第五十羽 「疾風の獣」
栗色の髪をした羽なしの娘を抱きかかえる羽ありの男の傍らで、一匹の白銀の狼が唸り声をあげている。彼らの周りでは風が渦巻き、禍々しい色をした煙を閉じ込めていた。
「くそっ 時間が無ぇ……」
周囲に漂う煙を吸ってしまった後からあからさまに呼吸に異常を来している羽なしの娘を見て、ぎりっ、と歯軋りする。手にした銀の書のページをめくり文言を口上すると、男を中心に青い球体が二人を包んだ。漂うだけの煙はその青い壁に阻まれ、入り込むことはなかった。書に残されたエネルギーはまだ三割以上ある。それを確認すると男は一つ息をついた。だが。
「気休めだ…… 早く処置しねえと……」
羽なしの娘が苦しむ様子が和らぐ気配はない。球体も二人が入りきる程度の大きさしかなく、このまま毒煙に囲まれていれば、バリアが機能しても数分と持たないと予想がついた。
青い球体に包まれたまま羽なしの娘を抱えた状態で飛翔したが、二人分の体重を負った翼では渦巻く風の壁を越えることはできなかった。あっけなく吹き飛ばされ地に落ちた。女をかばった男は背中を地面に打ち付け、その時翼を少々痛めてしまった。わずかに顔をしかめたがその程度の痛みに気を取られてはいられない。
再び女児のような笑い声が響く。苛立ちを押さえつつ未だ見えぬ打開の道を探していると、息絶える寸前の竜の頭部辺りに、二人を囲む風の壁とは異なる風の渦ができているのに気が付いた。それはまるで風でできた球だった。
羽ありの男が気付いた数瞬後に風の球は弾け、中に入っていたものが姿を現した。
長い緑の髪に、薄手の生地であしらわれた衣服をまとう。
それは可憐な少女を思わせた。
華奢に長く伸びた四肢。
整った輪郭に円らで潤みを持った瞳、薄く形のよい唇、そしてそれらに穏やかに浮かべた笑み。
その容姿はすべてをもって美を表していた。
だが「人」ではない。
赤子よりも小さいその身は宙に浮いていた。
目を凝らしてはじめて判る、背中に持つ薄く透けた虫の羽。
古から草木とともに在る、美しき自然の体現者。
「これほど厄介な相手になるとは考えたことも無いぜ……。観賞用だろ、どう見てもよぉ」
舌打ちをして新手の敵と相対する。そして改めて理解した。
「……倒していくしかねぇわな。面倒な相手だけどよ!」
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「四精霊はすべて上級書……。だがこいつは周辺気候のコントロールにほとんどのエネルギーを持っていかれてる。幻獣本体は脆弱だ。能力を使わせる前に潰すしかねぇ!」
白銀の狼が姿を変え、銀灰色の獣人となって駆け抜け拳を振るう。小さな精霊は微かに光の粒を散らしながら、迫る拳を飛んで避けた。さらに小さく軽いその体は、獣人の大きな体躯が生み出す空気の流れに容易に押されて、一定の場所に留まらない。
もともと風を操ることに長けたその精霊が、獣人の攻撃で生まれた気流に翻弄される事はなく、 自在に宙を舞い愉快そうに無邪気な笑い声をあげていた。
「ちょこまかとっ! これなら!」
獣人は拳を解いて五指を伸ばして突き出した。面積を小さくし、風圧で精霊を押し退けない技巧だ。この獣人の指先は鋭い爪を備えており、殺傷力も高い。しかしその切っ先が精霊を捕らえる前に、強力な風圧が屈強な獣人の体躯を吹き飛ばした。宙で器用に体を回転させて足から着地し、風の壁直前で踏みとどまった。それを見て精霊は目をぱちくりさせて両手で拍手していた。
「くそっ 何だこの演出…… この魔道士、変なとこまでこだわって操ってやがる。かなりの手練れか、ただのバカか…… 両方か?」
今度は笑顔をふりまき、光の粒をたくさんこぼしながらひらひらと舞っていた。宙返りをしたり、ダンスに誘うかのように手を差し伸べたり。若い女性などが見れば虜にされそうなほどに愛くるしい仕草。だがこの竜巻の中心のような異常な環境を作り出している存在がこれだ。極めて皮肉めいている。
「なあ、エライザ! どうせお前だろ! お前好きだったもんなぁ、こういうファンシーなのが!」
「……何だ、分かってたの? ネフュー中佐」
精霊の方から若い女の声が聞こえた。精霊が腰に手を当てて微笑んでいる。
「ええ、そうよ。風の妖精のマスターは私、エライザ少尉。もっとも今は階級が上がってあなたと同じ中佐だけど。いいえ、あなたは捕虜でしかも今じゃ反逆者だったかしら? シモン提督が嘆いてるわ! おお、ネフュー、なぜ我々と袂を別ったのか?! 選ばれた民たるゴンドワナを離れ、アースにくみする裏切り者よ! そなたの地に堕ちた魂、今こそ救済しようぞ! ってね」
口上にあわせて精霊が感情豊かに動く。それを見て羽なしの娘を抱えた男は舌打ちをして、地面に唾を吐き捨てた。
「うっせぇな、このカマ野郎。その声どうした、声帯手術でもしたか? ああ、ボイスチェンジャー通してるだけか。それにうちのジジィがンなこと言うかよ。お前の芝居、相変わらずうっぜえんだよ!」
獣人が再び低い姿勢から飛びかかる。精霊の目前で地を蹴り直角に曲がった。三度地を蹴り、背後から襲いかかった。しかしひらりと上空にかわされ、さらに上から風の刃が降り注ぎ身体中を切り刻まれた。
「あら、心外ね。戦闘にもムード、雰囲気、大義が要るじゃない。ただ剣や拳を交えるだけなんて汗くさすぎてゴメンだわ。その演出じゃない。大切なことよ」
あーそうかよ、と元から聞く気がない事をあらわに見せる。相手の主張よりも今は何より腕の中で苦痛と恐怖に顔を歪め、自分にしがみついている女の事の方が重要だった。
切り裂かれた獣人を傍らに呼び戻す。深く切り傷を負っていたが、次第に塞がり何事もなかったかのように臨戦態勢を取り直した。
「すごいわね、人狼。逞しくって憧れるわ」
「何言ってやがる。お前は人一倍、羽あり一倍頑丈だっただろうが」
「なに? 訓練生時代の事はいいじゃない。それと、ちゃんと手術して、今は女の体よ。この声も地声。子供ができないことだけはどうにもならないけど……」
「おい、マジでしたのかよ……」
「こんな本当の乙女の私と、可憐なシルフ。最高のコンビよね。さらに強いわよ、無慈悲なまでに」
風の刃が再び襲い来る。前方の草が鋭利に切断されたので、刃による攻撃が来ると分かったが、無色透明なそれを見てかわすのは困難だ。羽ありの男は自身を覆う青い球体を解くことなく、羽なしの娘をかばった。彼の従者はこの程度の攻撃では大したダメージを受けないため、気にせず精霊の方へと駆けていく。同時に進路に落ちていた三日月を思わせる武器を拾い上げ、斬りかかった。しかしやはり精霊はひらりとかわす。
「どこ狙って……」
余裕を見せつけた口調だったが、すぐに驚愕に変わった。獣人は精霊を素通りし、その奥で地に伏せた者に刃を降り下ろした。絶叫を上げる暇もなく、もともと離れかかっていたその長い首が根本から切断された。そのアームズは羽なしの娘の手を離れ機能を停止していたため、切断と言うよりも、押し潰したと言った方が良いかもしれない。
「初めからそれを?!」
「こいつの毒が邪魔だったんでな!」
そう言うが早いか、千切れた竜の首をひっ掴み、アームズの射程範囲外にいる精霊に向かって振り抜いた。しかしその太く巨大な首の運動に伴う風圧が精霊を押し流し、直撃することはなかった。
「今のは驚いたわ。予想外の攻撃……。さすがは提督の秘密兵器。でも無駄よ、大振りで気流を生む攻撃の一切をこの子は受け付けないの。……そう言えばあなたを負かした相手もここに居るはずよね。こんなところで時間使ってる場合じゃないわね。悪いけどそろそろ退いてもらおうかしら?」
「止めとけ。お前じゃ相手にならねえよ。こいつが女神なら、あいつは本当の化け物だ」
「へぇ…… 俄然興味が湧いちゃったわ」
絶命した竜が大気に溶けていくのに従い、それの放った煙がだんだんと薄くなっていく。同時に毒の効果がなくなり症状が回復することを期待したが、その様子は見られない。
「……残念ねぇ。ロングウィットンの竜の毒は一度体内で作用したら撃破しても効果が残るの。吸った量が微量な方が意識があるまま苦しむ怖い毒……。その子には不運なことだけど」
その言葉は羽ありの男から冷静さを奪った。彼の従者は怒りをあらわにした形相で飛びかかっていった。無茶苦茶に拳と蹴りを繰り出し、時折その大きな口で噛みついた。風に舞う落ち葉のように流れに任せ、精霊はひらひらとその乱撃を避けていたが、あまりの激しさにかわしきれなくなり、ついに獣人の掌に捕まってしまった。
慌てて風を起こして刃を作って獣人の手首の腱を斬り、力が弛んだ隙に飛んで離れた。しかし怯まず追ってくる。何度でも繰り返し復活してくる相手に対し、怯えたように逃げ惑う。とうとう竜巻の壁際にまで追い込まれた。
しかしこの壁を作ったのは紛れもなくこの精霊。ぴた、とこの場を包んでいた突風が治まり空間が開けた。精霊は急いで迫り来る獣から飛んで逃げていった。
ところが憤怒の形相をした獣人はきびすを返して主のところへ戻っていった。見れば青い球体に包まれたまま、羽ありの男がこの場から飛び去っていくところだった。
それを見た精霊は、にぃ、と口元を邪悪に歪め、その小さな手のひらを飛び去る男に直接向けた。
まさに打たんとした時、最大速力で逃避していくと見えた男が急に大声で予想外のことを言い始めた。
「シルフってよぉ、本来は囲んだ狭い空間より広いとこの方が脅威だわな。標的は小さいくせに空すべてが敵なんだからよ」
背中を向けているのに、まるですべての行動を見透かしたかのような男の言葉に驚きを隠せず、精霊は攻撃を放つタイミングを逸していた。
「囲まれた領域での不利な戦闘はそれだけで相手の精神力をすり減らす。不利であればあるほど相手はこの戦闘を避ける方法を選択する。敵に隙が出来りゃ、それを絶好の機会に逃走をはかる。だからこそわざとチャンスに思える状況にまで追い詰めさせ、壁を解除し、あえて逃げられると錯覚させて闘争の意志を減らした。そこへ本性全開で風の攻撃を放ち敵を翻弄して撃破する。楽に仕留める順当な策だ。悪くねぇ」
心理を読まれ、動揺を隠しきれていない様子だ。いつの間にか男は逃走をやめ、精霊の方に向き直っていた。彼の方が上空にいるため、自然と見下ろす形になった。
「けどな、今回いくつか間違いがあることに気付いてねえな。一つ目。分かってんだよ、そう考えてるのが。分かってるからそれに乗っかっただけさ。筋書き通りに俺を確実に仕留められるとこまで持っていけば油断するだろ? それを待ってたんだ」
「何を言って……」
小さな女の姿をした精霊が迫る影に気付いた時にはもう遅かった。バクン、と大きく裂けた口に捕らえられ、身動き一つとれない状態になっていた。
「それと、俺の幻獣の方が迅い。間違いその二だ」
何とか脱出するべくもがくが全く叶わない。先程までと違って絶望に変わり、許しを乞う表情を浮かべたが慈悲は与えられなかった。
白銀の狼の顎に力が込められる。為す術なく精霊は噛み砕かれ、その首と左腕、両足が地に落ちた。その光景を目にしても、羽ありの男の溜飲は下がらず、双眸から怒りの火が消えることはなかった。
「最後にして最大の間違いは、俺のハニーを苦しめたことだ。何があっても許されねえぞ」
羽なしの娘を改めて抱き上げる。酸欠状態が続いた為、もはや意識が朦朧とし始めていて、一刻の猶予もなかった。翼を少し痛めていたが気にすることなく飛翔する。
「エディを傷つけるんじゃねえ。この女を傷つけた奴には必ず報いを与えてやる。それが味方だったとしてもだ」
羽なしの娘の手を離れ地に落ちていた彼女のアームズを担ぎ上げ、銀灰色の獣人が主の後方に着いて大地を駆ける。
時は正午過ぎ。巨人が蛇の王に破れ三時間以上経過し、片羽の少年が次なる作戦の準備を整え出陣した直後の事だった。