第七十羽 「黄昏の翼」
兄弟を乗せた銀の馬が駆け抜ける都市内各所にて煙が上がっていた。激戦の名残だろう。
彼らが追う物がどこにいるのか、本隊に問い合わせているが一向に返事がない。轟音のする方に向かって勘に任せて走ってみたが、都合よく出会さなかった。
少し進むとくすんだ色をした塊が見えてきた。近づいてよくみると、それは巨人の残骸だった。彼らの戦力の象徴であるそれが晒している惨たらしい姿に息を呑んでいると、今度は雷鳴が立て続いて聞こえてきた。敵は雷を自在に操る。その方角にいる可能性が非常に高い。音の具合から察するに近くではないようだ。片羽の少年が音の来た方を見ると、天ではなく地面の近くで閃光が走っていた。
「兄さん、向こう!」
「おう! 城壁の外……? ありゃあ、本隊の方じゃねえか?」
良くない想像が二人の脳裏をよぎった。どちらが指示するでもなく急発進し、そちらに向かった。
侵入に使った城門が見えてきた。橋は降りたままだった。その堀を越えてさらに奥から砲撃音と時に雷鳴がやってくる。まだ距離はあるが、何が起きているのか分かってきた。
「兄さん、ここで良い! 巻き込まれる前に離脱して!」
いつの間にか白銀の毛並みを持つ狼が並走している。片羽の少年が背に飛び乗ると、狼は少しずつ銀の馬から離れていった。
「ウィン! 絶対に……っ」
その先の言葉を飲み込み、代わりに視線に想いを乗せて弟に送る。兄としばらく目を合わせていた片羽の少年も無言で頷き、狼の速度を上げて雷鳴轟く荒野に向かって進んでいった。
―70―
「急速接近体あり! 大型幻獣フィールド反応1、グリフォンです!」
「グリフォンだと?! 全隊戦闘態勢、警戒せよ!」
激戦を乗り越え優勢に運びつつあった都市での戦いが一転し、その建て直しのための指示を出すのに奔走していた司令トレーラー内に更なる緊張が走った。勝利目前の戦局を変えた張本人が迫っているのだ。
「全隊に通達! これが最終決戦だ。相手はゴンドワナの生きる伝説、軍神シモン・パディクト。全員臆するな! 敵はただ一人、この戦いの勝利は目前。なんとしても討ち取れ!」
檄を飛ばし、本陣に残した戦力すべてを投じて迎え撃つ。相手が老人であろうとその危険度はこれまでの何者より高く、力を抜けばたちまち崩壊する事もありえる。翼を持つ獅子は緊張が極度に達した本隊正面に飛来し降り立った。
戦車の砲台、護衛機の機銃が斉射を始めた。その後ろで傘のような盾を持つ機体が横一列になり本陣を守る。
巨獣は避けなかった。攻撃をあえて受けている。着弾によって生じる煙幕に遮られていた視界が晴れていくと、そこには少なからず損傷を負った獅子がいた。だが倒れることはない。巨躯が光ると砲撃に抉られた部分がみるみる再生し、何事もなかったかのように動き始めた。
効果が認められないと見ると前衛に配置されていた攻撃機は散開し、壁を作る五機すべてが巨獣に向かっていった。巨獣が正面の桃色に輝く傘めがけて力を溜めた雷球を撃ったがびくともしない。五枚の壁は扇状に展開し巨獣を包み込むように迫っていった。怯むことなく巨獣は桃色の光を放つ壁に向かって突進し、立ち上がって壁に前足を突き前進を阻んだ。一度は完全に壁を止めたが、しかし壁はじりじりと巨獣を元来た都市の方へと押しやっていく。このまま押し戻し、さらに全機で包囲する事で巨獣を封印する檻を作るつもりだ。封印を完成させた暁には、仮設都市の門を守護していた凍土の王を倒したエネルギー放出兵器「バースト」を放ち撃破する。理論上この檻を破壊するにはタイプ・ギガンテが最大出力で撃つパニッシャーの二倍の威力が必要である。それは片羽の少年がカノン砲「グングニル」を加減せずに撃った時ですら達成できない威力だ。全機の力を結集すれば倒せない物は存在しないはずである。
全機が五芒星の頂点に来るように配備されると最大出力で壁を展開し始めた。それぞれが干渉し合ってより強固な壁を作り上げていく。凍土の王の時のような椀を合せたような籠を作る事は出来ないが、それぞれが干渉し合う事で天幕のように空まで覆う檻が完成された。同時に全機の傘の中心の輝きが増していく。
もう間もなく逃げ場のない攻撃が放たれる。ところが巨獣は雷球を放つ時のように大きく口を開いた。先程証明したように破壊は不可能であると言う自信から、傘を開いた機体は作戦を遂行し続けたが、突如警報音が鳴り響いた。
「プリトウェン三番機AMF、中和されていきます! グリフォン嘴角からの電子干渉による障害甚大! AMF維持できません!」
最強の盾が見る間に薄くなり、ぽっかりと穴が開いた。獅子は翼を体に密着させるように畳み軽く跳躍すると、その穴から身を捩るようにして抜け出してしまった。
「作戦中止、バーストを撃つな! 全機離脱急げ!」
獅子はそのまま檻を作っていた機体に向かって羽を矢のように飛ばし、雷を撃ち、鋭い爪で装甲を引き裂いて、すべてを行動不能にしてしまった。そしてさらに空に上がり、後列に控える戦車隊へと滑空して突撃していった。
護衛に残っていた銀の巨人が立ちはだかった。両腕を前方に伸ばし、巨獣に向けて強力な閃光を放った。ところがそれをバレルロールで回避し、砲撃直後の無防備な腕に対して雷球を撃った。まともに食らった銀の巨人の両腕が砕け、同時に内蔵されている誘導ミサイルがその場で爆発を起こした。至近距離で炸裂を受けた巨人は装甲に甚大な損害を受け、立ち上がれなくなってしまった。
圧倒的である。一国の総力を結集した部隊が紙細工のように蹴散らされていった。ここまで深く斬り込まれていながら態勢を整える事は不可能に近い。銀の軍隊はたった一頭の幻獣に敗走を余儀なくされた。
翼を持つ獅子に代って集結した小型の幻獣が銀色の軍を抑え込み始めている。歩兵の代わりに本陣を警護していた機兵達が対応しているが極めて旗色が悪い。
最早総大将が打って出るまでもないと、獅子に乗って静観していた老人は実に退屈そうにしていた。そこにきらりと一筋の弱い光が目に飛び込んできた。
「ようやく来たか、小僧。待ちくたびれてしもうたわい」
片羽の少年は白銀の毛並みの狼に乗って現れた。閉じたままの銀の書を携えている。少年ただ一人だ。
壊滅と言うに等しい惨状に息を呑む少年に対して、老人の飄々とした態度は変わらなかった。
「やれやれ、儂が肝を冷やしたわい。加減はしたが、あと一歩遅かったら儂らがやり合う意味が無うなるところじゃった。どれ、決着をつけようかの」
すでに話し合うと言う選択肢はない。老人の言葉を思い出し、少年は決意を新たに対峙した。
乗っていた狼の背から降りると、一つ大きく息を吐いて携えた銀の書を開いて文言を唱える。それに応えて銀狼が姿を変えていく。それを見ていた老羽ありが見る目を変え、思わず感嘆の声を上げた。
「やるのう! ネフュー以外で変態を出来た奴はおらんと言うのに! しかもワー・ウルフを飛ばしてケルベロスとは…… 初見でそれか? 末恐ろしいのう!」
少年の目に力が入る。老人は嬉しそうに目を輝かせ羽ばたいた。両者を青い光の保護障壁が覆った。
「さすがに儂とて防御抜きで全力のお主と争う気はないからの。ほれ、これで遠慮はいらん。かかってこんか」
魔犬と翼を持つ獅子の一騎打ちが始まった。先刻仮設都市中心付近でも行われ、その時は獅子に軍配が上がった。しかも獅子を操る老人が手心を加えた上で、である。
片羽の少年の操り方は見事だった。実に滑らかに力強く、まさに伝説の怪物が地の底より現れ闘争していると言うにふさわしかった。
撃ち出した火球は獅子の雷球を突き破り、振り下ろす爪には業火が宿り、老人の獅子にも劣らぬほどの力や反応を見せつけた。が、やはりと言うか、経験の差から来る戦闘の駆け引きにおいては老人の方が何枚も上手であり、じりじりと追い込まれているようにも見えた。
力に任せて押さえつけようと魔犬を飛びかからせたところに逆に深く潜り込まれ、跳ね除けられて背中から地面に落ちた。空を向いた腹に目掛けて鋭い嘴が襲いかかる。素早く上半身を捻り、同時に後肢で翼の付け根を蹴りつけ脱出した。起き上がるやいなや左肩の首が姿勢を崩した獅子に火を吹き付けた。全身を炎に包まれ、悶えるように体を振っている獅子に向かって三つの首で噛みつきかかる。しかし獅子は立ち上がって翼を大きく開いて炎を弾き飛ばし、魔犬の左右の口をがしりと掴んだ。わざと火炎を受け、魔犬がこのように動くよう仕向けたとしか思えない。
鷲と魔犬が口腔を大きく開いて威嚇しあっている。二頭が同時に力を溜め始めた。そしてまた、全く同時に至近距離で撃ち合った。爆音と強力な衝撃波が周囲の者達を飲み込んだ。
爆心地となった二頭が共に口から煙を上げながら距離を取る。魔犬はしきりに正面の首をふっていた。一方の翼を持つ獅子は溜まった煙を一度で吐ききると悠然と対峙していた。放つ瞬間にわずかに軸をずらし直撃を避けていたのだ。刹那における攻防の巧みさは戦いに身を置いていた厚い経験から来るものだろう。
明らかに老人の方が上手。しかしこの戦いは攻撃の一手一手が必殺の威力を持つ、まさしく死闘。その死闘についてくる少年に、老人は感嘆を禁じ得なかった。
「素晴らしい、このような者が生まれておったとは! ロディニアも良い拾い物をしたもんじゃて! ……お主にじゃったら良いかもしれん。じゃが、お互い負けられんと言うのは辛いのう。すまんが、勝たせてもらうぞ」
獅子の強靭なばねが一瞬で弾け、一直線に襲いかかった。交差する瞬間に振り抜かれた鷲の爪が魔犬の鎖帷子のような被毛を切り裂き、右の首筋と肩を深く抉った。片羽の少年も首をはねられるのを避けるのが精一杯だった。腕の筋まで切られたようで魔犬は体を上手く支えられなくなっている。
「お主はまだまだ強くなる。我らはお主のような未来のある者を見捨てたりはせん。ロディニアもそうじゃ。これ程の物をすべて無に帰す事は史上に残る悪じゃろう。儂らが保護し栄えさせてやる。じゃから安心して倒れるとええ」
魔犬に再生能力はない。今の損傷はこの戦いにおいては致命傷に等しいと誰もが悟った。だが一人だけ、決して屈することなく闘志の炎を燃やし続けていた。
「……倒れない。僕は、力で無理に抑えられた涙をもう見たくない。だから、こんな涙の種を撒くような争いは、僕がここで止めるんだ!」
片羽の少年の持つ書がわずかに明滅している。すでに時は満ちていた。戦いに集中していた最中にもそれを伝える声が聞こえていた。しかしそれを解放する隙が全くなかったのだ。
目の前の老人はとても強かった。わずかに気を緩めでもしたらその時勝負はついていただろう。今日ここに至るまで、片羽の少年も何度も戦場を潜り抜けてきたが、そんな経験値は些細な物とでも言わんばかりの力の暴風が吹き荒れていた。
しかし今、まさにこの瞬間。老人が巻き起こす嵐は凪を迎え、片羽の少年が次の手を打つ事を許したのだ。
改造を受けた少年の持つ銀の書は小口に特徴があった。銀と金の二色に分かれている。その境の頁を開き、続けてそこに書き記された文書を読み上げた。
「神々の間に生まれし魔なる者よ、切れぬ鎖に縛られし者よ。あらゆる神を呑み込むさだめを持つ狼よ! 黄昏の時は来たれり、知らせの角笛の音を聴け!」
勝利を確信していた老人の顔色が変わる。それが何なのかを知る者は数多の幻獣を従える彼の国においても限られており、敵国の雄であるこの少年が知るはずがないからだ。
「小僧! 貴様それをどこで手に入れた!」
「ある人達が、僕らに託してくれたんだ。この争いを止めることができるかもしれないって……」
片羽の少年の声に応じ、少年と三つ首の魔犬を中心に今まさに禁断の扉が開こうとしている。
「僕はここで終わらせる! あなたに勝つためにはこれしかない!」
解き放たれる事を何としても防ぐべく、老人は翼を持つ獅子を嗾けた。だが獅子の一撃が届くよりも早く少年は最後の一文を読み終えた。
「その力を求める者よ、神に弓引く者の名を呼べ、『フェンリル』と!」
同時に強烈な斥力が発生し獅子を押し返した。
三つの頭が一つに合わさり、三つ首の魔犬の体躯が膨れ上がっていく。翼を持つ獅子よりもはるかに巨大な狼が、天を衝くほどに鼻先を伸ばし遠吠えをした。その首、四肢、胴には長大な鎖が巻きつき自由を奪っている。見ればその口も鎖が絡み封じられていた。
どこからともなく低い音が響き渡った。
その音色は低かったが良く澄み、都市の至るところに満ち満ちていった。
「異常事態発生! 全域に展開中の友軍との通信途絶!」
「ヘイムダルからの全観測情報信号入りません! 車載の光学モニター、一部の観測機器のみ使用できます! ……? いずれも有線システム……です!」
巨大な神狼の出現とともに異常報告が相次いだ。それだけではない。使用可能なカメラからの映像には、防衛に集まっていた数々の機兵達が映し出されていた。しかしそれらの動きのいずれもがおかしい。黒鎧の騎士に支配されていた時の様子とも異なる。小型機兵は活動を続け防衛に当たっている。しかし、敵味方を誤認するような行動は見られないが、明らかにそれまでの統率のとれた群れとしての行動を示さず、個々がばらばらに動いているように見えた。小型機兵の司令塔としての役割も果たす盾の機兵は、その輝きは失われていないもののぴたりと動きを止めている。
盾の機兵の起動停止に至っては一機だけではない。確認される範囲すべてで同じ現象が起きている。操縦者が乗っている車両も無事のようだ。ここに来ての誤作動とは考えにくい。司令部の中に再び強い動揺が走っていた。
その時司令官の呟いた一つの推論がこの現象を確信させた。
「……まさか、全ての無線通信を無力化しているのか?」
異変が起きているのはロディニアの機械仕掛けの軍勢のみではなかった。幻獣の群れが次々に数を減らしていき、ほんの一握りの個体を残して幻のように消え失せた。
高度に科学が発達し、広域での精密な作戦を展開するに当たって、離れた場所にいる者達の意思疎通、機器の作動の遅滞なき確実な同期は欠く事のできない重要な要素である。しかし今この現場ではそれが無効化され、原始的な、純粋に戦士の力量に委ねられた戦いを強いられる状況が作り上げられている。
戦闘の泥沼化、長期化を招き、血で血を洗う凄惨な物に変わっていく。
しかしこの戦いの決着を委ねられているのは、両者とも通常では考えられない力量の持ち主である。その力はお互いを一瞬で滅ぼすほどの物である事は、ここまでの闘争を見た全ての者が知っていた。
神話の戦いに幕が下ろされる時が近い。この戦場に居合わせる者達全てが感じていた。
巨大すぎる狼が動き始める前に翼を持つ獅子が力を溜めて雷球を放った。直撃だ。その爆風、衝撃が辺り一面を駆け巡ったが縛られた狼は健在だった。
角笛の音は未だ響き続けていた。それとともにバツン、バツンと大きな音を立てて鎖が千切れていく。はじめに解放された狼の右腕が大きく振り上げられ、翼を持つ獅子に向かって振り下ろされた。あまりに巨大な姿ゆえ腕の動きはゆっくりに見られたが、その一撃は実に鋭く、真に重く、大気を切り裂き大地を抉った。強烈な一撃だったが翼を持つ獅子はそれをかわし、手を休めず猛攻を続けた。
角笛の音が徐々に小さくなっていく。しかし獅子の攻撃は激しさを増していく。敵に対して悠然と構えていた天空の王者から焦りすら感じられた。拘束が無くなるにつれて神狼は動く事ができるようになっていった。先程から身の回りを飛び交い、不快な行為を働き続ける小鳥に対して明らかに嫌悪感を抱きつつあるようで、未だ縛られたままの口元から青い炎をこぼしながら睨みつけ、首や前肢を振って追い払い続けていた。
翼を持つ獅子が地に降り立ち、四肢で大地を踏みしめ神狼の頭を見上げた。嘴、趾端の爪の回りから紫電が生まれていく。
いつしか角笛の音色のうねりは治まっていた。すでに狼の封印は寸断され、じゃらりと大きな音を立てて鎖が落ちた。自由になったその口が大きく開かれる。それは天をも飲み込めるかと錯覚するほどに大きく、禍々しかった。牙は太く、長く、鋭く、それが持つ暴虐さを容易に想像させた。
その口腔に向けて、鷲の嘴から最大限にまで集中した力が解き放たれた。
続けて神狼が素早く口を閉じると、ガオン、と裂けるような、爆ぜるような、そして閉じるような鈍い轟音とともに眼前のすべてが削り取られた。
文字通りすべてである。地も、空も、果ては時に至るまですべてが飲み込まれ、無を生じた。神狼に向かう雷光は巨大な咢が閉じた時に出来た次元の狭間に飲み込まれ、わずかな空中放電を残して掻き消された。
最大級の一撃を一噛みの元に霧散させた獣が再びその牙を開いていく。
しかし今まさにこの戦いの幕を引こうとしたその時、神狼の動きがぴたりと止まり、光の粒を散らしながら徐々に姿が薄れていった。片羽の少年も意図と異なり消滅していく神狼を目にして動揺が隠せなかった。はっと気が付き彼が手にしていた銀の書を見た。
ない。
書の表紙に輝いていた青い宝石が一つもない。
力の源を失い、その姿を維持できなくなったのだ。あまりにも激しい力の行使は消耗も激しく、あっという間に限界が訪れてしまった。
「危ないところじゃったわい…… まさかフェンリルを操れるとは」
老人が翼を持つ獅子を従え、片羽の少年の前に降り立った。予想外の攻撃にさすがの軍神の顔色も優れない。
「フェンリルの空間掘削を防ぐ手立てはない。グリフォンと言えど飲まれたら最後じゃ。恐ろしい物を平然と使いよってからに……」
制限時間に命拾いをしたと素直に認めざるを得ないようだ。だがもう一つの事実が同時に決定していた。
「じゃが、これで仕舞いじゃ。お主は本当にようやった。お主に免じてこれ以上の進攻は止めておこう。儂に立ち向かえる者はロディニアにはおらんじゃろうしのう。……いや、そう言う訳でもないか」
老人が周りを見渡すと、撤退していったはずの戦車やトレーラー、まだ動く事の出来る機兵が二人を取り囲むように集まってきていた。
「はて、フェンリルによる通信障害はしばらく回復せんはずじゃが…… ふむ、義に厚い連中じゃ。見よ。お主、その若さで相当に信頼されておるな。良いことじゃ。しかしこのままでは無駄死にが出るのう。奴らを止められるのはお主だけじゃぞ」
友軍を止めよという言葉。それは少年にとって別の意味を持つ。にわかに射し込んだ奇跡の光明を逃すわけにはいかない。
「まだ、まだ終わってない! ごめん、力を貸して……!」
「ぬう、小僧! 何をしておる!」
少年が開かれたままの書を強く抱き締め、祈るように呟くと、周囲に集まるミスリルマシンが光を失い、動きを次々と止めていく。同時に巨狼が姿を現した。先の一撃によって中央の青い宝玉は消失しており、第二撃はあり得ないと考えられていたあの神狼だ。周囲のミスリルの有するエネルギーを奪い取り、それを魔道書の起動力に変換しているのだろう。
喚び出された神狼はすでに封印を解かれた状態だ。
その神狼の狙いは自身の眼下にいる鷲頭の獅子ただ一つ。
理解を越える現象を前にして反応が遅れた老人は急ぎ獅子を飛び退かせたが、もうこの間合いで神狼の牙から逃げる事など出来はしない。巨大な咢を再び開き、今度こそ周囲の空間ごと目標を飲み込んだ。
獅子が飛び去る時に残した大きな羽根が宙を漂い、ふっと空気に溶けて無くなった。これまでのすべてが幻であったかのように。
「お主、一体何者じゃ? その力は……」
「僕は……」
その時少年の頭に幼い頃に言われた言葉が繰り返し響いていた。一度唇をきゅっと結び、すっと胸に息を溜めて、老人の目を見て口を開いた。
「僕は、一人の人間です。羽ありでも、羽なしでもない。そんな枠でくくらない。みんなと同じ人間、ウィン・クルトです」
最後の最後、天空の王者を打ち破ってもなお、張った糸を弛めず、かと言って内なる炎に焼き尽くされるでもない。片羽の少年は、ただひたすらに真剣な眼差しを向けていた。愚直とも言えるほどに澄んだ心を映している。
それを見た老人は、ふんと鼻を鳴らした後に口を開いた。
「儂の、負けじゃな」
書を閉じ、噛み締めるようにそう宣言した。
それをはっきりと耳にした片羽の少年は、同じく書を閉じ深々と頭を下げ、ありがとうございます、とだけ述べた。