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Regina  作者: 甲斐桂
第1章 恩義という名の剣を掲げて
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第7話 欺瞞

お断り: 扱う題材と一部描写の関係で、念のためR15に指定しています。ほとんど描写はありませんので、そちらに期待される方はご注意ください。

 ――それで、カイはどこの誰なんだろう。それがわからないことには、結婚なんかできない。

 もはや無駄なものとなった士官学院の授業を終え、月佳は中央広場に走った。

 右の頬には湿布が貼られている。朝になってみると、昨夜にまして腫れていた。引越しの準備を終えたディアークは、最後まで月佳を心配して、湿布も彼が貼ってくれたのだった。

 結婚の話を伝えると、どこかさびしそうな顔をしたが、そのあとで祝福してくれた。月佳様のいない白鳥城は少し残念ですが、貴女が幸せになれる道を選んだのなら僕にとっても幸いです――と言い残し、ヘイゼルグラント家を去った。見送ったのは月佳ひとりである。

 今日からは、ディアークがそばにいることはめったになくなるだろう。でも、カイがいるのだ。さみしくはなかった。

「月佳!」

 元気に少女の名を呼んだカイも、あちこちに包帯が巻かれている。もちろん月佳との決闘の跡だ。そんな少年の姿を見て罪悪感がよみがえったが、カイのほうは少しも気にしていない様子で、月佳に近づくなりキスをした。おかげでタイミングを逃し、けがのことをもう一度謝ろうにも謝れなくなった月佳は、なんでカイはいちいちこういう、と、はにかむ。

「おまえを自分のものにしたことを実感するためだ」

 月佳は苦笑しながら、今日いちばんの知らせを彼の耳に入れる。

「お義父上がお許しくださったわ。六日後の誕生日には成人する。そしたらカイのお家に入るね」

 カイは満足そうに笑って、頬の湿布に触れた。痛いから触らないでよ、と冗談まじりに月佳は言う。

「だけど、カイはどこの家の人なのかとか、そろそろ教えてくれてもいいよね」

 すると、カイは一瞬、考える姿勢になった。

「えーと……それは、まだダメだ」

「なんで? じゃあ結婚なんて話にならないじゃない」

「俺は元服がまだなんだ。だから、どっちにしろ結婚はそのあとで……とうぶん先の話になる」

「元服まだのくせに第二夫人まで決定してるあたり変な家ね。だいたいカイ、このあいだの競技大会に出てたじゃない。元服してないなんて、嘘でしょう」

 カイの言いぶんが曖昧だったので、月佳は疑わしげに彼を見た。一度した誓いを破って決めた成人と結婚をさらに破るなんてことは、したくないのだ。

「競技大会、おまえ見てたのか! よく無事だったな」

「ディアークのお師匠様に付き添ってもらったの。アルバイン将軍っていうんだけど、有名だし知ってるよね。で、どうやって元服もしてないのに出場したの?」

 月佳はとことん追及する。こうしていると、浮気者の男を問いつめている気分で、われながら嫌気がさしてきた。しかし、そういうことではない。月佳は悔しかったのだ。本当は、自分だって大会には出たかった――ところが、元服がすんでいなかったからあきらめた。その条件のためにあきらめたのに、条件を無視して出場した者がいるとわかれば悔しいに決まっている。

「金だよ金。ウチの家、金だけはあるからな」

 カイは飄々と言ってのけた。が、カイの言い分には矛盾がある。先日カイは、親父はない金を使う、といったのである。それが、今日は金があふれんばかりにあるような口ぶりだ。

「わたしをだますような人とは結婚できないけど?」

 月佳は半ばカイを脅した。少年もとたんに焦りだして、

「ごめん」

 と、謝った。「だますつもりはないけど、今は家のことは言えない。すべては月佳が成人して俺が元服してからってことになるが、それじゃダメか。それとも、決闘をなかったことにするのか?」

「それはできないけど……どうして言えないの。言えないほど卑しい身分だというの?」

「そうじゃない。月佳を家に迎えたら、この世のどんな女より幸福にすると誓える。だから今は、細かいことは気にしないでくれ」

 そう言うと、カイはもういちど口づけを落とした。月佳は腑に落ちない。むしろ腹が立つ。月佳は、唇で触れられたところをこれみよがしに手で拭った。

 ――何を隠してるの?

 月佳にはさっぱりわからない。

 ディアークがアルバイン邸に越したのは今朝方のことである。もう当分は会わないだろうと思った。

 それにもかかわらず、月佳はいまアルバイン邸に来ている。門前で多少躊躇した。それでも、ディアークに会いたいという気持ちは変わらなかった。月佳は門扉を叩く。

 門下生が現れ、月佳をディアークの部屋に案内した。ディアークは留守だった。アルバインとともに、挨拶まわりの最中だという。月佳は彼にあてがわれた部屋を見た。きちんと掃除された広い部屋。清潔感のある寝台、ビロードの天蓋。ヘイゼルグラント家の彼の部屋とは全然ちがう。まさしく彼が自分と同じ身分になったことの証だった。

 月佳はうれしかった。彼はもう、桂月によってひどい目に遭うことはないのだ。月佳は寝台に寄ると、床に座りこんだ。そうして、いたずらに過ごすうち、月佳はそのまま眠りについてしまった。

「月佳様、月佳様」

 揺り動かされて、彼女は目覚めた。窓を見れば、とうに日は沈んでいた。アルバインがディアークとともにいて、月佳を眺めている。

「アルバイン将軍! すみません、わたし、とんだ醜態を……。あ、ディアーク。もう、わたしとあなたは対等なんだから、敬語はダメだよ、敬語は」

 ディアークはやわらかく微笑む。

「いえ、貴女は一生、僕の恩人ですから」

 アルバインの微笑みもやさしい。髪の色などの特徴はちがえど、ディアークと本当の父子といわれれば、信じられそうだった。

「ディアーク、ごめんなさい。何の予告もなしに来てしまって。わたし、すっかりディアークに甘えるくせがついてしまって」

「かまいません。月佳様がいらしてくださって、僕はうれしいです」

 いつでもディアークはやさしい。月佳はまだためらったが、思いきって口をひらいた。

「あのねディアーク。カイがね、誰なのかわからないの。わたしが成人して、カイが元服するまでは教えられない、とか言って教えてくれない。どうしてだと思う?」

 ディアークは首を傾げる。月佳も、彼が知っているわけがないことはわかっている。ただ彼にやさしい言葉で慰めてほしいだけなのだ。

「カイとは?」

 一方のアルバインは、ディアークや月佳よりも世情などに詳しいので、何か知っている可能性もありそうだった。そこで月佳は、アルバインが、カイを皇帝に推挙する、と競技大会の席で離していたことを思いだす。そのときカイが名のった名は、カイ・シーモア。

「競技大会を覚えておいでですよね。あのときのカイ・シーモア。わたしは、彼に結婚を申しこまれて、それを賭けて決闘をして、負けたのでそれを受けました。彼の第二夫人になるんです」

 その一瞬の、六将軍が一人アルバインの顔を月佳は永遠に忘れないだろう。一瞬にして将軍の顔は蒼白になった。だから月佳は、即座に、彼を知っていますね、と問いただす。アルバインはなんとか冷静さを取り戻すと、尋ねた。

「月佳嬢、そのカイ・シーモアとはどうやって知りあったのです」

 月佳はこれまでの経緯をかいつまんで説明した。アルバインは厳格な表情を崩すことなく聞いていた。が、月佳が語り終えて再び問いかけると、将軍は返答に迷っている様子である。

「彼は誰なんですか? 将軍はご存じなんですよね」

「いや――人ちがいだったようだ」

 アルバインは明らかに逃げていた。そう言い捨てるとディアークの部屋をあとにし、でかけてしまった。

「いったい何者なんでしょう、カイ様は……」

 ディアークと月佳は顔を見あわせる。

 その後、月佳はアルバイン家の長男に招かれてディアークと食事をともにし、ディアークがあっさり倒してしまったアルバイン家の長男という人が、今後ディアークに辛辣にあたるであろう様子がないのを見て安心すると、帰宅した。

 武術も学問もからっきしだと将軍がいっていたその人は、なんと吟遊詩人になるつもりらしい。そのために、家督をディアークに押しつけるのだと軽快に語った。そこはアルバイン将軍に似て、気の好い人であった。彼の名を、フェルディナンド・アルバインという。

 帰宅して床についた月佳は、アルバイン将軍の態度がひたすらに気がかりであった。

 ロガート・アルバインは白鳥城に馬を走らせた。

 到着すると、皇太子に面会を申しこむ。通常、事前の約束なしに皇太子と将軍が会うことなど許されないが、現皇太子は奔放な性格であり、宮廷社会の細かい掟など気にかけない。とくにアルバインは皇太子の寵を受けているから、事前の約束なしに面会するのはたやすいことである。

 アルバインは小さな客室に通された。しばらくして軽装の――というよりもぼろをまとっているといったほうがよい――皇太子が、勢いよく扉を開けて部屋に入ってきた。

「なんだ、アルバイン。こんな時間に何か用か」

 少年はつかつかと歩み寄り、アルバインと同じ長椅子に腰をおろした。彼にとって、身分の上下は果てしなく興味の外で、席の上下など考えもしない。アルバインは全速力で馬を駆けさせたので、まだ肩で息をしていた。皇太子が隣に座ったので、将軍は息を整えた。

「月佳・フェランドゥ・ヘイゼルグラント嬢の件ですが」

 まどろっこしい挨拶を嫌う少年に合わせて、アルバインも単刀直入にいう。

 皇太子は、その名を聞いて明らかに狼狽した。将軍はそれで、自分の想像を確信に変えた。

「貴男は偽名で棕櫚嬢の妹君と知り合われ、懇意になられた。そして月佳嬢を偽り、姉妹で侍らすおつもりだ。月佳嬢は姉思いの方と聞いておりますので、よもや姉妹を娶ると聞いて結婚を承諾するはずがない」

 アルバインは一気に最後まで述べた。

 皇太子はすでに狼狽の色を消しており、

「悪いか」

 と、冷ややかに返した。

「文句をいえる立場ではございませんが……これでは、月佳嬢も棕櫚嬢も哀れです。二人とも貴男を好いております。それなのに、貴男は」

「俺だって本当は月佳だけを娶りたい。が、ここまできて棕櫚嬢との結婚をとりやめられるか? いや、できまいな。彼女に大恥をかかせることにもなるし、桂月師もさぞかしお怒りになるだろう。だいたいにして、棕櫚嬢との結婚をやめれば、彼女をお気に召している親父殿の機嫌を損ね、悪ければ廃嫡だ。今、俺以外に皇帝にふさわしい皇子がいるか、アルバイン?」

 アルバインは頭を抱えた。行きつく問題はそこなのだ。

 イフィーズ八世の第二妃以下の夫人たち、側室たちは、正妃セシリアに比べると身分で劣る。セシリアがマディナ王国の王姉――本名はセシリア・シーモア・ド・マディナ――であるのに対し、ほかの夫人たちはせいぜいメーヴェの伯爵家や子爵家の令嬢といったところである。外国王家の直系と国内貴族では比較にならない。しかも、それら身分卑しき夫人たちは、どうも愚かな性質をもつ傾向にある。

 皇帝の子を身籠って産むと、ばかのようにかわいがるのである。のちに彼が皇帝になる可能性を夢みて、わが子をさんざんに甘やかす。結果、愚にもつかないわがまま皇子がひとり増えることになる。その点、セシリアは賢母であった。二人の子を、厳しくも愛情を注いで育てた。第一皇子カイザールディオンも第三皇女カナンヴィリアも、聡明で誇り高い少年少女に育った。

 カイザールディオンのほかの皇子は、イフィーズ八世にそっくりな、わがままで自らの欲望には忠実な、愚かな少年たちばかり。

「……いいえ」

 アルバインは観念した。そうであろう、当然だ、と言わんばかりに皇太子はうなずいた。

「やつらのうちの誰かが皇位につけば、永久に戦争は終わらない。そうだよなアルバイン」

「仰せのとおりです」

「俺は廃嫡されるわけにはいかない。棕櫚嬢は娶らなければならない。好きなのは月佳だ。あきらめるのは嫌いだ。だから、月佳をだましとおさねばならない。よく肝に銘じておけ、アルバイン。いいな」

 少年は将軍にむかって言い捨てると、部屋を出た。

 残されたアルバインは心を痛めた。自分もあの少女を欺くのに共謀するのである。あの少女の信頼を受けているのに、それを裏切ると思うと心が痛む。

 アルバインは自宅に帰った。すでに月佳の姿はなく、実子フェルディナンドと養子ディアークがすっかり意気投合した様子で父を迎えた。今日からわが子となったディアーク、彼をも欺かねば月佳は欺けぬ、そう考えるとますます気が滅入る。しかし皇太子の気持ちもわかる。アルバインはやるせない気分だった。

 翌日の月佳は、カイには会いにいかない。

 この日は学院も休みである。彼女は一日じゅう家にいた。家で義姉・棕櫚の結婚じたくをぼんやり眺めている。結婚式はパリリアから二週間後、月佳の成人から一週間後に執り行われることになっていた。棕櫚はヘイゼルグラント邸を去り、皇太子の後宮に入る。さぞかしこの家はさびしくなることだろう、と月佳は思った。自分も成人したあとにはカイとの結婚が待っているのだが、どうも実感がなかった。自分だけはいつまでもこの家にとどまっているような気さえする。

 皇室から、棕櫚のために仕立てられた花嫁衣装が届いた。棕櫚に似合う純白の絹の衣。シンプルですらっとした形のドレスの裾には、手のこんだ刺繍が施されており、たいへん美しい。棕櫚はそれを着て皇城へ赴く。自分はどこへ行くのだろう。何を身に着けてカイのもとに行くのだろう。

 棕櫚はドレスに袖を通した。針子たちがサイズを見ている。ウエストが余ったので、待ち針をとめていた。

「月佳、見て頂戴、似合うかしら」

 義姉は踊るような足どりで、スカートをふわりと浮かせてみせる。棕櫚の幸せもここに極まった感があった。頬はすっかり紅潮している。パリリアの晩餐以来、彼女の興奮はやまない。

「よくお似合いです、お義姉様」

 思案に暮れている月佳は、よく見もせずに口だけ動かした。

「よく見なさいな、月佳」

 棕櫚は月佳のあごを持ちあげた。月佳の視線が、強制的にだが棕櫚へと向かう。棕櫚は豊かな髪を上げていた。棕櫚は輪郭の形がよいので、上げた髪がよく似合う。体型を際立たせるドレスも、棕櫚にはまったく問題はない。黒い髪と黒い瞳と白磁の肌と純白のドレスの対照は美しく、月佳の目にも映えた。

「大変お似合いです、お義姉様」

「よろしい」

 棕櫚はにっこり笑って月佳を放すと、サイズ合わせに戻った。

 同じ結婚でも、お義姉様はすべてを皇室に委ねてあんなに幸せそうなのに。どうしてわたしの結婚はこんなに不安になってしまったのかな、と月佳は思う。カイが悪い、全部カイが悪いの――それなのに、カイは当分この不安のなかにいろという。

「月佳」

 棕櫚は部屋着に着替えていた。針子たちはせっせと針を動かしている。

「どうしたの? 月佳も結婚するのでしょう? そんなに不機嫌そうな顔をしていては、だめよ」

 でもお義姉様……、と言いかけてから、月佳は言葉を飲みこんだ。幸せな人間に不幸な話をもちかけても、みじめになるだけだ。

「なんでもないです。ご心配にはおよびません」

「そうなの?」

 棕櫚はそれ以上、何もいわなかった。「じゃあ、お話の相手になって頂戴、月佳。衣装の支度もあとは針子たちの仕事だし、皇城に行くお支度も女中たちがしてくれるから、私は退屈でしょうがないの。ねえ、いいでしょう?」

「ええ、お義姉様」

 月佳はもやもやとしたものを振り払い、義姉に微笑んだ。それだけのことが、今の月佳には大変な苦汁だった。

 ――全部、カイが悪い。

 月佳は何もかもをカイに帰し、棕櫚が話を終えるやいなや、家を出た。向かう先は、エトルリア中央広場である。

 広場にカイはいない。会ったらなじってやろうと思っていたのに。月佳は出ばなをくじかれた気分だった。日が暮れかけている。

(嘘つき。大嫌い。最低。カイなんか)

 頭のなかでさんざんにののしった。それから、ふと、空しくなる。

 ――決闘なんか、しなければよかった。

 こんなに激しく後悔したのは生まれて初めてだった。また、人生を頼りにならないものに委ねることも初めてなのだ、とも思う。これまでは義父・桂月のてのひらの上で、与えられたものを享受していればよかった。けれど、もはや義父は人生の支えとすべき存在ではない。

(お義父上には、もう結婚すると言いきってしまった。今さら不安でたまらないなんて言えない。棕櫚義姉様にはわたしの不幸がわからない。自分が幸せだから。家に帰りたくない。約束もしてないのにカイを待って、こんなところに突っ立っているのも嫌。だけど、ディアークのところに入りびたるのは迷惑だ)

 月佳は自分の穴を埋めてくれる人を思い描いた。現状では、それはディアークしかいない。本当は、カイが自分を迎えにきてくれれば、それがいちばんよかった。しかしそれも、当分は不可能だという。

 月佳は、がらんとした、人のいない広場に座りこんだ。地面はとても冷たい。パリリアには舞踊団のテントで大にぎわいだったのに、終わったとたんにわびしい光景になってしまった。

「……エルテナ」

 月佳は思いだしたように名前をつぶやく。マディナの富豪に買われていった幼い少年の名。

 手を見る。あの日、少年と共有した温度。あの温度がもう一度ほしい。あの子がいま目の前にいたなら、この穴は塞がったのだろうか。

 月佳は、自分が人ばかりあてにしていることに気づいた。そばに誰かがいないと満たされない。それも、確かな感情を自分に対してもつ、誰かだ。つまりは身勝手なのである。多くの人に自分を愛してほしいと思っているけれど、自分は相手に注がれているだけの愛を返さない。

 ディアークがよい例だ。彼は忠節以上に尽くしてくれるが、月佳は同じだけのものを彼に感じていない。棕櫚にしても、これまでは外の世界といえば月佳と父親だけであった。だから月佳に外の話を乞うた。月佳だけに。月佳ひとりに注がれた、棕櫚の憧れ。月佳は実のところ、多少以上の優越感をもって彼女に話をしていた。彼女には自分しかいない。だから自分が、満足いくまで話をしてさしあげよう、と。エルテナも、カイも、同じ気がする。自分は相手に何も与えず、相手が何かくれるのを待っていた。

 カイが自分にすべて与えてくれるのを待っている。彼の愛情も、すばらしい身分も、美しい花嫁衣装も。

 ――自分こそ、最低だ。

 月佳は自嘲した。わかったところで、何も行動に踏みだせない自分がいる。

「……情けない」

 彼女のつぶやきは、冬の強風に呑みこまれていく。

 月佳は広場の中央にうずくまっている。傍目には、急病人のようにも見えた。

 広場に面した屋敷に逗留するマディナ商人の息子、少年マルクトもそう思った。マルクトは、ピアノの鍵盤を叩く手を休めて窓から外を見たとき、青銀髪の少女をみつけた。

 それは、彼が見たことのない色であったので、

「母さん」

 思わず、かたわらで彼のピアノに耳を傾けていた母親に、それを指さして尋ねた。母親は、ピアノ狂いの息子が演奏を中断してまで興味を示したものは何かと立ちあがり、その的である青銀の少女を見ると、

「あら、珍しい。メーヴェにもツィリマハイラ人なんていたのね」

 と、つぶやいた。

「マルクトは、青銀髪の人に会うのは初めてだったかしら?」

「うん」

 すごくきれいなんだね、という言葉は、母親の手前、気恥ずかしかったので呑みこんだ。

「あの子どうしたのかな……おなかでも痛いのかな」

「気になるなら、つれてらっしゃい。そう卑しい子でもないみたいだし」

 母親は微笑んだ。マルクトは顔を紅潮させ、部屋を飛びだしていった。年頃の少年らしい、照れを含んだ足音が家に響く。せっかくの仕官の話も断るの一点ばりで、まったく興味を示さなかったくせに、呆れた子、と。母親はそれでも、わが子の多才が誇らしかった。鍵盤の上で軽やかに動く指も、かの英雄・桂月に師事しているメーヴェ皇太子と引き分けた剣術も。ただ、剣とピアノ以外に好奇心を示さないのが心配だった。しかし、今日は初めて他のものに興味をみせたのだ。

 たとえそれが、メーヴェと敵対している、すなわちメーヴェと親交の厚いマディナとも敵対している国の血統の少女でも、彼が心を動かしたということが、彼女にとっては重要だった。母は、これから息子がつれてくる少女のためにと、女中に頼めばよいものを、みずから茶をいれに腰を上げた。

 夕陽を浴びて朱色に染まった金髪を揺らし、少年はうずくまる少女のもとに走った。少年は同じ年頃の女の子に接したことがなかったので戸惑った。彼は男兄弟しかおらず、学校も男子校だった。けれど、しばしの逡巡のあと、思いきって、

「大丈夫?」

「大丈夫。おなかが痛いわけでもなんでもないの。心配は無用よ」

 少女は顔もあげずに答えた。

「じゃあどうしてうずくまってるの? 落ちこんでるの? ねえ、この時期にこんなところにいつまでもいたら寒いよね?」

 少女は、いきなりやってきた彼を疎ましく思っているようだった。

 家に帰ったらいいのに、と彼はつぶやいた。こんなところに長々といるからには、家に帰りたがっていないのは明らかだ。思ったとおり、少女は家には帰りたくない、といった。間をあけず、だけど頼れる人に頼るのはいけないの、頼るべき人はよくわからないからだめ、とひとりごちる。マルクトには言っている意味が理解できなかったが、ともかく彼女が家に帰りたくないのは確かなのだ。

「じゃあ、僕の家においでよ」

 マルクトの言葉に、少女はようやく面をあげた。が、なぜか彼女の顔は、少年を見るなりこわばった。あいた口が塞がらない、という風情だ。マルクトはいぶかしんだ。しかし少女は、彼がこれまでに見たことがないほど愛らしかった。

「あ……貴男は……! どうして、このようなところにいらっしゃるのですか?」

 月佳は落ちこんでいたのも忘れて叫んだ。

 彼女は覚えている。自分に話しかけているこの少年を。マルクト・ハーディヴァ。競技大会でカイと対戦した、おそらく皇太子であろうと月佳が推測した少年である。推測というよりも、彼女は確信していた。あの気品、義姉好みのさわやかな容姿、自分と同じくらいの身長、年齢。

「なんで敬語つかうの……?」

 少年はわけがわからない様子だった。自分の顔を見るなり少女が態度を豹変させた、その理由をはかりかねていた。

「だって、貴男は」

 皇太子殿下でいらっしゃる。叫びそうになって、月佳は自分の口をふさいだ。

「いえ、あの、ありがたくお招きにあずかります」

 マルクト・ハーディヴァの屋敷に誘われるがままに入ると、月佳はまず、様子がおかしいのに気づいた。その屋敷がメーヴェ皇室のものであれば、屋内の装飾はまちがいなくメーヴェ風であるはずだ。それなのに、装飾はマディナ風に徹している。改めて少年を見ると、服装もマディナ風で、しかも商人趣味の豪奢な衣装である。仮にも皇室の伝統というものを守ってきたはずのメーヴェ皇室が、これではおかしい。彼女はようやく誤解に気づいた。マルクト・ハーディヴァはメーヴェ皇太子ではないのだ。おそらくはマディナの豪商の息子である。

「ひょっとしてマディナの人?」

 月佳は尋ねた。

「うん、やっぱりわかる? わかるよね、これだけマディナづくしならさ」

 ――じゃあ、皇太子は誰だったのだろう。

 彼女はもういちど考えてみる。あのとき参加していた選手のなかで、十二歳から十四歳くらいの年頃、さわやかな容貌で、皇太子の品格をもつ少年など他にいただろうか。記憶の限りでは、その年頃の少年など、カイとマルクト・ハーディヴァしかいなかった。

 そうなると、皇太子とは? 月佳は、自分がとんでもない結論に達しそうになるのを制した。そんなはずがない。

 マルクトに誘われて彼女は一室に入った。ここもやはり金持ち趣味の豪奢な造りで、部屋の中心を漆黒のピアノが占めている。棕櫚もピアノを弾くが、こんなに美しいピアノはヘイゼルグラント家にはない。ずいぶん羽振りのよい商家らしかった。

「あなたが弾くの?」

 すっかり緊張を解いた月佳は尋ねる。

「うん。ね、聴きたい? 聴きたい?」

 聴かせたくてしょうがない少年の笑顔である。この少年は好きになれそうだ、と思いながら、聴かせて、と言った。

 マルクトは、わかった、とうれしげに答えると、ピアノ椅子に座った。それから、満面に笑みをたたえて、少年は指を走らせはじめた。明るく、心弾む曲である。それは歌曲で、数年前、メーヴェでは知らない者がないほど流行した。月佳も、もちろん知っている。歌ってよ、とマルクトは言った。月佳は少し照れくさかったが、頼まれなくとも歌いだしてしまいそうな楽しげな音色には敵わない。月佳はその歌を口ずさんだ。


 どこまでも続く流れがあり、私はそのせせらぎに舞い落ちた花弁だった

 遠く、流れの果つる地に思いを馳せ、それに身をまかせる花弁だった

 けれど流れは果つることを知らず、花弁は流れに流れるだけ――永遠の清流に


 誰が歌いだした歌なのかは知られていない。しかし、濁流でもがいているような現状から逃避した、明るいような、あるいは世情を皮肉ったような歌は、爆発的に流行したのだった。

 月佳はこの曲が好きだったが、詩は好きではなかった。逃げることは罪だと思っているからだ。逃げずに現状を打破しなければならないのに、逃げてばかりで何も現状を変えられないなんて、卑怯なことだと思う。

「この曲は好き。でも、歌詞は嫌いだな」

 歌い終わってから月佳はマルクトに言った。

「それは僕もそうだよ。僕はね、ピアノの音そのものが他のどの音よりも好きだから歌は要らないんだ。でも、君の声はきれいだね。たまに外してたけど」

 月佳は苦笑する。それから、あまり歌って歌わないの、と言いわけした。

「わたしの学校では歌なんてやらないの。たまにわたしのお義姉様がピアノを弾くから、それに合わせて歌うんだけど、月に一度もないな」

「女の子なのに歌の授業がないなんて変なの」

「わたしは男の子の学校に行ってるの。エトルリア士官学院って知ってる?」

 マルクトはひどく驚いた。

「なんで……? 士官学院って、仕官するためにあるんだよね」

「もともとは仕官するはずだったの。お義父様の望みだったから。それと、お義姉様のために。でも、最近、士官学院に行った意味がなくなっちゃった。わたし結婚が決まったの。本当は元服して男の子になるはずだったんだけど、いろいろあって。結局、女の子になって嫁ぐことになったの」

「そうなんだ……」

 少年の表情から光が消えたようだった。自分に好意でも抱いていたのかもしれない、と月佳は思う。けれど、彼女は少年にそういう関心はもたなかった。月佳の心はカイが占めていたのである。

「そうだ、名前は何ていうの?」

 マルクトは気をとりなおしたように言う。

「わたしは月佳。よろしくね、マルクト」

 少年は、名のってもいないのに名前を呼ばれたことでまた驚いた。月佳は競技大会のことを話す。マルクトは月佳の名にある月の文字を指摘し、彼女がヘイゼルグラント家の跡とりであることを言いあてた。

「そうだ、ねえマルクト。競技大会で気になることがあったんだけど……」

「なに?」

「わたしのお義姉様は、こんど皇太子殿下に嫁がれるのよ。それで、その皇太子が、お忍びで何度かお義姉様に会いにこられてるの。そのとき、殿下も競技大会に出場するんだと、お義姉様におっしゃったそうなのよ。それで、わたしは見てきてと頼まれたんだけど、結局どの方が皇太子殿下なのかわからなかったのよね。じつは、ついさっきまでマルクトが皇太子なんだと思ってた」

 それから、その理由をすべて話す。月佳のスケールの大きい勘ちがいぶりを、マルクトは遠慮なく笑いとばした。マディナの格好をしている僕をメーヴェ皇太子とまちがえるなんて、と。

「でも、月佳がわからなかったのも無理ないよ。皇太子は、ひどいぼろをまとっていらっしゃったから。まるでスラムの住人みたいでね。まさか皇太子が、あんな格好で大衆のまえに出てくるなんて、誰も思わないよ」

「そう……で、どの人が?」

 月佳はなかば興奮して尋ねる。

「僕とも対戦なさったよ。強かったなあ」

「ああもう、じらさないで教えてよ!」

 少年はさも愉快そうに、その名を言った。

「カイ・シーモア」

 マルクトのピアノ室の扉を叩き、マルクトの母親が茶菓子を持って入ってきた、そのときだった。月佳は大声で笑った。

「嘘いわないでよー! 確かにあの人ぼろを着てたけど、あの人はちがうよ。あのね、カイはわたしと結婚する人なの。皇太子なわけないじゃない」

 しかし、月佳の主張を耳にしたマルクトの母親が、ティーカップを並べながら言う。

「お嬢さん、カイ・シーモアと名のられた方は、確かに皇太子殿下ですよ?」

「お母様まで、そんな」

 月佳は笑いが止まらない。その一方で、マルクトは深刻な顔つきに変わっていった。マルクトの母親は、月佳の反応をいぶかしみつつ、ちょっと待ってらしてね、と部屋をあとにした。

 あのカイが皇太子? そんなはずない。

(俺はな、父親に決められた女を第一夫人に迎えることになった。もちろん元服したらの話だが。月佳は俺の第二夫人になれ。立場は第一のほうが上だが、俺はおまえのほうを愛してやる)

 もしも、そうだとすれば。

 第一夫人は棕櫚義姉様、第二夫人がわたし。

 カイはとうにわたしの身分も立場も知っていて、わたしを愛するといっていることになる。棕櫚義姉様よりも。この世の誰よりも愛されるべき棕櫚義姉様よりも。そんなばかな話はない。棕櫚義姉様に敵う女なんて世のなかにはいない。皇帝が棕櫚義姉様をお気に召して、心から皇太子妃にと求めたように、棕櫚義姉様を見た男は誰であれ、棕櫚義姉様をいちばんに愛するはず。

 カイが自信たっぷりに言う以上、言葉どおりにする気なのはまちがいない。カイは、絶対に皇太子ではない。万が一カイが皇太子で、棕櫚義姉様よりもわたしを愛するというなら、わたしはカイとの結婚をとりやめる。お義姉様はこの世の誰よりも幸福になる権利をもつ方で、わたしはお義姉様の幸福を守護する者。よもやわたしとお義姉様が、夫の寵をめぐっていがみあう第一夫人と第二夫人になるはずがない。いや、絶対にありえないことだ。あってはならないことだ。

「これを見てごらんなさいな」

 マルクトの母親が部屋に戻ってきて、一通の手紙をさしだした。これは? と訊くと、皇太子直々にマルクトに仕官せよとの通達があったのだという。月佳はそれに目を通した。ゆっくりと目をみひらく。ひととおり目を通しても月佳は身動きひとつしない。マルクトはしびれを切らして、月佳のそばで音読した。

「マルクト・ハーディヴァよ、今日の試合はなかなか楽しかったな。しかし低質な練習剣のせいで勝負は中途半端に終わってしまった。たいへん残念なことである。だから、おまえの意志で決めることではあるが、ぜひおまえには白鳥城にあがってもらいたい。そして再び剣試合をしようではないか。今度は真剣勝負をしよう。私は必ずおまえに勝利する。カイ・シーモア改め、カイザールディオン・セルウェンティノ・メーヴェ。

 ……つまりだ。君のいうとおり、カイ・シーモアが君に結婚を申しこんだとすれば、カイ・シーモアは棕櫚とかいう第一夫人の次席に君をつかせて、姉妹で侍らせようとしているんだ! 最低なやつじゃないか!」

 マルクトの母は息子の剣幕に息をのむ。温和な息子が、これほど怒りをあらわにするなど、今までなかったのである。しかもきょう会ったばかりの少女のために。マルクトの母親は、月佳の運命よりも、この月佳という美しい少女が今日たった一日で、たった数分で、少年マルクトにとっていかなる存在になってしまったのかが気がかりであった。

「カイ・シーモアが皇太子」

 月佳はかすかに口を動かした。

 ――絶対にありえないことだ。あってはならないことだ。

 何かが頭のなかで叫んだ。それは自分の声だった。

 月佳はかろうじてマルクト母子に別れを告げ、広場に出た。頭のなかでひたすら声が響いていて、頭が痛い。

 ――絶対にありえないことだ。あってはならないことだ。

「月佳! 月佳じゃないか! こんな時間まで……待っててくれたのか?」

 ハーディヴァ家に留まっているあいだに、日が沈んでいた。けれど、そう言って駆け寄ってきたのは他でもないカイだった。

 カイは何も知らず、月佳を抱きしめる。

「待っててくれたんだったら、悪かったな。今日はいろいろ準備することがあって」

「ねえ、ひょっとしてカイが皇太子なの?」

 月佳は単刀直入に尋ねた。あたりは暗く、彼の顔色の変化はうかがえなかった。

「何いってるんだ? どうやったらそんな発想が出てくるんだ」

 カイはいつもの調子であった。

(わたしをだますような人とは結婚できないけど?)

(お義姉様の幸福を守護する者)

 自分の言葉を反芻する。それから、月佳はカイの首に手をまわした。

「いいの、なんでもないの。ね、本当にわたしだけを好きでいてくれる?」

「そう言ってるだろう」

「こういうことするのもわたしだけ?」

「そうだよ」

 くだらない会話に自分で辟易しながら、月佳は問いかけつづけた。カイは秘密をもっているうしろめたさからか、嫌がる様子もなく優しく答える。その優しいカイの声は、今の月佳には冷たさをもって刺さった。

 夜、月佳は再び桂月の部屋を訪れる。

 用件はいうまでもない。それは、桂月にとって二度目の驚愕であったが、同時に二度目の歓喜でもあった。

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