第六十羽 「漆黒の騎士」
舞い降りた黒髪の羽ありを羽なしの青年が抱きとめた。涙でぐしゃぐしゃになった顔を青年の胸に押し付けたまま、ずっと嗚咽を漏らしている。ぼさぼさになった黒髪を撫でる青年の顔はとても穏やかだ。声をかけるわけでもなく、ずっとその涙を受け入れている。
そんな二人の姿を至近距離で見ているのは片羽の少年。しかし少年も彼らをやっかむことなどなく、とても嬉しそうな笑顔で見守っていた。
それが彼の望みで、この時の為に戦ってきたのだ。
「ジュド…… ありがとう」
散々涙を流した後、ようやく黒髪の羽ありが泣き声ではない言葉を発した。抱きとめていた男の顔を見る事なく少しうつむき気味に、だが心から感謝している事が分かる横顔だった。そのまま羽なしの青年は相手を強く抱きしめ、気にするな、とだけ呟いた。再び閉じた彼女の目から頬に一筋の涙が線を引く。ようやく訪れたこの時をしっかりと噛み締めている二人は、誰から見てもやはり幸せそうだった。
わずかな、本当にわずかな時間だった。じくりと何か疼くような感じを覚え、少しだけ片羽の少年の口角が下がった。同時に目線を左にやったが頭を少しだけ振った後、すぐに二人の方に変わらぬ笑顔を向けていた。だが何かしっくりとこない。きっと他者が見れば違いなど分からないだろう。しかし片羽の少年自身にとって、その笑顔は自分の顔の表面に張り付いた仮面であるかのようだった。
違う。とうに分かっているはずだ。分かったうえで来たのだ。
外から見守ると決めたのだ。今更何を想う。未練がましい、弱い男め。
そう自分に言い聞かせる。ずっと以前に敗れた想いをいつまでも引き摺っているなど滑稽だと内心で自らを嘲笑った。しかしおおよそその根は本人が思うよりずっと深い物で、それは片羽の少年においても同じだった。
「もちろんウィン。ウィンも、ありがとう」
黒髪の羽ありはうつむいた顔を上げ、少年の目を見て言った。不意に声をかけられた少年はどもりながらも返事をした。
気にしないで、とただ一言。
自然に口から出たその一言がさらに自分をみじめに思わせた。
何故同じなのだろう。何故同じなのに、自分ではなかったのだろう。
心に広がりだした醜い滲み。獲物を探す蛇が頭をもたげるように、抜いたと思ってもどこかが残り、忘れた頃に芽吹き出す。
その時少年の脳裏をかすめた者がいた。屈託のない笑顔を見せる一人の娘。生き生きとその肢体を動かし、誰よりも命の華やかさをその身で表し、彼にこのような想いを植え付けたのは自分だと責め、彼よりも心を痛めた羽なしの娘。
「……本当に大丈夫?」
そう覗き込むように尋ねてきた黒髪の羽ありに驚いて、わずかに後ずさった。いつの間にか彼女は少年の兄のもとを離れて、息がかかるほど近くに顔を寄せて来ていた。
「な、何…… が?」
「え、だって急に思いつめたような顔をして黙り込んじゃったから……」
相変わらず黒髪の羽ありはこう言った事に無頓着だった。最接近した黒髪の羽ありの両肩に手を乗せ、羽なしの男が少しだけ彼女を後ろに引く。不思議そうに彼の方を見るが、後ろに立つ男は彼女の方ではなく、片羽の少年を見てすまなそうな顔をしていた。
「……悪い」
「気にしないでよ、兄さん。僕ももう分かったんだ」
そう答えた片羽の少年の顔は確かに晴れやかな物だった。彼女は、代わりなどではない。この想いは同じだが、別々の物なのだ。迷いのとれた少年の顔はこれまでよりも頼もしくあった。それを黒髪の羽ありも強く感じたようだった。
「ウィン。あなた、本当に強くなった。こんなに逞しい男になるなんて、私も思ってなかった。ごめんなさい、信用してなかったのね……。
Fユニットの事…… あなた達を信じる。きっと、セレ博士もそれを望むから」
少年の手を取り自分の額につけながら答えを出した。救助に来た二人の男達にとって予定外の依頼だ。だがそんな事はたいした問題ではない。彼女を本当の意味でこの戦禍から救うには、その鎖を引きちぎる他に手はないのだ。二人とも大きく縦に首を振った。
「その、Fユニットって何だ? 相当危ない代物だって言ってた気がするが」
「もともとは魔道書の一部よ。それ単独では使えないの。特殊な拡張機能を持つ魔道書に組み込んで……」
その時スレイプニルの方から緊急連絡を受信した警告音が鳴り響いた。
―60―
片羽の少年とその兄が黒髪の羽ありを捜索していた頃。
仮設都市の中の大通りで一台のスレイプニルが交戦していた。辺り一帯が戦闘中であり、さらに今も遠くないところから砲撃と思われる轟音が聞こえてくるような状況であるにもかかわらず、後部座席の者がのんきな声を上げた。
「ジュド兄、すっごいわねー。こんなの作ってくるんだもん」
そりゃっと言う掛け声とともに正拳突きを繰り出した。彼女の拳から伸びる長い杭のような針で一匹の幻獣を串刺しにし、それをそのまま肩の高さ辺りまで持ち上げると、ぶんと風を切るような音とともに横に払った。モズのはやにえを思わせる姿をさらしていた蜥蜴のような幻獣は力なく地面に叩きつけられると、そのまま風に溶けていった。
辺りを見渡せばそこかしこで霞と消えていく異形達の姿があった。先程仕留めた蜥蜴が最後の一体。もう動くものはない。まさに一騎当千と言った働きを見せる栗色の髪をした羽なしの娘を乗せた羽ありの男は、さすがに見慣れたとは言えため息を吐く事を禁じ得ない。
「マジでハニーのとこのご家族どうなってんだよ……」
「え? 普通の一家よ。農業地帯の平凡な一家庭」
「や、平凡じゃねえって! 弟さんしかり、ハニーの腕力もどうなってんだよ!」
「デリカシーのない男は嫌い! って、まあお母さんもおじいちゃんも若い頃は腕っぷしが強かったっていってたっけなぁ。何でかなんて考えた事もないわねぇ」
腕力だけでこれはない、と喉の奥まで出かかったが飲み込んだ。今でこそ一掃されてはいるが、ここには当初無数の小型幻獣がいた。ゴンドワナにとって最終防衛線である。もともと配備されている戦力はこれまで制圧してきた各基地の比ではないと予測されていたが、レッドクリスタルの実装によって動員可能となった幻獣の数はロディニアの予測を遥かに超えていた。
遭遇したのは全体のごく一部であった。新たな兵装によって疲労も少なく戦闘を行え、杞憂に終える事ができたが、その量は羽なしの娘の肝を若干でも冷やすのに十分だった。
もしも単騎突入と言う事であれば周りからの増援に苦しめられることになるはずだ。特に大型幻獣の乱入はそれだけで均衡が崩れる。しかしロディニア側も総力戦と言う事もあり、市街においても広範囲に戦車隊が展開し大型幻獣の足止めを行い、戦車隊では処理しきれないような物はタイプ・ギガンテが引き受けていた。問題になるのは小型・中型幻獣であるが、現在の報告によれば動員されたタイプ・レギオン、タイプ・マリオネットが非常に効率よく増援の集中を抑えているようだ。おかげで彼らも目の前の戦闘に集中できている。
スレイプニルを運転する男は、これ幸いとばかりに暴れ回っている羽なしの娘の挙動にもようやく慣れて、愚痴を聞かされる事も少なくなり胸を撫で下ろしていた。
弟ならもっと揺れない、弟ならもっと運転が繊細、弟なら……。
そんな比較ばかり常に聞かされていれば流石に面白くない。だが今は彼女が如何に快適に戦う事ができるかが最重要であり、それを叶えるためには私心を抑えて徹底して任務を遂行する必要がある事を理解している。そして彼はそれを全うできる資質があった。
次のポイントに向け移動を始めると、不意に羽なしの娘が口を開いた。ふざけたりおどけたりする調子はない。
「……なんだかんだ言って、アンタ結構良いわよね」
突然の言葉に騎手の心拍が跳ねた。心臓をつかまれたような感じすら受ける。うまく呼吸する事も出来ず、喉は一瞬で干上がった。震える声を必死でごまかしながら、聞こえなかった、と返事をすると羽なしの娘が身を乗り出した。
「だから、アンタってなかなか良い腕してるよねって言ったの!」
よく聞いてみれば彼が望んだとおりの言葉ではなかったが、その一言で十分だった。風でかき消されないように耳の近くではっきりと伝えられた言葉に対して、彼は努めて平静を装って、まあな、とだけ答えた。
本来であればスレイプニルを止め、殴られる事覚悟で抱きつきたいところではあるが、我慢した。せっかく受けた高評価を維持しなくてはいけない。彼は一応できる男なのだ。それを示すように銀の馬を走らせ続けた。
目標である中央管理塔まではそれほど遠くない。しかしあえてそこを目指さず、警邏する様に路地を行く。彼らの役目には出来るだけ多くの警備幻獣を駆逐する事があった。
「ライオスさん達からの連絡はまだかしらねー。それまではこの繰り返しでしょ?」
「そうだな。このくらいの規模だったら助かるな」
「何言ってんの! まだまだ平気よ! 飽きる前にどんどん来ーい!」
その声に反応したように、前方の建物の陰から何かが現れた。人と同じくらいの体高と、二本の角を持つ頭。全身甲冑を身に付けた人間のように見えたが、その足は四本ある。そのシルエットに見覚えがあった。
「あれ? 小っちゃいゴーレムがこっちに来るわよ?」
初めに気づいたのは羽なしの娘だった。そしてそれに続いて羽ありの男がその異様な光景に一瞬言葉を失った。
「お、おい数がハンパねえぞ! 何だ一体!」
建物の陰からあふれるように、わらわらと小型機兵が出てきた。先頭の機兵がスレイプニルを認めるとその先端が二又に分かれた腕を前に出した。二又がさらに開き、隠されている銀の砲塔がそのまま二人に向けられた。
銃口を向けられるよりも早く、銀の馬の騎手は方向を転回し来た方へと走らせ出した。
「ちょっと、なんで逃げるの?」
羽なしの娘が疑問を投げかけるが、その答えは光の弾の姿ですぐに後ろからやって来た。
「撃ってきた?!」
「クソ、嫌な予感的中かよ!」
速度を落とさず引き返す。後部座席の娘はすぐさま右腕の鎧を解いて後ろに振り向き、左腕に装着し直し盾のように展開した。鎧を強く叩く音が鳴り響く。
「もー! 何とかして! 何なのよ、故障?!」
「わからねえ! バグや誤作動だとしてもこれだけ大量なのはありえねえ!」
乱射しながら追ってくる蟻を巻くために側道に入ったが、少し進むと前方から別の蟻が現れた。すぐさま転回し来た道を戻る。ふと上を見上げた羽なしの娘が青ざめ、使い方を教わったばかりの小型砲台「ライオット」を見た方に向け、宣告なしに一撃を見舞った。いきなりの砲撃で車体のバランスが崩れたが、騎手がなんとか堪えさせた。
「あっぶねえ! ハニー、せめて一言言ってくれ!」
「ご、ごめん! でもそれよりも上、上!」
羽なしの娘が指差す方を見ると、羽ありの男も眉を顰めざるを得なかった。屋根を乗り越え、建物の壁に足を突き立て、そのまま壁面を大量の蟻が走ってくる。蟻がいないのは空だけだ。
「だからよ! ロディニアも何ちゅーもんを作ってんだよ! ヤベえだろ、これ!」
今走っている通りには交差する道が無い。ここに閉じ込められる事は避けなくてはならないが一歩及ばず、退路からも銀の波が押し寄せてきた。最も回避したかった状況だ。
前後を挟まれた形になった時から小型機兵の射撃は止まっていた。互いが味方であることを認識し同士討ちにならないように行動している。機能は正常だ。ただ、友軍を認識していない。異様なこの状況を把握するべく羽ありの男は神経を尖らせ周囲を観察し続けた。
「なに、なに? 何なの!」
じりじりと銀の蟻が近づいてくる。羽なしの娘は追い込まれた状況に苛立ちを隠せない。右腕に鎧を装着し直し、きょろきょろと前後を見、いつ襲いかかられても反応できるように呼吸だけは整えていた。
一機の機兵が銀の馬に飛びかかると即座に羽なしの娘が拳を突き出した。鎧から伸びる針は機兵の胸部を貫き、空中で引き抜かれると次に迫る機兵の頭部を砕いた。銀の蟻が次から次へと襲いかかる。懸命に撃退するが物量があまりに違い過ぎた。
これ以上接近されると身動きが出来なくなると判断した羽ありの男はスレイプニルを走らせて銀の蟻を何体か撥ね飛ばし、急旋回して後輪で蹴散らし、砲を撃って活路を開こうとしたが、やはりその物量の壁を抜くに至らなかった。じりじりと包囲網が狭まっていくのを見て思わず舌打ちが出た。飛んでこの娘だけでも連れて逃げる事を考え始めた時だ。
「伏せる!」
短い甲高い声が後ろから響く。反射的に身を屈めると頭上を突風が通り過ぎた。バキャン、と金属同士が打ちつけられた音と砕ける音が混じり合った不協和音が響いた。後部座席の羽なしの娘が、振り抜いたアームズを右肩に担ぎなおす。扱いなれた巨大な三日月。新型兵装を搭載したが、万一の保険の意を込めて積んできた事が幸いした。周囲を取り囲んでいた小型機兵は胸の辺りから上を失い崩れ落ちた。
「アンタ! 今逃げようとしたでしょ! まだ諦めるな! ウィンなら絶対、なんとかするわよ! アンタもなんとかしてみせなさい!」
くっそ、と呟いた男も苦笑いを隠さずにはいられない。負けていられない。腹をくくり眼前を見据えた彼の中に再び気力が満ちていった。
羽なしの娘の一撃に警戒し防御態勢を取っていた銀の蟻達が再度動き始めた。銀の馬に乗った二人も身構えたその時。
「止めなさい」
まだ幼さの残る声が響き、銀の蟻の群れの奥から蹄の音と共に何かか近づいてくる。
それは闇だった。
蟻達は闇からの声に従い攻撃態勢を解き、標的から離れていく。そして迫り来る闇に道を開けた。
闇の中に白い少女の顔が浮かぶ。それはとても美しい少女だった。巨大な銀の書を抱える姿にも気品があり、愉快そうに浮かべた笑顔も美しかった。むしろそれが一層の狂気を煽る。
「うふふふふ、あら? 今度はお人形じゃないわねぇ。私と踊れる方かしら?」
今までに遭遇した幻獣、魔道士とはかけ離れた異質な空気。
この戦いのすべてを揺るがす美しき闇が、そこにいた。




