第三十三羽 「絶望、諦観、希望、意志」
二人の若い男の羽ありに挟まれ、正面の老いた羽ありを睨みつけながら、黒髪の羽ありの女は抵抗することなく座っていた。膝に置かれた両手はきつく握りこまれている。威圧を抑えた老羽ありは素知らぬ顔で、蓄えた白髭を右手でいじり穏やかに笑顔を浮かべている。
「よくおいでなすった。アースで這いまわるよりも天の民らしく空から整える方がやっぱりええじゃろう? 特にお主のように優れた知性の持ち主は、操り従える方が向いとる。正しい道はこっちじゃて」
黒髪の羽ありは全く答える様子がない。しかしその事も予測の範囲内であり、老人にとって気分を害するものではなかった。そのままビークルを出すように命令する。きぃんと響く音とともに浮遊し飛び立っていく。眼下には枯れ果て、燃え盛る農地が見える。すでに王冠を持つ毒蛇と紅い蜥蜴は居なくなっているが、それらが及ぼした被害は留まるところを知らない。
毒蛇の吐き出した毒息は風に乗って緩やかに広がり、それは次から次へと草木の命を絶っていき、近くの空を行く小鳥が突然ふらふらと力なく落ちていく。それを見た人々は北西の農地を諦めた。
西の農地の火の勢いは主が居なくなった為に落ち着いていた。まずは火災を消そうと町の人々がわらわらと農地に集まっていく。銀色の球体はそれを意に介することなく飛び去って行こうとする。
「待って! わたしは言われたとおりに貴方達のところに来たのよ?! どうしてそのままにしていくのよ! 止めていきなさいよ!」
「何故そんなに激昂する? すでに魔道書は解除しておる。それに儂がやっておったらこの程度では済まんて。未熟なこやつらに感謝せいよ? これ以上は無い。あの程度の被害じゃったらあとは天災とそう変わらなかろう? まあ確かに完成したばかりの砂漠の王は制御できるか少々不安もあった。じゃか見る限り戦略的に非常に有用じゃな。解除してもその毒の効果は薄れんし、過去の仕様とは大違いじゃ。これは如何なる地域にとっても脅威になるじゃろう。ますます我ら『ゴンドワナ』の栄光がゆるぎないものになったわ」
冷徹な老人の一言に黒髪の羽ありは凍りつき、青ざめた表情のまま彼女は大声を上げた。
「バカ! なんてものを持ち出すのよ! そんな無差別大量殺戮兵器作って、それを何も知らない人達に使うだなんて…… アンタ、どれだけアースが憎いの?! みんなが何をしたっていうのよ! 貴方達が本当に困っていると言ってくれるのなら、みんなはそれを受け入れてくれたわ! ロディニアが落ちた時も、わたし達が散々ひどいことをしたって言うのに許して、受け入れてくれた! 彼らが何をしたっていうのよ!」
お世辞にも広いとは言えない車内で黒髪の羽ありは立ち上がり、テーブルを叩く。両端の羽ありの男に肩を押さえられ、無理やり座らされた。その眼には悔し涙が浮かび、まるで無力な彼女自身を呪っているようだ。
「奴らは何もしておらん。憎くもない。何もしておらんからこそ、使えるというものじゃ。憎ければこの程度で済まさん。そもそもアースに憎しみなぞ湧くはずもなかろう。お主は憎くて草を刈るか? それとおんなじじゃ」
老人はさも当然と言うように何の感慨もなく言い捨てた。黒髪の羽ありは奥歯を噛み締め自分の膝を何度も何度も拳で叩きつけていた。その様子を見ていた老人は呆れたようにため息を一つ付き、頬杖をついて気怠そうに手を出して目の前の部下に指示を出した。察した部下が青い宝石のはめ込まれた一冊の魔道書を取り、手渡す。
「まったく、エミリオは孫の育て方を間違ったとしか思えん。手のかかる娘じゃ」
そう言い放つと魔道書を開く。読み上げると同時に窓の外の景色が陰った。同時に下から悲鳴が上がる。
天から巨大な岩のような物がゆっくりと落ちてくる。四枚の鰭を持ち、それらを大きく扇ぎ、ゆっくりと大地に降り立った。
それは岩ではなかった。巨大な亀のような甲羅を背負い、長い首をしていた。そして顎と鼻は細く尖った巨大な竜。
「まったく……。炎の竜を制御できんかった時のために持ってきた大河の主をこんなことで使うとはのぅ……。エリクサーの無駄遣いにもほどがある」
嫌そうに吐き捨てた老人は頁をめくり、手を当てた。同時に文字が輝く。
「天に向かって吐き出せ」
同時に眼下の竜が上空に向けてその喉を膨らませ、咢を開ける。一気にその口腔から大量の水を吹き出し、農地全体にまき散らした。その水量は物凄く、町全体が豪雨に襲われたのとほぼ変わりがなかった。西の農地で起きた火災は瞬時に消し止められ、北西の農地に広がっていた毒霧は雨に溶かされ流れていった。突然の雨に、外に出ていた町の住人達は全員例外なくしとどに濡れて、呆然としていた。天を仰いでいた顔をゆっくりと戻すと、竜の姿は薄くなり空気に溶けていった。
竜が眼下から姿を消したのは、騒ぎが落ち着いたことを確認した老人が魔道書を閉じたのと同時だった。見事です、と部下が賞賛するが世辞はよい、とあしらう。
部下に渡す前に青い宝石がはめ込まれていた表紙を正面に座る黒髪の羽ありに見せつける。中央の宝玉は依然その美しい輝きを放っていたが、周りに散りばめられていた小さな光はすべて失われている。
「ほれ、せっかくのエリクサーがあと半分じゃ。もったいないと思わんか、この程度の騒ぎに使うなんての」
彼女をたしなめるかのように呟くが、黒髪の羽ありはその事よりも下で起きた物理現象をまるで無視した現象のことで頭がいっぱいになっていた。
「嘘…… でしょ…… 何、あの水量…… 一体どこから……」
「儂のことを侮っとるようじゃから言っとくがの。儂の精神感応率は122%じゃ。ゴンドワナにも歴代で100%を超える者は他におりゃあせん。意識せんでも最大出力であらゆるミスリル兵器を操れる。エリクサーを使用した兵器じゃったら奇跡を意図的に行えると思ってええぞ」
……目の前にいる老人の存在こそが絶望。そのことを悟った黒髪の羽ありは力なく俯き座席に身を預けていた。
もしも対抗できる存在があるとすれば、彼しかいない。
だがそれは叶わぬことだと、諦めていた。
―33―
町全体に驟雨があって、銀色の球体がこの町を離れる少し前。
片羽の少年は下唇を噛み締め、黒髪の羽ありが工房正面の大扉の前で翼を広げて飛び去ったのを彼女の部屋の窓から見ていた。少年の兄は仕事のパートナーであり、自分の恋人でもある女性が発つのを見守ることもせず、メモを片手に探し物をしている。その姿に片羽の少年はわずかながらに苛立ちを覚えていた。
「兄さん、これでいいの? エマがこれが一番だと言ったからって、納得できるの?」
振り返ることなく兄が答える。その声は静かで落ち着いていた。だがそれは時化の前の凪の時間のようで、その奥底には激しく渦巻く嵐が眠っていることが見て取れる。
「……できるわけないだろ。ウィン、俺がな、この町の連中の中で一番はらわた煮えくり返って、ねじ切られるような気持ちになってんだよ。わかんねえか?」
続いて、くそっ、と吐き捨てた。乱された気持ちを抑えるように書庫にしまいこまれた設計図を探し出して取り出していく。その姿は一心不乱と言うにふさわしかった。
「それじゃあ、どうして行くなって言わなかったの?」
「あ? 俺が言えるわけが無ぇだろうが。何言ってんだよ」
「だけど! エマは絶対に引き止めてほしかっ」
弟のその一言にとうとう苛立ちの頂点に達していた兄は感情を抑えきれず、少年が今まで聞いたことが無いような荒げた声を発した。
「バカ野郎! だったらなんでお前が言わないんだよ! 俺が言っても効かないんだ! 大人で、事情を把握して冷静に対応することをあいつに一番期待されている俺が引き止めちゃいけないんだ! 行ってほしくないに決まってんだろ! なんでわかんねえんだよ! 引き止めるのは、お前の仕事だったんだ!」
「そ、れは……」
自分もどこかで引き止めることを諦めていた、そんな弱い気持ちを見抜かれていた事に片羽の少年は動揺を隠せない。つなぐ言葉を見出せず、押し黙るしかなかった。兄は書類探しを中断して向き合い、弟に詰め寄る。
「だからお前は選ばれなかったんだ、あいつに。お前は自分ができることをわかっちゃいねえ。もっと大人にならなきゃ、可愛い弟止まりだろうよ。もしお前が大人になっても絶対負けねえけどなっ」
一番痛いところを突かれた片羽の少年は拳を握りしめ、腹の底に力を入れて声を絞り出す。彼が滲み出すのを押さえ続けてきた醜い思いの奔流がとうとう堰を切ってしまった。
「兄さんが…… 後から来た兄さんなんかに! 僕がどんな思いだったか分かるわけが無い! 僕の方が初めに好きになったのに、後から盗っていった兄さんがそんな風に諦めるなんて許せるわけが無いよ! 兄さんに僕がどんなにエマが好きだったかなんて、分かるわけが無い!」
温厚な少年が、思わずかっとなって兄に掴みかかっていた。しかし腕力の差は歴然で、平然と払われむしろ逆に襟元を掴まれ睨みつけられていた。普段の喧嘩だったら片羽の少年は怯み、目を逸らしていたかもしれない。だが今日は違った。真正面から睨み合い、退く気配を見せない。兄の知る弱弱しい弟の姿はそこには無い。
「ああ分かんねえよ、わかってたまるかよ。同じ女を好きになって、お前のことを理解して情が湧こうもんならやってられねえよ。お前だってそうだろ? だから……」
その目に弟の本当の強さを見た兄は、荒げていた気持ちと声を再び抑えていく。自分達がしなくてはいけないことはこんな事ではない、それを弟に伝えるかのように。
「今はそんなことで争うのを止めよう。エマを取り返す。ただその事だけを考えようぜ? 俺達二人ならきっと…… いや、絶対出来る……!」
決して微笑まず、力強く言い切る。険しい顔つきではあったが、それは苦難であるからではなく信念があるからこそ。掴み上げていた片羽の少年の襟元を離し、再度書庫を探り始めた。
「僕に…… 何ができるんだろう。わからないよ……」
まだ自分の持つ力に、自分の芯の強さに自信を持てていない片羽の少年は弱音をこぼした。それを支え、導いてくれた羽ありは今はもう居ない。
「それを、精一杯考えろ! 俺だけじゃダメだ。お前だけでもダメだ。だから…… 頼む。エマのために……」
少年は自分の両手を見つめ、ぐっと握りしめる。そのまま目を閉じ、一呼吸つくと両瞼を開いた。
そこには先程まであった弱さは消え、決意を固めた強い男の眼があった。
クリスマス特別編を挟みまして、次からは奪還編。
今回のサブタイは愛読書「ARMS」(著:皆川亮二氏)の一節から拝借しました。
「人の足を止めるのは絶望ではなく『諦観』、人の足を進めるのは希望ではなく、『意志』」
残されたウィン達の置かれた状況はまさにそうだと思います。
シリアス展開が続きますが、新年もよろしくお願いいたします。