【8・精霊の槍】
夜になっていた。
ベルダネウスとルーラはランプを手に馬小屋へと向かう。つながれたグラッシェが、ルーラを見て小首を傾げた。知っている人なのに見たことがない。なのにこの人の空気と匂いは確かに知っている。おかしいなと不思議がっている。
彼女の顔がふっと緩み、グラッシェを撫でる。それで彼女がルーラだとわかったのだろう。グラッシェは嬉しそうに顔を彼女にすり寄せた。
馬小屋の横に馬車が何台か置かれている。ベルダネウスの馬車もある。
「ルーラ、いくらお前が熱心に槍を学んだとしても、所詮は素人だ。戦いには心許ない。お前の1番大きな力は、やはり精霊と通じ合えることだ。精霊にお願いして、仲間として戦ってもらえることだ。
だが、精霊使いの名は知られている割りにその数は多くない。女の精霊使いとなれば、間違いなくクリフソーはルーラを思い浮かべ、無意識のうちにお前と重ねる。正体がばれる可能性が高くなる」
言いながらベルダネウスは馬車の屋根に上った。ルーラにも上がるよう促す。
「それでも私は、お前は精霊使いに戻るべきだと思う。これは短期勝負だ。チャンスを見つけ、一気に勝負を決める。力の出し惜しみをする余裕はない。向こうはプロだ、失敗したら終わり。チャンスは二度と来ないと思え」
「それでも失敗したら?」
「逃げる。逃げて逃げて、次の機会を待つ。だが、それは何年後かわからないし、今よりずっと難しくなる。だから次を考えるな」
屋根に上がった2人は、馬車の屋根の中央を前後に走る棟木をまたぐように向かい合って座る。
「でも、あたしの精霊石はもうないよ。精霊と心を通わせようとしても」
ルーラの問いには答えず、ベルダネウスは棟木に指先をかけた。すると、棟木の上の部分が蓋のように開く。
その開きはルーラに向かって伸びていき、彼女の手前で止まると一気に開いた。
棟木の中身をくりぬいた細長い隠し箱。その中に、それは入っていた。
「お前も知っているはずだ」
それは槍だった。一見、粗末な石槍にしか見えない。柄はいかにも堅そうな木で、前の持ち主ものらしい手垢で黒く汚れている。先端に付けられた石製の穂先は、磨くと言うより固いもので割ったような不格好。穂先と柄を結びつけているのは少し毛羽だった紐……にしては細く、黒々としている。何かの獣の毛に見えた。
「これって」
実物を見るのは初めてだ。しかし、彼女は瞬時にこれが何であるかわかった。
「『精霊の槍』だ」
精霊石を穂先に加工した槍。魔導師にとって魔玉を先端に付けた杖が証にして魔導発動のための道具であるように、精霊の槍は精霊使いの証にして武器なのだ。
「これが今からお前の武器だ」
なんで精霊使いでもない彼が精霊の槍を持っているのか。そんな疑問は思い浮かばなかった。
長い間会えなかった友達に再会したように、ルーラは目を潤ませながら精霊の槍を受け取った。愛おしげに穂先を見つめ、そっと触れる。
その瞬間、彼女の中に強烈なものが流れ込んできた。
ハッキリしない叫びのような声が響く中、誰かが倒れている。血の気のない顔。ベルダネウスだ。今のベルダネウスではない。もっとずっと若い、10代後半に見える。着ているものも、今よりずっと上等だ。
(おじさん?)
ルーラはベルダネウスに近寄ろうとしたが体が前に進まない。自分の体が存在していない。ただ、その光景が見えているだけ。
倒れている彼の身体から、赤いものが広がっていく。
血だ。
彼の腹、左側に大きな傷があった。そこから血が流れ出ている。白いシャツや地面が赤く染まり、彼の顔から血の気が引いていく。
(おじさん! 死んじゃう、おじさんが死んじゃう!)
叫ぼうとしたが、声にならなかった。それでも叫ぼうとした。助けを求めて。
(誰か、誰か助けて!)(守って!)
彼女の叫びに、別の声が重なった。女の声だ。
(ザンを守って!)
ルーラの言葉が止まる。
(お願い、ザンを守って)
(ザンっておじさんのこと? あなたは誰?)
その時、倒れているベルダネウスの目が微かに開いた。
こちらを見ながら、唇が動く。
「……ファルーラ……」
確かに、彼はそう言った。
哀願するような声がルーラの頭を通り過ぎた。
(彼を……ザンを守って……)
白い靄が広がり、全てを覆い尽くした。
「どうした?」
ベルダネウスの声で、ルーラは我に返り、慌てて周囲を見る。夜、月明かりとランプの光の中、彼女は彼と2人で、馬車の屋根にいた。
彼女はしっかりと精霊の槍を握りしめ、穂先の精霊石に触れている。
「今のは……」
言いかけて思い出した。家にあった記録で、精霊石について書かれた一文。
精霊石は、それを用いた精霊使いが死んだとき、最後の記憶をその中に封じる。そしてそれは、次に精霊使いが触れたとき、その者の脳裏に一度だけ甦り、消える。
(今のは、前にこの精霊の槍を使っていた人の……)
もう一度穂先に触れてみる。先ほどの記憶を見ることは出来なかった。消えてしまったのだ。
「大丈夫か?」
もう一度彼の声が彼女を引き戻す。
「大丈夫、何でも無い。この槍、あたしがもらって良いの?」
言いながら彼女は先ほどの記憶を思い返す。
「ああ。そのために渡したんだ」
馬車の屋根から下りると、ルーラはさっそく精霊の槍でガインから習った型を試してみる。彼は正式に槍を学んだわけではないが、幾多の実践の中、長戦斧を槍のように使うときはどのように構え、振るえば良いのかを体が学んでいた。それを彼女に教えたのだ。
そのため、彼女の槍の型はお世辞にも洗練されたものとは言いがたい。1対1よりも1人で多数を相手にするときの動きだった。連日の特訓のおかげで、1人だけで振るうならば、そこそこ様になっている。
一通り槍を振るうと、ルーラはベルダネウスに向き直り
「聞いて良い?」
「何だ?」
「ザンって、おじさんのこと?」
ベルダネウスは照れくさいような笑みを浮かべ
「忘れたのか。私の名はザン・ベルダネウスだ。それと私のことをおじさんとは呼ぶな」
「ファルーラって誰?」
その名を聞いた瞬間、ベルダネウスの表情が固まった。有り得ないことに遭遇したような、現状を把握できずに固まったような顔だ。
「知っているのね。ファルーラって、誰?」
彼はゆっくりと唇をかみ
「その精霊の槍の、前の持ち主だ」
やっぱりと言うようにルーラが頷いた。やはり、先ほど見たのは彼女の最後の記憶だったのだ。それは、彼女がもうこの世の人ではないことを意味する。
「おじさ……ベルダネウスさんの、恋人だったの?」
「ただのお節介な女だ。それより、遅くなったが、お前の新しい名前を言っておく。名前を考えるのがこんなに面倒くさいことだとは思わなかった。仕方ないので、昔読んだ物語から取る。やはり、主人公の女性がある事情から使った偽名だ」
「なに?」
「オーレリィ」
その名をルーラは何度も繰り返した。
「村に向けて出発したらお前のことはオーレリィと呼ぶから、お前自身もこの名前に馴染んでおけ」
「わかった」
なんだかはぐらかされたようだが、ルーラは気にせず槍を持って庭に走って行く。久しぶりに精霊たちと心を通わせたかった。
彼女を見送っていたベルダネウスは、静かに大きく息をつくと
「見てたのか」
振り返ると、ポラリスが立っていた。
「精霊の槍……持っていたのね」
「ええ」
「なんで渡したの?」
息苦しそうに彼女は責めるような口調を向けた。
「最初、あの子を村に連れて行くための条件をいろいろ出したとき、私はあなたがあの子を諦めさせるためにわざと苦しむようなことをしたと思ったわ。でも、あの子はそれを全て乗り越えた。裸にされるのも、髪を切られるのも。
すると、今度は逆にあの子の復讐を後押しするようなことをする。
精霊の槍。なぜあなたが持っているのかは聞きません。けど、なんで渡したの?! これであの子はもう後戻りできない。その気になれば、自分で村まで戻れる。
本当にあの子を助けたいなら、無理矢理にでも復讐を諦めさせるべきだったわ。どんな手を使っても。前は薬を使ってまでもここまで連れてきたじゃない」
「ポラリス……」
そんなことはわかっていると言うようにベルダネウスは息をつき
「私たちが無理矢理復讐を諦めさせても、ルーラの心を助けられない。彼女が自分から諦めてくれたらと思って、いろいろきつい条件を出したが、結果は知っての通りだ。
こうなったら方法はひとつしかない。実際に復讐させることだ。
ルーラは目の前で村人を殺され、家族を殺された。しかし、殺した奴らはそのことで罰せられないどころか、遺跡の研究結果によってはこの国の英雄になる。
それをほったらかしにしたまま、家族を殺した連中が讃えられるのを横目で見ながら幸せになれるのか?
自分から大切な物を奪った人が、そのことについて罰せられないことを受け入れるのが救いの道なのか?」
天井を見ながら淡々と話す彼の姿に、ポラリスは違和感を覚えた。彼は彼女にではなく、自分に話しているように思えたのだ。
「復讐を諦め、相手を許すには条件がある。
まずは相手が落ちぶれて惨めな姿をさらしていること。そして奪った本人達が悪いことをしたと認め、反省していることだ。
あれはしようが無かったとか、あいつらにだって問題があるんだといった、自分の罪を認めなかったり、できるだけ軽く見せようとしたら、その瞬間、許す気がなくなる。いかなる謝罪も、自分の罪を軽くするための手段にしか見えなくなる。むしろそんな上っ面をなぞるだけの謝罪で終わらせるのかと、よけい憎しみは大きくなる。
ルーラが復讐を諦めるには、奴らの破滅が絶対条件だ。
誰もあいつらの行いを悪いことだと言わず、罰することもしない。その限り、ルーラは幸せになれない。死ぬまで家族の死に様に心を縛られ続けるだろう」
「時間は? 時間は万能よ。何でも解決してくれるわ」
「一時忘れることが出来ても、何かであいつらの事を見聞きした瞬間、憎しみは甦る。
むしろ、時間が経った分、周囲の出来事はぼやけ、肝心の憎しみは鮮明になる。特定の出来事だけが強調された記憶は疑われ、信用されなくなる。相手が地位のある者ならばなおさらだ。
時間は被害者を守る以上に、加害者を守る。
味方は減り、絶望が大きくなる。それでいて、忘れることが出来ない。呪いみたいなものだ」
淡々と言いながらベルダネウスの目つきは険しくなっていく。
「一度この呪いに取り憑かれたら、助かる方法は1つしか無い。復讐を実行する。
復讐を止める人達はよく、そんなことをしても死んだ人達は喜ばないなんて言うが、冗談じゃない。復讐だの敵討ちなんてのは、殺された人達のためにするんじゃない。これから生きていく人が、未来に踏み出すために、過去に決着をつけるためにするんだ」
そういう彼の目と、あいつらを殺すと言い切ったルーラの目が重なった。
「あなた……あなたも? そのために村に戻るの?」
この問いにベルダネウスは答えなかった。
「私……あなたが怖い……」
そう言うと、逃げるように教会に駆けていく。
1人ぽつんと残された彼を慰めるようにグラッシェが鳴いた。
繁華街にある一件の安酒場。
周囲は戦場から解放されて一息ついた兵士たちや、しばらくは戦いの心配をしなくてもいい町の人々が、酒を酌み交わし、笑い、これからのことを大声で語り合っている。
そんな空気とは裏腹に、隅の席でベルダネウスは豆の皿と木のジョッキを前にうつろな目で壁によりかかっていた。
あなたが怖い。
酒で朦朧となった頭を、ポラリスの言葉が反芻する。それを振り払おうと彼はジョッキに残った酒を一気に飲んだ。
彼は酒が飲めない。ガインなら水も同然というこの薄い酒も、彼にとっては一杯で頭を重くし、心を鈍くする。あと一時間もすれば、ところ構わず胃の中のものをぶちまけることになるだろう。
それでも彼は酒を飲んだ。飲まずにはいられなかった。
とことん自分が嫌になった。
テーブルに突っ伏し目を閉じると、思い出したくない女の顔が浮かんだ。
お世辞にも美人とはいえない。そばかすだらけで短い赤毛。すべてを見透かすようで、肝心なことは何も見えていないような不思議な目。
(ザンはいい人だよ。ただ悪い子ぶってるだけ)
女は笑顔で語りかける。
(ザンはこれまでいっぱい人を苦しめたり、不幸にしてきたんだよね。だったら大丈夫。人を不幸にする方法をたくさん知っているってことは、幸せにする方法もたくさん知っているってことだよ。
だからなれるよ。自由商人ザン・ベルダネウス。目玉商品はちっちゃな幸せ)
「ファルーラ……」
知らないうちに、彼は女の名前をつぶやいていた。
「お前は……私を買いかぶりすぎた。小さな幸せ……私が扱うには大きすぎる……」
精霊の槍を構えるルーラの姿が浮かんだ。
おびえた顔で自分を見つめるポラリスの姿が浮かんだ。
「幸せを売ることなんか……」
そこへ
「おい、女房と娘はどうした?」
彼に数人の兵士が赤ら顔で近づいてきた。前に酒場で絡んできてはガインにぶっ飛ばされた連中だ。
ベルダネウスは言葉にする気も出ず、あっちへ行けとばかりに手を振った。
「何だその態度は」
言ってから兵士は慌てて周囲を見回した。もしかしたら自分たちをぶっ飛ばしたあの大男がいるかもと思ったらしい。だが、ガインの姿が見えないと
「おい、さっきの続きだ。ちょっと来い」
ベルダネウスの襟首をつかみ、無理矢理立たせた。
ラウネ教会にベルダネウスが運び込まれたのは、夜が更け、日付が変わった直後だった。
体中傷だらけ、顔はボコボコにされ、左目の傷がなければベルダネウスと気がつかないだろう。身ぐるみ剥がされパンツ1枚にされて、町外れのゴミ溜めに転がされていたらしい。
本格的な冬の到来はまだとはいえ、この時期にパンツ1枚で外に放り出されたら、間違いなく朝には冷たくなっていただろう。
「ラウネ教会へと言っていたので運んだんだけどよ」
謝礼に顔をほころばせて出て行く男を見送ると、カーンとガインはあきれ顔で彼を見下ろした。
彼の身体から漂う匂いにカーンは鼻をひくつかせ
「酒か。飲めん体のくせに」
「そう言うな爺さん。飲めない酒を飲まずにいられないときもあるさ」
そこへやってきたポラリスは、彼の姿を見て真っ青になった。
「何があったんですか?」
「説明は後じゃ。お湯とタオル、薬を用意してくれ」
ベルダネウスの部屋に運ばれ、ベッドに横たえる。お湯で傷口を洗い、薬を塗る。
「ルーラ嬢ちゃんは?」
「眠っています」
「寝かせてやれ」
薬を塗られ、全身包帯で巻かれたベルダネウスを前に
「よいしょっと」
首飾りを振るう。瞬時に数倍の長さに伸びたそれは、自ら意思があるようにベルダネウスの体に絡みついた。
「安心せい。こいつのしぶとさは超一流じゃ。頭の1つや2つ、つぶされたって死なん」
心配そうなポラリスを横に、カーンが目を細めた。首飾りの魔玉ひとつひとつが淡く光り始める。治癒魔導だ。
包帯の隙間からこぼれた痣が、みるみる消えていく。
「朝には普通に起きられるじゃろう」
傷を治していく力に身を委ねるように、ベルダネウスは静かに目を閉じていた。
その姿を、ただじっと見つめているポラリスは
(私のせい……)
静かに唇を噛みしめた。
夜明けに町が照らされていく中、大空をルーラが舞っていた。風の精霊たちに身を任せて空を飛ぶ。髪を切ったせいで、首筋を撫でる風が今までとは違う。髪がはためく感触がないし、引っ張られることもないので首が軽い。
精霊の槍を通して、精霊たちの声が聞こえる。彼女が驚いたのは、ここの精霊たちはだれもルーラを知らなかった。
ここの精霊たちは、村の精霊たちとは違うのだ。人間と同じだ。場所が変われば、そこにいる人は変わる。呼び方は同じ「人」であっても。
それでも、精霊たちはルーラを歓迎した。自分たちと心を通わせられる人間は珍しい。精霊たちは彼女に興味を持ってきた。
ルーラも精霊たちとの思いの会話を楽しんでいた。同じ風の精霊でも、山の風と町の風とは違っていた。町の風は人間達に馴染んでいる。この土地に1番影響を与える生き物が人間なのだから当然だ。
風に舞った後、ルーラは町の隅の森に行き、土や木々の精霊と会話した。川に行っては水の精霊に挨拶した。暗がりに寝そべる闇の精霊に、月明かりの中に潜む光の精霊に微笑みかけた。
一通り町を回った後、彼女は元の馬車の前に下りた。含み笑いの中、大きく息をつく。久しぶりの開放感だ。
「オーレリィ」
最初、それが自分を呼ぶ声だとわからなかった。ベルダネウスがつけた自分の偽名であることを思いだし、そちらを向くと痣だらけの顔をした彼が立っていた。
「おじ、ベルダネウスさん」
緊張した声で姿勢を正す。
「その顔は?」
「気にするな。今日明日中にはほとんど治る」
事実、夜にここに運び込まれた時に比べると、顔の痣や腫れはかなり引いていた。
「出発は明日の朝だ。それまでに覚悟を決めておけ。やめるなら今日中だ」
「やめない」
きっぱり言い放ち、彼を見据え
「ひとつ、良い方法を考えた。あいつらまとめてやっつけられる」
「そんな方法があるのか? どうするんだ」
さすがにルーラも躊躇したが、精霊の槍を握りしめ
「大地の精霊にお願いして……村をまるごと落としてあの遺跡を埋める。あそこにいる連中、みんな生き埋めにする!」
ベルダネウスの表情が固まった。彼もそこまでは考えていなかった。
「それは思い切った手だ。外にいた人はいた場所によっては助かるかも知れない。飛行魔導が出来る魔導師ならば、空に逃げられるかも知れない。だが、地下遺跡にいる連中は確実に葬れる。
しかし、それは」
虐殺という言葉を飲み込み
「ほとんど大地震、天変地異級だ。そんなことが出来るのか?」
「わからない。実際にお願いしてみないと」
そういう彼女の目は真剣そのもの。大地の精霊が受け入れるかどうかはともかく、お願いする気なのだ。
「わかった。村の女性達はまだ殺されていないかも知れない。いきなり落としたら彼女たちも巻き添えになる。勝手に出来ると決めつけて動いて、いざとなったら精霊に断られたなんてことになったら大変だ。
まずは大地の精霊にそれをしてくれるかどうかを確認しろ。ダメならそれまで。出来るなら後はそれをするタイミングだ。いいな」
力を込めて彼女を説得する。彼女が口にした方法はさすがの彼も実行をためらった。
「わかった。村に入る前に聞いてみる」
うなずく彼女の視線が動いた。それに気がついたベルダネウスが振り返ると、建物の通用口にポラリスが青ざめて立っていた。
「聞いていたのか」
「ルーラ。あなた、なんて恐ろしいことを考えるの? 村を落として、みんなを生き埋めにしようなんて」
「ポラリスさん。あたし決めたの。あいつらをやっつけるためなら、何だってやってやる」
その目にポラリスの方が気圧された。後ずさり、逃げるように教会に駆け込んでいく。
入れ替わりにガインが出てくる。ルーラに朝の槍稽古をつけるためだ。
「どうした。朝から夫婦喧嘩か」
「……お互い、どうしても受け入れられないところが見えたというだけです」
「あほか。お互いの違いを楽しまなきゃ、夫婦なんてやってられねえ。それが出来なきゃ、俺みたいになるだけだ」
ルーラと向き合い、長戦斧を構える。
「おじさん、結婚していたんですか?」
「ああ。いい女なんだが、ある日、生まれたばかりのガキを連れていなくなっちまった。それっきりだ」
笑顔が引き締まり、ルーラに長戦斧を振るう!
今日の稽古が始まった。
「失礼します」
ベルダネウスが執務室に入ると、ラジィカルの他にソファに小男が座っていた。その後ろには彼を守るように一目で護衛とわかる2人の男が立っている。
小男の顔を見た途端、ベルダネウスの顔が緊張したが、それを悟られまいと笑顔を作り
「バーガン様」
「私を知っているのか?」
小男は座ったままベルダネウスを見据えた。
「以前、アクティブでお顔を拝見したことがございます」
「ならば私の用件も知っているな。サンクリス村に行くときは私も同行する」
ベルダネウスは意外そうに
「それはかまいませんが。とっくに村に向かったと思っていました」
「国境の小競り合いに巻き込まれて馬車が壊れた。お前の馬車を使わせてもらうぞ」
「馬車など国に命じれば、いくらでも調達できるのでは?」
「準備が整うまでは、あまりことを大きくしたくない。物わかりの良い奴ばかりではないからな」
「寂れたところを数台の馬車は却って目立つのでは」
「ちまちま分けていくより良いだろう。道案内も頼むぞ。私らは行くのは初めてだ」
一方的に決められると、準備があるからとさっさと出て行った。
「ラジィカル様……彼らがどういう人なのかご存じなんですか?」
「わかっている」
ならばこれ以上話をする気はないとばかりに、ベルダネウスは部屋を出た。廊下の窓から、バーガンが馬車に乗り込むのが見えた。小型だが頑丈な軍用馬車だ。
「バーガン……」
ベルダネウスの口元がゆがみ、
(嬉しい誤算だ……この機会、逃がさん……)
両の手の指を固く曲げて絡みつかせる。まるで見えない首を絞めるように。
部屋でポラリスは1人頭を抱えていた。
何をして良いのか、何をしたら良いのかわからない。逃げだそうにも、どこに、どうやって行けば良いのか?
遠くに逃げたとしても、それからどうやって生きていく?
(ルーラもあの人も、どうして村に戻るの? 逃げればいいじゃない)
それでもルーラの気持ちはまだわかる。でもベルダネウスは? 最初はルーラを諦めさせる側だったのに、今はすっかり彼女に復讐を遂げさせる気になっている。
まるで自分が分からず屋の悪者のようだ。
(違う……)
彼女は静かに首を横に振る。2人が自分と一緒にならないのが寂しいのだ。
このままラジィカルの紹介で他国のラウネ教会まで行き、落ち着いたら食べられるだけの収入が得られる適当な仕事を見つける。
最初自分で考えていた予定通りだ。本来ならもっとホッとしていいはずだ。
なのに、どうしてこんなに怖いのだろう。ベルダネウスがではない。今のままの自分が怖い。何も出来ないのに、何もしないでいることが怖い。
自分で自分を抱きしめる。それほど寒くはないのに寒い。
ドアがノックされる音で、彼女の意識が引き戻された。
「どうぞ」
入ってきたのはベルダネウスだった。その目は何か吹っ切れたように見えた。
「ポラリス、私たちは明日出発する。そこで1つ頼みがある」
一瞬、彼女の胸に期待が生まれた。
「私たちが出発しても、数日はカーンさんたちと一緒にここに留まってほしい。そしてルーラが1人だけで戻ったら、すぐに彼女と一緒に戦東群国から逃げ出すんだ。ラジィカルたちのことはほっといて良い」
彼女の返事も待たず、彼は紙を2枚取り出した。
「戦東群国を出たら、そこのサークラー教会にこれを持って行って現金に換えるんだ」
その紙はベルダネウスの財産預かり状と、財産受け取りの委任状だ。委任状にはすでに彼のサインと拇印がしてある。金額は50万ディル。
自由商人達は、まとまった現金はサークラー教会に預けるのが普通である。預かり料は取られるが、現金のまま持ち歩くよりもずっと安全だ。
「それだけあればしばらく暮らせる。その間に仕事を探せば良い。何ならカーンさんの店で雇ってもらえ」
「どうして私に?」
「夫に何かあったら、妻が財産を相続するのは当たり前だろう」
静かな笑みに、彼女の背筋がぞくりとした。
「私が……あなたが出発してすぐこれを持って逃げたら?」
震えた声で言うのに、ベルダネウスは仕方がないと肩を落とし
「そうなったら仕方ない。手切れ金と割り切るさ。村に行けばスラフスティックから残金がもらえる。それを元手にやり直すさ。その代わり、逃げても1つだけ約束して欲しい」
「何ですか?」
「幸せになれ」
一礼してあげた顔は照れくさそうに笑っていた。
彼が出ていった後、ポラリスは1人むせび泣いた。
(なんで……なんで一緒に村に戻ろうって言ってくれないの……)
(つづく)