第二十二羽 「地禮祭 春の訪れ」
「明日は朝早いから、もうおやすみなさい」
夕食を終え、ゆるやかな火をたたえた暖炉の前で団欒のひと時を楽しんでいた六人に、家長の羽なしが声をかける。
「もうそんな時間かい? まだこのお嬢さんに色々と話を聞きたいんじゃがの。まあまた今度にするかの」
対の羽を持つ女が何かあるのかと尋ねると、少年がえっと、と語りだすのを遮るように羽なしの娘が口を開いた。
「朝から母なる大地へ奉げる地姫の舞台があるの。地禮祭の仕上げで、たくさんの人が集まるメインの催事よ」
地姫とは、と羽ありが尋ねるとまた少年が口を開く前に姉が答える。ため息が一つ聞こえたような気がするが他に話題に入ってくることはなく、羽ありと羽なしの娘を残してひとりひとり就寝の挨拶とともに寝室に戻っていく。羽ありの質問、羽なしの回答、そしてそれに対して羽ありが打つ相づち。他には炭となった暖炉の薪が崩れる音が小さく響くだけ。静かで穏やかに夜が深くなっていく。
―22―
地禮祭三日目。
巨人の足元に備えられた舞台の上には二つの篝が置かれている。まだ中の薪には火がついていなかった。時はあけぼの、東の空はまだしも辺りは暗く、風が吹くとやや寒さを覚える頃合だった。舞台の周囲にはたくさんの人々が集まっていた。寒いこともあるのだろうが、羽あり羽なし関係なく身を寄せ合っている。舞台の正面は上がる者のために空けられており、人だかりはそこで二つに分けられていた。
小さな歓声が立つと、小さな拍手が続いた。一人一人の音はちいさくとも、大勢が集まり一斉に重なり合えば非常に大きな音になる。しかしそうはならなかった。長い歴史の中で皆が理解している。代わりに太鼓の音が大地の底から来るかのように力強く、低く深く周囲に響く。大きなたいまつを持つ者が先頭に立ち、四人が支える神輿に乗せられた美しい羽なしの女性が花道を通って舞台の中央へと上がっていく。太鼓の音が止み二つの篝に火がともされると、幾重にも儀式装束を纏った羽なしの女性は神輿から降り、舞台の上で倒れ伏した。篝火の薪が爆ぜる音が小さく立つ。その音が集まっている者全員に聞こえるほど、静まり返っている。
壇上の空気が大きな篝火によって温められてきた頃、東の空から太陽が顔を出した。静かに、そしてしなやかに、衣擦れの音と共に地姫が身を起こす。太鼓の音が徐々に徐々に大きく力強く周囲を満たす。地姫が立ち上がって両の腕を大きく左右に開くと同時に、一際強く太鼓が打ち鳴らされ、瞬間、静寂が戻った。その直後目を閉じうなだれていた地姫が目を開き顔を上げる。同時に演奏が始まった。
体をいっぱいに使って、大きく重たい鮮やかな装束をなびかせながら舞い踊る。女性ならではのしなやかさに羽なしの力強さが相まって、あたかも大きな華が舞台全体に咲き誇っているかに見える。
「すっごい… めちゃくちゃきれいね。本当に春が呼ばれてきたみたい…」
黒髪の羽ありの女が感嘆を漏らした。
「エディ姉さんも選考に残ったけど、惜しかったみたい」
「へぇ。エディの地姫も見たかったわね」
「あたしイヤよ。こんな寒いのに無茶言わないでよ。アレ、実は裸足なんだから」
三人がくすくすと笑う。舞台では優雅に力強い華が咲き続けていた。紅をさした唇の間から白い息が吐き出され、舞い続けているために薄く化粧をした頬も紅潮している。その艶やかな姿に片羽の少年は見惚れ、心奪われていた。
「…ウィン、鼻の下伸びてる」
姉に図星を指された少年はわずかに背筋を伸ばし、取り繕うかのように何か言おうとしていたが、傍からはあたふたと落ち着いていないだけにしか見えなかった。
「仕方ないじゃない、ウィンもそう言う年頃なんだし。…って、わたしなんか怒らす様なことした? ね、エディどうしたのよ」
しゅんとした様子の少年と、つんと顔を背けている少年の姉を交互に見遣って、怪訝そうに首を傾げて黒髪の羽ありはまた壇上に視線を向けた。太陽は完全に大地から姿を現し、すべてを明るく照らし出している。地姫が腕を大きく振り上げると儀式装束の袖が広がり、刺繍にあしらわれている金糸が光を受けて輝いた。その美しく神々しい姿におおっと歓声が上がる。地姫が腕を交差しながらしゃがみ込むと同時に演奏が終わり、広がった袖は下ろした腕に伴われて緩やかに舞台上に広がった。観衆からは惜しみない拍手が巻き起こる。
立ち上がって笑顔で答え、肩で大きく息をする羽なしのもとに太鼓の音と共に神輿が花道を通ってやってきた。再び神輿に乗せられて舞台を去る地姫の姿が見えなくなるまで、拍手が天地を満たし続けていた。
「えーっと、あとお昼と夕方に一回ずつあるんだけど…」
帰り道で片羽の少年が黒髪の羽ありに話しかける。少年の姉は今年の地姫の娘達で色々やることがあるとのことで、朝の舞台が終わるのと同時に行動を別にしていた。
「僕、そんな風に見てたのかな…」
黒髪の羽ありは一瞬何のことを言っているのかわからなかったが、若干落ち込んだ様子の少年を見て察したようだった。
「バカねぇ。普通よ、ふ・つ・う。それが男の子だって。むしろ… あ、はぁん。それでエディは… これはからかいがいがあるわぁ」
「…?」
「こっちの話。うっふふふ…」
頭の回転が速い聡明な羽ありは含み笑いが抑えられないまま帰路に着く。片羽の少年は聞こえないよう気をつけて、エマって時々怖いな、と小さく呟いた。
……
……
昼食は出店の物で軽く済ませ、再び舞台の方へとやってきた。もうすでにたくさんの人であふれており、二人ははぐれないよう寄り添いながら前の方へと詰めていく。昼の部が始まるまでにはいま少しの時間があった。まだこの町に慣れていない黒髪の羽ありは、世話になるようになってから毎晩そうしているように、片羽の少年に気になったことを色々と聞きながら時間を潰した。今の空気は高く上った陽に温められ、夜明けの寒さが本当のことだったかとみなが疑う。気がつけば二人の後ろにもたくさんの人だかりが出来ており、そして人の熱気も相まって、舞台の周りは少し暑いと感じるほどだ。
舞台を取り囲む人が相当な数になってきた。朝と同じか、それ以上だろう。がやがやと騒然とした会場に、大きな銅鑼の音が鳴り響いた。ざわつきが治まってくるとさらに連続して銅鑼が打ち鳴らされる。舞台の両袖に設けられている天幕から様々な装束に身を包んだ羽なしの娘達が壇上に上がっていく。彼女達は全員今年で十九歳の娘だ。四十人ほどだろうか。全員が円状に舞台に広がったところで再び静寂が訪れた。しばらくすると朝と同じように花道から地姫がやってきた。朝よりも薄くて軽い儀式装束を纏い、神輿に乗らず自身の足で舞台に上がる。傍らに一人羽なしの女性を従えていた。
「…? あ! あれってエディじゃない?」
小声で片羽の少年に問う。少年も驚いた顔をして何度もうんうんと頷いた。壇上に広がった娘達の中にいると思い探していたところだった。小さな桶を抱え、しずしずと歩く。
舞台に上がった地姫は、その手に持った深緑の葉をつけた枝を桶に入った清水に軽く浸し、舞台の上の娘達の頭に葉に宿った露を振っていった。一人ずつ丁寧に行い、最後の一人を終えると片羽の少年の姉は地姫から枝を授かり、清水の入った桶を手にして舞台袖の天幕へと入っていった。少しして今度は袋を手にして戻ってくると、それを地姫に手渡す。その後、輪へと加わった。
穏やかな演奏が始まると地姫が静かに舞いだした。その場を動こうとしない輪の娘達に対して地姫が見せる憂いの顔と対照的に、演奏が賑やかになる。輪の中心にいる者が空を見上げると、空から十人ほどの羽ありがやってきた。精悍な青年が一人、その他の者は若い娘達だった。中央の青年が地姫に手を差し出すとその手を取って、抱きかかえられて空へと上がった。羽ありの娘達は宙を縦横無尽に飛び回り、地姫を抱えた天士は舞台の上空で緩やかに円を描く。晴れやかな顔を取り戻した地姫が腰に下げた袋を開き、中身を手に取り下へと蒔いた。蒔かれた種から芽を出すように、輪の娘達が一人、また一人と穏やかに動き出し、やがて全員が演奏にあわせて舞いだした。
命の息吹を思わせるやわらかな緑。
期待に胸をふくらませる淡い桃。
抑えられない情熱に燃える赤。
穏やかに猛りを鎮める水色。
活気を皆に分け与える黄色。
すべてをやさしく包み込む綿のような白。
舞台の上には様々な花が咲き、彩っていく。賑やかな演奏とともに舞台を取り囲む人々から上がる喝采はまさしく、待ち侘びていた季節を迎え入れる、母なる大地に生きる人々の喜びの声だった。