第四十四羽 「信じる先にある未来」
半年ぶりの更新です。おそくなりまして、誠に申し訳ありません。
扉が開き、照明は付いているが外よりもやや薄暗い室内に光が差し込む。中には人の気配が一つだけあった。たくさんの資料や書類の山が少し動いた。そこに埋もれるようにしていた者が顔を上げ、開いた扉の方を見て声を発した。
「セレ博士……」
「やあ、待たせてしまったね。レッドクリスタルはプロジェクト・ワイルドハントのコアとして正式にゴンドワナ軍に採用されたよ。レッドクリスタルの理論をはっきりと理解し、調整できる君だからこそ作り上げられた成果だ」
部屋に戻ってきた老羽ありは皺が目立つ彼の顔にさらに皺を寄せて、中にいた若い女の羽ありに報告をした。立ち上がった彼女は少しやつれてはいたものの、整った顔立ちをしていた。昔から根を詰めると寝食をおざなりにしてしまう事があったが、このように心労が表に出るようなことは無かった。入ってきたのがこの研究室の主であったことを確認すると、再び自分の席に座って俯き、力なく呟くようにして言葉を放った。
「本当によいのですか? 博士の理論、本当に素晴らしい物です。それをみすみす争いの道具に変えてしまうだなんて……」
「戦争が技術を発達させる。それは間違いない事なのだよ。この研究も国が後押ししてくれたこそ、実用化することが出来た。今は本来の目的とは違ったとしても、その技術は世が平和になった時にこそ生かされるものなのだ」
「博士はお強いですね……。これがまた、私の仲間達を傷つける力に変貌させられてしまったと考えると、それだけで……。これが終わった後の事なんて、考えられない」
白衣を着た白髪の老羽ありはそっと傍に歩み寄り、座って俯く彼女の頭に皺の寄った大きな手を乗せ、優しく撫でた。まるで孫を慈しむかのように。手入れもおろそかになっているその黒髪はところどころ跳ねていて、せっかくの器量が損なわれてしまっている。
「いや、弱い人間さ。いつか必ず私の生み出した技術が世のために生かされる。そう信じて軍部にしがみつくしか、私には生きる術がなかったのだ。私のように精神感応率が10%を切るような無能者が、ハイランドで通常の生活を送ることなどできない。そんな私がこのような扱いを受けられるのは軍に竹馬の友のシモンが居てくれたおかげだ。彼が軍部に推薦してくれ、そして幸いにも私の知能がゴンドワナに益をもたらすと証明された。軍に生かされている人間なのだよ、私は」
「博士、やめてください! そんなつもりは……」
黒髪の羽ありが見せた弱気を慰めようと、老羽ありは彼が持つ古傷をあえて抉った。しかし老羽ありにとってそれは遥か昔に過ぎ去った痛みで、今はそれに対して特に何も感じていない。この国の新たなる力の開発に関わった者同士ではあるが、彼女と自分とでは成した意味が異なる。そう伝えたつもりであったが、彼女は更なる嫌悪に陥ってしまった。
「エマ、君は何一つ悪くない。シモンとの交換条件を果たしてきただけだろう? 果たさなければロディニアの状況が整う前から戦争が始まり、おそらくもっと被害が出ていたはずだ。他にも空軍による未侵攻地域への攻撃を見送らせるなど、君が抑止してきた成果は大きい」
組んだ手に額を押し付け俯いている羽ありの女の髪から手を離し、厳重な保管ケースのロックを開け、その中に収められていた澄んだ輝きを放つ赤い結晶を取り出した。親指と人差し指で摘まみ上げて天井の光源に向けて掲げると、受けた光が四散し部屋中に美しい緋を走らせる。しばらく無言で赤い結晶を透かして光を見ていた老羽ありが口を開いた。その語調は静かだが力強く、そして誇らしさを秘めていた。
「エマ、君と完成させたこのレッドクリスタル。これは世界に革新を起こすだろう。それがまだ先のことだとしても、間違いなく世界を変え、救うと信じている。期待ではない、確信だ。だから悲観しないでほしい」
黒髪の羽ありはいまだ答える事無く俯いたままで、垂れ下がった前髪が彼女の目を覆い、表情は一層暗かった。この赤き結晶が持つ力が何を意味しているのか、初めに使用した彼女が一番よく理解していた。プログラムなど必要とせず、組み込まれたすべての機械を一つの意志の下に支配する。それは機械の群れに意思を与え、仮初の命を吹き込むことに似た神の所業。それを手にした人間が何を成そうとするのか、想像するのに難くない。
「……これが開発された事でプロジェクト・ワイルドハントは成された。悪夢の軍隊が完成した。だがそれは、後の世を救うための実験なのだ。いずれ本当の役目を果たす時が来る。だからお願いだ、君自身に絶望することは止めてくれないか? それは、私に残された最期の役目なのだから」
老羽ありの言葉に対し黒髪の羽ありから帰ってくる言葉は無かったが、その姿を咎める事無く、ただただ穏やかに、眠たげな孫に対するように優しく語りかけた。
「さあ、エマ。今日はもう部屋に戻りなさい。随分疲れているようだ。しばらく休むと良い。こっちはもう平気だから」
退席を許されたものの黒髪の羽ありはしばらく動くことなく俯いていた。老羽ありが彼女から離れ自分の席に戻ってゆったりと腰かけると、彼女はようやく無言で立ち上がり、歩き出した。扉の正面に立つと自動で開き、外の光が室内に呼びこまれた。時期は夕刻。丁度差し込んできた西日が強い。頭を下げ、失礼します、と断りの言葉とともに出て行った彼女の表情は、微笑み返した老羽ありからは見る事が出来なかった。扉が完全に閉まり室内が再び少し暗くなると、老羽ありは口を手で押さえ数回咳き込んだ。
「私も、もう長くはないな。彼女に道を示すだけの時間があればよいが……」
開いた彼の手の皺の間には、鮮やかな赤が走っていた。
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「あ? ステルスフィールド? 砂漠の王にはそんな機能は付いてねえ。アレは制御するだけで精一杯なんだよ。それに以前はあそこまで派手な邪眼は無かった。ついこの前完成したって聞いたが、あのレベルまでになってるとはなぁ。正直俺もびびったぜ」
ロディニアの高官達に囲まれ、車椅子に乗せられ電磁錠で体を拘束された羽ありの男が映像記録を見せられた後に尋問されていた。先日のトリアム基地での戦闘後に捕虜にされたネフュー・バズだ。彼の着かされている車椅子の後ろには栗色の髪をした羽なしの娘が立っている。
「軍事顧問のセレ博士のところに来た新入りが未完成の上級書の調整をしていったんだが、ここまでとはな。地獄の番犬も意地張らず最終調整してもらえばお前等に負けなかったかもしれねえなぁ」
囚われの身である事に何の負い目も引け目も感じていないかのように、男は何か飲む物を要求した。椅子に着いたまま、さらに電磁錠で強く体を拘束されている為に自分で取ることが出来ない。ストローを刺した状態で用意されたコップを受け取ったのは、車椅子を押してきた羽なしの娘だった。そのままだと飲ませにくいと判断したのだろう。膝をついて飲みやすい高さに持ち、一口吸わせた。明らかに捕虜と言う自覚を欠いた男の要求に応じていると言うのに、彼女の表情は特に屈辱にも染まっていない。
この羽なしの女に世話をしてもらう事を条件に、黙秘せず情報提供する事を約束した。ロディニア側からの懇願もあって羽なしの娘も嫌々ながら承諾した。始めはいきなり唇を奪ったこの男の言動に対して嫌悪感を常に露わにしていたのだが、すでに何日もこの男の我が儘を聞いて応じてきたのでもう慣れてしまっていた。手のかかる動物の世話をするのとほとんど変わらない、相手が喋れるか否かと言う違いがある程度、と公言していた。
「ひょっとしたら調整の時に一緒に特殊フィールド発生機能の付与にチャレンジしたかもしれねえが、多分無理だ。見ただろ? あの異常な状況。あんなのエリクサーがいくつあっても足りねえ。これ以上の機能拡充は不可能だ。だから推測だが、風の妖精か塔に潜む影と一緒に行動してるんだろう。両方ともステルス効果の高いグリモアだ。探すのは容易じゃねえよ」
「両者を発見する手段は?」
「さあ? 何だっけな」
そこまで教える義理は無い、とでも言いたげに捕虜の男は鼻で笑い顔を背けた。甲斐甲斐しく世話をしているように見えた羽なしの娘が、笑顔はそのままで男の羽を捻じり上げる。男は苦痛に顔を歪め、体をよじって女の手から逃れようとしたが全く叶わなかった。彼の操る人狼の足を掴んで大地に叩きつけたり、一発の拳で軽々と成人男性を吹き飛ばしたりできる怪力を思い出し、反抗心を見せたことを後悔したが時はすでに遅かった。軍部に関わる者として、自国の軍に不利になる情報を明かすのは最小限に留めなくてはいけない。とは言え、この男にとってこれ以上この栗色の髪をした羽なしの娘に嫌われる事も避けたいと言うのも本心。その葛藤の末に素直になる事を選択し、暴れるのを止め、従順になった。
「わかった、わかったから離せって! ……ったく。シルフは周辺気候をコントロールする事で大気の屈折率を操作し完全に透明になれる。魔道士を肉眼では発見できねえがX線スキャン、ソナーで判別できる。温度の調節が自在だからサーモモニターは無駄だ。強いて言うならシルフが居る周囲には大気の流れが必ずあるから、風が起きているところを探すといい。全くモニターに反応しないって事ならア・バオ・ア・クゥーだ。それならモニターに頼らずお前らの目で魔道士の影を探せ。だけどこの二つが一緒にいるんだったらお手上げだ。こんな風の絶えない屋外で見つけるのは不可能だろうよ」
「弱点は?」
「そこまで教えられねえ。自分達で直接撃破しろよ。ア・バオ・ア・クゥーはまだしもシルフは強えぞ。だが両方とも基本仕様のままならバリア機能はねえはずだ。付けたとしても、召喚と同時に使いこなせる魔道士はゴンドワナにも少数だろうな。出来そうな魔道士は何人か心当たりはあるが、ここに居る奴はバジリスクを使うのに回されてるだろうな。バジリスクにどうしても勝てねえって言うなら。バジリスクの周囲を無差別に斉射したらいい。魔道士が死ねばそれで終わりだしな。弾幕を防ぎきるほどの堅ぇバリアフィールドを発生させるグリモアとパーティを組んでるかもしれねえが、それでも魔道士の手を塞ぎ集中力を切らせちまえば上級書は操作できねえよ。……相手がシモンのじじぃだったら別だがな」
「……数は?」
「あ? バジリスクのか? バジリスクなら少ねえんじゃねえか? 俺が知ってる時点では全部で三冊。ゴンドワナが墜ちてからは新しく作れていないだろうよ。五冊は無いはずだ」
「ステルス機能のある魔道書は?」
「それは分からねえ。だがア・バオ・ア・クゥーの有効範囲は狭い。どんなに練度が高くても同行できるのは魔道士含めて四人が限度だ。それと、バジリスク全部をこの要塞に持ってくるはずはねえ。……どう言う意味かわかるな?」
白い軍服に身を包む壮齢の羽ありの男性が副官に指示し、拘束された男がたった今吐き出した情報をすぐさま指揮系統へと伝えさせた。敵が一種類ではなく複数、しかも極めて優れた隠密能力を持っているとなると、最も恐れていた自陣営への潜入の危機がいつあってもおかしくない。俄かに慌ただしくなった室内から、何人かの高官が退出し自分の部署へと戻っていった。
「そうそう、急ぐと良いさ。ゴンドワナはお人好しのバカじゃねえよ。攻めあぐねて時間を与えてたら全滅だぜ。それに出現したバジリスクを正面切って撃破することが無駄な弾薬も使わず一番確実で早いだろうよ。やっこさん、完全に攻撃能力に特化しやがってバランス度外視になってるから、調整したとはいえ防御が脆いはずだ。それにバジリスクを破壊できなくても消耗戦になれば勝てるんじゃねえか? グリモアがエリクサー切れを起こせば補給するまで残存毒素しか脅威がなくなるんだからよ。……ああ、そうか。それならやっぱシルフも一緒にいるな。ア・バオ・ア・クゥーはステルス能力だけだが、シルフは風を使っての攻撃能力も高めだしな。まず確実にバジリスクのサポートに付かせてると思うぜ。マジで最悪だな、うちの部隊」
拘束されたまま軽々しい感じで笑い声をあげている。普通に考えれば懲罰物だが、この場に残る高官達は今得られた情報がどれほど重要な物なのかを十分に理解していたため、咎める事無く自由にさせていた。だが後ろに立つ羽なしは明らかに軽蔑の眼差しをくれている。大きくため息を一つ吐いた後で聞こえるように呟いた。
「口の軽い男もサイアクよ」
「ま、まあまあ。連中が欲しそうな情報は出してやったんだからさ。許してくれよ、ハニー」
「るっさい、また捩じ上げるわよ」
「そんな攻撃的なハニーもすて…… わかった、わかった! すみません! もげる!」
「もげてしまえ」
羽を根元から掴んだまま片手で車椅子ごと持ち上げる。その膂力に周囲の男達が唖然とする中、片羽の少年が羽なしの娘のもとに駆け寄って下ろしてやるように頼んでいた。弟の頼みとあれば、と二つ返事で応え掴んでいた手を離した。宙で離したため車椅子ごと床に落ちる。完全に固定されているため落下の衝撃が全身に伝わり、かつ一度弾んだ後で椅子ごと横倒しになった。起こしてくれ、と喚いている。仕方がないので少年と彼の兄が協力して起こしてやった。原因を作った娘は無表情のまま腕を組んだまま動かない。起こしてもらった羽ありの男は真っ先に動いてくれた少年に対して屈託なく笑いかけ、礼を述べた。敵国の人間と言えどやはり悪人ではないようだ。それは理解できるのだが、少年は心の底まで彼のすべてを受け入れる事はできていない。そんな少年の想いに気付いている様子もなく、椅子に座らされたままの羽ありは言葉を継いだ。
「そう言やグリモアの調整を担当した新入り、俺は直接会ってねえけど、女だって話だ。しかもじじいが連れてきたって言う噂だ。ひょっとしなくてもお前等が探してる女じゃねえか?」
その一言に片羽の少年の顔が凍った。
「そんな…… エマが、あれを……?」
「お? 怖い顔するねぇ。そりゃそうか。味方を散々蹂躙する化け物に仕上げちまうんだ。学者って言うのも罪だね。それに比べりゃこのご時世、俺等軍人は気楽なもんだ。情報あるいは労働力提供で良いんだからな」
少年の兄が拳を握り、全く見当違いな発言をした男の頭頂めがけて一撃振り下ろした。そもそも自分の恋人を悪く言われて腹を立てないでいられるほど彼の人間は出来ていない。細やかさに欠けるこの男の言動が、彼女がどんな気持ちで携わったのか思いを馳せ、彼女の苦しみを理解しているこの羽なしの癇に障ったのだ。彼女の代弁としてすぐさま動いた兄とは異なり、片羽の少年はいまだ静止していた。
「エマが…… 僕達に……?」
その事実を受け止められていない呆然とした様子の少年に、白い軍服に身を包む羽ありの軍人が歩み寄り言葉をかけた。
「少年、それは違うぞ。君達は、いや我々は彼女に守られたんだ。単純にビネ女史がゴンドワナの手に渡ったからと言って、君達の町が襲われない保証はない。それに彼女がいくら有能だと言っても、ゴンドワナに利益を成さなければ要求を飲ませることなど出来はしない。つまり上級書を調整できる事を見せ、それを条件にあの町から手を引かせ、そして調整に必要な期間を開戦までの期間として引き延ばさせたのだろう。考えてみろ。初めから有事の姿勢を取っていたゴンドワナが、対応の整っていない我々に攻撃を仕掛けた時の事を。未調整だとしてもゴーレムに引けを取らない幻獣を主力にした彼らの侵攻を許せば、被害はこんなものでは済まなかっただろう。
彼女がそのような行動をとったのは我々を信じているからだ。例えあのような怪物が現れたとしてもロディニアは、そして君達は負けない、と。現に君は打ち破った。
……誇りを持て。君は信じるに値する存在だと言う事に」
戸惑っている時間は無い。自分自身の力を信頼しきれないとしても、それでも自分を信じてくれている人達がいる。かつても彼女は片羽の少年の奥底に見えた光を信じ、彼を呼んだ。今も彼女は少年の事を信じてくれているのだろうか。
……いや、そんな事は些細な事。真実がどこに在ろうとも、自分達を守るために身を捧げた彼女の事を信じ、その希望に応えるだけ。少年の心にあった靄は、彼の強い意志の前にかき消された。
見つめ返してきた片羽の少年の目には力が戻っていた。短く力強い返事をした少年に、司令官である白い軍服の羽ありも姿勢を正し敬礼で返した。