第六十六羽 「強き者」
この老人の代わりになる者はいない。同じく軍部に所属し、若くして上層部に実力を認められたこの男はその事を良く知っていた。そしてその恐ろしさも、孫であるがゆえ誰よりもよく知っていた。反抗する事はあっても立ち向かおう、打ち倒そうなどとはつゆほども考えた事はない。そんな事をした時の結果は火を見るよりも明らかだったからだ。
しかし替えが利かない者である以上、これを破る事が与えるゴンドワナへの打撃は計り知れないものである。敗北の予測は予測に過ぎず、それに尻込んでいては何も変える事は出来ない。
それに何より、時間が惜しい。
亡国を望む言葉を返した直後から、祖父から放たれる威圧の雰囲気ががらりと変わった。今までに幾度か罰を与えられたり咎められたりした事があったが、このような気配は一度として感じた事は無かった。またこの老羽ありが失態を犯した部下に責を負うよう直接命ずる現場に居合わせた事もあったが、その時もこのような感覚を受けた事は無かった。
逆鱗に触れた、そう理解したのとともに、全身に無数の小さな虫が這いまわっているかのようなぞわぞわとした感じが襲ってくる。それが恐怖から来るものだと言うのはすぐに分かった。違ったのは、それがこれまでの人生で経験した恐怖とは比べ物にならないほど大きなものであると言う事だった。
意思に反した小刻みな震えを払うべく、男は下っ腹に力を入れ、ふうっと強く息を吐いた。
許しを乞うつもりも引くつもりもない。一刻も早くこの壁の向こうに行かなくてはならないのだ。
同時に銀の書を開き、素早く彼の従者をこの場に喚び出す。白銀の毛並みをした美しい狼が姿をはっきりと現すと、すぐさま老羽ありに向かって飛びかかった。
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「具現化まで無駄がないのう。なかなかじゃて」
直接自分を狙ってくる事を予想していた老羽ありは、すでに飛翔し鷲の頭をした巨獣の背後に回っていた。その動きはこの老体から想像されるよりもずっと素早かった。老人の後を追うように、巨獣の体に爪をかけて狼が駆け上る。書を開いたままの老羽ありが命じると、巨獣はその身を大きく震わせて狼を振り払った。弾き飛ばされた狼は空中で姿勢を整えると、四つ足でしっかりと捉えた着地から再び前方に向かって飛び出した。迫る狼に向かって巨獣がその鋭い嘴を突き刺すと、狼は横っ飛びにそれをかわし、さらに地を蹴り嘴に向かって咬みついた。しかし強靭な牙と顎の力をもってしても硬質な嘴に引っ掛かるのが精一杯で、砕く事は出来なかった。しがみつく狼を意に介さず、巨獣は首を振って邪魔者を引き剥がした。狼は着地と同時に後方に跳んで主の傍らに着くと、牙を剥いたまま頭を下げ、腰は上がった威嚇姿勢をとった状態で控えた。
宙にいた老羽ありが、空いている右の手で顎鬚を弄りながら感心したように声を出した。
「良く研ぎ澄ませたのう。動きの一つ一つが洗練されておる。ここまで精神感応を高められた者は他に思いつかん。褒めてやっても良いかの」
「褒美に何かもらえるって言うんなら、じじい! てめえのその伸びきった鼻を折って、それをもらってやるぜ!」
「ほっほ。口の悪さは変わらんのう。何じゃ、この老いぼれがそんなに怖いんか?」
答えない孫を挑発するようにじろじろと見つめながら巨獣の頭に舞い降り、どっこいせと大きく息を吐きながら腰を下ろした。胡坐を組んだ足の上に肘をつき、右手に顎を預け、宥めるように声をかける。
「よいよい、それは皆同じじゃでな。それに怖いと思わん痴れ者、虚勢を張り過ぎた阿呆じゃったらもう死んでおるわい。ネフュー、お主がはじめから地獄の番犬を出しとったら容赦をせんかったぞ。何を学んできた、とな。ほれ、今度は動かんぞ。儂の首を取ってみせい」
歯軋りをした若い男は再び白銀の狼を老羽ありに向かって走らせた。それに合わせるように巨獣の右前肢がすっと持ち上がる。そしてそのまま強く踏み込んだ。踏み込んだところから生じた衝撃波が襲いかかってくる前に、狼は前方、巨獣の頭に座る老羽あり目がけて跳躍した。その時にはすでに巨獣の左前肢が高く上がっており、そのまま狼を薙ぎ払うように振られた。狼は空中で人型に変化しその一撃を防御したが、あまりの体格の差から軽々と吹き飛ばされ、建物の壁面に強く打ちつけられた。
石造りの壁を突き破ったことからも、激突の威力はかなりのものと思われたが、当の人狼はすぐさま次の動きに移った。
左前肢で人狼を払った後、巨獣は壁に空いた穴を覗くように少し頭を下げていた。主人を頭に乗せたままだった。その主人目掛けて、穴から人狼が爆発的な速度で飛び出した。全身が筋肉でできたバネである。同時に体を捻り、強烈な中段後ろ回し蹴りを放つ体勢で宙を進んだ。その進路は間違いなく老人を捉えている。
しかし蹴りは届かなかった。届くよりも早く巨獣の右前肢が器用に人狼を捕らえてしまった。文字通り鷲掴みである。
捕らえただけでなくそのまま握り潰すように力が込められていく。人狼もそれに抗い、全身の力を振り絞って指の間をこじ開け脱出した。鷲の手を踏み台にしてもう一度老羽ありに向かって跳躍したが、今度は巨獣の背に生える巨大な翼が羽ばたき突風を巻き起こした。勢いを殺され空中に浮いた状態になった人狼は、再び鷲の右手で強くはたかれ、道を挟んで反対の壁面に叩きつけられた。
壁を突き抜けることなく地に落ちた人狼の上に瓦礫の雨が降り注ぎ、うずたかく積み上げられた。
「ふむ、狂獣から人狼への変化も極めてスムーズじゃな。繰り方も実に鮮やかよ。開発部の酔狂から出来たケルベロスじゃが、まともに使えれば立派な戦略兵器じゃわい。惜しい、実に惜しい」
この若い羽ありの持つ銀の書は、複数の魔道書を一冊に集約する実験のために作られた物だった。中型、大型幻獣は戦闘力が著しく高いが、その分破壊規模がすさまじく、繊細な作戦に動員しづらい。隠密作戦を行う場合は小型の方が適しているが、交戦時の戦力としては不安がある。そこでもし、たった一冊の魔道書で状況に応じて幻獣の使い分けが可能となれば、これは極めて有用と考えられた。
彼が操っている狼、人狼、巨大な魔犬それぞれがもとは別々の魔道書であったが、それぞれが犬科を基調とする同系統の幻獣であったために操作者にとってイメージしやすいと考えられ、実験機として適当であるとしてこの特殊書が作られた。
今後も類似した幻獣を組み込む事を想定し、様々な拡張機能を有していたが、この魔道書は多機能となったが故に扱いが非常に難しく、当初は一度ずつ別々の幻獣として力場を具現化する事しかできなかった。唯一この若い羽ありだけが狼から人狼、人狼から魔犬へとフィールドを解除することなく変化させる事に成功していた。結果彼がこの魔道書の所有権を得て、そして国から重要拠点の守備隊長の座を預けるに足りる才を持つと判断された。
それだけの有能を示した男が、すっかり前線から身を退いた一人の老人の手の平の上で転がされ、手を抜かれているうえに実力を査定されている。プライドは完全に穢されたと言ってよいだろう。しかし若者はそんな事で冷静さを欠く事は無かった。こうなる事は不思議ではないと分かっていたからだ。
相手の老羽ありの従える巨獣は軍の傑作であった。空を飛ぶ機動力、強靭な四肢による破壊力、さらには雷を操り対象のことごとくを粉砕するその力はまさに、竜をも打ち破ると言われる伝説の聖獣。
幻獣そのものの力はもちろん、それを従える者はこの国始まって以来並び立つ者が存在しないと賞される男である。この老人の歴然とした力を見れば、例え苦境に晒され疲弊しきった兵と言えど再び己を奮い立たせ刃を取るに違いない。
敵に回した際、最悪の組み合わせと言ってはばかられないだろう。しかしだからこそ、これを打倒する事はゴンドワナへの致命傷を与える事にほかならず、避ける事の出来ない道だった。
孫であるが故、この老人の力の脅威を十分すぎるほど知っている若い羽ありは、真っ向からぶつかるのではなく動かれる前に術者を討つ事を選んだ。元より強大な幻獣と戦う時には魔道士を叩くのが常套手段。しかし速度に優れる狼でも捕える事ができず、力に優れる人狼であってもここまでの体格差を埋める事はできなかった。一度転進し戦闘を仕切り直そうにも、それを許すような相手であるはずもない。選択肢はおのずと絞られていた。
「しかたねえ…… なら直接グリフォンをぶっ叩く!」
先程人狼が埋まった瓦礫の山が大きく崩れ、老羽ありの巨獣に引けを取らない巨大な獣がその中から現れた。
見開かれた六つの眼に宿る燃え盛る炎。剥かれた牙と鼻梁に寄った皺。
そこには敵を圧倒する威圧が込められている。
地を轟かせるかのごとき低い唸りが、大きく裂けた口の奥から響いていた。
身震いとともに埃を払い、地獄の門を守護する者がその力のみなぎる脚をゆったりと前に進める。気高き物の象徴である天の王者と相対すると、封印されて久しい三つ首の魔犬を前にした翼を持つ獅子が猛禽特有の眼光を光らせた。
「そうそう、ここでケルベロスの出番よ。結局グリフォンを倒さねば儂の首はとれんぞ」
この威容を前にしても、老羽ありの様子は全く変わる事が無い。むしろ非常に愉快そうだった。まさに孫の子守りをする祖父と言うのが似合っている。それを感じ取った若い羽ありはひとつ舌を打ち、歯を食いしばって老人を鋭く睨みつけた。
若い男が選んだ道は最も不利な道だ。しかし嘆くことはしない。目の前の巨大な壁を何としても打ち崩す。
彼にはそれ以外に、残してきた羽なしの娘を救う道はない。
三つの口から地の底まで揺らすほどの咆哮とともに、地獄の炎がこぼれ出た。