第五十二羽 「故国を思う」
弟の横顔を見てにこにこと微笑んでいる。視線に気付いた少年は、彼の左だけの翼を広げ、その風切り羽で前髪とともに姉の額を撫で、さらに頬にも優しく触れていった。ソリエス桃という青果の皮をむいていたため、両手が塞がっていたからだ。
「えへへへへ」
さらに表情を崩し、彼の姉の口からは喜びの声が漏れていた。一口大に切られた後に丁寧に皮がむかれ、フォークに刺された果肉が口元に運ばれると、彼女は口を開けてそれを頬張る。十分な甘さと豊かな果汁があふれ、彼女の口腔内を満たしていく。思っていたよりもずっと美味だった事に驚きとともに満足した彼女は、嬉しそうにもう一切れと弟にねだった。別段彼女の好物を持ってきたわけでもない。と言うよりもこの果物は彼らの故郷の近辺で栽培されておらず、見るのも食べるのも初めての物だった。純粋においしかったのだ。
青果は前線に運ばれる量が少ない物だが、病床にある者達への滋養の為に一定量は供給されている。先程姉の見舞いに来る前に上官から持っていくと良いと助言され、配給を受けてきたのだ。手に入れたこのソリエス桃は皮ごと食べる事も出来るが、皮は少々酸味が強く時に渋みもあり、やや舌に残るような感触があるため好まない者もいる。そう聞いていた片羽の少年は試しに、姉の為にむいた皮を一切れ摘まんで口に運んでみた。若干少年の眉が顰められる。なるほど、この実はむいて良かった。酸味よりも苦味の主張が強い。さらに表面の、見た目とは裏腹にざらりとした舌触りは彼にとって気になる点だった。
「どうしたの? ウィン」
「うん…… 皮は思ったより不味かった」
素直な弟の発言に対して、ぷっと吹き出すと体を起こし、小さな皮を一枚取って口に含む。一噛みして彼の表情の意味を理解し、口直しの為にむかれた果肉を一つ取って放り込んだ。その直後彼女は少々驚いた顔をした。
「うーん? 実と一緒だと苦味もあんまり分かんないかも? って言うかアクセントになって美味しい」
そう言ってまだ皮のむかれていない一切れをフォークに刺し、弟の口元に差し出す。あの微妙な味がまだ口に残る片羽の少年は若干戸惑ったが、姉がぐいぐいと差し出してくるので仕方なしに口を開けた。柔らかな果肉と同時に、奥歯に噛み絞られた皮から酸味と苦味を含んだ汁が舌の上に広がる。ところが一緒にあふれる甘い果汁と混ざると、先程覚えた苦味の印象は全く無く、酸味が甘さを引き締め、最後に残るかすかな苦味がこの果実の余韻をさらに強くした。彼女の言う通りアクセントのある味、つまり後を引く美味さだ。
「ほんとだ。姉さんってやっぱりすごいね」
「何よ、ただ食べた感想を言っただけじゃん」
「ははは。そうだけど、怯まないで新しい事に挑戦するからさ。僕じゃ分からなかったよ」
「女は度胸って昔から言うじゃない。でもね、それもやっぱり問題よ」
もうすでに毒素は消えている。片羽の少年が用いた一角馬の力は毒による害を打ち消しはしたが、それと体力の回復は別の問題だった。酷く疲弊した体力および各器官の回復は通常通りに時間がかかっていた。谷底の決戦の決着から三日経っているが、まだ快癒とは言えそうになかった。
「なんでもかんでも、やってみたらどうにかなるとか、何とかするじゃないのよ。臆病、慎重、待つって事もとても大事。あたしみたいに突撃してばっかりじゃ、痛い目見るし、見てからじゃ普通は遅いのよ。ウィンがいなかったら、あたし……」
少年の脳裏にあの時の光景が思い起こされる。何よりも見たくない、身内の苦しむ姿。もしもあと少し遅くなっていたら、またはあの蛇の王に敗れていたら。幸い最悪の事態を打ち破る事は出来たが、何度もこの幸運が続くとは限らない。
彼らは自分の敗北自体を恐れてはいない。その敗北の先にある、愛しい人達の苦しみを何としても回避したいと願っているだけだ。だからこそ負けられない。負ける事が怖い。戦いたい訳ではないが、戦わざるをえない。
「本当に良かった……。自分自身にこんなに感謝した事なんてなかったよ。良かった、僕にこの力があって。姉さんを助けることが出来て……」
弟の言葉を受け、姉は少し目を丸くし、そしてすぐに優しい眼差しを向けた。間違いなく彼は羽ばたき始めている、そう感じた。
「うん、ありがと。二度目だね。でもあたしはね、助けてくれたことより、そうやって感じてくれるウィンの優しさの方がずっと嬉しい。ウィンは誰よりも強くて、誰よりも優しいよ。お父さんもお母さんも、ジュド兄だってそう思ってる。……それにあのバカ女も」
「そんな事ないよ、僕はいつもみんなに守ってもらっているだけだよ。誰よりも、姉さんに」
「ううん、それこそ違うよ。ウィンはもっと自分に自信を持っていいと思うの。子供の頃はあたしが守ってあげなくちゃ、って思ってたのに、今じゃすっかり逆。あたしを守れるんだからウィンは立派な男だよ、うん!」
彼女が言うように誇っても良いところなのだが、片羽の少年は今一つ実感が湧かずいつものようにはにかんでいた。見ようによっては申し訳なさそうな感じである。それが彼女にとって、姉としてだけではなく、歯がゆい限りだった。
「って言うか今の笑うところだよ!」
その一言に触発され、少年も自然な物へと表情を崩した。お互いに声を出して笑いあう。仲の良い姉弟の姿がそこにあった。長い面会になって疲れさせるわけにもいかない。そろそろ休ませるためにシーツをかけようと立ち上がったところに、不意に姉が弟に抱きついた。急に体重をかけられたために、そのまま覆いかぶさるようにベッドの上に倒れ込んでしまっている。
「ウィン、ありがとう。あなたの事が本当に好き」
そう言って片羽の少年の頬に口づけをした。彼らの事を知らない者が見れば疑う事は無いだろう。それはまるで恋人同士のようだった。
―52―
ロディニア本隊が谷底の城塞を攻略し、ゴンドワナ本国を目前とした状態で待機して三日が経った。補給や補修、修理、整備のためには少なくともあと三日を見積もっている。昨日予定通りゴーレムをはじめ補充物資が搬送された。タイプ・ギガンテ二機とタイプ・フリューゲル一機、さらにゴーレム用に新たに開発された斧型白兵戦装備が三機。他にも高機動戦車も多数補充された。
先の砂漠の王戦によって石化されたロディニアの兵器は多数に及んだが、片羽の少年が召喚した一角馬の光を浴びた物は、すべて現在起動可能になっている。整備を行えばおそらく通常通りに使用可能であると判断されていた。しかしそれでも戦車隊が受けた打撃は極めて大きく、補充を受けた機体を全て損耗に充てたとしても、稼働できる戦力は最初の八割と言ったところだ。背後からの攻撃に備え、この城塞にある程度残していかなくてはならないため、実質ゴンドワナ本国との決戦に向かえる物は六割を切る。
また蛇の王の牙の一太刀を受けたゴーレムが、装甲の交換が必要なため、戦線を離脱させられている。万全の戦力とは言い難い。しかし合計六機となったゴーレムと、ゴーレム用新装備が追加された事は非常に心強かった。
最後の決戦への準備が整えられていく中、不穏な知らせが届いた。
先程この城塞にほど近い基地に展開していた部隊が、ゴンドワナ軍の攻勢に遭い撤退に追い込まれたと言う知らせだ。
その基地からの増援を防止するため、中規模の部隊を展開していた。各地のゴンドワナの拠点を抑えるために広く作戦を展開しており、ロディニア側にも人員の余裕はない。制圧せずとも相手をけん制し、動きを封じる事が目的だった。本隊は現在谷底の、退路の無い場所にいる。正面はゴンドワナ本国だ。ここで挟撃を受ける事は何としても避けなくてはいけない課題だった。
それまでの報告では一進一退の戦況だとのことだったが、急変をみせた。突然軍勢が倍化したと報告にあった。小型幻獣の数に至っては三、四倍になり、今までにない統率された行動を取り始め、危険度はこれまでの比ではなくなっていると言う。遥か上空からの偵察機からの報告にはゴンドワナ本国からの増援があったような動きは無かった。
「ワイルドハント……。じじい、ここに来て完成させたのか。もう生身を送り込むのは止めときな。精鋭部隊だとしてもヤバいぜ」
電磁錠で拘束された姿がすっかり板についた羽ありの男が呟く。反抗的な表情も、抵抗する姿勢も見せず、通された作戦司令室にいた。
「何だそれは。何を作り上げたと?」
「幻獣の統制システムさ。大昔の伝承がもとだ。一体の首領に率いられた大量の悪霊悪鬼羅刹の群れ、ワイルドハント。女子供や弱い精霊、妖精を見境なく襲う厄介な連中だ。分かるだろ? 強力な兵士が一人一人別個で行動するよりも、統率された凡百の方が効率よく戦局に対応できるし厄介だ。カマキリ一匹よりもアリの群れの方が危険ってこった」
「数の暴力、と言う事か」
「そんな生ぬるいもんじゃねえよ。俺も詳しい事は知らねえ。だがな、一人の羽ありで複数のグリモアを一度に操作し、訓練された部隊さながらの行動を取らせることを目的に、じじいが開発をすすめている計画があるって聞いた。それがプロジェクト・ワイルドハントだ。つまり、あそこにいる魔道士の数だけ訓練された小隊が存在するって事だ。隊員は幻獣、人間よりもずっとタフで凶暴だぜ? 何をどうやっているのかは分からねえ。けど状況を聞いた限りは完成したと考えていいだろうな。本国には間違いなくアドリア基地よりも多い軍勢が配備されてると見るべきだ」
「あの基地には、その計画の完成を見越して元から魔道書を用意していたと?」
「いや、おそらく多分塔に潜む影を使った輸送だろう。こう言う用途なのさ、本来な」
質問に対して見返りを求める事なく、知っている内容をすべて打ち明けていく。答えるべきか迷うことなく、胸が透くほどにさっぱりとした対応だ。むしろすべて出任せではないかと疑ってしまうほどだ。しかし入室だけでなく自由な発言を許した白色の軍服に身を包む羽ありの男は、真偽を問うことなくその言葉を聞いた。
「この前のバジリスクが全然スタミナ切れ起こさなかったのはこれが理由さ。あんな化け物は長時間稼働し続けられねえからな。二冊のア・バオ・ア・クゥーでエリクサーを運び続けてたってワケだ。一定距離ならア・バオ・ア・クゥー同士間を空間跳躍出来る。俺には理論までわからんけどな。前捕まえた時知っただろ? 俺達ゴンドワナの不思議技術は早々真似できねえさ。力場ってすげぇ」
「とんでもない技術だな、こんな状況下でなければ相互交流をして発展していきたいと言うのが本心だが……」
「確かにロディニアみたいなミスリル加工技術、機械技術はゴンドワナには無ぇからな。何だよゴーレムって。まじめに巨大ロボを作るなよ、初めて見た時はちょっとワクワクしただろうが」
「なぁに、そっちこそこんな技術がありながら、実際作ったのは子供の頃夢見た存在だろう? 夢のある話じゃあないか」
二人の間で談笑が起きた。一人は威厳を保ち、護衛を付けて一段高い位置にいる一方で、一人は拘束され、監視を付けられ粗末な椅子に座らされている。さらに年齢差。親子と取れなくもないくらいだ。周囲の人間達の目には、とても歪に映っているだろう。
「……いいのか?」
「あ? 何がだ?」
白い軍服の羽ありが、皆が持っているだろう疑問を代弁した。拘束されている羽ありは本来捕虜であり、さらに言うならば軍部のエリートだ。これまで多くの尋問を受けてきたが、ここまであけすけに答える事は少なかった。それが今になって態度を一変させている。先の陣営防衛戦において有益な働きをした彼は、捕虜であるにも関わらず一定以上の信頼を得た。しかしロディニア側にとって貴重な情報を見返り無く提供する事が、逆に周囲の不信を募らせているのだ。
「俺が全部本当の事を言ってると思ってんのか? おめでたいぜ」
「……嘘を言っているようには見えん。こう見えて私は人を見る目があると言われているんでね」
敵わないとでも言いたそうに、拘束された状態で肩をすくめる。そして、さっきまで軽そうな雰囲気を漂わせていた男の顔が急に引き締まった。特にその眼。奥底に強い決意とともに深い怒りが見て取れる。
「……もう許さねえって決めたんでな。作っちゃいけねえ物を作って、使いやがった。もうゴンドワナが後に引く事は無えだろう。それじゃあ殴ってでも止めてやるしかねえ。まったく、俺はバカ野郎だよ。こんな事になるまで気付かなかったんだからな」
彼の脳裏をかすめるのは、彼の腕にすがりつく苦悶の表情をした羽なしの娘の姿。拳を強く握り、ぎりっと奥歯を強く食いしばった。無言の時間が数秒あったが、再び口を開いたのは若い羽ありの方だった。
「それにこんな機会でもなけりゃ、うちのじじいとガチで闘りあう事なんて生涯考えなかっただろうしな。おそろしいぜ、あの野郎は」
せせら笑っているが、それを誰も咎めはしなかった。その対象はおそらく彼自身。やおら立ち上がり、高いところにいる羽ありに向き合った。その勝手な行動も誰一人として咎めなかった。さらに拘束されている状態で、腰から深く頭を下げる。
「真剣に協力させていただきます、司令官殿」
その潔さ、気迫は作戦司令室に居る者すべてを信頼させるに十分だった。