第五十一羽 「聖なる化物」
一人の男が医務室の前で力なく壁に背を預け、床に腰をつけたまま頭を抱えていた。その男の背中には二枚の翼があった。
「すまねえ……。お前の姉さんを、守ってやれなかった……。あいつら、絶対許さねぇ……! ちくしょう、何だってこんな……」
近付く存在に気が付き、それが誰かを確認すると、力無く座ったまま羽ありの男が謝罪する。彼が悪いわけではないことを知っている片羽の少年は、それ以上この男を追い詰めるつもりは微塵もなかった。
日は傾き、もう山脈の影に隠れてしまうそんな黄昏時に片羽の少年は帰還した。報告を受けていたので、戻ってくる前から知っていた。一秒でも、瞬きするわずかな時間でも早く戻りたかった。可能な限り急いで戻ってきたのだが、道中時が止まってしまったかと間違うほど、時間が経つのが遅く感じられた。
部屋に入ってみたが、先に来ていると思った彼の兄はいなかった。聞けばこちらに向かっている最中だとのこと。今はスレイプニルの量産のため、この前線基地から遠く離れた地に居るのだが、そこからこちらに向かう手筈がすぐに整わなかったのだという。
医務室にはいくつかベッドが並べられていたが、その部屋には今誰も床についていなかった。少年は衛生兵に案内され、奥の別室に連れていかれた。扉を開ける前に机に就いていた軍医から容態の説明を受けた。未知の毒により特に呼吸機能が障害され、非常に危険な状態だという。特異的な解毒剤がなく、呼吸困難に対する緊急治療を施してようやく今の状態を保っていると言うことだった。
衛生班の付き添いは要るかと尋ねられたが、少年は二人にしてほしいと願い出た。
救急治療室に入ると電子音が小さく響いていた。命を繋ぐための部屋のはずなのに、命の気配を感じない。窓から入り込む夕陽の最後の輝きが室内を照らしていた。
二つあるベッドの一つにゆっくりと歩み寄る。少年の眼下には静かに横たえられ、口元にはマスクが、腕には静脈点滴のための管が、鎖骨、脇腹の辺りには電極がいくつも貼り付けられた姉の姿があった。
そこには別れる前の輝く笑顔や快活な様子はどこにもなく、毒によって無惨に踏みにじられ、失われたまま意識の戻らない肉体が在るだけだった。 呼吸も心拍も微弱で、機械によって生命活動をようやく維持しているといった感じだ。
「姉さん、頑張ったね……。辛かったね……。もう、大丈夫だから……」
姉の手を取り、それを自分の頬に当てる。まだ温もりがある。まだ生きている。それを確かに感じ、彼は姉の手の甲に優しく口づけをした。
「大丈夫……。姉さんが連れてきてくれてたんだよ。奇跡を起こす 、聖なる生き物を。だから、もう平気だよ。僕に任せて」
そう言うと片羽の少年は一冊の書物を手にして、姉の傍らに備えられた椅子に座り、ゆっくりとページを開き、その一節を口に出して読み始めた。
「その者、気高く勇猛なれど、純潔なる乙女に従い癒しを求む。輝かんばかりの白き毛並みに頭に一つの……」
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砂漠の王の息と共に撒き散らされた濃霧は、谷底に広く漂っていた。先の片羽の少年の砲撃によってできた焼け野原は未だに熱を持って上昇気流を産んでおり、毒霧はそこから先へ流れることはなかったが、遠巻きに見ている者たちは次から次へと失われる生と、無限に増えていく死をみていることしかできなかった。せめてこれ以上渓谷全体に拡がることを防ぐべく、大型のファンを使って霧を押し戻す程度が精一杯だった。
圧倒的な死の力。とても御しきれるとは思えない無差別な暴力に立ち向かえる者などいなかった。
そんな死の国の大気の中を何かが進んでいく。それは見間違いなどではなく、明らかに四本の足をした何かが霧深い中心部に向かって進んでいた。
自分の領土にこれ以上無断で踏み込む物を看過できない。とぐろを巻いていた魔王が鎌首をもたげ、そう言うかのように口を開いて威嚇音を立てたが、それは意に介さずに進んできた。
その歩みは機械に特有の軋みを思わせるような音も、アクチュエータの駆動する音もなく実に滑らかで、シルエットからも美しさを覚えるほどだった。
機械仕掛けではない巨躯、そしてこの中で息をできる存在が他に在るはずがない。
慈悲深く警告した。しかし確かな意志を持つかのようにそれは進んでくる。これは王への挑戦だ。そうであるならば遠慮はいらない。魔王たる力を見せつけるのみ。
さらに立ち上がった蛇は頚部を広げ、その邪眼を開く。そして巨人達を一瞬で石とした視線を放った。だがその四ツ足には全く効果が無い。
さらに四ツ足が近づいてくるに従い、その毒煙が薄くなっている。威嚇音を最大にまで高めた蛇が体を俊敏に伸ばして咬みつく。しかしその攻撃を予想していた接近者は相手の牙が届くよりも先に動き、蛇の後ろに回り込んだ。頚部を広げたまま振り向き、再びその牙を食い込ませようと飛びかかったが、牙はその者が持つなにかに弾かれた。四ツ足の相手はそのまま後肢で立ち上がり、勢いよく前肢をこの領域の主めがけて振り下ろした。ドゴンと鈍い音が響き渡り、舗装された街道を含めた大地が深くえぐれ 、クレーターとなっていた。しかしそこに蛇の姿はない。この巨蛇はその巨躯に似合わずかなり素早い。いち早く回避し四ツ足の側面をとった。蛇の王は体を引いてさらに力を込め、先程よりもさらに速く飛びかかった。だが次の瞬間、魔王の剣は相手に食い込む事はなく、逆に広げたままの邪眼を貫かれ、高々と掲げ挙げられていた。
魔王の吐息を物ともせず、死の国の王を一撃で屠ったのは、額に生える一本の純白に輝く螺旋の角。すべての毒を払う力を持つ一角馬。
動かなくなり大気に溶け始めていく蛇の王を振り払い、巨大な白馬は再びその角を天に掲げた。その角が白色に煌めき、残った霧と谷底に転がる物々、動かなくなった巨人を照らす。
死を呼ぶ霧はかき消され、照らし出された死した機械に輝きが戻る。
命を踏みにじる暴虐のすべてが否定されていく。まさに奇跡。谷中に歓喜が響き、うねりを生んでいた。同時に観測官から報告が上がる。
「グングニル着弾ポイントより北東500m付近、及びバジリスク撃破ポイント北200mにて別種の幻獣フィールドを確認! ゴンドワナの魔道士を同時に発見! 数、二!」
「二ヶ所で見つかった? どちらも逃すな、追撃せよ!」
掃討作戦が開始され、待機していた高機動戦車が一斉に一角馬の脇をすり抜けていく。蛇の王を破り、毒をすべて浄化したその獣は光の粒となりながら消えていった。
「……決まりじゃな」
その様子をモニターを通してすべて見ていた白髭を蓄えた老羽ありが、憎々しげに呟く。
同室にいた補佐官は、彼の持つ空気が一気に変わったことを肌で感じ、全身から冷や汗が吹き出すのを抑えることができなかった。
「幻獣の相性もあろうが、そんな事は問題ではない。ロディニアで真に警戒すべきは、人型などの新型機ではない。たった一人の羽ありよ」
そう呟くと腰掛けていた椅子から立ち上がり、執務室から出る扉の方へ歩いていった。
「奴らも化け物を飼っとるな……。儂が本気で相手をしてやろう。久しぶりじゃの、血がたぎるわい」
老羽ありが出ていったあと、補佐官は大きく息を吐き、そのまま床にへたりこんでしまった。
太陽が西の山脈に姿を隠し、夕闇が広がりだした頃、仮設基地の医務室の奥、集中治療室の窓、扉の隙間から昼間よりも強い光が漏れだした。光が消えて少し経った頃、ベッドに横たえられた女の閉じていた瞼が動き、ほんの少しだけ開いた。
「……ウィン?」
消え入りそうな小さな声で、眠り姫は認めた人影に話しかけた。
「なに? 姉さん」
声をかけられた少年は本を閉じ、横たわる人間の左手を取り優しく握った。
「ウィン…… ウィンだぁ…… 良かったぁ…… ホントにウィンなんだね……?」
「そうだよ、どうしちゃったの姉さん。この片羽、他の誰だって言うのさ。おかしいなぁ」
「あはははは、ウィン、あたしの大好きなウィン。心配したんだよ……? 怪我してない? 平気?」
「うん、みんなのお陰で何ともないよ。姉さんこそ疲れたでしょう? 大きな竜を退治したって聞いたよ。ほら、ゆっくり休んで」
「うん…… あ、可愛い…… なに、この子?」
「ああ、姉さんがこの前捕まえてきたユニコーンだよ。動けるようになったみたい」
「えー。もっとずっとおっきかったよ? おかしいなあ…… あ、なぁに? 甘えてるの?」
「ははは、そうみたいだね。……きっとこの子も姉さんと一緒に休みたいんだよ。だから、ほら。もうお休みなさいな」
「はーい。……ウィン、なんかお母さんみたい」
「いつもこうしてもらってたから、染み付いちゃったのかな?」
「きっとそうね。ふふっ、泣き虫ウィンちゃん」
「……もうそう呼ぶのは止めてよ、姉さん」
「ごめんごめん。……ウィン、ありがとう」
「……どういたしまして。お休みなさい、エディ姉さん」
ほどなくして穏やかな寝息が聞こえてきた。入ってきた医師達が確認し、彼女の容態が安定し、バイタルも回復してきていることを皆に告げた。
片羽の少年は、自分の頬を伝う一筋の涙をそっと拭いた。
安堵の涙は絶えることはなく、あとからあとから少年の頬を濡らし続けた。
渓谷での戦い、決着です。ここに至るまで、実に20ヶ月……! 待たせ過ぎです。大変申し訳ありませんでした。
ところでユニコーンですが、ウィン君の意思でサイズが変わります。これはウィン君が操った時のみの特殊な力です。自分で小さく召喚したくせに彼はエディを和ませる為にすっとぼけてましたが。
通常サイズで召喚しようものなら医務室は木っ端微塵(笑)。
またバジリスクと戦ったときは、エディが倒した物よりも大きいです。体高はゴーレムくらいあります。
バジリスクに対抗するために、とイメージしたらおっきくなったので(笑)バジリスクを倒したあと、消す直前に小さくできるか試してみたらできちゃった、という感じ。
小さなユニコーン、わたしも側に置きたいなあ…。でも本来ユニコーンって猛獣なんですよね。唯一純潔な乙女にのみ懐くとのことで…。