第三羽 「いつか来る時」
月が高く上り、辺りをやさしく照らし出す。皆が我が家に戻ってそれぞれの窓から暖かな光が漏れ出した。街路に伸びるやわらかな影は、ささやかで静かな、共にいるだけという贅沢を道行く人々に伝え、その足取りをわずかに速めた。耳を澄ませばどこからか笑い声が聞こえる。今日という日を祝福し、変わらぬはずの毎日がいつまでも続くことを祈るかのように。
―3―
「謝天祭はいい。いい酒を開けてもスティナに何も言われない」
「ほんにほんに。あれは小さな頃から意固地な娘じゃったからな。ダメと言いだしたら絶対聞かん。父なる天様様じゃ」
カップを手にウィンの祖父と父が上機嫌に話している。苦笑いを浮かべ母が持ち帰った食器を片付けている。それを姉と弟が手伝う。兄は祖父と父の近くで小さなカップを手に、祖父が注ぐ酒を受けていた。ウィンが買ってきた物だ。
「明日からは自身の力で生きていくのじゃぞ。じゃが、父なる天、母なる大地に感謝の心を忘れることなく、な」
謝天祭を境にその年十九になった男児は育った家を離れ、自分で生計を立てていく。たった一人で暮らす者、家族から離れたもの同士でともに暮らす者。暮らし方は異なれど一人前の大人となるために生きていく。
それがこの町の決まり。
「…アンタもあと六年か」
手伝いながら居間を見ていた姉が顔を戻し、まだ背の低い弟を見た。寂しそうな顔だった。
果実の香りに満ちた息を大きく吐いて、少年の兄は深々と頭を垂れた。
子供たちの部屋。すでに兄の荷物は片付けられ、残っているのは彼の寝具だけだった。いつもならすでに全員寝ている時間だというのに、まだ誰一人として眠りにつくことなく語り合っていた。
うれしかったこと
たのしかったこと
いがみあったこと
つまらなかったこと
そのどれもが懐かしく、温かかった。
「謝天祭なんか来なければよかったのに」
弟が言う。
「そうだよね…」
それに同意する妹。
「…何言ってんだ」
窓から差し込む月明かりは、兄のようにやさしかった。
少年の兄は、明日からはもういない。大人となるため翼を広げ、巣立っていく。
家庭を支える母と、家族を担う父。両者への感謝を胸に。
収穫の時期に行われる謝天祭は、農作物をはぐくむ陽の光をたたえる行事。この世界の多くの土地で行われているが、地域ごとに行われる時期は異なり、年によっても前後する。祝い方にも町々に特徴があり、お祭り騒ぎが夜通し続くところもあるが、ウィンの暮らす町では特別派手な催し物は行われることはない。日が落ちた頃教会などの集会場に人々が集まり、祈る。そして各家庭で作った料理を持ち寄り、それを皆にふるまい、同じ町でともに生きていることを感謝しあう。ささやかな行事だった。
そして、育った子供たちを送り出す節目。
子のある家庭には寂しくもあり、だが受け入れなくてはいけない大切な儀式。皆がそうして長い長い年月をやってきた。子供たちにとっても辛く、そして期待に胸を膨らませる時。これからもずっと、人々はそうやって生きていく。
兄の去った部屋を見て、ウィンは何か言いたかったが、言葉が出なかった。
寂しさもあった。激励の気持ちもあった。
そして、いつか自分にも来るその時への不安の思いも強かった。
そっと自分の片方だけの羽に手を伸ばし、そっと触れた。