恐怖
瓦礫の山はあらかた取り払われ、現場から集約されたコンクリート片から遺体の破片をより分ける作業が進んでいる。
行方不明者の数が減っていくのと反比例に、死亡者の数が増える日々が続く。
だが、現場責任者である桐原の表情は一向に晴れなかった。
その原因は言うまでもなく、テラからの客人である。
あの事件以来二人の姿は忽然と消え、知らされた電話番号も一向に繋がらない。
あれほどの事故である。
当然二人とも巻き込まれて、無事ではないだろうことは確実だ。
そう考えた桐原は、『M.I.B.広報』から接触があった直後、すぐさまテラに客人二名の歯形とDNAデータを送るよう正式に届けを出した。
彼の経験では、返答は早くて翌日、遅くとも翌々日には届くはずだった。
しかし、今回彼にもたらされたそれは、今まで抱いていた嫌な予感を増幅させるに充分な物であった。
テラからの回答は、簡潔かつ素っ気ないものだった。
たった一行、『該当する職員名無し』。
これだけである。
この返答から導き出される可能性は、二つあった。
一つは、照会入力する際氏名のスペルまたは職員番号を誤った、桐原の単純ミス。
だが、いかに疲労がたまっていたとは言え、生真面目で几帳面な桐原のことである。
客人二人分のデータを同時に間違えることなど、まず考えられない。
そして浮かび上がるのが、もう一つの方──すなわち、テラも桐原も間違っていないという可能性である。
この仮定が正しいとすると、客人達は何らかの理由で共に偽名を使いこのフォボスに乗り込んできたということになる。
だとすると、自分は一体何と関わってしまったのだろうか。
その不安を煽るように、『M.I.B.広報』の声がまざまざとよみがえってきた。
客人は、ただ者ではない、という不気味な言葉。
瞬間、桐原は大きな不安に捕らわれた。
あの客人達は、自身の実質上の惑連に対する裏切り行為を明らかにするためテラから送り込まれた監査部の人間なのではないか。
だとすれば、両者が偽名を使っていたことに説明がつく。
けれど、あれほど慎重にしていたにも関わらず、どうしてそれがテラに漏れ伝わったのだろう。
同僚に感付かれ通報されたのか、或いは……。
ホテル崩壊と共に沸き上がった不安と恐怖と猜疑心は、桐原の心中に暗い影を落としていた。
だが、彼生来の真面目さと勤勉さは、このような状況に置かれても目の前にある職務を放り出す事を許さなかった。
極度の緊張感から派生した不眠と胃痛に耐えながら桐原は今日もいつものように出勤し、すれ違う職員に会釈を返しながら自らの席につく。
それから端末を立ち上げ、まずメールをチェックする。
それが入局以来続いている、彼の日課だった。
まず、緊急のフラグがついている内部文書に目を通そうとしてマウスに手を伸ばした、その時だった。
着信時間ごとに並んだ差出人の中に、無秩序なアルファベットの羅列で形成された奇妙なアドレスが紛れこんでいる。
この端末を通して送受信されるメールは、機密漏洩やウイルス感染を防ぐ意味もあり、惑連のサーバーで厳重にチェックされているはずだ。
どんなに怪しげに見えても、スパムやダイレクトメールの類いである可能性は皆無と言って良いだろう。
だが、発信者が使用しているドメインは、見慣れたフォボスやマルスの惑連職員が使うそれではない。
桐原は震える手でマウスを操作し、そのメールを開く。
画面に広がる文字列を目にして、彼は自らの血の気が引いていく音を聞いたような気がした。
「どうしたんだよ? 顔色がすごく悪いじゃないか。大丈夫かよ?」
向かいの席に座る同僚が彼の異変に気付き、声をかける。
その声に我に返った桐原は、ようやく額ににじむ冷や汗を手のひらでぬぐい、やっとの事で息を吐き出した。
そして、何でもない、とだけ答えると改めてその文面を目で追った。
──本日の勤務終了後、ホテル崩壊現場に来られたし。双方の身の保全のため、一切の他言は無用。なお、万一拒否される場合はどうなるか、聡明な貴官であれば容易にご理解いただけるかと拝察する──
無味乾燥な文体は、皮肉なまでに冷静なテラからの客人そのままだった。
背後にサングラス越しの鋭い視線を感じたような錯覚に捕らわれ、桐原は思わず身震いし周囲を見回す。
が、もちろんそれは気のせいで、目に入ってくるのは各々仕事に集中している同僚たちである。
しばしその文面を眺めやった後、朦朧とした意識の下で彼は返信を打っていた。
無論、拒絶するという選択肢は、彼に残されてはいなかった。
 




