対話
再び船内に明かりが戻ったのは、マルス到着の二時間前だった。
身を起こした試験官氏は、隣の席で熱心に今回の報告書概要に目を通している『生徒』の姿を目にすると、わずかに意外そうな表情を浮かべた。
「ずっと見ていたのかな?」
「いえ、一時間半ほど前からです。一応読書灯はつけておきましたが」
そう。
彼には『暗視モード』が備え付けられているので、完全な暗闇のなかでも物を見るには不自由しない。
にもかかわらずあえてそれをつけていたのは、『ヒト』と思わせるカムフラージュのためだ。
だが、試験官氏の抱いた疑問は、そこではない所に存在していたらしい。
「本部からの申し送りによると、君は惑連に蓄積されている全ての情報から、必要な時に必要なだけ取り出せると聞いたが?」
「……ええ、まあ。本部からの直の命令とかもですが」
一度言葉を切って彼は資料を閉じ、改めて周囲を見回した。
政情悪化も手伝って、彼らの周辺には他の乗客は見えず、客室乗務員の姿も認められない。
それを確認してから改めて彼は口を開いた。
「こういった複雑で微妙な事項ですとか、データベース化が間に合わない最新の報告は、やはり資料に頼ることになにますね。残念ながら」
もっともマルスに入れば、直接支局に入る報告を傍受できるようにはなりますが、と付け加えるデイヴィットに、スミス少佐は一緒首をかしげたようだった。
「通信の範囲内であれば、という訳か。……意外と不便なものだな」
「一応自分を構成している物質の大半は有機物なので。おっしゃる通りの機能を求めるならば、それこそロボットを開発したほうが良いかと」
冗談とも本気とも取れるデイヴィットの言葉に、スミス少佐は初めて声をたてて笑った。
けれどそれは、どことなく作り物めいた笑いだった。
が、その様子を無言で見つめるデイヴィットの視線に気付き、スミス少佐はわずかに頭を垂れた。
「え……あの……?」
戸惑うデイヴィットに、試験官氏は生真面目に答える。
「失敬。今のはおそらく、君らにとって非常に気に障る行為にあたるだろう。申し訳ない」
この一言に、デイヴィットは試験官氏の分析記録に新たな記述を加えた。
意外と我々に理解があり、話せる人物の可能性有。
ただし、過度の期待は禁物、と。
「それで……何か新しい発見はあったかな?」
次に投げかけられた言葉は、デイヴィットが知るスミス少佐に戻っていた。
一旦ゆるみかけた気持ちを引き締めると、彼は改めて報告書に目を落とす。
「いえ……その、やはりM.I.B.はI.B.とは無関係なような気がします」
自信無さげな返答に、試験官氏はやや興味を引かれたようだった。
ひじ掛けの上に頬杖を付き、唇の片端をわずかに上げて見せる。
「その根拠は?」
「自分が持っている情報を検索しましたが、I.B.の攻撃対象はすべて政府要人または惑連最高幹部に限られています。今回のように無関係な民間人を人質に取り、身代金を要求するという今回の件は、どうも共通点が見られないのですが」
あえて彼は、断言するのを避けた。
前にも後にも、彼自身の発する何気ない一言、そして行動の一つ一つが、今後の彼の運命を決めるのだ。
用心し過ぎる、ということはない。
「確かにそれも一理ある。だが、こうとも考えられないかな?」
そう言うと、スミス少佐はやや姿勢を崩し、足を組み直した。
どことなく平板な声が通り過ぎていく。
「組織とは存外、頭が変わると性質も変わる。それに、大きくなればなるほど、統一感を保ち続けるのは、難しくなる」
その言葉を反芻し、デイヴィットはある結論に達した。
「では、M.I.B.は一枚岩ではない、と言うことですか?」
「そう判断するのは、まだ早い。だが、可能性は十二分にある」
そして、試験官氏はやや皮肉な笑みを浮かべる。
すい、と顔を真正面に向け更に続けた。
「その可能性が現実ならば、交渉次第では相討ちを仕組むこともできる。……まあ、もっとも、今回それをしてしまうと、越権行為になってしまうのだが」
まったく悪びれもせずに、なんとまあ物騒なことを言うのだろうか。
デイヴィットは呆れながら、試験官氏の横顔をまじまじと見つめた。
一方見つめられる側は、素知らぬ様子で窓の外に広がる漆黒の闇へと視線をさ迷わせている。
そしてふと、急に何かを思い出したかのように切り出した。
「そう言えば、人質の名簿は資料の中に入っているかな?」
こちらに、と言いながらデイヴィットは手にしていた資料ファイルの中から一つを選び出し、それを手渡した。
人質名簿及び、周辺地図が収まったファイルである。
スミス少佐は、しばらくそれを眺めていたが、ふとページをめくる手が止まる。
そして、何やら低くつぶやく。
音声として捉えられるぎりぎりの周波数のそれに、デイヴィットは耳を疑った。
──奴らもあながち、馬鹿というわけではなさそうだな──
確かに、そう聞こえた。
彼があわててその理由を問いかけようとした時、船内に鈍い衝撃が走る。
「重力圏に入ったようだ」
短くスミス少佐は言う。
試験官氏が資料から何を見い出したのか尋ねる機会を失ったデイヴィットはうなずくと、シートベルトを締める。
船は、マルスへと引き寄せられていった。