しかし彼女は答えを求めていたわけではない。少年がしたようにただ打ち明けただけだ。そしてそれは彼女が現実を受け入れる鍵にもなった。
「……ですが、結果は無様な敗北。それも見下していたアースの民に、ですわ」
少女の顔に明らかな嘲笑の色が浮かぶ。しかし黙って聞いていた少年は嫌な顔一つしなかった。それが何に対してなのか分かっていたからだ。そして思っていた通り少女は、今は決してそう思ってはいませんわ、と付け加えた。そこに黙って聴いていた少年が口を開く。
「でも、クローヴァリアみたいな女の子がわざわざ戦わなくても、良かったんじゃないの?」
「そうは参りません。先程も申しましたが、私は力を示して初めて価値があるのです。あると思えるのです。これが私の望みでした」
「でも、怖くないの? 大怪我するだけじゃなくて、命だって危ないのに……」
「私の誇りの問題です。何もしない事は死と同義ですわ。……幸いな事に負傷程度でミスリルの使用に支障はありませんから、恐れることなどありません。貴方こそそのような負傷をしても戦場に立てていらっしゃるでしょう?」
「え? そんな怪我してる?」
片羽の少年は素っ頓狂な声を上げ、袖を捲くって腕を見て顔に手をやった。他にも全身に触れながら痛むところや傷がある場所を探していったが、思い当たる所がない。
「え?」
「え?」
黒翼の少女が戸惑いの声を漏らすと少年から疑問を呈する声が返ってくる。お互いの意思疎通がうまく行っていない。おずおずと少女が直接聞いた。
「あの…… そのお背中は……?」
「ああ。これ? これ、生まれつきなんだ」
ようやく得心の言った少年はその純白の片羽を開きながらあっけらかんと答えたが、少女はと言うとますます失言をしたと言わんばかりに口を閉ざして小さな体をさらに小さくしてしまっていた。
「……」
「や、だから黙らないでってば」
「ですが……」
「小さい頃は事ある毎に色々言われたりしたけど、今はもうそんな事もないし。それに……」
少年はずっと迷っていた。自分は何者なのか。翼を持てども空を舞うことはできず、かと言ってその背は地に生きる者達とも異なり奇異の目に晒され続けてきた。
子供の頃に母に聞いた。
――羽ありと羽なしって、羽があるのとないのの違いじゃないの?――
あの頃は母の答えの意味が分からなかった。だが今なら言える。だからあの時答えたのだ。
僕は、一人の人間です。羽ありでも、羽なしでもない。そんな枠でくくらない、みんなと同じ人間、ウィン・クルトです。と。
――そうね。そういう分け方ができないって教えてくれているのが、あなたじゃないかしら――
母の言葉が繰り返し繰り返し少年の中に響いていた。
少年ははっきりと理解していた。自分は幸福に満ちていた。己を育んだあらゆるものに感謝の想いを抱いて、恐れる事なく何度でも、何度でも自信を持って答えられる。
「それに僕は、僕でしかないからね」
羽があろうとなかろうと、それは一緒の者なのだ。
そう答えた少年の笑顔は紅い瞳にとても爽やかに映った。
真っ直ぐ見つめ返す事が出来ず、少女は顔を伏せて小さな声で聞き返した。
「そう…… ですわね。私も、そうある事ができるでしょうか……」
「できるよ、クローヴァリアは僕よりもずっとしっかりしてるもの」
片羽の少年の迷いのない一言は、少女から初めて、心からの笑顔を導いた。
~忘れ去られているだろうなつかしの単語の再確認~
「地禮祭」:春に行われる大地を讃える式典。世界各地で行われる。ウィン君の町ではとっても盛大にお祝いします。
「地姫」:ウィン君の住んでる町で地禮祭の式典で舞踊を披露する、その年成人になった羽なしの女性の代表。十九歳になった女性全般を指す時にもこう呼ぶ。エディはその最終選考に残っていたが、次点だった。
日の出直前のくそさむい中、屋外舞台で裸足で踊らないといけないので、やりたくなかったエディとしては次点こそが優勝。