第四十八羽 「希望の翼」
谷底に雲があった。
それは空に昇っていくでもなく、ただそこに漂っていた。
雨を降らし、地を潤すことも無い。
むしろそれに触れた大地は乾き、育む力を失っていった。
命を踏みにじる王の吐息は、留まる事を知らぬかのように谷全体に広がっていく。
為す術なき者達が歯を食いしばってそれを見続けていると、日を遮る死の雲に向けて、一筋の強い光が西の山脈から差し込んだ。
―48―
がしゃん、と音を立てて長銃が深緑色に塗装された無機質な床に放られた。それは砲身が裂けて使い物にならなくなっていた。その長銃はロディニア製の最新型高出力レーザーライフル。本来ならば五連発で発砲をしたとしても、一、二分ほどの休止を挟めば砲身の冷却およびエネルギー充填が完了し、次の狙撃が可能であった。総貯蔵エネルギー量も従来と比較しても多く、エネルギーカートリッジの交換無しで最大で十五分の連続使用に耐える。だがそれが一発で力を使い果たし、廃品となった。
「次!」
少年の声が響く。再び銃を受け取った少年の背中には左に一枚だけの翼があった。遠く下方に見える雲の中心部にスコープの照準を合わせ、引き金を引いた。閃光とともにバシュンと空気が引き裂かれる高い音が立ち、同時に鈍く軋み捻じ曲がる音が合わさって響く。兵器としてでなければ装飾品として並べても構わないと思える造形をした長銃は、先の物と同じく大きく花を開き、その運命を全うした。
「次!」
片羽の少年が狙撃をしているのは中型輸送機のコンテナ部にある解放された乗り入れ口。谷底の暗雲に対し、陽光を背にして上空で静止しているが、風の影響で若干揺れている。吹き込んでくる風もやや強い。この少年が狙撃に卓越しているわけではない事はこの作戦の不安要素の一つであったが、光の筋は間違いなく目標に届いている。しかし谷底に見える雲は消えてはいない。その主を貫き屠れていない事を意味していた。
三本目の長銃がひしゃげた後、観測官からの報告が入った。レーザーはあまりに濃いその毒霧によって乱反射を起こして拡散してしまい、十分な威力で中心部にまで到達していないらしい。もともと生身での接近が不可能な蛇の王を攻撃するために、遠距離からの狙撃を余儀なくされている。一般大気中を走るだけでもレーザーは威力を落としてしまう。もちろんそれはこの作戦が立案された時に忠告としてあった内容であったが、先の戦いで戦車の砲撃を物ともしなかった巨大な魔犬を一撃で貫いた実績から、この距離における減弱効果はまず許容できる程度と認識されていた。だがあの濃霧。その組成も現段階では不明な点が多いが、これほどの出力のレーザーを文字通り霧散させてしまうほどの物であったことは予測を上回る結果であった。
だが全くの無力であったわけではない。片羽の少年が撃ち込む度に霧は少しずつ薄くなっていた。通常をはるかに上回る威力で放たれる光線の持つエネルギーは、拡散される際に熱へと変わって気流を生み出し、霧を薄く広げていった。またその高熱は毒霧を直接分解していく。
「あと五丁!」
「了解、次を!」
再び長銃を受け取り、狙いを定めて引き絞ると、コンテナ内に狙撃手の影が一瞬長く濃く伸びた。その後金属が床にぶつかり擦れる音が立つ。それが三回続いた。光の筋が届くごとにわずかずつ、蛇の姿が明らかになっていく。中心に潜む怪物を包む覆いは少しずつだが確実に削がれていた。
「バジリスク、目視にて確認可能! もう少しだ!」
「ウィン、グングニルを使え!」
「わかりました! 射撃調整、お願いします!」
まばゆい光に目を傷めないように装着していたゴーグルの側面にあるくぼみに触れると、黒色だったレンズ部が一瞬で透明になった。ライフルを構えていたドアから離れ、尾側カーゴハッチに向かって走る。スレイプニルから下され、固定砲台として備えられたカノン砲「グングニル」の砲座に着く。グングニルの制御装置を解除し始めた事を少年が報告すると、窓から差し込む陽光の向きが緩やかに変わっていく。輸送機が回頭し始めたのだ。
カーゴハッチが解放され、固定されたグングニルがその砲身を外気に曝した。先程よりも強い風が吹き込んでくるが、それに怯むことなく片羽の少年は発射準備を整えていく。砲座全体が持ち上がり、砲身が下方を向く。その砲身の延長線上に巨大な蛇の影が見えた。だがすぐには発射しない。光が降り注ぐのが止んでから、時間と共に再び標的が濃霧のベールに包まれていく。
「誤差修正…… あと七秒……」
先程までのレーザーとは異なり、この砲台が放つのは正確には直進しない荷電粒子。特に遠方にある目標に正確に命中させるには、各種計測機器と連動した機械によるサポートが不可欠だった。
蛇の王から湧き立つ霧は止まらない。霞んでいく相手を見ると、今か今かと焦りにも似た感情が胸を占めるが、ゆっくり長く息を吐く事で、片羽の少年は逸る気持ちを懸命に抑えた。ピー、と一際高い音が響く。
「一発しか使えん! 決めろよ、ウィン!」
「はい!」
ゴーグルのレンズを再び黒色にしただけでなく、砲座に備えられたバイザーを下し閃光に備える。安全装置を解除し、照準の中心に捉えた巨蛇に向けトリガーを引いた。直後空気を引き裂く雷鳴が轟き、その射撃のあまりに強力な反動で輸送機の尾翼が浮く。
放たれた巨大な光弾が地表に向かい、毒霧が湧いていたあたりから巨大な火柱が立った。数秒遅れて爆音が届き、それに続いて強い衝撃波が上空の彼らを襲った。
極限まで熱を持った砲台がキン、キン、キンと音を立てている。少年が見据える遠方には、上空に向かって大きなキノコ雲が伸びていた。
その力は異常だった。
凶悪な力をさらなる暴力で消し飛ばす。その理屈に納得したわけではない。それはこの戦火に身を置くと決めた時からそうだった。しかし驚異を振り払うためには必要。少年も理解はしている。だが彼の持つ力は強すぎた。
片羽の少年がこのプラズマキャノンを使用するのは二度目だ。最初の使用の際、無人の街を一つ半壊させた。その時、誤れば災害にも匹敵する自分の力に恐怖した。しかし今はその力が求められている。
巨大すぎる力を恐れる気持ちが無くなったわけではない。そこにあった物はおそらくすべてが跡形もないだろう。予測はされていた。多くの人からの信頼を受けて得た、恐怖を乗り越える勇気を胸に、少年は引き金を引いた。
ここを突破できなくては守ることも救うこともできない。迷いと恐れを押さえつける強さを彼は得た。
バイザーを外し砲座から降りた片羽の少年は、開かれたカーゴハッチから今なお爆煙の立ち上る谷底を見ていた。回線越しに本隊司令部とのやりとりが聞こえてくる。はじめて観測されたグングニルの一撃に、司令部でも困惑が起きたようだ。
しかしその激烈な威力に勝利を確信する声が多数であった。たとえ先の巨人との戦い同様、一時的に具現化を解き直撃を避けたとしても、あの破壊領域からみて蛇の王を操る敵軍の魔導師は戦闘不能に陥ったと考えるのが妥当。それを示すかのようにしばらく経っても蛇は姿を現さない。勝利を感じさせるには十分だった。
歓声にわく司令部とは違い、少年は無言のまま空から谷底を凝視していた。確信めいた予感をもって注視し続けた。
そして報告が入る前に彼は見た。火炎地獄から離れ、城壁に近いところに大きな異形が姿を現したのを。
奥歯を噛み締め、拳を握る。すこし遅れて無線から目標健在の報が入った。
「バジリスク、健在……」
「外した……? そんな……」
「いえ、着弾は間違いなく目標ポイントです。先のゴーレム戦同様、幻獣フィールドそのものを一時的に解除し、直撃を避けたと思われます」
「現場は電離障害が著しい。バジリスクを実体化させられるようになるまで時間がかかっただけと言う事か」
「くそっ いずれにせよ魔道士を戦闘不能にできると思ったが…… あの破壊圏内よりも外から操れると言うのか?」
操作可能範囲もわからないうえ、遠距離攻撃を回避してしまうのであれば白兵戦闘で直接叩くしかない。その作戦は多くの者がたどり着いていた。だが相手は四機の巨人を沈黙させた怪物で、生半可な事では勝てる見込みなどない。現在補充の巨人も無く、対等と言える戦力はロディニアの手持ちにはなかった。現実、見込みのあるのは片羽の少年による砲撃のみであるが、グングニルは冷却が終わるまでは使用不可能。周囲に嘆息が漏れ始めたその時。
「……いえ、まだ試していない事があります」
無線からの声が司令部に響いた。万策尽きたにも関わらず、希望を捨てない強い意志。それに皆の意識が集まり、皆が少年の声に傾聴した。
「ひとつだけ、あります。きっとあの悪魔の力に対抗できる力が……」
片羽の少年には一つ考えがあった。それはあくまでお伽話。だと言うのに少年は一つの確信があった。くすんだ銀色をした書を手に取る。
一人の乙女が連れてきたそれが、今ここにある最後の武器だった。