第四十一羽 「従える者」
「全機、出力正常に戻りました」
「エネルギー残量低下も停止。現在すべて平常です」
突然高度を落とし、あわや機能停止に陥りかけた円盤状の万能レーダーシステム、ヘイムダルも正常に稼働し始めた。ヘイムダルに限らずミスリル製の機械類のおよそすべてが、一時的に制御不能となったために騒然とした司令トレーラー内の状況も平穏を取り戻し、接近中の本隊との連絡および捕虜の管理をはじめとした事務的な作業を再開した。戦闘行為終了後の平定作業にすべての労力を割かなくてはいけない今、一つでも混沌の種があってはいけない。二機のゴーレムが悠然と聳え立ち、八台の高機動戦車によって東西南北の城壁の門を制圧している事に加え、グングニルを搭載したスレイプニルが物言わぬ圧力を放っているが、現在は数の上で言えば間違いなくロディニアの方が不利。僅かな綻びから蜂起が起こり一気に瓦解しないとも言い切れない。一時的とはいえ突如生じたすべての機器の原因不明の機能不全、蜂起の引き金となりかねなかったそれは幸いすぐに治まったため、波紋が広がらずに済んだ。
「何だと言うんだ、今の現象は……」
そう呟いた司令官が見つめる先のトレーラー内壁のモニターには銀に輝く書を抱えて明るく笑う片羽の少年と、何やら喚いている彼の姉、そして彼女を羽交い絞めにしている少年の兄が映し出されている。それは彼らが来てからこの隊にとっていつもの光景ではあったが、司令官の視線は片羽の少年に注がれていた。ロディニア側が確保した魔道書はすべて輝きを失い、くすんでいたはずであった。
「どうしました?」
「……今の、似ていると思わないか?」
上官の呟きにオペレーターの一人は一瞬小首を傾げたが、すぐに小さく、あっと声を上げた。
「……彼らの監視を怠るな」
「仮にも我々の恩人の彼を疑う、と?」
「……疑いを晴らすための監視だ。時系列的にも彼が原因とは考えられない。だが今の現象をもしもあの少年が意図的に起こすことが出来るとなれば、とてつもない事になる。それこそ世界を揺るがしかねないほどの、だ」
指示を受けたオペレーターは無言で小さく頷き、手帳を取り出した。それを開き付属のペンを手に取ると、開いた手帳から飛び出すように目の前の空間に画面が浮かび上がった。手際よく流れるような手つきで画面に触れて操作していくと、画面に内壁のモニターと同じ映像が縮小された状態で現れた。手にしたペンで片羽の少年に丸を付け、やはりまた流れるような手つきでいくつかのアイコンにタッチしていくと、開かれた手帳に吸い込まれるようにして画面が消えた。畳んだ手帳を軍服の胸ポケットにしまうと、再びコンソールに向き合い自分の作業に戻った。モニターを凝視する司令官は右手を口元に当て、今度は誰にも聞かれないように意識して再度呟いた。
「それとも…… 他に在ると言うのか? あの少年と同じような存在が……」
―41―
すべての機器、計器の類が異常を示した数十分前。
「で、次は何を聞きてえんだ?」
腕を後ろに回されて手錠をかけられたこの男の名前は、ネフュー・バズと言った。トリアム兵站基地護衛幻獣一個師団師団長。若干二十三歳にして階級は中佐だった。素行や態度の軽薄さに問題が多々あり、また極めて自尊心の強い男であるため、年代の近い軍部の人間からは疎ましがられ易い人物だった。しかし重要拠点の護衛の責務を任されていることから、その実力は確かで、上層部から高く評価されている事が伺いしれる。
そんな彼がぺらぺらとゴンドワナの情報を漏洩するとは考えにくかった。実際、尋問が始まった時もたとえ拷問を受けようとも何一つ喋らないと宣言し、あらゆる質問に対して黙秘を貫いていた。自白剤の使用も懸案事項として上がったが、国際規約に違反する内容を行っては後々の不利となるため実施されなかった。勿論暴力による自白強要も同様だった。彼らは国を代表とする存在であり、犯罪者、ならず者の類ではない。その為取り調べは難航したが、最終的にゴンドワナの羽ありは自ら口を割った。一向に進まないヨハンとニベルの取り調べに業を煮やし、交代すると名乗り出たライオスとヒューゴがこう言う類の人間を挑発し、誘導する事に長けた男達だったのだ。
「時間の無駄だ。自分の名前を聞かれても、分からない、の一点張りの9番への尋問タイムは終了」
「……何だよ、9番って」
「あ、知らねえのか? なあどう思うよ」
「ああ。こいつは間違いなく9番だな。9番に聞くことはないぜ」
「だから何だよ、9って」
「お前、自分の名前も分からないだろ? 腕が立ってもそんなやつが今後の作戦展開、ゴンドワナ本国へのルート、この基地がどこから資材を搬入して、どう分配するように管理していたのか、資材を加工する工場群の場所がどこか、なんて軍略として必要な情報なんてわかるはずがない。9番以外なんだってんだ、なあ」
「ああ、全く持って9だな」
「9番」
「9番さん」
「わかったぞ、バカって言ってんだな、お前等!」
「バカなんていってねえぞ、9番」
「俺等の持ち物に9がつく物ってなんかあったっけ?」
「ないな」
「ないか」
「不吉だしな」
「そう言や、さっき九号車が大破したな」
「パねえ。9、まじハンパねえな」
「で、9番。とりあえず当たり障りのない世間話からしよう。当たり障りって言葉はわかるか?」
「あー、うっせぇ! ネフュー、ネフュー・バズだ!」
彼の自尊心の高さが今回の仇となった。はじめは極めて強情な態度をとり、一切の黙秘を貫いていたのだが。ある意味性根は裏表を持たない、素直な青年のようだ。
彼らの現在の主要兵器、魔道書の起動法を問う。このネフュー・バスが有していた特殊上級書「地獄の番犬」をはじめとし、接収した数冊の魔道書のいずれもがどう操作しても全く反応を示す事無く、輝きを失ったままだった。ミスリル銀製の書物から発生する力場に形を与え、それを発生源から切り離して操作するこの超兵器の解析は、軍事的な理由だけでなく、科学的探究心を酷く擽る。しかしロディニアのゴーレム同様、その存在自体ゴンドワナ特有のものでさらに重要機密そのものだ。その事は魔道書を有するゴンドワナの人物であればすべての者が認識しているため、当然簡単に口を割ることが出来るはずがない。しかし予想に反して一つの交換条件を提示した上で承諾した。その条件に尋問をしていたライオスは小さく困惑した。意図がややつかめない。
「だからよ、そこの羽なしの女に教えるって言ったんだよ。両手縛られてるから変に手ェ出したりできねえから良いじゃねえか。そもそも野郎相手の趣味なんかねえし。こっちだって機密を漏洩してやろうって言うんだ。少しくらい我が儘聞いてもらっていいんじゃね?」
ライオスとヒューゴの両名は逡巡し、トレーラー内の上官に許可を求めた。一分足らずの時間があり、電磁錠による拘束を強化した状態であれば認めると回答が得られた。ライオスが立ち上がらせ、ヒューゴがゴンドワナの羽ありを後ろ手に拘束するミスリル製の手錠の、左右をつなぐ枷の部分にあるパネルに触れた。するとそこから輝く輪が五本現れ、ネフューの胸から腰にかけて等間隔に並び締め付けた。その状態で上半身を自由に動かせなくなった事を確認した後、先程と同じように地面に座らせた。
「はぁ…… わかったわ」
どうか要求通りに相手をしてやってほしい、と懇願された羽なしの娘はしぶしぶ拘束された羽ありの傍らに寄った。拘束された羽ありはそんな状態であってもそこそこ上機嫌になったようだ。しかしとても小声で、傍らに立っているだけでは聞き取ることができない。必然的に耳打ちされるような形になった。しばらく大人しく聞いていたが、だんだんと彼女の眉根が寄っていくのがわかった。痺れを切らして立ち上がり、文句をつけた。
「ちょっと、細かい専門用語とかわかんないわよ。『しきべつあいでぃー』? 『せいたいにんしょう』? 『ぱすこーど』? 分かるように喋りなさいって」
「はあ、本当にアースは遅れてんだな。こいつらと付き合うとかマジでストレスだわ、考えらんねえ。あー、もういいよ。理解しろ何て言わねえからとりあえず俺の言った通りに繰り返せよ、な?」
「腹立つわね! いちいち偉そうに! あたしもうイヤよ!」
「あーそうかい。それじゃあトップシークレットの色々は諦めるんだな」
そんな事は知った事ではない、とその場を去ろうとした羽なしの娘を慌てて引き止め再び懇願する。ここで一つでもゴンドワナの手の内を知る事が戦局を左右し得る事、これからの被害を抑える手立てを講じられる可能性に繋がる事。羽なしの娘もそれを理解できないわけではなかった。
「そうそう。別にいいじゃねえか、ヤらせてくれって言ってるんじゃねえし。ま、時代遅れの野暮ったい羽なしなんて願い下げだけどな」
「マジムカツクんだけど、こいつ…… あーもう。ゆっくり言いなさいよ」
ゴンドワナでは魔道書を「グリモア」と呼称する者が増えているとの事だ。そのグリモアに関して彼が吐き出した内容は次のようだった。
一.グリモアにはそれぞれに登録された識別IDがあり、それを入力することでセキュリティロックへのアクセスが開始される。
二.生体認証として入力者の指紋、声紋、および生体エネルギー波長の三項目があり、うち二項目以上が一致することでロック解除のパスコードアクセス権が得られる。
三.パスコードは登録者が任意に七つ登録しており、それは数字のみならず単語での登録も可能。
四.パスコードを一つ解除することで次のパスコードの入力が可能になり、パスコードを連続で四つクリアすることでロック解除となる。
五.なおコードの出現は登録された物からランダムで決定され、入力ミスは三回で登録者のアクセス権の失効およびパスコードも初期化され、外部からのアクセスは不可能になる。
「……随分と用心深いな。実質所有者以外は扱えない、ってわけか」
「幻獣が倒された時は、な。敵軍の手に落ちて解析されることを防止するのが目的だ。つまりお前らが持ってるグリモアは全部ガラクタ同然ってことだ。本自体は読めるんだけどよ、起動すらしねえよ」
初めからその事を分かっていた為、魔道書の再起動条件を漏洩したのだろう。おそらく彼の性格上、自身が持つ魔道書のパスコードを教える事はない。それこそ命と引き換えにしても教えないだろう。彼は自分の持つ力に絶対の自信を持ち、そしてそれを国から認められているのだ。彼にとって、彼に与えられたその幻獣は軍人としての彼のすべてと言っても良いのかもしれない。その事を察しているロディニアの兵士達は全員言葉を継ぐことは無かった。その様子を見渡したネフューは鼻で笑い、傍らに控える栗色の髪をした羽なしの娘に呼びかけた。
「それと最後に、一番重要な事だ。バカじゃねえってんならしっかり聞いて伝えろよ」
しかたない、とため息を一つ吐いて、腰に手を当てていた羽なしの娘はしゃがみこんで再び耳をネフューの方に近づけた。相手もわずかに首を伸ばし、そっと、穏やかに呟いた。
「アンタ、本当にイイ女だな」
「アンタ、ほん…… って、何バカなこと言って」
耳だけ向けていた栗色の髪をした羽なしの娘は、顔を顰めながら相手の方に向き直ってしまった。その瞬間を狙っていた羽ありの顔が一気に近づき、軽く吸う音を立てた。一瞬の出来事で羽なしの娘も避けることができなかった。唇を奪われた彼女は驚き、左手の甲で口を押さえながら一気に離れるしかなかった。
「ははは、サンキュー! これくらいはサービスしてく」
言い終わる前に両手を後ろに縛られた羽ありの男が軽く三メートルくらい吹き飛び、地面に転がった。天を仰ぐような形で倒れていた男の胸の上に何かが乗っかる。逆光のために男からはよくわからなかったが、それは人だった。さらに吹き飛ばされた衝撃で、眼前の景色はちかちかと瞬いているような状態だったため詳細は分からなかったが、上に乗る者の背中に羽は無い。電磁錠による拘束だけでなく、上半身を完全に制されてしまっているので起き上がることも、跳ねのけることもできない。押さえつける者が拳を握り振り下ろすのを受け入れるしかなかった。絶望に近い感情が支配する中、拳の雨が降るのを見続けた。
顔を紅潮させきった羽なしの娘は、目を見開き、歯を食いしばり、息を切らしながら組み伏せた男を殴打し続けた。ただ、ただ殴打し続けた。
「やめろ、エディ! 死ぬ、死んじまう!」
兄の声を聞き入れる事無く、ただ殴打し続ける。彼女が拳を振り上げる度に赤い飛沫が辺りを汚した。彼女の嵌めていた銀糸の手袋も血の染みが出来始めていた。
見かねた兄が走り寄って妹を羽交い絞めにして引き剥がした。組み伏せられて殴り続けられていた男はすっかり顔を腫らし、鼻と口からは多量の血を流している。すっかり抵抗する意思を失っている彼は、ロディニアの兵士達に両脇を抱えられて引きずられて安全域に連れて行かれた。真っ赤になって鬼と言うのがふさわしい形相で息を荒げていた羽なしの娘は、兄に取り押さえられてから次第におとなしくなっていき、俯いたまま小さな声で呟き始めた。
「羽ありなんか…… 羽ありなんか……」
突然の惨劇に言葉を失っていた片羽の少年も慌てて駆け寄ってきた。そして俯いていた姉の顔を覗き込み、次の瞬間弟も立ちつくしてしまった。ぼろぼろと大粒の涙が紅潮しきった姉の頬を流れていく。口をへの字に固く結ばれ、肩が震えるのを必死に耐えている。
「何だよ、キスくらいで大騒ぎしやがって…… まさか初めてだとか言うんじゃねえだろうな? マジかよ。はっ ごちそーさん」
「……それだけボコられての減らず口は大したもんだな、テメエ。悪いことは言わん、黙れ。後で俺にも一発ぶん殴らせろ。それくらい良いだろ? 俺が今エディを離したらお前は間違いなく殺されるんだからな」
「はっ、やれるもんならやれよ。捕虜を私情で殺害って記録が残るだけだぜ? そうなったらまずいのはお前らロディニアの方だろうが。知ったこっちゃねえけどよ」
確かにその通りだった。戦闘行為での殺傷は不可抗力として認められるが、捕虜に対しては一切が認められていない。しかも査問を行う場合は記録の改ざん、削除が不可能なメディアに記録することがハイランド間の国際法で義務付けられており、万が一捕虜の負傷、あるいは死亡が起こった場合、それが避けようのない事故であったとしても記録が無い場合は如何なる事情があろうとも立証能力は皆無とされ、すべての罪、賠償責任を課せられることが明文化されている。その事はハイランドの正規軍に属する者にとって周知の事実であった。その事を逆手に取り、このゴンドワナの羽ありは今のような行動に及んだのだ。彼の誤算は、軍事行為に関わるハイランドの者であれば常識的な事を羽なしの娘達が認識していなかったことと、彼の取った行動がまさかここまで彼女の逆鱗に触れる事になると思いもしなかったことだった。
瞬時に沸点に達し爆裂した後も彼女の全身に満ち溢れていた怒りは、今ではすっかり感じられなくなっていた。代わりに落胆と失望、喪失感が支配している。目は焦点が合わず、どこを見ているのか分からない。髪が顔を覆って影を作っていた。ぶつぶつと呟く声に皆が耳を傾けた。
「嫌い…… 嫌い、大嫌いよ…… いっつも、いっつもあたしが大切にしてる物を平気な顔をして盗っていく…… なんで? あたしが何をしたって言うのよ…… 羽ありなんか…… 羽ありなんか、大っ嫌いよ!」
必死に堪えていた嗚咽が堰を切り、周囲を慟哭が満たしていた。そんな姉の姿を沈痛な面持ちで見守っていた片羽の少年がその場を離れる。今までの彼であったら姉を宥め、慈しむために留まっていただろう。そう予想していた兄が少年に呼びかけるが、小さく首のみ振り向いただけで口を開くことは無かった。魔道書を一冊手に取るとページを捲り、一節を読み上げた。
「四肢は太く力に漲り、その咢に輝く鋭き牙はすべての物を食い千切る。大蛇の尾を持つその体は青銅の毛に覆われ何物も貫き通すこと能わず。業火をその身に宿す巨大な犬の姿をした三つ首の獣の名はケルベロス。彼の巨獣の守る門をくぐる者よ、恐れよ、一切の希望を捨てよ。ここが、こここそが地獄。地獄を訪れた生者、地獄から這い出す亡者はすべてこの獣の目を逃れる事叶わず」
「俺のグリモアに触ってんじゃねえよ! だから、聞いてなかったか? 読むだけならできるんだよ。あー、ホント馬鹿が多くて吐き気がする」
咳き込みながら両手を縛られたままの羽ありが凄むが片羽の少年は全く意に介さない。吐き捨てるように嫌味を言う羽ありの男に一瞥をくれると本を閉じた。その眼は今まで彼が見せたことが無いほどに冷たく怒りに満ちており、それは彼の兄の背筋すら凍らせた。直後に書が輝く。
「まったく、何でロディニアもアースに居つ……」
その先は言葉にならなかった。片羽の少年の背後にははっきりと三つ首の巨大な魔犬が姿を現していたからだ。肉食獣独特の唸り声が周囲を満たす。
「おい…… おい…… ウソだろ? なんで起動するんだよ、さっきお前が撃破したじゃねえか…… フィールド形成維持のためのエネルギーだってまだ回復してねえはずだぞ!」
上級魔道書の象徴であるかのように銀の書の中心に輝く青い宝石はすでに砕け、消失していた。莫大なエネルギーの供給源を絶たれていると言うのにその姿を現した魔犬は、少年の呼び声に従い魔界から召喚された本物の魔物のようで、拘束されている羽ありは、本来の持ち主であるはずなのにその威容に圧倒されてしまっていた。
「……知らないよ、そんなこと」
羽ありの質問に答えるつもりはない。片羽の少年の怒りを具現化したかのような、光沢のあるダークブロンスの被毛に覆われた地獄の使いは一歩を踏み出し、その重量のある足音が響き渡った。それと同時に周囲に様々な異変が起こっていた。ゴンドワナの羽ありを拘束する電磁リングが数を三本に減らし、司令トレーラーの上空で起動していたヘイムダルが突然高度を落とし、その回転も一時的に停止しそうなほどに低速になった。その突然の異変に、トレーラーの内外でざわめきが起こっていた。この場に居るロディニア側の者達は、この現象を引き起こしているのがたった一人の少年であろう事を直感していたが、それを止める手立てがない。
周囲の人間が全て、今目の前で起きている異常事態に圧倒されている中、片羽の少年の兄が叫ぶ。
「おいお前! 謝れ、謝れって! 俺じゃそっちまでは止められん!」
「え? え、俺? な、なんで?」
「この流れでお前以外いねえだろ! 他の誰にウィンが怒るんだよ!」
まさか第三者が、しかも自分を打ち破った者が突如矛先を己に向けてきたことに困惑を隠せていない。しかも今少年が手にしている物の危険性は、持ち主である彼が最も理解している。直前の自分の言動に問題があったのだろうと言う推測は容易く、拘束された羽ありは頭を下げて謝罪した。突然の出力低下のために電磁錠から発生する拘束リングの本数を落としているとは言え、その拘束力は人を一人抑えつけるのには十分だ。上体の自由が利かない状態だが、下げられるだけ頭を下げる。
「す、すまねえ! もうアースを馬鹿にしねえよ! アースにもお前みたいなやつが居るなんて知らなかったんだ!」
「どうでも良いよ、そんなこと。アースが嫌いならそれでいいと思うよ。嫌いな事を無理に隠してるような人と仲良くしたって、お互い辛くなるだけだし。それに僕はお前を絶対に許さない。お前なんて、姉さんの涙一滴の価値もないよ」
虫も殺さなさそうな程に優しげで、戦場におよそ似つかわしくないと誰もが思っていた少年が、今ここにいる誰よりも、どの兵器よりも鋭く切り裂く刃となって迫る。最大の危機に不正解を出した羽ありは、顔を腫らし、狭くなった視界のまま、この少年の怒髪が天を突いた原因を必死に探した。羽なしの娘が涙を浮かべたまま睨みつけているのが目に入った。二人の容姿は違えども、その意思、姿が重なって映る。少年の行動はこの娘の怒りの代弁であることにようやく気が付いた。
「すみませんでした! 俺、一目惚れだったんだよ! こんな状況だったからあんな風に…… ごめん、許してくれ、な?」
片羽の少年の顔がさらに険しくなった。完全に地雷を踏んだ捕虜の羽ありの突然の告白に周囲が凍りつく。誰もが覚悟した。目を瞑り黙祷を捧げる者、十字を切る者までいる。そして、正に決死の告白を受けた栗色の髪をした羽なしの娘が大きく息を吸い込んで叫んだ。
「羽ありの男なんてお断りよ、バーカ! 死ねーーーっ!」
僅かの間があって、明るいテノールの笑い声が響き渡った。ずぱっと爽快に切り捨てた姉の返答は、片羽の少年の先程までの、触れた物を見境なく引き裂く氷のような表情を融かし、いつもの少年の顔を呼び覚ました。叫んだ事でまたスイッチが入ったのか、兄に羽交い絞めにされたまま、妹は再び両腕を振り回して、ジタバタと暴れ出す。
それとともに禍々しい魔犬も姿を薄くし、光の粒となって風に溶けていった。
この回を書いている途中にふっと浮かんだ一場面。本編では出ないでしょうし、もったいないので後書きに残しておこうと思います。
******
「お手!」
「ハッハッ」
「おかわり!」
「ハッハッ」
「伏せ!」
「クゥ~ン」
「ちんちん!」
「ハッハッ」
「おおー、いい子いい子。すごいすごい。幻獣も捨てたモンじゃないわね」
栗色の髪をした羽なしの娘が抱き寄せて撫でると、灰白色の大きな狼の姿をした幻獣が彼女の頬を舐める。フィールドであるため唾液が付くことは無いが、生き物のようなぬくもりが伝わり、幻ではなく確かにそこに存在がある事を実感した。
「僕はケルベロスに乗ってみたいんだけど。でも今はケルベロスにしちゃいけないって言われたんだ。エネルギーが足りなくなるんだって」
「良いんじゃない? これで十分かわいいし」
「おい、遊び道具じゃねえぞ。ってか何でグリモア開いてねえのにそんなに動くんだよ」
「そう言えばこの子、すごく速いのよね! きっと棒を投げたら落ちる前に取ってくるわよ! ウィン、やってみよ。投げるから指示してあげてね」
「って、ちょい待ち! マジか?! やめ うぉあああああああっ!」
未だに後ろ手に拘束された状態の羽ありを、キラキラと輝く笑顔で蹴り倒し、彼の両足をつかんで、自分を中心にぐるぐると振り回し始めた。
「そーれ、取ってこーい!」
投げっ放しジャイアントスイングを受けた羽ありが遠くに飛んでいく。受け身がとれないこの状態で、この勢いで何かに激突すれば、good bye 現世☆間違いなし。
片羽の少年の傍らに「おすわり」の状態で控えていた狼の姿が消え、狼の居たところには大きく砂煙だけが残された。空に向かってどんどん遠ざかっていく羽ありと、その下を太く長いふさふさとした尾をなびかせて追いかける狼の姿が微笑ましい。
「こんなんで許してもらえるとか思ってんじゃねーぞー! バーカ!」
罵声を浴びせ、羽なしの娘は立てた親指で首を掻っ切るジェスチャーをした後、勢いよく地面に向けた。その直後、追いついた狼が高く飛び上がり、空中で見事にキャッチした。