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Regina  作者: 甲斐桂
第1章 恩義という名の剣を掲げて
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第1話 誓言

お断り: 扱う題材と一部描写の関係で、念のためR15に指定しています。ほとんど描写はありませんので、そちらに期待される方はご注意ください。

 講堂はざわめいていた。もはや誰も講師の話に耳を傾けてはいないのではと思えるほどに、みなそわそわとして、しかし実に楽しそうにおしゃべりに興じていた。

「静かに」

 ときおり、講師は怒りを隠しながら注意する。すると、いったんは静けさが戻るのだが、二分も経ったころには元のもくあみだった。そんなとき、講師たちは黙してしまう。

 この講堂はエトルリア士官学院という国立軍人養成学校の教室のひとつで、この学院に入学するのは決まって名家の男子である。この学校の卒業生が士官として従軍することが決まっている一方、講師は下士官にあたった。つまり、卒業すれば上官となる生徒たちにむかって、いかに講師であろうとも頭ごなしに説教することは、はばからねばならなかったのである。

 しかし、その日こんなにも、軍人としての未来を定められた少年たちがざわついているのには理由がある。というのも、年に一度のパリリア(建国記念日)祭まで、残り三日を切っていたからだった。

 ここはメーヴェ帝国帝都エトルリア。時の皇帝はイフィーズ八世、人のもつあらゆる欲望を顕著に示すことで悪名高い皇帝であったが、このころも例によって征服欲を見せ、隣国ツィリマハイラ王国の豊穣の地を狙って戦争をしかけた。このころといってもたかだか二、三年ではなく、この二十年あまりずっと戦争は続いていた。ツィリマハイラの国王は賢王として有名であったが、メーヴェもまた、皇帝が愚か者であるにもかかわらずその臣下はちがった。特に帝国軍を統べる六将軍は、その勇猛果敢さと知謀とで知られ、六人の中でもいちばん若い桂月ケイゲツ・フェランドゥ・ヘイゼルグラント将軍にいたっては、その戦のたびの功績ゆえに民から英雄視されていた。

 英雄崇拝が広まる、まさに戦乱の世だった。それも、人ひとりの欲が引き起こした戦乱の世である。

 すべての身分の者に普段以上の税が課せられ、兵役のために働き手は戦場へ赴く。極力贅を避けることを余儀なくされ、ささやかな娯楽すらもそのほとんどがなりを潜めた。

 すべては隣国の土地のため、皇帝の欲を叶えるため。

 それにもかかわらず、四年前には、戦争を勃発させた張本人が――民からあらゆる楽しみを奪った張本人が、戦争の最中だというのに白亜の宮殿を新築すると宣言した。さらに税をとりたて、人夫を徴集し、よってその新皇城――通称白鳥城――が民の憎しみの的となったのは言うに及ばない。

 ともあれ、暗黒の時代ながらも毎年霜月フリメールに行われるパリリア(建国記念日)祭は、民に許された数少ない娯楽のうちで、もっとも華やかなものであった。その日には、皇室からすべての民に食糧が施される。皇室主催の競技大会が開かれ、街では無料の砂糖菓子が配られる。大会が終わったあとは喜劇が上演され、喜劇が幕を下ろしたあとには民間舞踊団の出演がある。その日だけは戦場へ赴いていた兵士たちも帰還し、祭を楽しむなり家族と再会するなりの自由が与えられる。

 一年にたった一日、祭のその日のみ、民は苦しい戦争を忘れていられるのだ。

 学院の生徒たちも、最高の娯楽の日を思いめぐらし、軍学の講義など聞いてはいられないのだった。今年の喜劇の演目はなんだろう? 誰が徒競走で栄冠をつかみとるか? あの踊子は出演するだろうか? 誰と一緒に祭を見てまわろうか? あの人を誘おうか。他愛もない話に熱中し、講師の困惑など目にも入らぬ少年たちなのだった。

 そんな少年たちの中に、なぜか紅一点、同じ年ごろの少女が混じっている。彼女は講師のほうをじっとみつめ、誰が見ても講義に聞き入っているかのように見えた。講師はそれを確認し、つぶやいた。

「みなさん、少しは月佳ゲッカ嬢を見習ったらいかがですか」

「え?」

 月佳嬢と呼ばれた少女がぼんやりと聞き返す。「先生、何か」

 講堂に笑いが起こる。その少女もまた、何を考えていたのか、うわの空だったようだ。

「月佳様! あなたは、仮にもヘイゼルグラント家の跡とりなんですから、少しは自覚をもちませんと、将軍にお叱りを受けますよ!」

 さすがは英雄の娘たる少女。彼女だけは祭にも気をとられず、自分の講義に聞き入っている。そう感心したのに、しょせん彼女も祭のために気もそぞろの子供だったのだ。失望感を覚えながら、講師は声を張りあげた。それでようやく講堂が静まる。

 しかし静まった講堂の中では、なおも生徒同士の内緒話が繰りひろげられていた。学院唯一の女生徒にして、英雄の次女である少女について。

 講師たちがいちいち彼女をひいきにするものだから、たまに怒られていると少しいい気味だと思う。でも彼女自身は、ひいきされることなど善かれとしないし、逆にそんな講師を諌めることさえある、まっすぐな人である。公爵家の育ちであるのに鼻にかけることもなく、下級貴族の出の生徒にも好意的に接し、なんと貧民街スラムの乞食どもとも交際があるという。英雄の娘であることを誇らず、いたって謙虚に振るまい父親を持ちあげる、かつ勤勉。そのうえあの可憐な容姿、この国には珍しい青銀の髪と瞳。貴族の女特有の自尊心や虚栄心がないのもあり、実に魅力的な人である――などと、何しろ紅一点なもので、年ごろの少年たちには目立って魅力的に見えるのは無理からぬことだった。

 一方の月佳は、そんな噂話も知らずに、また怒られてしまったな、と父の顔を思い浮かべていた。厳格な父、桂月。彼が黙って怒る姿が目に見えるようだった。

 自分を後継者にと育ててくださった父上に、悪いことをしてしまった。だけど、パリリアのことはともあれ、軍学には興味がないので、どうしても他のことを考えてしまう。たとえば――「十日後のこと」とか。

 そのときちょうど鐘が鳴り、この日の授業の終わりを告げた。そろそろ怒りを隠せなくなった講師が、いらだたしげな靴音を響かせて講堂をあとにすると、先刻にも増して生徒たちはざわついた。月佳は席を立った。彼が外に迎えに来ている、それに家ではお姉様がお待ちかねだ。そう思うと気が急いた。

 講堂を出ようとすると、同級の少年たちに呼び止められる。

「パリリア祭、月佳さんも一緒にまわりませんか」

 月佳はそれに対し、にっこりと笑って返す。

「ごめんね、わたし、先約があるの」

 そして少女は、するりと少年たちのあいだを通り抜けて講堂を出た。月佳の青銀色が、少年たちの目に焼きつく。それと、一見すると無邪気なようで、どこか遠慮がちな彼女の笑顔が。もっとも、彼らの目に月佳の笑みは、至上の微笑みとして映っているのだが。

「先約って何だろうな?」

 少年たちは彼女について噂しあう。

「たぶんあいつだろ。あの、すんげー美人の。門番のくせにお嬢様についてまわるなっての」

「あ、俺も見た。いっつも門のトコに迎えにきてるやつだろ? あいつ、女なの? 男なの? なんかどっちにしてもかわいすぎるよな」

 一人が不満げに言い、一人が卑猥な目を見せて言うと、もう一人が言った。

「男だよ。手に《月》がなかったから」

《月》――それは、《女》性である印。それに対して、《太陽》が《男》性の印である。このパンドロソス大陸では、古来、年ごろになると性別を明確にする儀式が行われていた。《男》にしろ《女》にしろ、性を示すにはこの儀式を受ける必要がある。《男》性であれば、《元服の儀》と呼ばれ、足に太陽の焼き印を押す儀式。《女》性は《成人の儀》、こちらは手の甲もしくは腕に月の焼き印を押す。この儀式を迎えるまでは法的に《男》もしくは《女》とは認められず、では性別はどう判断されるのかといえば、《中性》といわれた。

 英雄・桂月の娘、月佳・フェランドゥ・ヘイゼルグラントは現在十二歳。儀式は十三歳の誕生日に行われるのが一般的で、月佳のそのときはすぐそこだった。霜月の八日。その日が彼女の誕生日とされる。霜月一日がくだんのパリリアなので、そのちょうど一週間後には激痛をともなう儀式を迎えねばならなかった。

 ただ、月佳にとって問題は、儀式による激痛ではない。問題は「どちらになるべきか」。それが月佳の悩みの種だった。

「ディアークー! ディアーク! お待たせ!」

 月佳は学院の門をくぐると、長髪の少年の腕にうしろから抱きついた。

「……! 月佳様」

 少年は放心していたらしく、遅れて返事をした。彼が申しわけなさそうに微笑んで振り返ったので、月佳は笑い返す。

 黒い長髪をうしろでひとつに結って垂らしている少年――名はディアーク――は、ヘイゼルグラント家の門番である。それがなぜ、主の娘の送り迎えなどしているのかといえば、彼のたっての希望だったからである。何しろ、彼を拾ったのは月佳だった。

 五年ほど前に父に連れられて、戦場となって滅びたツィリマハイラ国境近くの街を見にいった月佳は、そこで飢えて死にかけていた彼をみつけた。そして、彼を助けてほしい、彼をヘイゼルグラント家で働かせ、生きていけるようにしてほしい、と父に頼んだのである。父は当初、彼を屋敷に迎え入れるのを拒んでいたが、結局は許した。その理由を月佳は知らない。父親と彼のみぞ知る。

 ともあれ、それでディアークは、門番のひとりとしてヘイゼルグラント邸に入ることになった。ディアークにとって、月佳は命の恩人というわけだ。彼は心底から月佳への忠誠を誓ったにちがいない。月佳様に助けられた命で今度は月佳様をお守りします、と言わんばかりに、彼は月佳を、主の娘に対する感情以上のものをこめて大切に扱った。

 彼女が行くところにはどこであろうと供を申しでる。このころはいざというときのためにと、武術訓練まで始めたようだ。月佳も、自分を大切に扱い、心根の優しいディアークに守られていることにやぶさかではない。ただ、彼が自分を卑下し、月佳を限りなく高貴なもののように扱うところだけは納得がいかなかった。月佳は自分を卑賎の者と信じているからである。むろん、それにも理由がある。

「ねえディアーク、今日もね、パリリア一緒に行こうって誘われちゃった。今までいろんな子に断わったのに、聞いてなかったのかな? やっぱり学院で女の子はわたしひとりだし、みんな女の子に飢えてるんだね」

「ちがうと思いますよ。月佳様だから、みなさんお声をかけるんです。月佳様は、他のあらゆる人とちがった魅力をお持ちですからね。自然と人は惹きつけられてしまうんです」

「もう、ディアークったら。わたしはそんなたいそうな人じゃないよ。……ね、パリリア、確かに楽しみだけど。なんか今はそれどころじゃないや。どうしよう、元服」

 ディアークは月佳の迷うところを解して答えた。

「本来なら女性になるべきなんでしょうし、僕もそうしたほうがいいと思います」

 ディアークは言い切ったが、彼女はそれでも決心がつかない。前々から、彼女の父親は彼女に言っていた。

 ――私がおまえを拾ったのは、棕櫚シュロの代わりに私の後継に据えるためだ。しかし、そう割りきって拾い、育んだはずのおまえを、私はいま棕櫚と同じ自分の娘として愛するようになってしまった。ゆえに、男として生きよと強制はせぬ。ただ、私はそれを望む。そのために、私や代々のヘイゼルグラント家の将軍の名につく月の文字を、拾い子であるお前に授けたのだから。

 だが、後を継がせるためにと言いながら女の児を拾ってしまった私もまぬけたことをした。私の現在のお前への父としての愛情と、かつての私のまぬけさとが、お前に選択肢を与えよう。女となりどこぞの貴族か軍人のものとなるか、男となり将軍の座を目指すか、自分で決めるがいい。――

 彼女の父親――いや、義父といったほうがよい――は、月佳の出生を隠したことはなかった。彼女の物心がついたころには、もうすでに月佳が拾い子であり、ディアークと同じくツィリマハイラの国境近くの壊滅した村で発見し、拾ったことも、肉親については何も知らぬことも、すべてを彼女に伝えていた。ただ、彼女の青銀の髪とが、彼女がメーヴェ人ではなくツィリマハイラ人であることを証明していた。純粋なるツィリマハイラ人の血統の者は、その証として青銀の髪と目と抜けるような白い肌を持つことは、教養のある者たちのあいだでは知れたことだった。

 ツィリマハイラとメーヴェが犬猿の仲であるにもかかわらず、月佳が学院で迫害を受けないのは、ツィリマハイラ人の特徴を知らない生徒が多いことと、彼女が英雄の娘としてかわいがられていることによる。桂月の娘たちに対するかわいがりようといったら並々ではない。他界した妻との唯一の子供にして長女である棕櫚は、ろくに外にも出さず、完全なる温室育ちで、教育は英雄みずから厳選した家庭教師にまかせている。拾い子とはいえ後継者として育てた月佳は、職権を濫用して士官学校に入学させ――本来は生物学的に女性として生まれた者の入学を許可していないにもかかわらず――、家庭教師もつけてやり、英雄みずから剣を教えるときもある。

 そのような理由で、当の月佳は迷っていた。いくら自分で選べと言われても、ここまで育ててくれた義父の意思に逆らうことはできない。しかし、持って生まれた性を捨てるという不自然なことで、将来的に差し障りが生じる可能性もある。

 今は《男》であっても困らない。だが、将来を思うと、迷わずにはいられなかった。とはいっても、いくら迷ったところで、士官学校に通って他のことをちっとも学んでいない自分が、良家の花嫁になるなど考えるだけでも恐ろしく、それを思うと迷いは消えた。この迷いは、パリリアが――元服が近づくにつれ、何度でもよみがえった。が、その考えにたどりつくたび消えた。

 現に、数日前に招かれた舞踊団の宴会では、

(……元服は)

 と尋ねた少年に、月佳は何の迷いもなく「元服の」予定を伝えている。

 迷うことはない。お義父上のために、自分は軍人になろう。そしてゆくゆくは皇帝にお近づきできる位――つまり、皇帝のもうひとつの位であり軍の形式上の長である元帥の位に次ぐ、将軍の位――に就き、いずれ皇室にお嫁入りする棕櫚義姉様をお守りするのだ。

 パリリア数日前にして、月佳は決断した。

「決めた。太陽を押すよ」

 しばらく考えこんでいた月佳が、すっきりした顔でそう言ったので、ディアークは反論はしなかった。ただ、黙って肩を落とした。

「さてと、早くお義姉様のところに帰らなきゃ。お待ちかねだわ」

 月佳が明るい声で従者の少年に促したので、彼は少女とともに足をはやめた。ざわめく商店街を通りすぎ、スラムを越えるとヘイゼルグラント邸がある。スラムに踏みこむと、月佳と従者の少年は子供たちに囲まれた。彼らはスラムの住人で、貧しくはあったが、気質は明るかった。このヘイゼルグラント邸周辺のスラムは、ヘイゼルグラント家の施しを受けているため、月佳や家の者がここを通るときは、誰もがあいさつを欠かさない。

「月佳様! ディアーク様! こんにちは!」

 無邪気に声をかける子供たち一人ひとり、感謝をこめて声をかける大人たち一人ひとりに月佳とディアークは会釈して、スラムを過ぎた。いよいよ屋敷が見えてきたところで、月佳が思いだしたように言う。

「どうしてお義父上は、あのとき、急にディアークを引きとることを許してくれたんだろうね」

 このひと言は、美しい少年従者の表情をこわばらせた。言ってしまったあとで月佳は、彼の態度が尋常でないのを見てとり、言葉を失った。

「どうしてもお知りになりたいと……?」

「ディアークが言いたくないなら、いい! けど」

 急いで月佳が言うと、

「よかった」

 少年は微笑んだ。「あんなことを月佳様に知られては、僕は月佳様に嫌われてしまいます。それに僕も、とても月佳様に顔向けができたものではありませんから、そのときはお屋敷を去るでしょう」

 彼は穏やかに述べ、表情もいつもの優しいディアークのままだったが、月佳には彼の焦りが手にとるようにわかった。

「あんなことって、どんな?」

「誰もが恥じることです」

「ディアーク、わたしはディアークがとても好きだよ。それは変わらない。そう言ってもだめなの? 義父上の態度の変わりようが、気にかかってならないの。お願い、教えて」

「だめです」

 少年は少女に背を向け、屋敷へ歩いていった。埒があかないので月佳も駆け足であとを追い、残りの道のりは無言で進んだ。

 門を開け、本館の扉の前でディアークと別れると、月佳は使用人たちに迎えられた。

「お帰りなさいませ。棕櫚様がお待ちですよ」

「ただいま! わかったわ、すぐお義姉様のもとに参ります」

 月佳は階段を駆けのぼった。

「これ、月佳様、走ってはいけませんよ!」

 老女中の叱責をすり抜け、二階の廊下を走って突きあたりの部屋に至った。恩人の娘である人の部屋の前では月佳は立ち止まり、慎重に扉を叩く。

「どうぞ」

 中から鈴の鳴るような声がするので、義妹は扉を開いた。

 義姉・棕櫚は窓に寄っていた。窓から夕陽が射しこんでおり、月佳はまぶしさに顔をおおう。

「あら、ごめんなさいね。いま閉めるから……」

 棕櫚がカーテンを閉じると、ようやく義姉の姿を捉えることができた。波うつ豊かな黒髪、夢みる黒い瞳、純血のツィリマハイラ人に劣らぬ白い肌、それが義姉の美しさであった。棕櫚は桂月には似ていない。ほとんどの美しさは他界した母親譲りで、桂月による純粋培養がそれに磨きをかけたといってよい。そのために、彼女は月佳以上の世間知らずでもあるのだが。

「棕櫚お義姉様、ただいま戻りました。わたしをお待ちかねだそうで。さっそく、きょう学校であったことでもお話ししましょうか」

 屋敷の外に出ない棕櫚にせがまれて、彼女に学校の話をするのは、月佳の日常だった。が、月佳がそう言うと、棕櫚はそこはかとなく幸福感を漂わせて答えた。

「ちがうのよ。今日はね、私のほうからお話があるの。月佳に聞いてほしいわ」

 棕櫚は常に受け身である。自分からものを語ろうとすることなど、そうあることではない。そう考えると、月佳はうれしかった。どうやら義姉によいことがあったらしい。

「そうですか。もちろん、拝聴します」

 月佳は義姉に対する敬意をいつも忘れない。常に敬語を使う。さて、その敬うべき義姉は、厚いカーテンを透かして射しこむ斜陽を浴びながら語りはじめた。

「じつは今日、初めてあの方とお会いしたの」

「あの方とは?」

「皇太子、カイザールディオン様……。将来、私を娶られる方よ。ずっと前から、皇帝陛下が、皇太子カイザールディオン様の妻にと私を求めてらっしゃることはお父様から聞かされていたのだけれど、このほど正式なお話として決定したらしいのです。それで、皇太子殿下ご本人が、お忍びで面会にいらっしゃったというわけよ」

「はあ、大胆な方ですね」

 じっさい月佳はひどく感心した。皇帝の子などというものは、城に引きこもりがちで、というよりも外出を許されずに、井の中の蛙のように育つのだという偏見をもっていた。そして、親から与えられたものを享受しているだけの無知の塊だろうと。そんな偏見の対象であった皇太子は、婚約者の顔を確認するために治安の悪いスラムを越えてやってくる、剛胆な男だという。

「私より三つ下だとは聞いていたけど、やはりまだ十四歳の少年で、私よりも背が低くていらっしゃったのがなんだか微笑ましかったわ。でも、とても利発な方でした。お顔もさわやかな印象ですし、早く将来が見たいというところかしら。きっと、じきに背も私を抜かれるでしょうね」

「そんなに小柄な方ですか。棕櫚お義姉様がそれだけ気になさるほど」

「月佳と同じくらいじゃないかしら。私と頭ひとつ分もちがったわ。いくら十四とはいえ、男の方なのに」

 棕櫚は巧みに不満を隠しつつ話す。

 棕櫚は、彼女が屋敷にこもっていつも読んでいる物語の女主人公と自分を比較している。月佳が試みに読んだ、棕櫚の好む書物は、いつでも恋愛物語だ。女主人公と、彼女と相思相愛の男、それに女主人公に一方的に想いを寄せる男などが主だった登場人物で、その男たちというのがたいてい城騎士の任に就いており、たくましくも賢くかつ美男子という、いわば読者層の少女たちの理想で固められたような人物像であった。当然、男のほうが女主人公よりも頭ひとつ分以上身長が高いものなのだ。

 おそらく棕櫚の理想の相手として、皇太子は身長だけが問題なのだろう。その証拠に、彼女は幸福感を部屋中に振りまいている。思わず月佳も、表情がゆるんだ。

「月佳ったら、何かおかしいの?」

 幸福を押し殺すように顔をしかめる、義姉の頬は赤みを帯びている。月佳には、そんな義姉がどこまでも愛おしかった。

 ひたすら純粋に無垢に夢みる彼女は、誰にでも人形を愛でるように愛されるにちがいなかった。月佳の棕櫚に対する感情は、そんな聖なる――冒しがたい――ものへの畏敬の意のこもった愛情と、養女である自分を蔑むことなく実の妹のようにかわいがってくれることへの感謝と、そして羨望だった。

 桂月と亡き妻との間に生まれた唯一の娘だというのに、義父は、義姉には何の圧力も加えない。将軍の座を狙えとは言わない。皇太子妃になれとも、言っていたわけではない。縁談は、そもそも皇室が自発的に持ちだしたものだ。また、確かに純粋培養されたのだが、棕櫚自身はそれに気づいていない。いわば彼女は籠のなかの鳥、ただし、籠が――籠の外があることを知らない、幸福な鳥だった。

「棕櫚お義姉様が幸せになられることが感じられて、わたしもうれしいです。だから、わたしもやっと決めました」

「月佳? 決めたって、いったい何のこと?」

「元服です。わたしはきっと将軍になって、お義姉様の幸福を守ります」

 棕櫚は、それはそれはお父様の喜ぶお姿が目に浮かぶようだわ、と、それ以上は何も言及せずに、喜ばしげに笑った。その瞬間に、月佳の運命は決まったようなものだった。

 それから二人は日が落ちるころまで談笑した。日がすっかり暮れてしまうと、階下で食事の準備がされているのが聞こえてきた。しばらくすると外でディアークの声がして、青銅製の表門の軋む音がする。

「お館様、お帰りなさいませ」

 どうやら桂月が白鳥城での務めを終えて帰ったらしい。

(あんなことを月佳様に知られては、僕は月佳様に嫌われてしまいます)

 同時に、先ほどのディアークの声が脳裏によぎった。ディアークは、あんなに口に出すのを拒むほどの、いったい何をしているというのだろう。すると思わず、少女は口をすべらせた。

「お義姉様、どうしてディアークは、急に屋敷入りを許されたんでしょうね」

 内心は、棕櫚に尋ねたところで知るはずはないと思った。義姉は無垢の象徴、よもや彼ディアークのいう「誰もが恥じること」など耳にしているはずがないと。

 が、刹那、幸福を忘れた義姉の表情がそこにあった。それは予想外のことであったので、月佳は面食らわずにはいられなかった。

「月佳は知らないの?」

「はい……」

「それなら、今夜は眠らずにいることよ。どうしても知りたいならね」

 吐き捨て、棕櫚は柳眉をひそめた。袖口で口を覆って、目を逸らす。仕種のひとつひとつに激しい嫌悪感があった。

 世間知らずの義姉すら嫌悪するようなことをして、ディアークはここにいるのか。そう思うと、月佳はそら恐ろしかった。そのとき、侍女が食事の知らせに部屋の扉を叩いたので、棕櫚は普段の表情に戻った。無垢の象徴たる、彼女の表情である。月佳は何となしに安堵して、義姉が階段を下るのに従った。

「今、帰った」

 義父は威厳をまとって帰宅した。

「お父様、お帰りなさい」

 義姉は名家の娘らしい優雅な仕草で父親を迎えた。続いて、月佳と下男下女が恭しく礼をする。一同は夕食の準備の整った食堂へ移っていく。家長である桂月を食卓の最上席に、両側に棕櫚と月佳が向かいあい、女中頭以下が並び、末席にディアークがつくと、頃合をはかって月佳が口を切った。

「お食事の前に、お義父上、みなさん、お話があります」

 桂月は察してうなずいた。

「来る霜月の八日、わたしの十三の誕生日に、元服の儀を受けることにいたしました」

「よくぞ決心してくれた、月佳。今宵はお前のために乾杯しよう」

 家長はそう述べたが、少女の宣言に一同はざわめいた。「将軍一族」を守るために女の人生を捨てさせるなど、無体なことと。とりわけディアークは、あらかじめ知っていたこととはいえ、月佳が桂月のまえで宣言したことに衝撃を隠せなかった。桂月にむかっていちど宣言した言葉はこんりんざい打ち消すことができないと、彼は知っている。

「月佳様! 女性としての性を太陽の焼き印ひとつで忘れ去ることなど、不可能です。それを思いだしたとき、つらい思いをなさるのは月佳様です。僕は、苦しむ月佳様を見たくはありません! どうか、お考えなおしください。貴女は、女性に生まれたのですよ」

「門番の分際で家長の娘に意見するとは、罰が必要だな、ディアーク」

 桂月が低い声音でいうと、ディアークはひるむ。月佳は割って入った。

「そんなのだめです、お義父上。彼は、いつだってわたしを思ってくれているのです。ありがとうディアーク、でももう決めました。わたしは一生涯お義父上にお仕えし、皇城でお義姉様の幸福を守ると、この場で誓います。そうして身に余るご恩をお返しします。そのためにわたしは男性にならなければなりません。みなさんは証人です、わたしの言葉を覚えておいてください」

 月佳は凛として誓った。この言葉によって、少女は今後の人生を縛られることになる。

 桂月はすっかり機嫌をよくして、年代物の葡萄酒を開けさせた。月佳も一杯だけ飲んだ。初めての酒は、気分をよくしてくれるものではなかった。月佳には酒の味がわからなかった。苦くてからい。けれど、そこはかとなく甘いような。

 葡萄酒の味は彼女の心境のようであったが、とはいえ、それは元服のためではなかった。門番の少年の秘密が、その心境をつくりだしていた。彼には――ディアークには、誰より厳しい桂月。いや、厳しいというより、蔑んでいるようにさえ見える。それなのに、どうして彼を雇う気になったのか。

(それなら、今夜は眠らずにいることよ)

 はいお義姉様、そうします。月佳はひとり、つぶやいた。

 月佳は常日頃、健康的な生活をおくっており、夜九時以降に目覚めていることなどまずない。だから、夜にディアークが何かをしているとすれば気づくはずもなかった。月佳は、翌日が祭の前の祝日で休校なのを幸いに、この夜は読書でもして明かしてやろうと思った。食事をすませると、上機嫌な桂月を残して部屋に戻った。

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