第四十五羽 「間(あわい)の合戦」
星が空から姿を消していく。空が白んでくるのとともに渓谷の景色が次第に浮かび上がってきたが、今はまだ薄闇に包まれていた。東西に山を構えているこの渓谷は、陽の光が差し込むのがやや遅い。しかし谷底はいつもよりも早く輝き始めていた。
整然と列をなしている銀色のビークルと、一機の巨人が出撃の時を今か今かと待ち構えている。整列する部隊の後方には、外周に防御壁を備えた簡易基地が建造されていた。外壁は急造されたため決して高くはない。今も建造中の箇所もある。その外壁にある切れ目にはそれぞれ小隊と高機動戦車一台を備えていたが、数は十分とは言えない。
先日と同様、この渓谷には野生動物の気配がない。ぴん、と張りつめられた空気の中、大地を転がるように緩やかに、だが確かに満ちる緊張感が高まっていくのを鋭く察したのだろう。
東の空がさらに明るみを増してきた。次第に日陰になっている部分が狭くなっていく。稜線から太陽がその姿を現すと同時に、一斉に車両が動き出した。
―45―
おびただしい数の車両と一機の巨人が進む先には、谷を大きく塞ぐ形で高い城壁が聳え立っていた。その深い紺色をしたその壁は、近づくに従いどんどんと大きくなっていく。今だ戦車の砲撃射程距離の遥か外だというのに見上げるほどの高さだ。塞がれているにも関わらず、この谷は風が絶える事はない。この先にある海を越え、あるいは海に向かって流れる大気が東西の山々から吹き降ろし、風となる。そして東の峰と西の峰では日の光による暖められ方が異なるために大きな気圧の差を生み、朝方には東からの風が特に強い。つまり今の時間、車両の進路に対して横風が強かった。その強い風に紛れて、一陣の風が紺碧の壁から谷底に沿って翔るのに気づいた者はいなかった。
数多の車両が走っていくその先の景色が霞み始めた。朝霧にしては非常に濃く、何より湧き立つ時間が遅い。
「前方に青色煙発生を確認。砂漠の王、来ます!」
靄の中で巨大な鎌首をもたげる異形の影。先日巨人を三機蹂躙した蛇の王だ。その吐く息は濃い毒を含み、近くにある生きとし生ける物の命を奪う。その蛇の持つ巨大な邪眼の光に曝されれば機械も二度と動くことがない。動く物すべてを拒絶する悪夢の存在。
毒煙の影響を最小限に食い止めるために全体が進行方向を風上、やや東にとった。陣をそこに取り、一斉に射撃を開始した。銀の巨人が車両に遅れて到着した。スラスターを停止させ背部にある排熱口を開き体躯に篭った熱を一気に放散する。爆炎が前方の光景を包む中、両腕を前方に突き出し右脚を後方にやや引いて砲撃姿勢を取る。コックピット内のモニターは初めから幻獣フィールドレーダーに切り替えられていた。射角をやや下方に向け、地面を抉り天を穿つようになめ上げるようにパニッシャーを撃ち放った。先日の雪辱を晴らすかのように、邪眼を放たれる前の先制攻撃だ。
その強力なエネルギー砲は正面に湧き上がっていた土煙、炎、毒の霧をすべてかき消し、西の山脈に深い爪痕を残した。命中していれば例え蛇の王と言えども跡形もないだろう。爆音が反響し遅れて衝撃波が部隊を襲う。吹き抜ける風をすべて押し返し乾いた谷底の砂礫が嵐となって届いた。
同時刻。
「急速接近体反応あり! 肉眼で確認できません!」
防壁を建造中の司令基地に警報音が鳴り響く。谷底での戦いを映し出していた指令室の巨大モニターの映像が二分割され、左は部隊の戦局、右は基地周辺の映像に切り替えられた。戦局を映す左画面は押し寄せた砂嵐の影響もあり、著しくノイズが走っていた。右の画面はクリアであったが、遠方で生まれた強風が谷底の草木を無造作に揺らしている。その画面には基地に接近する物体は映っていない。しかし指令室内は赤色の警告灯が点灯し非常事態を示している。右画面の基地周辺の鳥瞰図に格子線が加えられると、赤色に表示された点が確かに基地に接近している。
「アクティブソナーに反応! 接近体の数、1! 依然目視で確認できません!」
「へー、やるじゃねえか。わざとバジリスクと分けてビークルで突入か。予想を裏切ってきたな」
ゴンドワナの重要拠点の守備を任されていた男が呟く。何が襲来しているのか勘付いているようだが周囲の司令部の人間には伝えようとはしていない。騒がしくなった室内で、男の呟き声に気付いた者は皆無だった。
「予想進行ルートにある警備小隊に通達、迎撃開始せよ! 同時に基地内警戒レベルを最大に維持! 侵入を許すな!」
「……攻撃開始確認。駄目です、止められません! 速い!」
「接近物体、北西部A2ブロックのバリケード突破、侵入されました!」
「侵入物体より幻獣フィールド確認! 数、2! 他、幻獣フィールドより離れた所に熱源12! 各個別行動を取っています!」
「混乱に乗じての施設制圧が目的だ! 哨戒中、警戒中の施設内全隊員に戦闘許可を出せ! 幻獣の正体および能力は不明、最大限の注意を払い、各人迎撃せよ!」
拘束され車椅子に着かされている羽ありの男が、ゴンドワナの速攻を受け歯噛みしている司令官に対して冷笑を向けた。捕虜であるのに作戦が進行中の指令室にこの男がいるのは、わずかでも敵国の持つ幻獣の能力や弱点についての情報を手に入れるためだ。しかしそう易々と情報を漏えいしてくれるような相手ではない。現に司令官が頭を下げ、侵入した幻獣、および部隊について心当たりがないか問うているが視線を逸らし、さぁて、と気の抜けた返事しかしない。直後に彼の頭に拳が振り下ろされた。
「いいから言いなさい」
車椅子の後ろに立つ羽なしの娘が語気こそ穏やかだが、威圧感をたっぷり放ちながら見下し睨みつけていた。彼女の命令に対しては渋々従う。今回もそうだった。だがよく見ると萎縮して、と言うよりもどことなく嬉しそうな感じにしている。
「幻獣フィールドが確認できるって事は塔に潜む影じゃねえ。来たのは十中八九風の妖精だ。ここの指揮官、結構切れてるな。さすがだ。さぁ、まずいぜ? 幻獣以外は白兵戦の精鋭部隊だろうよ。これだけ深く入り込まれて、本部を制圧される前に何とかできるか?」
いかに後ろに立つ彼女が人狼や一角馬と戦う事が出来るほど力に長けているとしても、訓練された多人数の銃火器を相手にするには圧倒的に不利。彼女自身もその事をしっかりと理解していた。さらにここの部屋に残っている者達の多くが文官であり、持っている戦力では敵いそうもない。この男が何を言わんとしているのか、もともと武官である司令官は十分察した。副官にキーを解除するように指示を出す。高度管理を必要とする資料を保管するセキュリティボックスがこの司令室の中にはいくつも隠されている。そのうちの一つのキーが解除され、床面の一部が開きそこから立方体の形状をした透明なケースが現れた。中には一冊の書物が入っている。
「そうそう、話が早い。そいつ一冊に小隊は秒殺、一個中隊でも敵わなかっただろ?」
忌むべき記憶とともに封印されたそれは、片羽の少年が手にしたことで輝きを取り戻した魔道書、「地獄の番犬」。それを封じた透明だが堅牢な器を開く二つの鍵を手に取り、一つを副官に手渡した。副官が壁面に隠された鍵穴にそれを差し込む。司令官は魔物を閉じ込めた箱の前に立ち、その基部にある鍵穴に自分の持つ鍵を差し込んだ。
「……私は敵国の貴公を信用しているわけではない。だが己の信念を曲げるような人間ではない貴公の事は信用している」
「心配するな。惚れた奴らは死んでも裏切らねえ、それが唯一あのじじいを尊敬してる点だ。俺の一族はみんなそれを模範としてきた。当然、俺もそうさ」
答えた羽ありの男の眼に濁りは無く、変わらず自信に満ちていた。この男の実力を十分に知る司令官はそれを解き放つ危険性を何より知っていたが、今この場で期待できる力を持つのは皮肉にもこの男だけだった。副官に鍵を回すように命じる。開錠された音が立ったきっかり二秒後に司令官も鍵を回す。陽圧に保たれていたケース内から、充填されていた不燃性ガスが漏れ出す音が立った。
「ありがとよ。エリクサーなしだから人狼までだが、十分だ。大船に乗った気でいてくれよ、ハニー。愛情表現が少々強すぎてところどころ穴が開いてるかもだけどな」
羽なしの娘は自分の方を見てウィンクを飛ばし、相変わらずの軽口を聞く男に対して嫌悪感を隠さないでいた。そんな彼女の心中を意に介さず、副官の手により電磁錠の拘束を解かれた男は車椅子から立ち上がる。封印を解かれた銀に輝く書物を手にした司令官が振り返り、直接男に手渡した。再び手元に戻ってきた魔道書を片手で持って目の高さに掲げ、お任せあれ、と相変わりのない不遜な態度で返事をした。さっそく魔道書を開き、現在のエネルギー残量および魔道書の設定状況を確認する。一度片羽の少年に使用された影響で、ロックがかかっている可能性があるためだ。だがもしロックされていたとしても然したる問題ではなかった。以前の尋問の時には明かさなかったが、初期化し再度設定しなおす方法をこの男は知っている。
「ん……? やっぱりIDもパスコードも元のままだ。全く、あのガキどうなってんだ……?」
この魔道書の所有者は変わらずこの男のまま変更はない。この兵器の機密性を知る者としては全く不可解な状況だった。だが使えるのであれば今は特に気にかけるような問題でもない。
「それじゃ、ちょっくらヒネってきますわ。ハニー、あとで弟さんにいろいろ聞きたいことができた。付き合ってもらいたいんだけどよ、いいか?」
腕組みをしたまま、お断りよ、と答えたが、羽なしの娘も銀の書を手にした羽ありの男とともに折りたたんだ車椅子を担いで指令室を出て行った。