第一羽 「片羽の少年」
この世界には二種類の人間がいる。
羽のあるものと、羽のないもの。
もともと人間には羽が無かったという。だけどはるか昔に羽のある人が生まれ、そして今のようになった。空を見上げれば鳥が気ままに飛び交うだけでなく、鳥よりもずっと大きな、羽を持つ人間も忙しそうに空を行く。
僕にも羽がある。だけど空を飛ぶことはできない。
空を飛べる羽ありがうらやましくはないか、と聞かれたら、当然うらやましいと答える。だけど僕はこれでもいい。たとえ片羽で飛べないからといって、人として幸せでないということではないから。
僕は、これだってかまわない。
―1―
「くやしかったら飛んで見せろよ、飛べない羽あり~」
「羽があるのに歩いてるのかよ~。羽ありっていうより、羽蟻だな~」
空を見上げる少年を、上空から同じくらいの年の少年たちが見下ろし、蔑んでいる。地に立つ少年は何かを言いたそうだが、うまく言葉にできないようでくやしそうに口を固く結んでいた。口を閉ざした少年は涙をこぼし始めた。肩が震えるのを懸命にこらえている。
「やーいやーい、泣き虫羽蟻、涙でおぼれて死んじまえ~」
うれしそうにはやし立てる。自分の残酷さを理解していない子供特有の無邪気。それに耐えかねた少年が後ろを向いて涙を拭い、歩いてその場を去っていった。歩く少年の背にも、空を舞う少年たちと同じように羽があった。ただし左だけ。振り返って空を見上げるが、これでは叶わない。
「おかえりなさい、ウィン」
ぼんやり空を見つめたかったから出かけていった野原で、深く心を傷つけて帰ってきた。口を閉ざしたままの息子を見て、彼の母も寂しげな顔をしたがすぐにいつものようにやさしい顔で息子を出迎え、抱きよせた。
「…やめてよ」
「どうして?」
「何でもない。やめてったら…」
明確な答えを持たないウィンと呼ばれた少年は、ただ母の優しさも拒絶し一人になりたかった。
母の腕から離れ、自分の部屋に入りベッドにうつぶせになった。背中の左だけの羽がぱたぱたと動く。右を下にして横になり、左の羽を広げて自分の目の前にかざし、右手でその風切羽の先端に触れる。
「どうして片方だけなんだろう」
ベッドの上で彼がつぶやいたのは、ただ一言だけだった。
いつしか少年は眠っていた。扉を叩く音で目が覚め、母の声で今がいつごろなのかを知った。部屋を出てテーブルにつき、家族が一同にそろう。
父、母、祖父、祖母、兄、姉、そしてウィン。全部で7人。家族構成としては普通。多いこともなく、少ないこともない。大抵どこの家庭もこのくらいの人数だ。和やかな食卓で、笑顔も多い。
「母なる大地、父なる天よ。今日もまた我らが一日を過ごし、ともに集まることができたこと、一日の糧を与えられたことを感謝し、祈りをささげます。どうか、また明日も変わらぬ喜びに満ちた日であることを」
祖母の落ち着いた祝詞を、家族全員が手を合わせ、目を瞑って真摯に聞く。毎日毎日特に変わることがないが、だからこそこの祈りがあってやっと普通の一日が終わる。それが当然。祈りがすみ、食事に手を付け始めた。
「…まーたイジメられてきたわね、ウィン」
「…そんなことないよ」
「ウソ言っちゃって。目が真っ赤なのは何?」
「やめなさいエディ」
父に制され、姉が物足りなさそうな顔で、はーい、と返事をした。
「お前は弱いなぁ。どうせまた羽ありのガキたちだろ? 石でも投げてやればいいじゃんか」
「…やりかえされたらイヤだもん。たくさんいるし…」
「だけど羽ありだろ? 俺たちの方が身体強いんだから平気だって」
「ジュド兄が特別強いんだって。ウィンってひ弱じゃん。見るからに」
兄と姉が母に叱られる。だが悪びれる様子もなく笑っていた。もともと悪意や傷つけるつもりで言ってはいない。いつもいじめられ心を痛めている弟を励まし、元気付けようとしたいだけ。それをわかっているので家族の誰もが語気を荒げることはない。
食事が済んでも家族がすぐにばらばらになって部屋に行ってしまうことはない。何をするでもなく皆が一緒にいる。時々笑い声があがる。だが少年の顔はまだ晴れない。そんな少年が口を開いた。
「…どうして、僕には片方しか羽がないの?」
「片方だって、あるんだからいいじゃんか」
「そういうことじゃないよ…。みんなと同じがよかったのに…」
ウィン以外の家族には羽のあるものはいない。
羽ありと羽ありの子は羽あり。
羽なしと羽なしの子は羽なし。
羽なしと羽ありの子はどちらになるかはわからない。
二世代にわたって羽なし同士の家系であるにもかかわらず、ウィンのように羽ありとして生まれる子供は極めて珍しい。この町でも100年以上そのような子供は生まれてこなかった。そして彼のように、片翼の者は見られたことがない。また羽ありは羽なしよりも身体、特に足腰が弱いのが普通だ。だが少年の身体は羽がある以外、羽なしと同じだった。
「羽ありで、羽なし。それでいいじゃろ」
「…結局どっちでもないんでしょ。やだよ、そんなの」
「いいんだよ。儂らにはウィンでしかないから」
祖父と祖母の言葉は、少年に言葉を詰まらせた。
「…わかってるよ、そんなこと…」
しばらくあった無言の後、顔を背けて吐き出すようにそう言った。
「ウィンが寝てるって言うから、俺たち入れなかったんだぞ。これからは一人で早く帰ってきても占領するなよ」
「あたしはお母さんの手伝いがあったから気にしないけどね。ジュド兄だってもうじき気にしなくてよくなるじゃない」
「それはそれでな~…」
子供たちは全員同じ部屋で寝ている。一番上の兄はもうそろそろ独り立ちをしなくてはいけない時期だ。三人一緒にいられなくなる時が来るのも遠くはない。
「ねぇ」
少年が二人の方に視線を向けないまま声を出した。
「…おかしいよね、やっぱり。気になるよね」
「何が?」
「僕の背中」
窓からの月明かりの中、兄と姉がお互いの顔を見合わせしばらくして答えた。
「うん」
弟が二人に背を向けたまま、小さくなった。
「どうして俺たちと何も変わらないのに、小さくなってんだ?」
横にしていた身体を起こし、兄が続けた。
姉がベッドから下りて弟のベッドに腰を掛ける。
「あたしは、好きだよ。ウィンの羽。とってもかわいい。片方だって、飛べなくたって。
…両方あっても、片方だけでも、どっちだって一緒だもん」
弟の羽をやさしくなでる。羽がぱたっと少しだけ動き、姉の手を払った。彼女は嫌な顔一つせず、弟の背中にむかって微笑んだ。
「羽なしか羽ありか、どっちかしかダメだ。誰がそんなこと言ったんだ?
そんなことを言うやつがおかしいのさ。だから、今度は石のひとつでも投げつけてやれって。お前らとどこが違う! ってな。」
兄が自分の右腕を左腕で叩き、威勢よく弟に檄を飛ばす。姉は弟のベッドの上で両膝を抱え、窓の外を見ながら穏やかに言う。
「きっと羽ありなのにろくなのじゃない人は、いつもお空から見下ろしてるから偉くなった気になってるのね。せっかく立派で素敵な羽を持ってるのに。
…絶対そうならないウィンは本当に素敵だと思うな」
あいかわらず弟は兄と姉の方に顔を向けようとしない。むしろ一層頑なになってしまった。
「…まーた泣いてんのか」
「泣き虫ウィンちゃん」
とてもやさしい声だった。