第十四羽 「母と娘」
「ただいまー。あー、疲れたー」
戸を開けて入ってくるや否や、何も置かれていなかったテーブルに持ち物を放り出して、椅子の上にあぐらをかいて座り込んだ。靴を脱いだ素足をさすっている。
「おかえりなさい、エディ姉さん。母さんはまだ出かけてるよ」
「あれ? ウィンは今日行かなくてよかったっけ?」
「矢倉の準備だったらお昼までだよ。明日地ならしの仕上げで、組み上げるのは明後日からだったかな」
地禮祭が近い。町中が一丸となって準備に勤しんでいた。謝天祭同様、この祭事も地域地域に特色がある。この町では一大イベントだった。農耕地域である以上、母なる大地に恵みを分けていただく、という意識が強く、毎年華やかで賑やかな祭りを催していた。
「で、どうだったの?」
椅子の上であぐらをかいたままテーブルの上で伸びている姉に問う。少しわくわくしたような、期待するような顔つきだった。
「んー、次点。南区のアネーシャが今年の地姫よ」
「そっか…、残念だったね。そのアネーシャさんって僕の知らない人?」
「そーねぇ。顔見たら、あぁ~ってなるかも。…ほら、南区の用水路のところにある酒蔵の子よ」
少年がやや渋い顔をしながら少しだけ天井の方を見ているのをみて、姉は含み笑いをしていた。
「まあ当日見たらいいわよ。正直あたし、地姫に選ばれてもちょっと困っちゃうから丁度よかったよ。天士に選びたい人も無いし」
そう言って大きくため息をついた後、再びテーブルの上に突っ伏した。視線だけを弟の方へ向け、そして大きく息を吸い、額をテーブルにつけると再び大きくため息をついた。
―14―
家族がそろい食卓を囲み、いつものように祈りを奉げてその日の糧を口にし始めた。
「奉納する幟もそろそろ全部出来上がるわよ。トゥーさんも今年までで、来年からはお弟子さんの子がやっていくみたいね。小さいのの染めも今日のでもう終わりだから、あとは飾っていくだけかしら」
昼間の集まりに出かけていたスティナが皆に報告する。この町の地禮祭の特色として町中の通りのあちこちを色とりどりの幟が飾る。そして天に感謝し地を讃える絵柄を色鮮やかに織り込んだ巨大な織物が祭事の中心となる矢倉に掲げられ、三日三晩を通して皆で春の到来を祝い今年一年の豊作を祈るのであった。
「あたし無理! 別にいいじゃない、あったかくなってから作って次の年の地禮祭に使えば!」
「つめたーいきれいな水じゃないと鮮やかに染まらないのよ。来年からはエディもやるのよ。あなたも今年十九なんだから。地姫を境に大人の仕事を覚えないとダメよ」
ぶーぶー文句を絶やさない少年の姉は始終母にたしなめられていた。その様を見て家族全員が穏やかに微笑を浮かべる。この町では十九歳を境に、子供は成人として扱われる。謝天祭に成人となった男子が送り出されるように、地禮祭が終わってからは成人となった女子は大人の仲間として町の役目を担う。
「ざーんねーんでしたー。あたし今年の地姫じゃないもん」
「十九になった羽なしの女はみんな地姫でいいのよ。代表を選んでるだけなのよ」
「…スティナも同じこと言っとったねぇ、おじいさん」
「かえるの子はかえる。間違いない」
一同が声を出して笑う。春が大分近づいたために暖炉に宿る炎は以前に比べて小さくされていたが、それでも十分な暖かみが部屋に満ちる。笑いが途切れた頃、母が聞いた。
「もし地姫に選ばれてたら、あなた天士に誰選んでたの? 天士と地姫って結ばれるって言うじゃない? そういう人いないの?」
「羽ありなんて好きにならないもん!」
娘がむきになって反論する。
「エディの羽あり嫌いは治らないな…」
「嫌いじゃなくて好きになれないだけ! 空から見下して偉そうにしてるのがヤなの」
「羽なしは羽なしで、彼らが出来ないことをすればいいだけだろう?」
「向こうはそーゆー風に考えないじゃない! ご近所付き合いは普通でも腹の底でどう考えてるかなんてわかんないわよ。あーあ、気ままに空を舞ってるだけで良いなんてうらやましい」
「……」
話している間、一度も弟の方を見ることは無かったが、彼が複雑な表情をしていることはわかっていたらしい。すぐ隣に座る少年の頭を抱き寄せ、頬ずりしながら髪を撫でた。
「でも、ウィンは別~。あんたはホントいい子に育ったわよね。見習いなさいよ、ねぇ」
「…ちょっといい? エディ」
母が娘の正面の席につき、一つ大きく息をついて真剣な表情のまま話し始めた。誰もが口を挟むことなく、彼女の話を聞いた。
「確かにあなたが言うように、何か一つでも自分が他の人よりも得意なこと、他の人が出来ないことが出来ると、まるで自分だけが天に選ばれたような気持ちになる。でもそれは決して悪いことではないわ。自信を持って、前向きに生きる原動力を得る。あなただって経験あるでしょう?
でもそれは永遠ではないわ。人である以上いつか自分では出来ないことがあることを必ず知るの。でもその自分では出来ないことを、他の誰かは出来るのかもしれない。
羽なしが機械を使えなくても羽ありは操ることができる。
羽ありが耕せなくても、羽なしは育むことが出来る。
そうやって力を合わせて生きてきたのよ、人間はずっと。人間は変わるのよ」
いつしか弟の頭を離して、ばつが悪そうな顔で母の言葉を聞いていた。ちらちらと顔つきを覗うのだが、しっかりと目を合わせようとはしない。
「羽ありは自分たちのことだけしか考えていない、なんて事はないわ。あなたが今まで見てきた羽ありはみんな子供じゃないかしら。まだ自分が何でもできると信じてるだけなの。あなたも本当はわかってるんじゃない?」
大人達は小さく頷きながら聞いていた。しばしの沈黙が流れる。
「…はい。言い過ぎました」
やはりばつが悪そうにぽそりと呟いた。その一言に母は表情を崩し、腕を伸ばして娘の頭に手をやった。
「やっぱりお母さんの子だ。今日からあなたも、一人前の大人よ」
「…ばあさんに怒られとったスティナが目の前に居るようじゃの。何から何までよく似とる」
そう言う祖父を前にして、ばつが悪そうな顔がもう一つ増えた。