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Regina  作者: 甲斐桂
第1章 恩義という名の剣を掲げて
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第2話 夜半

お断り: 扱う題材と一部描写の関係で、念のためR15に指定しています。ほとんど描写はありませんので、そちらに期待される方はご注意ください。

 かくして夜は更けた。

 教科書をぱらぱらとめくるうちに、屋敷は静まりかえっていた。月佳はぼんやりした頭を覚まそうと、窓を開けて部屋に風を入れた。目が疲れていたので、夜空を見やる。

 今夜は月が出ていない。いや、出ていないというよりも、今宵は三日月だったからとうに地平線の下へ隠れてしまった。

 彼女は静かに窓を閉めた。夜に人目を忍んで何ごとかをしているという、ディアークに悟られないように。彼女はまた、足音を立てじと足を進め、これまた物音を立てじと、きしむドアを細心の注意で開く。そして廊下に出た。

 ディアークの部屋は離れにある。そこまでこの緊張状態で行かなければならないが、彼と義父の間で交わされた秘密を知るためなら、この程度のことは厭わない。月佳は時間をかけて、音を立てずに前進した。

 ヘイゼルグラント邸は築五十年を超える古い屋敷なので、夜ともなるといかにもな気配がある。月佳はふと、暗闇にひそむものに思いをはせた。人はいったん思いこむと、思いこみに思いこみを重ねて拍車をかけるということが少なからずあるものだが、月佳も同様であった。何かいそうだ、と何気なく思ったあとで、だんだん怖じ気づいてきた。何かがいそう、何かが出そう、と思いこむうち、声まで聞こえるような気がしてきた。人ならぬものの笑い声が。叫び声が。月佳を死者の世界に誘う声が。

 それらは彼女の妄想の産物に過ぎないが、月佳はそれらを耳にしてしまった、と思いこんで恐怖に耳を塞いだ。耳を塞ぎ目を覆ってしまえば、ただ暗闇がひろがっているだけで、眠りと同じである。そうすれば、恐怖を感じない。月佳には暗闇そのものへの恐怖心はない。暗闇のなかに存在するであろう何かに対する恐怖心があるのだ。

 しかし、そうして立ち止まってしまうと肝心の前進がなく、隠された秘密に触れることなどできない。月佳は恐怖を感じながらも、目と耳を開放したまま暗闇を行くしかなかった。

 しばし前進すると、再び声が聞こえた。それも、叫び声だと思った。廊下の先、月佳にしてみれば暗闇の深淵からの、声らしかった。今度の声は気のせいではなく、明らかに人の声だった。なぜなら、月佳の身辺でよく聞く声だったからである。使用人の誰かに相違ない。そして、暗闇の深淵にあるだろう部屋は、桂月の寝室だった――月佳は、そこで初めて好奇心に動かされて廊下を行った。月佳は、ディアークの声に似ている、と思いつつ、彼らしき声が使用人の寝泊まりする離れではなく、主人一家の住む母屋の、それも義父の部屋の方角から聞こえる不自然さに、ますます好奇心がわきたった。しかも、その不自然さのうちに義父とディアークの秘密が隠されているとしか思えなかった。探しものにたどりついた興奮で、いつのまにか恐怖はなくなっていた。

 さて、義父の部屋のまえにくると、扉の中はいまだに灯がともっている。そして、やはり声はこの部屋の内から聞こえており、ディアークの声だと思われた声は、近くで聞いてみればますますもってディアークの声であった。

 恥じらいを覚えつつも、扉に耳をあてて様子をうかがってみると、聞こえてくるのは彼の叫び声だけではなかった。荒い息づかいが聞こえた。苦痛にあえぐような声がした。また、義父の息づかい、ディアークを叱責する声も。その言葉の内容すらはっきりと聞きとれた。

「お館様、僕はもう嫌です」

「嫌、だと? お前が望んだのではなかったか」

 ディアークは黙った。月佳には状況がわからない。

 お義父上たちは何をなさっているのかしら、と月佳はいよいよ好奇心に負けて、扉の鍵穴から内部をのぞきみた。

「嫌です」

 ディアークは声を振り絞るようにして言った。桂月の声もまた、廊下にもれた。

「あのとき私の嗜好を見抜き、稚児の役目を務めるからヘイゼルグラント家に入れろと言ったのはおまえだろう。月佳と同じ邸内にいられれば、何でもするとも言ったな!」

 ディアークは反論しなかった。「よくもその誓いを破り、あまつさえ太陽を押し、しまいには私を拒みおったな。しかも聞くところによると、このごろ武術の鍛錬を始めたそうだな。私にはおまえの意図が読めるぞ。月佳と同じく、仕官しようというのだろう?」

 問いかけつつ、桂月はディアークを痛めつけたらしい。ディアークがうめいた。が、次の瞬間には、ディアークは意志のこもった声で答える。

「はい、そのつもりでいます」

 それがよけい癪に障ったらしく、したたかに打つ音が廊下まで届いた。ディアークは声をあげない。月佳は廊下で立ち尽くしたまま、身動きできなかった。

「月佳様は恩義を重んじ、お館様や棕櫚様にご恩返ししようという意志がお強いのです。ですから、月佳様が士官の道を選ばれることは、前々から察しておりました。ならば、月佳様に命を救っていただいた僕としては、月佳様とともに士官の道に就き、いつか同等の身分になって、月佳様をお守りできるようになりたいのです。士官は男子の職業です。女性である月佳様には、つらい道にちがいありません」

 桂月はまたディアークを打った。今度も彼は声をあげない。

「おこがましいにもほどがある。月佳を誰だと思っておるのだ。養女とはいえ、私の娘だぞ。おまえは戦争孤児。月佳は公爵家の娘にして、メーヴェの英雄であるこの私の娘だ。卑しい生まれのおまえが、月佳を理解しているような口を叩くな!」

「理解に身分など関係ありません。いえ、むしろ、同じ身分の方々より客観的に理解することができましょう」

「ほざけ!」

 桂月は力まかせに彼を殴った。ついにディアークは、痛みに耐えかねて声をあげた。

「何が理解か! そんなものは関係ない。お前は月佳に惚れているだけだ、そうだろう? だから必死で元服をやめさせようとし、公爵家の娘である月佳と同等の身分になろうと仕官を志し、稚児であることを月佳に恥じるがゆえに私を拒んだ。……無駄なあがきよ。月佳は結婚などできぬ身になるのだから」

「それでも……僕は」

 彼の声がとたんに力を失う。桂月がわずかに笑みをもらした。

「わかったら、私を拒もうなどと考えるんじゃない。おまえは一生、私の慰みだ。それ以上にもそれ以下にもなることはない」

 帝国メーヴェの英雄たる桂月の、無慈悲な言葉。

「嫌です! 嫌です! おやめください……お館様」

「うるさい」

 月佳はそれ以上その場にいられそうになかった。

 部屋に飛びこむと、寝台にもぐりこんで素知らぬふりで寝ようとも思ったが、そうしてはいられないという気がして仕方なかった。わたしがディアークのためにできることは? 月佳は焦りを抑えて考えようとした。ところが、考えようとしても、先ほど鍵穴から見た情景がよみがえり、とても的確な考えなど思いつけそうになかった。ぼんやりとともる灯、重なるディアークの肌と父の肌。少し汗ばんだ父の筋肉質な背中。彼の表情。

 月佳は情景を振り払うように、勢いよく窓を開けた。冷たい風が舞いこんだ。これで少しは頭がすっきりするだろうか。ディアークのためによいことが、わたしに浮かぶだろうか。いや、この風だけでは、足りない。もっともっと、頭を冷やさなくては。

 そう脳裏にひらめいて、月佳は発作的に足を窓にかけていた。幸い月佳の部屋は二階にあり、下は庭園の芝生である。ひらりと舞い降り、その勢いで塀にむかっていた。少し離れた場所で、宿直の門番が異常事態と察して月佳の名を叫んだ。月佳はかまわず塀を飛び越えた。塀の外にも警備兵数名が立っている。警備兵たちは月佳に気づくと、彼女を取り押さえようとしたが、英雄に直々の武術指南を受けている月佳の相手ではなかった。月佳は丸腰であったが、ふわりと警備兵の手をかわし、逆に蹴り倒した。そのとき彼女は、一度も彼らに向き直らなかった。月佳はまっすぐに前を見ていた。彼女はひたすらに道を走っていった。

 少女が我にかえったのは、ヘイゼルグラント邸からかなり離れたスラムの路地裏であった。

「お館様! 月佳様が警備兵を倒して遁走されました」

 女中頭が寝室の扉を叩いたので、桂月は寝台から起きだした。ディアークも急いで服を身につける。焦りとともに、多少の安堵感を覚えながら。ディアークが服を着たのを見計らって、桂月は女中頭の入室を許した。月佳以外の屋敷内の者は全員、主人とディアークの関係を知っている。

 女中頭はほぼ裸身の桂月に着つけながら、指示を待った。

「どうなさいますか。近隣の貧民たちが騒ぎはじめております」

「これ以上の騒ぎになると、いずれ皇帝にも知られよう。そうなっては、月佳の経歴を汚すことになる。一部の警備の者を残し、屋敷中の兵を動員して捜させよ。女たちは出すな。いくらここ一帯の貧民は手懐けてあるといっても、夜のスラムが危険なことに変わりはない。ディアーク、おまえも行け。月佳に関することに勘のいいおまえなら、見つけだすもたやすかろう」

 女中頭とディアークは返事をして、主人の部屋を辞した。ディアークはいったん自分の部屋のある離れに戻り、習ってはいるが実戦経験のない棒をつかむと、ヘイゼルグラント邸を誰より早く飛びだした。

 月佳は途方に暮れていた。無我夢中に走るうちに、知らないスラムに入りこんだらしいのだ。

 スラムは非常に治安が悪い。窃盗、殺人など日常茶飯事である。ヘイゼルグラント邸のまわりにあるスラムの住人は、ヘイゼルグラント家が日頃から懐柔策――施しを与えるなど――をとっているから、暴挙に出るようなことはなく、スラムにしては治安がよい。だから日中、月佳もそこを通って通学できるのである。しかし、他のスラムではそうはいかない。そこは一般市民にとって悪漢の巣窟であった。

 しかも月佳は、帰ろうにも道がわからなかった。むやみに動きまわれば深みにはまりかねない。そう考えると身動きがとれなかった。いつ路地裏の陰から悪漢が出てきて自分を襲おうとするか、彼女は恐怖におびえた。

 お義父上! 棕櫚義姉様! ディアーク! と叫びたい気分にもなったが、現実的に考えて、声など出せば悪漢が寄ってくるのは想像に難くない。もはや、頭を冷やしてディアークのことを考えている場合ではなかった。自分の命の危機だった。

 路地裏の壁に張りついて息を殺していると、足音が近づいてきた。複数の男だった。いよいよ月佳は泣きたくなった。彼らは路地裏に潜む少女には気づかず、卑猥な話に盛りあがりながら去っていく。次に路地裏のむこうを行ったのはナイフを手に持つ少年だった。月佳はますます息をひそめたが、前方ばかり気にして、背後への注意を怠っていた。ふいに、うしろから足音が聞こえてきた。月佳はそのとき初めて背後に気づき、振り返る。

 たくましい体つきの男たちであった。少女はさっと青ざめた。

「おやおや、お客様だぜ」

 男たちは口々にささやく。月佳は、彼らが舌なめずりするのを見た。

 まさか叫ぶことなどできない。よけい集まってくるだけだ。じゃあ、どうすればいい? 自分ひとりしか頼れない。ひとりでこの人数を倒せる?

 そうして考えているうちにも男たちは近づいてくる。人数は五人。月佳は覚悟を決めて、もっとも近くまで来ていた男を蹴り倒した。が、自分の小さな力では、男を失神させることは不可能だとわかっていた。予想どおり、彼女が倒した男は一度は地面に伏したものの、すぐに立ちあがってきた。自分を捕らえようと、次々に手が伸びてくる。月佳はそれを防ぎつつ、応戦した。

 ある男の顎を蹴りつけようとしたとき、月佳は自分の体が自分の意志とはちがうほうへ浮かぶのを感じた。狙った男に足をつかまれて、月佳は宙吊りの状態になったのである。

「放せ!」

 月佳は必死の思いで抵抗した。が、男の腕力には敵わなかった。

「無駄だよ、あきらめな」

「何をする気だ!」

「楽しいことだよ」

 そう言う男の表情は不気味だった。月佳は抵抗をやめた。男たちは喜んだ。今宵の獲物である少女の器量の佳さに、浮かれている。

 ところが、月佳はあきらめたわけではなかった。彼女は、男たちのむこうに人影を見ていた。単独である。もしかしたら、屋敷の者かもしれない。屋敷の兵にしては小柄に見えるが、このさい助けてくれる者なら誰でもいい。自分を助ける者ではなく、男たちの仲間である可能性もあり、むしろそちらの可能性が高そうに思えるが、今の月佳にとってその人影は希望だった。人影は確かにこちらに気づいており、近づいてきている。敵か、味方か――天に祈る気分でそれを見やった。

 一方、男たちは人影の接近にはつゆ気づかず、月佳の体を検分している。最初に月佳の手の甲、手首、腕を触って、月がない、と言った。次に足をまさぐって、太陽もないな、と言った。月佳は叫びだしたかったが、かろううじて抑えた。

「中性か。まあいい、女は女だ」

 男たちはとうとう月佳の服を剥がしにかかる。また、徐々に近づいていた人影も、男たちのすぐうしろまで来ていた。月佳は目に涙を浮かべながら、人影だったものの姿を見極めた。すっきりした容貌の、小柄な少年だった。月佳は少なからずがっかりした。これで望みは消えた、と思った。こんな少年では、男達に太刀打ちできない。

「なあ、何してんだ?」

 少年は飄々と尋ねた。男たちはいらだちながら、

「見りゃわかんだろうが。邪魔する気か?」

「別に邪魔はしないけどさ。見せろよ、どんな娘なんだ?」

「回してもいいが、俺らのあとだ」

 男の答えに、月佳は寒気がした。少年は黙って月佳の顔をみつめている。腹の立った月佳は、彼をにらみつけた。

 少年は、にっ、と笑った。

「この娘、俺にくれ」

「だから、あとだっつってんだろうが」

「あんたらの使い古しなんてヤだよ。なー、ちょうだい」

 男たちは少年の不躾な態度にいよいよ怒りを覚えたらしい。ひとりに月佳を押さえさせ、残りの四人が立ちあがった。少年の体格と比べれば岩山のようだ。

 月佳は月佳で、少年の言動には面食らっていた。前向きに考えれば、助けようとしている。悪く考えれば、この男たちと大差ない。それにしても、男たちと少年の体格の差の著しいことといったら、目も当てられない。少年がぼろ布と化すのが目に見えるようだった。それでも、自分の悪夢が少しでも遠くなることを思うとほっとした。

 男たちは少年にかかっていった。少年は路地裏の壁を利用して跳びあがると、一人の首に蹴りを入れた。男は倒れた。月佳には予想外のことであった。少年は小柄なわりに蹴りが重いようだ。続いてもう一人、同じ方法で地に伏せさせると、さらにもう一人の男の眼を打って潰す。一瞬のうちに三人が倒され、月佳を押えていた男は彼女を解放した。月佳は走り去ろうとしたが、余裕たっぷりの少年はこちらにも目を配っていたらしく、

「むやみに動くな! また危ない目に遭っても知らねーぞ!」

 思わず月佳は、はい、と返事をして、足を止めた。希望は捨てたものではない。この人は、屋敷の人ではないみたいだけど、わたしを救ってくれた。スラムは悪漢ばかりの巣窟ではない。

 月佳はすっかり安心して、男たちと少年の戦っているかたわらで座りこむ。ふと顔をあげると、男たちはみな地に伏していた。立っているのは少年だけだった。

「ありがとう。お礼を言います」

 月佳は笑顔を見せた。

「いいよ……それよりこっちだ、行くぞ。こいつらが起きると面倒だ」

 月佳は全面的に少年を信頼し、手を引かれるままついていく。

 ところが、スラムの出口が見えて、心から少年に感謝した月佳を、少年は再度その近くの路地裏に引きずりこんだのである。

 月佳は声をあげた。少年は唖然としている少女を力まかせに押し倒し、反抗する間も与えず唇で唇を塞いだ。月佳は信じられなかった。しかし、この少年もあの男たちと同じなのだ、という自分の声が頭に響いたとき、月佳は少年の舌を噛んだ。

「いってーっ! 何すんだよ!」

「それはこっちの台詞だ! 信じられない! 助けてくれたと思ったのに、しょせんおまえもあの男たちと同じじゃないか!」

「何いってんだあんた? だって俺いったじゃん、使い古しなんてヤだって。俺は最初からあんたを俺のもんにするつもりで、あいつら倒したんだよ。それにしてもあんた、顔かわいいのに物言いがかわいくねえなあ。気も強そうだし」

 月佳は二の句が継げなかったが、すばやく立ちあがると、口を押えている少年を蹴り倒し、起きあがってくるまえに路地裏から飛びだした。

 そのとき、スラムの出口から自分の名を呼ぶ声が聞こえた。ディアークであった。月佳は全速力で出口に走ると、大好きな、哀れなその人に抱きついて、大声で泣きだした。

 少年は起きあがると、路地裏の陰から二人を見た。ディアークも、彼の存在に気づいた。少年とディアークの視線が交差した。しかし、少年に攻撃を仕掛けることなく、ディアークは屋敷に引き返した。「月佳を捜しだせ」、それが主人の命令だったからである。

 大丈夫でしたか? 何かひどい目に遭いませんでしたか? と、優しく質問を繰り返すディアークに月佳はひとつひとつ説明した。話しながら月佳は、ディアークがやわらかく微笑んで聞いていてくれるので、ようやく恐怖心が薄らぐのを感じた。

「それにしても、どうして急に出ていかれたんです? こんな真夜中に。貴女の逃走時に、警備兵が三名も負傷したようですし、お館様もお怒りですよ」

「それは――」

 月佳はうっかり口を滑らせそうになった。ディアークは、先ほど月佳が見ていたことには気づいていないらしい。しかし、これは打ち明けなくてはならないことだと月佳は思った。そうでなければ、彼のために何かしようにも、身動きがとれない。

 月佳は彼の腕にすがった。

「わたしは知ってしまったの」

 ディアークとお義父上の秘密を。と、切りだしてから目を閉じた。ディアークのこわばった顔を見たくなかったからだ。何も言えなくなってしまう。

「でもディアークはもう嫌なんだって? だからわたしがなんとかするよ。もう、嫌なことはしないで」

 おそらくディアークはいま、自分をみつめているのだろう。「いろいろ考えてみる。きっと何かできるから」

「月佳様」

 ディアークは何か言いかけた。月佳は目を開け、ディアークの表情を見た。こわばっているというよりも、茫然としているというべきか、憮然としているというべきか。複雑な顔だった。

「わたしはディアークが大好きよ。やっぱり変わらなかった」

 そんな彼の顔を見ながら言うと、少年は美しい顔を歪ませた。少年の頬に涙がつたって、彼に寄りかかる月佳の額に落ちた。彼が何を思ったのかは、月佳にはわからない。しかし、義父との関係を知った今でも、月佳には彼に対する嫌悪感などまったくなかった。変わらずに彼のことが好きだった。よって、月佳の言葉は心からのものであり、その心からの言葉は、彼の心に響いたのかもしれなかった。

 ディアークは涙を拭った。そして、月佳の好きな、彼の微笑みを見せてくれた。この微笑みをまえに、誰が嫌悪感など抱けるだろう、と月佳は思う。

「……月佳様がご無事でよかった」

 彼は話題をそらした。はぐらかしたようでもあるが、事実を知っても変わるところのない月佳を心底から敬愛し、その敬愛の対象である月佳の無事を改めて喜んだともいえる。ディアークはそれから、何の言葉も発さなかった。月佳も黙っていた。言葉なくして、安心感がそこにあった。

 帰宅すると、屋敷で待機していた義父の激しい叱責を浴びた。棕櫚まで起きだして月佳を案じていた。邸内の誰ひとりとして、眠っていなかった。月佳はすべての邸人に詫び、やっと眠りについた。ヘイゼルグラント家が再び眠りに落ちたころ、すでに空は白みはじめていた。

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