第十三羽 「少年の望み」
空が落ちて三日が経った。町の入り口に大人たちが大勢集まっている。腕組みをし、険しい顔つきで雲の流れを見ている者が多い。群集の最前列の中央に、杖をついた羽の無い老人が立っていた。目を閉じ、耳を澄ませ、ざわめく民を背負うように。
「……地禮祭まであと十日、か」
そう呟きゆっくりとその双眸を開き、他の大人たちと同じように空を見遣る。彼方より銀に輝く球体が近づいていた。
……
……
同じ頃。
「スティナ、今日はいい知らせを持ってきたよ」
「何かしら。期待しますよ」
帽子を被った初老を少し過ぎたくらいの羽ありの男が持っていた鞄を開けて、中から一つ、表に彼女の一家の姓が書かれ封をされた紙袋を手渡した。あっ、と言うような顔をし、受け取ったスティナはそのまま紙袋を裏返す。
「……。確かにいい知らせね。中を見るまで安心できませんけど」
訪ねてきた羽ありに笑顔で答えた。羽ありは鞄を閉めてから一旦帽子を脱ぎ、別れの挨拶をするとそのまま再び空に上がった。少しの間滞空し、次の家を目指す。その背中を見送ったスティナは家に入ると、ぱたぱたと少し浮ついたような足音を立てて棚へ向かい、中を探っていた。
―13―
その日の夕方。一同が同じテーブルにつき、いつものように祈りを奉げて食事をとり、食後のお茶を娘が用意していた時だった。
「さーて、みなさん。今日はね、とてもいい知らせがあるのよ」
一番初めに返事をしたのはカップを配っていた娘だった。母の勿体つけたような物言いにうずうずしているのがよくわかるが、自分の仕事の手を休めることは無い。しまっておいた今日届いた一つの封筒を取り出して皆に見せた。
「誰からだと思う?」
あて先の字に皆、心当たりがあった。
「…やっとか」
安堵の声と共に懐かしそうな笑顔を浮かべた少年の父は、封筒の中身を出し読み上げた。
「向こうでも元気にやっとるようじゃの。何より何より」
「心配してたのが損みたいよ! 無事なら無事でもっと早くよこせばいいのに! …ってついこの前もそんなこと言ってなかったっけ、あたし」
「兄さん、技師さんになったんだね。こっちに戻ってこないかな」
「こっちには玄人の手が要るほどの機械がないからな…。多分向こうに留まるんじゃないか?」
「そうね…。寂しいけどあの子が選ぶのならそれが一番よ」
「嫁さんは向こうで見つけるのかい?」
「おばあちゃん、まだジュド兄半人前よぉ。三年しか経ってないじゃない」
「そうかい? 私らはその頃もう夫婦しとったけどねぇ。ね、おじいさん」
「…どーじゃったかな、覚えとらん」
いつものように明るい家庭に、今日はさらに一つ明かりが灯ったようだった。日を追うごとに寒さが和らいでいるが、夜は依然として身に堪える。暖炉にくべられた薪から時折爆ぜる音が立ち、揺らめく炎が壁に彼らの影をやさしく映していた。
「…それはそうと、浮き島の奴らがいよいよ強行に出るかもしれない。自分たちの要求ばかり押し通そうと、こちらの条件を聞こうともしない」
「もういいじゃない、相手しなくても。何にもしないで放っておこうよ」
「そう言うわけにいかないだろう。向こうには三万も居るらしい」
「三万人っ?!」
全員が口を揃えて聞き返した。無条件に受け入れることなど到底無理な話と、誰もがたやすく理解できる数だ。この町は豊かな農耕地帯で毎年十分な収穫が得られる。この町の住人を飢えさせることなど百年以上なく、かつ収穫された農作物を近隣の地域にも供給できるほどの恵まれた土地だった。前年も同様で、貯えは十分にあった。しかし突然今の人口の五倍にも及ぶ民を無期限でまかなうことなど出来はしない。
「連中、事の重大さがわかってないらしい。浮き島が落ちて困っているのは自分たちだけだと思い込んでるみたいだ。くそ、農地があの岩山に変えられたんだ。今年だけじゃない、この町がこれからも今まで通りのように立ち行かなくなったってことを気にも留めちゃいない」
少年の父は眉をひそめ、今日の昼間の集会でのことを家族に話した。誰もが言葉を発しないまま穏やかに時が流れていく。
「…地禮祭が近いの」
祖父の声に全員が無言でうなずく。
「父なる天は何をお考えか…。母なる大地がまたお怒りにならねば良いのじゃが…」
窓越しに星空を見上げながら呟いた。月明かりに照らされた雲は空高くにあり、地に立つ人の憂いなど届かぬようだった。
「……かつて人の背には羽は無く、かつての空に日を遮る陸は無し」
片羽の少年が沈黙を破った。皆が少年の方を見る。
「一つだけだけど、大昔に戻っただけじゃないのかな。…羽は無くならないけど」
ぱたぱたと小さく羽ばたきながら皆に尋ねた。
「あれって続き無いのかな。人が母なる大地に罰を受けて、父なる天が魔物を滅ぼした後、どうやって今みたいになったんだろうって思って」
「ウィン、あれは忌み唄よ。人がまた同じような間違いをしないように、って戒め。あまり口にするものじゃないわ。確かにずいぶんと中途半端に終わってるけど、わたしも知ってるのはそこまで」
祖父と祖母もうなずいている。少年はそのまま父の方を見た。自分の番か、と察した少年の父は、口元に手をやり若干顎をあげ、天井に視線を向けてしばらく思い返していた。
「父さんの育ったところには伝わってなかったな。越してきたこの町で母さんから教えてもらったくらいだ。昔話で聞かされたのも似たような感じだ。続きなのかはわからんが、母なる大地で羽ありと羽なしの間で争いが起きて、羽なしに負けそうになった羽ありが羽なしの手が届かない浮き島に逃げていった、とか言う話もあったな。…今じゃ空の方が偉そうにしているけどな。…でもどうして急に?」
ちょっと気になって、と言葉を濁して少年は話を打ち切った。
姉弟の部屋のベッドの上で、少年はぽつりと呟いた。
「ねぇ」
「うん?」
「どうして、仲が悪いままなのかな」
「…浮き島とあたしたち?」
「うん」
「…向こうが見下ろしたまま、何も聞こうとしないからでしょ」
「…本当にそれだけなのかな」
「…知らない。ね、今日いつもより冷えるからそっち行っていい?」
弟の返事を待たずして姉はベッドに潜り込んできた。
「あー、ウィンの羽ふかふか。おやすみー」
「……」
「おやすみー」
「あ、うん。おやすみ」
しばらくすると背中側から寝息が聞こえてきた。
「…こんな風に、できないのかな」
背中に柔らかなぬくもりが伝わってくる。ころりと寝返りを打って向き合うと、そっと羽を広げて包み込んだ。