第七十一羽 「少年の凱旋」
「あ! 帰ってきた!」
おーいおーいと大きな声で呼ぶ娘に対して片羽の少年は大きく手を振って応えた。
銀の馬を少年の兄が押し、後部座席には黒髪の羽ありが乗せられている。片羽の少年は銀の馬の横を歩いていた。三人の少し上空を何かが飛び越え、急速に栗色の髪をした羽なしの娘の方へと接近していく。
「ハニー! 良かった、ぶじ、うごぅっ?!」
「うっさい! あんたが一番に飛びかかんな!」
抱きつこうとした羽ありの男の腕をつかみ、引き寄せながら体をひねって背中から地面に叩きつけた。飛行の速度と羽なしの娘の回転力が合わさって受け身を取る余裕もないまま落とされ、さらに絶妙に肩に乗せた娘の体重を鳩尾に受けて一瞬意識を手放しかけたが、日頃訓練を受けてきた軍人の誇りを賭けて気合で保った。パンパンと手をはたきながら立ち上がった娘に続いて咳き込みながら上体を起こし、すがるような目で震える声のまま話しかける。
「だけど俺、心配で心配で……」
「遠慮しろって言ってんの!」
ビシっと人さし指を突き付けて、きつい視線を浴びせかけた。その物凄い光景を初めて目撃した黒髪の羽ありは目を点にして絶句していた。いつもの事だから、と彼女が乗る機体を押す男は心配無用と教え諭した。横を見れば弟も頷いているので少々不安を覚えるが納得する事にした。
「エマ、たまにお前もやられてたろ」
「うん…… 僕も見た時さすがに怖かった」
思い返せば黒髪の羽ありもちょっかいを出してはこんな感じでこっぴどく彼女にやりこめられる経験をしていた。それを周りから見ると丁度こんな具合なのだと思い知らされ、今後は自重していこうと反省の念に駆られざるをえない。
見れば二人はまだやり合っている。
「あんな状況だっただろ? 俺、生きた心地しなくて」
「アンタがウィンを呼んだんでしょ! そしたらアンタはアンタの仕事してたら良いの!」
「でも心配で……」
「ありがとう!」
「しんぱ…… え? 今何て?」
「二度とは言わん! さっさと起きてよね。いい加減ちびっこが怖がるでしょ」
手を掴んでぐいっと男を引き起こそうとした。それに乗じて抱きついてきたので今度は膝蹴りを喰らわせる。もんどりうって倒れた羽ありの男に差し伸べられる手はもう無かった。
「あ、おかえり。良かったわね、ジュド兄に惚れ直しただろ? ほれ、工房のみんなが待ってるからさっさと帰りなさいよ。仕事溜まってるから休んでる暇なんて無いわよ!」
羽なしの娘は何食わぬ顔をして友達を迎えた。あまりにも自然な、ふらっと出かけて帰ってきたところに偶然出くわしたかのようなその態度に、黒髪の羽ありはじわりと目がしらが熱くなるのを感じていた。よく見れば彼女の体、衣服は傷だらけ。そして傍らに立てかけられていたのは黒髪の羽ありが作り上げたアームズの試作機だ。
三日月状の巨大な刃を持ち長大な柄をしたそれは、重量からも人間が扱うには難があり過ぎ、今乗っている銀の馬をはじめとした機体のオプションとしての使用を想定していた物である。銀色の手袋を外している羽なしの娘の両手には豆が出来ており、さらに赤く、皮が少し擦り剥けている事から、このありえない武器でありえない戦い方をしてきた事が簡単に想像された。
二人の男に会えた事で大分解放されていたが、ずっと抑えられていた感情が再び大きな波となってこみ上げてきた。そしてもうそれを抑える必要がない事をわかっている黒髪の羽ありは、乗っていた銀の馬から降りて友の前に駆け寄った。その手を取って両手で握りしめると、力が抜けたのか羽なしの娘の前で両膝を地面について、さらに取った友の手を額に押し付けた。
「ばか…… あなた、何てモンを選んできたのよ…… 女の子が使うような物じゃないでしょ? 何であなたまで無理して……」
「あー、もう、泣くな! あたしが好き勝手に二人についてきたのよ! アンタの為じゃないんだからね!」
何だか思っていたのと違う再会の場面に羽なしの娘は少しうろたえ、そっけない態度をとってしまった。それを見た片羽の少年は、笑顔にならずにいられなかった。
―71―
雲はところどころに切れ間を見せ、空は夕焼けに染まっていた。冬も終わりに向かいつつある今、わずかずつ日が長くなっているものの緯度の高いこの地域は暗くなるのがかなり早い。戦闘が終結した以上、片羽の少年の一向は合流し次第なるべく早く帰投するつもりでいた。ところがなかなか話が進まない。
「あー、もうウィン! 心配したわよー! ドカーン! ズガーン! ピシャーン! ってすっごい雷鳴ってたし! そのたんびに、グリフォン? に勝てるわけがないとか、シモン様は偉大だとか! ウィンが負けるわけ無いのに、あの騒ぎ聞いてたら怖くって怖くって…… 怪我ない? 怪我ないよね? あーもう心配したんだから! あー! わー!」
「ちょっと、ね、姉さん! そんな強く抱き締めないで! くるし、苦しいから!」
呆れた兄が妹を引き剥がそうとしたが、引っ張っても弟をロックしたままズルズルと引き摺られるだけで離れようとしない。締めこむ度に微妙に少年の背からボキボキと音が立ち、兄の耳にも入ってきた。
「おま、お前! ホント早く離せって! 洒落になってないから!」
抵抗すると余計に痛いと分かっている片羽の少年は力を抜いて、されるがままになっている。見方に寄ればぐったりと気を失っているように、あるいは羽なしの娘が人間大の人形と戯れているようしか見えない。
「だから! 大将に勝っても味方に怪我させられたら意味がないだろ! いい加減離せって!」
「シモン様に…… 勝った……? 戦局を見ての降伏ではなくて……?」
まだ幼さの残る声が栗色の髪をした羽なしの娘の後ろの方から聞こえてきた。真っ黒な翼は見事であったが纏う衣服も深い黒色をしており、閉じている現在あまり目立たず彼女が羽ありであると瞬時に判断できなかった。翼の色に対して肌の色は白磁を思わせ、髪も非常に薄い金色だ。顔立ちは幼いながらも整い、見る者を惹きつける魅力に満ちている。そんな黒翼の美少女の顔は驚きを隠せていなかった。
確かにこの片羽の少年の参戦により彼女を長とした百鬼夜行は翻弄され、結果敗北する事となった。この少年の実力が確かである事を認めてはいるが、それがまさか国の頂点、少女が敬愛する存在を上回る物であると信じる事ができなかった。思わずと言った感じで少年達の方へ歩み寄ってきた少女は、その紅い目を丸くし、呆然としている。
「あれ? 姉さん、この子まだ一緒に?」
「え、ああ。言う事聞かないのよ。兵隊さん達に向かって、貴方達に敗北したわけではありませんわ! とか言って。連れて行ってもらおうとしたら蹴ったり噛みついたり、けっこう大変だったのよ」
ようやく万力から自由になった片羽の少年にとって、この少女は思いもよらない同行者だった。
簡単な拘束を受けてはいるが体の自由を大きく制限されたり苦痛を与えられている様子はなかった。肉体的苦痛は弱そうだが自尊心の高いこの少女の精神にとってはこの上ない苦痛である事だろう。
「あたしがウィンが帰ってくるまでここに残るって言ったら、それなら私も動きませんわ! って。で、あそこの兵隊さん達に護衛に就いてもらってたわけ。負けた相手だからかあたしの言う事は聞くし、ウィンのお願いも聞いてくれるんじゃない? この子なりの線引きがあってめんどくさいけど」
この輪っかだってあたしじゃないと付けさせてくれなかったんだから、と少女の腕と胴を封じる光の輪を指さして言う。以前よくネフューを拘束していた物と同じ物だ。当の本人はと言うと羽なしの娘に膝蹴りをもらってしばらく悶えた後、現在は地面に伸びている。
拘束されたまま少女は片羽の少年に詰め寄り事実を確認した。この少年がここに居て、戦闘が終結したと言う事はすなわち、神聖視していた人間がこの戦の負けを認めたと言う事に等しい。本来確認せずとも理解に及ぶ事なのだが、どうしても信じられなかったのだ。
少年は、老人の方が上手であり彼一人ではとても敵うような相手ではなかったと認めつつ、しかしここにいる皆の力を借りて何とか辛勝を収めた事を伝えた。
捕囚に身を落とした少女の唯一とも言える心の拠り所であった存在が敗れたことは全てを失った事にも等しい。何もかもが崩れ落ちるような感覚だった事だろう。しかし黒翼の少女は気丈に振る舞っていた。
日は釣瓶落としに早く沈んでいき、それにともないだんだんと寒さが増していく。耐えかねて早く帰投しようと姉が催促するが、命令に頑なに抵抗するこの少女の処遇が難題となっていた。護衛に当たっている兵士が強制的に連行しようにもやはり激しく暴れ、かと言って十六の少女に力で従わせる事も軍法的、倫理的にもできない。唯一従わせられていた羽なしの娘の言う事も聞かなくなってしまった。そこで次なる手として、姉と共に彼女の軍団を破り、将軍に勝利した片羽の少年に少女の指導が委ねられた。
決断を依頼された少年は、うーん、と空を仰ぎながら思案していたが、さして時間をかけずに紅い瞳を見て口を開いた。
「……それじゃあ、君の国の本部に戻って大人しくしていてもらえるかな?」
「え……?」
あまりに拍子抜けする申し出に再び紅い目が丸くなった。瑞々しく小さな唇も半開きになっている。うまく伝わっていないと判断した片羽の少年は、今度は真意をはっきりと述べた。しかし意図が伝わっていない訳ではない。彼女の認識とのずれに戸惑った反応だ。
「もう戦闘は終わったんだから捕らえてる必要もないし。心配してる人達のところに帰って安心させてあげてね」
「ちょ、ちょっとお待ちになって! なんですの、その無用心さは! 勝てるわけがないと言う余裕ですの? 講和が締結しないうちはこの戦いが本当に終わった事にはなりませんわよ! それに私は個別の行動、独自の作戦を許された特別遊撃士ですわ。戻ればデュラハン以外にもまだ反旗を翻す手段はありましてよ!」
「えっと…… そう言われるとそうだね。でももう僕達はこれ以上戦いたくも、戦うも理由もないし……。どうしたら良いのかな?」
「それなら調印が終わるまで本部に拘留すれば良いのでは?!」
「なるほど、そうだね、それじゃあ僕達についてきてもらおうか。教えてくれてありがとう」
「は、始めっからそう言われれば良いのです! 何も知らないでこんな敵本拠地まで来るなんて信じられませんわ!」
「ははは、ホントそうだね。もうこれっきりだと思うから許してくれないかな。あ、姉さん、この子を色々手伝ってあげてもらいたいんだけど……」
「もう! この程度の拘束でしたら世話をされなくても一人でやれます! で、どちらに行けばよろしいのかしら?!」
あんなに行き渋っていたのに今度はすたすたと歩き出す。つん、と顔を背けながら進んでいたため、近くに立っていた少年の兄に気付かずドンとぶつかり、小さく声をあげてしりもちをついてしまった。
ね、めんどくさいでしょ? と言う羽なしの娘を、むくれた顔をして睨み付けている黒翼の少女は年相応に可愛らしかった。