後編
お断り: 扱う題材と一部描写の関係で、念のためR15に指定しています。ほとんど描写はありませんので、そちらに期待される方はご注意ください。
「うん、これがいいよ」
皇城公演の衣装選びで、少年は薄い灰色の衣を手にとった。
「ちょっと地味じゃないか? あんた、紫がいちばん似合うのに」
「だからだよ」
クラウディナはアン=リエに笑って答える。自分の銀髪や肌の色に合わせるなら、そりゃあ紫や赤の派手な色がいいだろう。けれど、皇帝の前で美しさを際だたせるのは自殺行為だ。髪の色に近いこの色なら、地味なこと極まりない。他の四人の中で、埋没するにちがいない。
皇帝があのアリィシアを見初めた時点で、派手な女がお好みらしいことは想像がつく――アリィシアはいつも赤い衣をまとっていたから。皇帝の目にとまらないような衣装を。踊りを。そうして、皇帝の居城から、無事に舞踊団に――リュン=リエのところに帰るんだ。
本番四日前にして、少年の心はそのことで占められていた。幸い、団長はクラウディナの希望を汲んでくれ、反対はしなかった。加えてクラウディナは、皇帝に捧げる舞として、自分のレパートリーの中でもっとも動きの少ないものを選んだ。
これで準備は万端だ、皇帝は僕には見向きもしまい。確固とした理由もなくクラウディナは楽観的だった。それというのも、ここのところリュン=リエが素直だからだ。容姿のことでつっかかってこない。女扱いしない。態度に好意があらわれている。それだけで彼は機嫌がよかった。あとは、これで自分が《女》じゃなければ――。彼の気持ちを伝えるにあたって、それだけが相変わらず壁となっていた。
そして、その日はすぐにやってきた。パリリアの二日前、皇城に参ずるその日である。
クラウディナは当日になって、急に不安に襲われた。ともに城にあがる仲間たちが準備を怠らないのに、彼は灰色の衣を抱えたまま、舞踊団がテントを構える広場の端でうずくまっていた。団員が、そんな彼の前を横切るたびに準備を促したが、彼は動きたくなかった。動けば、好色爺に愛でられる身になると思った。
そこでついに、リュン=リエが遣わされた。リュン=リエも沈んでいたのだが、ここでクラウディナが登城を拒否すれば、クラウディナ個人の問題でなくアン=リエ舞踊団の今後が危うくなる。なんとしてでも、今回の登城だけは納得してもらう必要があった。もちろん、皇帝の命令があれば今回だけではすまないのだけれど。
彼女は重い気分で、母親に命じられたとおり、彼のところへ向かった。
「どうしたの? 最近ずっと元気だったのに」
曇り空の昼下がり、薄暗い木陰にいる彼にそう話しかけて、リュン=リエは口をつぐんだ。一瞬、クラウディナは目をあげ、また伏せた。
――もしも、両刀爺の目にかなったならば。
日々鮮やかな色の衣を着せられ、爺の卑猥な眼差しの前で舞う。夜ごと爺の寝台に連れていかれ、爺の手がからだに触れる。爺の指が自分の足を滑る。爺の枯れた唇が自分の唇に。
想像しただけでも寒気がした。怖気がはしった。自分には男娼などむりだったのだ。心がこんなにも拒否しているのが、今ごろわかるなんて。昔の自分は、たった一週間前の自分は、なんて愚かだったのか。一度だけ金持ちの男色家の相手をして大金を得たあとで、エルテナと、そしてできればリュン=リエとも一緒にここを出ようだなんて、できるはずもない浅はかな考えだった。
それは、頭のなかで考えるだけなら一種の夢だった。現実問題とは思えなかったから、男とでも寝ようと思えた。しかし、現実はすぐそこにきている。爺の皮と骨のからだと床をともにするときが。
爺に確実に選ばれると思っている? 僕はナルシストか、そうかもしれない。僕は自分の器を醜いとは思わない。人々の称讃がその根拠、皇城に呼びだされるのもその根拠。僕は選ばれるだろう。灰色の衣を着て、スローテンポの曲を舞おうとも、器は同じ僕だ。僕は選ばれる。後宮に入る。皇帝のために舞う。皇帝の夜伽の相手となる。美しさが衰えるまで。衰えたらどうなるのかも想像がつく。
――冗談じゃ、ない!
クラウディナは、自分の目がチリチリと痛むのを感じた。リュン=リエは血走る彼の眼に気づいた。
「クラウディナ! 目、赤いよ」
クラウディナは立ちあがり、リュン=リエの手首をつかんだ。痛い、と彼女が訴えたのも、彼には聞こえていなかった。
先日のけんかのときよりも力強くつかんだリュン=リエの手首を、自分の顔の前にもってくる。両手で手首を持ちなおし、額を彼女の手に軽く押しつけた。
まるで祈るような体勢になった彼を見て、リュン=リエは硬直した。
「――」
彼は何かをつぶやいたが、リュン=リエには聞こえなかった。
「なに?」
動揺を抑えながら、訊きなおす。
「一緒に……リュン=リエ」
「え? だから、なに? 聞こえないよ」
彼は呼吸を落ちつける。
「一緒に、逃げよう、」
そこで息を吸いこんで、彼は続けた。「……一緒に逃げてほしいんだ。一緒に来てほしいんだ。一緒にいてほしいんだ、いつだって」
今度は途切れ途切れながらも、リュン=リエにはっきりと伝わった。リュン=リエは彼をみつめなおした。彼は姿勢を変えない。彼につかまれた手が、急に震えだしたので、彼女は手を振り払った。
彼は面を上げた。彼の表情を見る前に、彼女はからだごと反対を向いた。
たぶん傷つけてしまったな、と思い、リュン=リエは弁解を始める。
「これはちがうの。誤解しないで。クラウディナを拒んで手を払ったわけじゃないの。ただちょっとびっくりして、手が震えちゃって、それを知られるとかっこ悪いなあって」
弁解を終えて、リュン=リエはクラウディナを振り返った。哀願するような表情で自分をみつめる彼に、どうにも照れくさくなり、今度は顔だけを背けた。
「どうして、あたしと逃げたいの……?」
クラウディナの気持ちはもはや明白である。それでも彼女は、言葉でそれを確かめたかった。
「言ってほしいの?」
彼がぽつりと尋ねた。
「言ってほしい」
いまいちど振り返り、彼女はきっぱりと言った。期待に満ちた目で。
そんな彼女を見て、クラウディナはぱっと表情を明るくした。リュン=リエの気持ちももはや明白だった。
「リュン=リエが好きだよ。だから一緒に逃げて、ふつうに幸せになりたい」
「あたしもクラウディナが好き。だからエルテナと、三人で逃げよう!」
クラウディナが立ちあがり、身長差のある彼の目の位置に合わせてリュン=リエも顔をあげた。二人は顔を見合わせて笑った。その一瞬だけは幸せだった。
が、すぐに不安が戻った。もうすぐ登城することが、どうしても頭を離れない。
「逃げようね。もし、クラウディナが皇帝に選ばれたら。ね、ツィリマハイラに逃げない? あそこはずっとメーヴェと戦争してるから、メーヴェからの亡命者を快く受け入れるんだって。それに王様が、月と太陽の焼き印をよく思ってないとか、誰か言ってた」
「じゃあ、そうしよう。どこでもいいや。あの変態爺がいなくて、リュン=リエとエルテナがいれば」
「そう? じゃ、決まりだね」
どことなくリュン=リエもクラウディナも、夢を見ているような気分で、一応は逃亡の相談をしながらも緊張感に欠けていた。逃亡の先には幸福しか待っていないような幻想を、二人して抱いていた。互いの気持ちを告白したばかりの今だけは。
ふと気づけば、あたりはいやに騒がしい。舞踊団で働く男たちの声よりも、圧力のある男の声が広場に響いている。それを聞いて二人は我に返った。急に酔いが覚めた気分で、前よりも不安が大きくなっているのを感じた。
「クラウディナ! 準備はできたのかい! 御使者がお見えになったよ、早くおいで!」
アン=リエの声を聞いて、クラウディナはテントに走りだした。
十メートルほど走ったところで思いなおして立ち止まり、リュン=リエの方に戻って、彼女の額に唇で軽く触れると、彼は不安そうな彼女に笑顔をつくってみせた。
「絶対また戻ってくるから、大丈夫」
そうささやいて、彼はまた駆けだした。
それが彼からの初めてのキスでも、リュン=リエは満たされなかった。不安が開けた穴。そこから、幸福感がもれているようだった。彼と想いが通じあったからこそ、よけい彼を失うのが怖い。
(また戻ってくるって言ったけど、保証はないもの)
彼女にできることは、彼の帰りを待つことだけだった。
クラウディナはテントに入ると急いで衣装を身に着け、化粧をした。先ほどリュン=リエに想いを告白したばかりなのに、さっそく女装などしている自分が滑稽だったので、鏡を見ながら自分で笑ってしまった。
そのとき、女が入口からひょっこり顔を出した。
「どうしたのよニヤニヤしちゃって。リュン=リエと何かあったの? あんまりモタモタしてると御使者にどやされるわよ」
すっかり着飾った登城メンバーの一人、サリアだった。
「やあサリア。よくもまあきれいに着飾ったもんだね」
「何よう、嫌味? あんたも、冴えないドレス選んだくせにきれいよ。お得な顔してるわよね、まったく。あ、選ばれたくないんだっけ? あたしは選ばれたいのよ。で、一生楽な生活送りたいの」
「サリアって、あのときもう舞踊団にいただろ? それなのにそういうこと言うなんて、変わってる」
「逃げさえしなければ、ただの妾の下っ端として楽できるんだもの。逃げだすのがバカなのよ。ま、五人の中でそう思ってるのはあたしだけのようよ? もう、プリムロゼなんて見るも哀れ……さ、行きましょ」
プリムロゼといえば、皇帝の騎士である客の一人と恋に落ちたともっぱらの噂だった。
――選ばれたとき、行動を起こすのは僕たちよりあちらのほうが先かもしれない。
クラウディナはプリムロゼに思いを馳せつつ、サリアに従った。使者の馬車には、すでに他の三人と付き添いのアン=リエが乗りこんでいる。
見ると、迎えの使者の顔に見覚えがある。もしかしたらあのときの使者かもしれない、と思うと、少年は嫌悪感でいっぱいになった。
ラケルは普段の気丈な表情を崩してはいない。彼女に似合う藤色の衣だった。シエナは表情もなく、うつむいていた。彼女の金髪と緑の瞳に映える青い衣。プリムロゼはかすかに震えている。宝飾品がカチャカチャと音をたてていた。顔色も真っ白で、深紅の衣がより赤く見える。サリアはうきうきと席についた。健康的な彼女に緑はよく似合った。
案の定、くすんだ色の衣装をまとっているのは自分だけだった。これでは、ちがう意味で目立ってしまいそうだ、と彼は悔やんだ。
クラウディナの不安が増大したのをよそに、馬車は皇城へ走りだした。通りすがりの町人たちは皇帝の豪奢な馬車を見て陰口を叩いた。現皇帝は、国民の支持をほとんど得られていない。色と富を好み、他国の領地を欲して戦争を起こし、そのうえ親征するどころか軍議で意見を述べることさえしない皇帝が、国民の支持を得られるはずもなかった。
誰かが、使者をめがけて石を投げた。窓硝子が割れ、使者も怪我をしたが、報復のそぶりは見せなかった。使者すら皇帝を侮っている。この使者に至っては、名ばかりの権威を振りかざすこともしようとしない。となると、この使者はあのときの使者ではなさそうだ。それにしても、いっそ革命でも起こってくれればよいものを、とクラウディナは思わずにはいられなかった。
一同は無言のまま皇城に至った。白亜の城――長きに渡る戦争のために一部の特権階級以外の民衆が困窮の極みに達し、次第に寂れてゆくメーヴェ帝都エトルリアのなかで、それだけが際立って輝いている。その城は、民から白鳥城と呼ばれていた。正式名称は、この城を建立した現皇帝イフィーズの名をとって、イフィーズ城などというらしいが、白鳥城のほうが字面がいいので、みなそう呼ぶ。
白鳥城は、ツィリマハイラ王国との戦乱がここ最近でもっとも激しかった四年前に完成したばかりの、国民の血と汗と涙の結晶である。白鳥城の建設のために、ただでさえ戦争で増税していたのがさらに上乗せされた。加えて、兵役で働き手をとられていたところに、このうえ人夫として子供まで徴集された。よって、麗しの白鳥城は民の憎悪の的であった。
馬車を降りるとクラウディナは白鳥城の頂上を見上げた。
「近くで見るとまた一段とすごいな」
「これクラウディナ、軽口はおやめ」
「さあ、皇帝陛下がお待ちだ。後宮へ参るぞ」
と、使者。いよいよかの皇帝の面を拝むと思うと、クラウディナは緊張で頭が重くなった。それでも四人と団長が歩きだしたので、ついていかないわけにはいかない。
うまく見逃してくれるだろうか。いや、そんなことは考えず、手順通りに踊ればいい。仮に緊張で踊れないなんてことになれば、今度は舞踊団が危なくなるのだから、一所懸命踊らざるをえない。
彼も歩きだした。入り口で大理石の階段の美しさに圧倒されて間もなく、城のなかに入ると、今度はクリスタル製のシャンデリアが異様にまぶしかった。いまだかつて彼は、こんなに明るい屋内に入ったことがなかった。登城は初めての他のメンバーもひどく面食らっている。また、自分たちが足で踏みつけている赤い絨毯が、自分たちの着ている衣よりもよっぽど鮮やかな色なのは衝撃だった。こんな場所で舞ったら、自分のほうがくすんで、みすぼらしく見えるのではないか。むろん、クラウディナには願ったり叶ったりではあるが。
ところどころに皇帝の騎士が立っていた。みな一様に上質の服と、金の勲章を身に着けて、自信に満ちた表情を保っているのが印象的だった。
彼らは使者に導かれるままに歩いていたが、長く赤い絨毯を歩いても歩いても、代々の皇帝とその一家の肖像画がかけられている階段をいくど昇っても、美しい庭園を心ゆくまで眺めることのできる渡り廊下をいくつ通り過ぎても、皇帝と数多の情人の待つ後宮にはたどりつかなかった。
なんという広さ。これがサリアの望む、皇帝の富の規模……。
クラウディナは愕然とした。もし選ばれれば、自分とリュン=リエとエルテナは、こんな怪物の手をかいくぐって逃亡することになるのだから。
そのとき、ようやく後宮――白鳥城セシリー宮の正面に到着した。セシリー宮は、白鳥城の他のいかなる宮殿より豪華に見える。例の数多の情人を全員おさめるのだから当然か。
一歩入ると、本宮とはちがった意味で豪華絢爛な造りだった。大理石造りなのは同じとして、ちがうのは入ったとたんにむせかえるような花の香りがしたことと、騎士が一人もいないことだ。
「お待ちしておりました、アン=リエ舞踊団御一行様」
うっとりした眼の女が歩みでた。「さ、あなたは下がってちょうだい」
ここまで一同を導いた使者は、足早にセシリー宮を去った。皇帝以外の男が入りこめないのは後宮の当然の掟である。もちろん、クラウディナのように月の焼き印をもっていれば問題ないので、さして意味のある掟でもないのだが。
「こちらへ」
今度はその女に導かれ、セシリー宮の内部に進んだ。そこらじゅうに控える女たちの視線が痛い。女としての嫉妬か、皇帝の富を分けあうのが気に入らないのか。
一行は豪華な扉の前で立ち止まった。セシリー宮の謁見の間である。皇帝は、良家の娘が皇城に花嫁修行に入ったときは、いつもそこで品定めをするという。美しい者は後宮の側室・側女付の侍女にする。それ以外は皇城のどこへなりとまわす。
「言うまでもございませんが、くれぐれも皇帝陛下に失礼のないように。まず、私が入って言上いたしますから、あなたがたは私に続いて平伏なさってください。陛下が面をあげよ、とおっしゃったら御挨拶を。そのあとは陛下の御旨に従われますよう」
アン=リエが同意すると女は扉を叩いた。すると、中から扉が開かれる。女の力では動かせそうにない装飾まみれの扉を開いたのは、クラウディナにも負けず劣らず美しい容貌をした宦官だった。入ったとたんに、部屋の壁に張りついて立っている女官や宦官の視線がいっせいに降り注ぐ。その中を、案内役の女がまっすぐに進む。ここは、本宮よりもいっそう豪華な絨毯が敷かれていた。扉の奥には、際立った美しさの女や宦官が並ぶ。おそらくはあの中心に皇帝がいるのだろう、とクラウディナは思った。
アン=リエが先頭に立って進んだ。美人の集団から少し間をおいたところで団長がひざまずいたので、踊子たちも従った。女は全員が平伏するのを待って、一歩前に進み、告げた。
「アン=リエ舞踊団御一行様、お着きになりました」
すると、美人の集団はすばやく壁に散って、皇帝が姿を現した。もっとも、平伏していたので顔はうかがえない。
「アン=リエ、面をあげよ」
「はい、皇帝陛下」
特に威厳を帯びた声ではなかった。ごく普通の、爺の声である。
「おお、アン=リエ。相変わらず、お前の熟成した美しさは目を見張るものがあるのう。どうだ? 余のものになることは考えてくれたのか?」
「もったいなき仰せにございます。ですが、私が陛下の御許へ参りますと、陛下に捧げる踊子を養成する者がいなくなりますので」
「ははは、うまく逃げられたか。まあよい、お前のようにやんわりと拒む者には腹は立たないものよ。さて、余が指名した踊子は連れてきてくれたのか?」
「御意に。ラケル、プリムロゼ、サリア、シエナ、それにクラウディナでございます」
「面をあげよ」
言われて、五人は顔をあげた。さすがにこうした緊張には慣れており、誰も動揺は見せない。
クラウディナは皇帝の容顔を見た。かなり肥えている、というのが第一印象だった。白髪の混じった赤茶のくせっ毛。いまだかつて見たことがない顔色のよさ。顔には脂汗をかき、横で女が拭っていた。皇帝を象徴する巨大な冠は、色とりどりの宝石がちりばめられていて、いかにも重そうである。口は締まりが悪く、目は濁っている。何か病があるのかもしれない。
想像していたのとえらくちがった。噂では骨皮の老人だということだったのに、想像よりもかなり若い。そういえば、五十代だという話だった。どうして骨皮の老人などという噂になったのだろう。真実とかけ離れた噂が流れるほど、皇帝は民から離れたところで存在していたということか。
「これは美しい! さすがに評判の踊子となるとちがうものだ。しかし、みな舞踊団の看板なのだろう? 全員もらい受けるとなると、舞踊団が傾いてしまうな」
「恐れながら……。お求めならば、このなかから二人をお選びいただきたく。では、さっそく舞をご覧に入れましょう。陛下の楽隊のかたがたはどちらに」
ふと見れば、肝心の楽隊が周囲にない。
「楽隊はこれから呼ぶ。そちたちも、これから用意をせい」
「もうすんでおりますが……」
「その小汚い衣装では、踊子たちの美しさがかすむ。私が衣を貸そう。まず湯を浴み、女たちに化粧をさせ、そちたちにいちばん似合う衣を身につけ、いちばん美しい姿を拝ませてもらおう。カレッサ、アン=リエたちを浴場へ」
それは、クラウディナにとって、まったく予想外の出来事だった。目の前が暗くなった。わざわざ冴えない色を選んだのもむだになるとは。目の前にリュン=リエの幻が浮かんでは消え、浮かんでは消えし、彼女の言葉が思いだされた。
(逃げようね。もし、クラウディナが皇帝に選ばれたら)
彼女にとっても自分にとってもつらい未来が、見えていた。
いくら月の印をもっていてもクラウディナは男なので、入浴は四人とは別だった。初めて入る温水、花の香りのする石鹸で、宦官によってぴかぴかに磨かれると、心なしかいつもより色が白くなったようだった。宦官から女官へと引き渡され、白粉やら紅やらを塗られた。
「まあ、銀粉もかけないのになんて美しい髪」
化粧係の女たちは、しきりにクラウディナの美しさを褒めた。「巷で月姫と呼ばれているだけのことはありますわねえ」
衣装係の女に引き渡されると、思ったとおり紫の衣を着せられた。最後に銀の宝飾品で飾る。流れる銀髪は垂らしたままに、薄い絹を重ねた紫の衣、髪と同じ色の腕輪に足輪、薄く塗られた紅、あらゆる装飾品と化粧がクラウディナの美しさを引きたてた。
いまだかつてないほど丁寧に身支度をされたクラウディナは、しかし、呆然と立っていた。
「こちらへ」
呼ばれたので、なんとか正気を取り戻し、彼は踏みだした。
まずは、踊らなくては。あとのことは、あとからくる。
自分に言い聞かせながら進むと、案内された部屋が先ほどとちがう。扉の造りが謁見の間より簡素だった。
扉が開かれると、そこに皇帝がいた。部屋のなかに、彼ひとりが座している。皇帝たる者が供もつけずにいるとは……と、クラウディナは危機感を覚えた。
――まさか。
最悪の事態の想像を振り払い、彼は平伏した。
「面をあげよ、クラウディナ。この部屋は、余がひとりで舞を堪能するために造らせた部屋でな、次の間に楽隊が控えておる。残りの四人とアン=リエもだ。四人の舞はすでに堪能させてもらった。残るはそなただけじゃ。余はな、とりわけ、そちに興味を持っているのだ。だから、最後に呼んだ。その恐るべき美しさをして、なんと、肉体は男とな……。さあ、話はあとにして、舞ってもらおうか」
「はい」
皇帝のひと言は未来を決定づけた。絶望の中にありながらも、彼は立ちあがり、音楽を待った。前奏が始まる。彼が指定した曲とはちがう。それは、ついこのあいだリュン=リエとけんかしたときの曲だった。リズムをとり、ステップを踏んで、悩ましい動作で腕を動かしながら、振りつけのとおりに妖艶な目で皇帝をみつめた。
それから、宙に舞いあがる。儚げな笛の音の中で、彼は舞い――そして皇帝の《月》となった。
「余はクラウディナが欲しい。余は、あれに魅了されてしまったのだ。あと四名は甲乙つけがたいが、そうだな、プリムロゼを。おくゆかしい女は好きでな」
クラウディナの舞が終わったのち、謁見の間に戻って皇帝は告げた。二人とも狼狽はしなかった。クラウディナもプリムロゼも、ただうつむいていた。アン=リエは、クラウディナのリュン=リエへの気持ちも、プリムロゼとある皇帝の騎士の関係も知っていたので、二人を哀れみつつ、
「御意に従います」
と、述べた。「しかし、お願いがございます。二日後にはパリリアの公演が控えているのです。二人は私どもの看板ですから、最後にパリリアで踊らせたいのです。パリリアが終わり次第、このイフィーズ城に連れてまいりますので、何とぞ」
アン=リエは、せめて彼らの恋人に別れを告げさせてやりたかった。特に、自分の娘リュン=リエには、もう一度クラウディナと会わせてやりたかった。
「許そう」
「ありがとうございます」
「では、最後に、クラウディナ……近う」
少年は、名指しで呼ばれたので渋々立ちあがり、皇帝に近づいた。すると皇帝はクラウディナの頬に口づけて、彼の耳にどことなく甘ったるい息を吹きかけながらささやいた。
「二日後、寝台でお前を待とう。余の、月の人よ……」
身の毛もよだつ言葉に、クラウディナは皇帝を殴りたくなったが、その場は押さえた。
帰りの馬車、彼は止まらぬ寒気で震えていた。馬車には使者が同乗していたため、クラウディナは極力感情を出すまいと努めた。舞踊団の楽屋にたどりつくなり泣きだしたのはプリムロゼである。他の団員が彼女をなだめたが、どんな慰めも彼女を興奮させるばかりであった。
「私はあの人以外の男に身を許す気はありません! 決して! まして、あの人と二度と会えないところへ行くなんて……」
プリムロゼの悲痛な叫びは広場中に響いた。
同じ痛みを感じずにはいられないクラウディナも、自分の想う人を探した。
「リュン=リエ! どこに……いる?」
白鳥城に向かったのが夕暮れ時だったので、夜はとうに更けていた。もうすぐ日付が変わる時刻であった。待ちきれず、先に寝ているのかもしれないと考え、クラウディナは彼女の寝所に忍んでいった。
もう子供じゃないのだからリュン=リエの寝床に行くのは許さないよ、とアン=リエに叱られたのは、十一のときだった。あれ以来だ。懐かしい思いがした。小さいころは、彼女と本当に仲がよかった。妙に意識するようになってしまったのは、そんなふうに団長に怒られてからで。
彼はあたりを見回してから、寝所に入った。そこは団長とリュン=リエが生活しているテントで、他の踊子は入らない。群舞の踊子などは、狭いテントで雑魚寝する決まりで、クラウディナのように人気が出てくると部屋を与えられる。ちなみに、娼館の役割をするテントもある。
さて、案の定、彼女――何も知らないリュン=リエ――は、寝床で熟睡している。幸せそうに眠る彼女を現に引き戻すのは気が引けたが、いずれ知られることで、クラウディナは彼女を起こすことにした。
「リュン=リエ」
と、呼びかけて、彼女の額に触れた。さすがにこの程度では起きそうになかったので、リュン=リエの頬を引っぱった。
「悪いけど起きて」
彼女は息をもらし、うっすら目を開けた。彼女にとって、彼がその場所にいることは予想外のことのようで、
「クラウ……ディナ!」
と、声をあげて驚いた。
「帰ってきたの? よかった、また会えて。やだなあ、なんでこんなとこにいるの? 昔お母さんに怒られてたくせに、忘れたの?」
「ごめんリュン=リエ。すぐに言わなきゃならない用があったからで、別に変な気持ちで入りこんだわけじゃないんだ」
とっさに彼はいいわけした。それから彼が真面目な面持ちに戻ったので、さすがのリュン=リエも今日の結果を察したらしかった。
「わかるよ」
彼女はクラウディナの首に腕をまわした。彼はリュン=リエを抱きしめた。「選ばれたんだね」
そう語りかけられて、クラウディナは腕に力をこめた。
「なんとなく、わかってはいたけどね……」
「そうだね。クラウディナよりきれいな人なんか見たことないもの」
そこで話は途切れた。二人は抱きあったまま目を閉じた。
できることなら、ここで時を止めてしまいたい。パリリアなんか永遠に来なければいい。そんな思いにとらわれながら、その思いが詮ないものであることも知っていた。幻想にひたっても現実は変わらない。行動に出なければ。
では、どうする。逃げるといっても、どこへ。隣国ツィリマハイラへといっても、いったいどうやって。皇帝の目をかいくぐって? 皇帝の騎士を襲って? クラウディナに名案はなかった。こんなとき、力のない自分が呪わしい。
「ねえ、どうしたら幸せになれる? わからないよ。あたしたちが幸せになることは、そんなに罪深いことなのかな。どうして、逃げなくちゃいけないの。あたしたち、お互い好きだから一緒にいたいだけ、それをどうして皇帝は邪魔するの。邪魔する権利があるの」
リュン=リエは今さらながらこの理不尽さを呪った。
しかし、何をどんなに呪っても、現実は変わらない。今できることは、二つだけ。逃亡か、服従か。ふたりの願いは、ひとつだけ。ともにあること。すると当然、彼らが選んだ選択肢は、前者だった。
「行こうよ。ツィリマハイラに。パリリアまであと二日ある。追手がかかるとすればそのあとだ。それまでにあっちに入国できれば、きっと保護してもらえる。隣にツィリマハイラって国があってよかったね」
クラウディナはリュン=リエの手を引いた。リュン=リエも、逃亡の心づもりがあってか、寝巻ではなく普段着で眠っていたらしく、そのまま彼に手を引かれた。そして、かねてから枕元に準備してあったらしい荷物をとり、テントの入口に向かった。
ふと、リュン=リエが足を止めた。
「エルテナはどうするの?」
クラウディナは、彼女にそう言われるまで、弟のことを忘れていた。一瞬うろたえ、すぐに決断を下す。
「連れてはいけない。いつか迎えにこよう」
リュン=リエも納得して、小さくうなずいた。逃げるときはリュン=リエとエルテナと自分で。以前はそれが望みだったのに、今の今となっては、幼児を連れて逃亡はできないと、クラウディナは冷静に考えていた。それに、皇帝も中年、死期はそう遠くない。イフィーズ八世の治世さえ終わってしまえば、きっと何かが変わり、ツィリマハイラとの戦争が終わっても不思議ではないのだ。
二人はテントを出た。まだ他の団員に対する罪悪感はなかった。皇帝に指名された踊子が逃亡すれば、舞踊団全体の罪となる。アリィシアのときは、全員で皇帝の使者に向かって土下座した上に代わりの踊子を献上した。今度もそういう事態になりうるのは、どう考えても明らかだった。それでも二人の足は、まっすぐにツィリマハイラとの国境に向かっていた。
幸福を求めるふたりの心は、はやっていた。
そして、ひたすらに、道を行く。途中途中で、国境の街への方向を尋ねながら、歩く。ふたりのために用意される馬車はない。幸運にも帝都エトルリアは国境よりそう離れていなかったので、二、三日歩けば国境に着くだろう、というのが二人が道を尋ねた男の答えだった。
「あんたたち駆け落ち者かい?」
興味本位で問う男に、クラウディナは何も答えなかった。「おや、あんたら、ふたりとも《女》か」
男がクラウディナの《月》に気づいたので、二人は急ぎその場を立ち去った。男も追いかけてはこなかった。
それにしてもこの二人連れというのは、誰がどう見ても怪しかった。美しい容貌と《月》を持つ少年と、同じく《月》を持つ少女。事情ありの駆け落ちにしか見えない。すれちがう人々の興味を買うのも仕方がなかった。しかし、それでは追手がかかったときに足跡を残すことになる。クラウディナは《月》のある右腕に包帯を巻いた。彼の特徴ともいえる銀髪も、肩の上で切った。
「もったいないね」
リュン=リエは彼の髪にナイフをあてながら、しきりに惜しんでいたが、いま妨げになるものは取り除かなければならない。彼女は彼の髪を削いだ。クラウディナにとっては、長年じぶんに憑いていた忌々しいものを取り払った気分だった。髪を切り落としたのを手はじめに、ツィリマハイラにたどりつけば、自分のあるべき姿に戻れるにちがいないと、クラウディナは一縷の不安とともに希望を抱いていた。
月を隠し、髪を切ってからの道中は、誰もふたりを怪しまなかった。せいぜいクラウディナの美貌に見愡れる通行人がいる程度である。クラウディナとリュン=リエも、まるで一般の旅行者にでもなった気分で――戦時中であるため実際は旅行などできないが――、互いの手をとり、国境へと歩いていった。
二人が国境そばの街にたどりついたのは、エトルリアを出てほぼ二日後――パリリアその日だった。リュン=リエの足が遅いことを考慮して二日間寝ずに歩いた彼らは、街の入口に立って思わず手を打った。
いくら帝都エトルリアから多少は距離があるといっても、この街もやはりパリリアのために街中がわきたっている。街の入口で少年少女が喜びの声をあげていても、まったく不自然なところはなかった。
「やったね! もう少しだよ!」
リュン=リエが、寝不足で眼が痛むのも手伝って涙を浮かべ、叫んだ。クラウディナの疲労も頂点に達していたので、終着点を前にして彼も喜んだ。
ここまで来れば幸せは遠くない。彼はうれしさに、リュン=リエを抱きあげた。驚きの声をあげたリュン=リエだったが、彼女もまた、彼の首をかき抱く。街中のいたる場所で、家族や恋人たちが、たった一日きりの停戦と祭とを喜び、睦みあっていた。その日は、彼らだけでなくメーヴェの誰にとっても、暗黒時代の数少ない幸福のときだった。
二人は街に入ると、無料で配られる綿菓子を口にした。こういう嗜好品を食べたのは、それこそ昨年のパリリア以来だった。それだけで二人は満たされたが、この国境の街に至って、しなければならないことがある。ツィリマハイラに渡る方法について情報を集めることだ。
戦は国境を挟んで繰り広げられている。つまり、国境付近が戦場と化すことにより、国と国との境は曖昧になっていた。よって、どこからツィリマハイラに侵入するにしろ、侵入はたやすいと考えられた。問題は侵入後、どうやってツィリマハイラ軍が絶えず待ち伏せている国境側ツィリマハイラ領を通過するかだ。
臨戦状態にあるだろうツィリマハイラ軍に、自分たちは亡命者だからかくまってくれと頼んだところで、間者とみなされるのは目に見えている。そこで、自分たちのような亡命者がいる以上、それを手助けする者もいるはずだとクラウディナは考えた。いるかいないかさえ知れないその者を探す。今日中に追手がかかるのはまちがいないので、あまり時間をかけずにその大仕事を成さねばならない。
パリリアの歓喜のなかで、クラウディナとリュン=リエの二人だけが深刻な面持ちで歩いていた。その手の情報が集まる場所といえば酒場か娼館と相場が決まっている。二人は酒場を探した。街に酒場は四軒、娼館はない。四軒の酒場のうち、どこにその手の情報に通じる者がいるか見当もつかないので、一軒一軒、酔っぱらい一人一人に確かめていくしかない。
まったくこの日がパリリアでよかった、と二人は思った。今日ならば、街の男のかなりが、酒場に集まっているはずである。
二人が一軒目の酒場に入っていくと、店内は肉体労働者らしい男たちでごったがえしていた。広くはない店内に、暑苦しい男がひしめきあっている。男臭い匂いとアルコール臭が鼻について、二人は顔をしかめた。クラウディナはリュン=リエをかばいながら店の奥に進んだ。
粗野な客たちは、闖入してきた少年と少女に、遠慮のない視線を注ぐ。見たこともないほど美しい少年クラウディナと、純粋げな少女リュン=リエにむけられた、好奇のまなざし。クラウディナは仕事上、あらゆる種類のまなざしに慣れていたので、気にとめない。リュン=リエのほうは居心地が悪そうだ。
「子供に酒は出さないよ」
店の主人が闖入者を一瞥して言う。
「いえ、人探しです」
クラウディナは答えて、カウンターへ歩み寄った。
すると、うしろからこわごわ従うリュン=リエが、悲鳴をあげた。
「リュン=リエ? どうした!」
彼女はクラウディナの腕にすがった。
「おしり触られた」
クラウディナはかっとして客の男たちを怒鳴りつける。
「彼女を侮辱したら、許さない!」
おやおや、かわいらしいことだねえ、とつぶやいて、酔っぱらいが立ちあがった。「許さないって、何をするんだ? なあ、だいたい、お前さん女じゃないのか? やけにおキレイな顔してよ」
クラウディナは男に殴りかかっていた。リュン=リエは、クラウディナが殴りあいのけんかなどしたことがないのを知っていたので、何が起こるかの見当がついて悲鳴をあげた。心配は的中し、クラウディナは酔っぱらいの拳をまともに腹に受けて、周囲のテーブルや酒瓶やグラス、客を巻き添えにして吹き飛んだ。グラスの割れる音や客のはやしたてる声が響く。
「! クラウディナ」
クラウディナは床に倒れた。
「はは、情けねえ」
男たちは少年を嘲笑した。クラウディナはますます頭に来て男に駆け寄り、もういちど倒された。
彼はこんなに冷静さに欠いた人だった? リュン=リエは自問しながら、クラウディナに手を貸して立たせた。なお男に向かっていこうとするので、彼女はあわててその前に躍り出る。
「どいて!」
「いや! クラウディナこそ、もうやめて」
その言葉でクラウディナは我に返り、遅れて腹部の痛みに気づいた。したたかに打たれたらしく、胃腸に不快感がある。
「こんなとこいられないよ、クラウディナがそんなふうになるんなら」
リュン=リエはクラウディナを引きずるようにして店を出た。ドアのむこう側で、男たちがなおクラウディナを嘲笑していた。
「あんなけんか、クラウディナらしくない」
「あの筋肉野郎がリュン=リエに手を出すから!」
クラウディナは怒りがおさまらない。リュン=リエはもはや自分が侮辱されたことは忘れ、
「いいよ、あんなこと。もう次は声あげないようにする。そうじゃなくっちゃ、肝心の人探しがどうにもならないもの」
「だめだよ! リュン=リエがいちばん大事なんだから。それにしても情けない。僕がこんなに弱かったなんて……、あんまり考えたことなかったけど」
二人は酒場を巡った。最初の失敗を反省して慎重にあたった二軒目以降、酔っぱらいとの衝突はなかった。やはり、もっともあてになり、店内で唯一しらふでもある、主人に話を聞く。もちろん、二人のおかれている状況には触れずに、ツィリマハイラに入る方法を知る人はいないか、とだけ尋ねる。知らない、と答えた店主もいれば、知っている、と答えた店主もいた。知っている、と答えた店主にはさらに詳細を尋ねた。
二人、ツィリマハイラに侵入する方法に精通した人物がみつかった。最初にあたったほうはクラウディナたちの関係に言及しようとしたので、もう一人を頼ることにした。その人物は街外れにひとりで住んでいた。
酒場の店主に言われたとおりの道を行った二人は、ほったて小屋といってもいい、その家を見つけた。その家に住まう者は、亡命者や駆落ち者をツィリマハイラに逃すことを生業にしている、というのが店主の話だった。
軽く入口を叩くと、中から、誰だ、という男の声が聞こえた。
「あなたに仕事を頼みたい者です」
リュン=リエが返した。入れ、と言われて、二人は小屋の中に入った。
小屋のなかは簡素で、寝台と机が置いてあるきりだった。床には紙が散らかっている。男は寝台に腰かけて、酒を飲んでいた。酔い潰れているふうではない。
「時間がないので単刀直入に言います。あたしたちをツィリマハイラに逃してください」
男は目を細めた。
「じゃあこちらも単刀直入に訊くが、ちゃんと報酬は払えんのか」
言われてクラウディナは焦った。金など一銭たりとも持っていない。しかし、リュン=リエは落ちついていた。
「これをあなたに差しあげます。どこかでお金に換えてください。ただし、できるだけエトルリアから離れた場所で」
彼女は衣装を一枚もってきていた。舞踊団にある、もっとも高価な衣装の一枚だった。薄い絹を重ね、宝石をちりばめた上質のドレス。それを男に差しだした。クラウディナは、まさかリュン=リエがそんな準備をしているとは思いも寄らなかったので、彼女を頼もしく思った。
「ドレス……? 踊子のか」
「ええ、何か問題がありますか?」
男はドレスを受けとり、まじまじとそれを眺めて意味深な笑いを浮かべた。男の笑いかたはリュン=リエの気に障った。そんな彼女の表情など目もくれず、男は床に放ってあった紙――ビラのような――をつかむと、リュン=リエに投げてよこした。
読んでみろよ、と言って、男は引き続き酒を飲んだ。
クラウディナはビラらしき紙を眺めるリュン=リエをみつめていたが、それを読む彼女の顔がみるみる蒼白になったので、ビラを取りあげた。リュン=リエは力なくその場に座りこんだ。クラウディナは急いでビラに目をはしらせる。
ビラに記されてあったのは、ある皇帝騎士の処刑についてだった。その名には覚えがある。名前を覚えている皇帝の騎士は一人しかいない。あのプリムロゼの恋人だ。彼はクラウディナの信奉者の一人でもあり、プリムロゼを通して花をもらったこともある。似顔絵が載せられていたので、皇城に向かうとき同行した使者であったこともわかった。だからあのとき、見覚えのある顔だと思ったのだ。
そのビラには、こと細かに処刑までの過程が記されていた。まず、皇帝がプリムロゼという踊子を側女に欲したこと。それを知った恋人の騎士が、自分とプリムロゼの関係を皇帝に明かし、後宮入りさせるのはやめてほしいと懇願したこと。皇帝がそれを拒否したこと。
そして、ただでさえ絶望のなかにあって、拒否されたことで冷静さを失った騎士が、あろうことか皇帝に斬りかかったこと。その場は取り押さえられて地下牢に入れられたが、その日のうちに脱走したこと。脱走後、舞踊団に向かい、プリムロゼを連れて逃亡しようとしたが、すでに追手がかかっており、すぐに囚われの身になったこと。皇帝を殺そうとした罪と皇帝の寵愛する娘を連れ去ろうとした罪で、裁判も行われずに首を落とされたこと。自害あるいは逃亡の恐れのあるプリムロゼは、即刻後宮入りさせられたこと。
そして最後に、皇帝が欲しているもう一人の踊子の行方不明と、皇帝が彼女の探索を開始させたことが記されていた。彼女の名はクラウディナ、通称「月姫」。流れる銀髪とあくまでも白い肌と深い紫眼とがその特徴、とも。
ついに追手がかかった。ツィリマハイラに逃げることは簡単に読まれてしまうだろう。皇帝の騎士は馬を駆ってやってくる。すぐにでも追いつかれてしまう……!
クラウディナもまた、ただでさえ白い肌を青くして、絶望した。
「なあ、あんた『クラウディナ』さんじゃないのか」
クラウディナは返答に窮した。これでは、自分がその踊子だと認めたようなものだ。
「あの爺、あんたに賞金も懸けたよ。聞いて驚くな、一千ダールだぜ。こんなドレス、百枚は買えちまう」
男の言葉に、リュン=リエは顔をあげた。その表情には、焦りと絶望と悲しみと悔しさと、様々な感情がこめられていた。
「確かに皇帝より多額の報酬は払えない」
リュン=リエは男をにらみつけた。「だけど、お願い。あたしたちは、自分の望む場所で幸せになりたいの。クラウディナが後宮に入れば、確かに豪華な暮らしが約束されるわ。クラウディナやプリムロゼの見返りに、舞踊団もたくさんお金がもらえるわ。でも、幸せにはなれない。いくらお金があっても、あたしはクラウディナがいなきゃ幸せになれない。幸せでいたいの。どうしても、クラウディナと一緒にいたいの。だから手助けをしてほしいの……!」
クラウディナも男を見た。
「僕は男だ。女になれば、少しは楽になれると思ってなったけど。男を異性としては愛せない。皇帝とはちがうんだ。皇帝を一生一緒にいる相手として愛することができれば、皇城でも幸せになったかもしれない。でも僕にとってのその相手は、このリュン=リエだけだ。皇帝を愛せない。皇帝に愛されるだけで、愛する人がいないなんて不幸以外の何ものでもない。皇帝だって、いくら愛しても愛されないんじゃ空しいだろう。僕が後宮に入ることは、誰にとっても不幸にしかならないんだ。だから、幸せになれる彼女とツィリマハイラに逃げるんだ。せめて、現皇帝の世が終わるまで。でも、あなたがそれを手伝ってくれないなら、自力で行くしかない。
……僕たちの依頼は聞いてくれなくても、せめてこれくらいは聞いてくれ。僕たちに国境まで行かせるくらい、自由にさせてくれ。国境に入ったらツィリマハイラ軍に殺される。そうだ、幸せを得られない道に進まされるくらいなら、僕は死ぬ!」
言い放って、クラウディナはもの問いたげにリュン=リエを見た。彼女は涙を落としたが、笑ってもいた。
「あたしも一緒ね」
クラウディナは手を差しのべた。エトルリアから出るときも、こうして一緒にどこかへ行くときは手を差しのべた。でも、あのときとはちがう。先に希望はない。クラウディナはリュン=リエの手をとると、ほったて小屋を出ようとした。
扉に手をかけようとしたとき、その男が騒ぎださなかったので、
「ありがとう」
と、言った。
外に出れば、待つのは死。あるいは、運がよければ、ツィリマハイラ軍が入国を許可してくれるか、ツィリマハイラ軍に遭遇せずに入国してしまえるか。彼らはなお、かすかな希望だけはもった。
「ちょっと待てよ」
それまで黙って二人の主張を聞いていた男が、声をかけてくる。「何か、思うことはないのか?」
二人は立ち止まり、男を振り返った。何を思えというのだ。クラウディナはむっとした。
「俺の髪の色とか肌の色とか、気づかないか?」
男は意味深な笑いを浮かべつつ、二人に尋ねた。男の髪は白髪混じりの青銀。肌は、それなりに老いている感があるが、メーヴェ人にしては白い。
リュン=リエが、思いだしたように口を開いた。
「あなた、ツィリマハイラの人……?」
純血のツィリマハイラ人は、青銀の髪と抜けるような白い肌を持つ。彼女はそれを知っていた。
「そのとおりだ。つまり、何を言いたいかわかるか?」
リュン=リエとクラウディナは頬を紅潮させた。リュン=リエが興奮気味に言った。
「あなたは、ツィリマハイラから、亡命者を手助けするように派遣されているのね?」
男は、はは、と笑って酒瓶をテーブルに置いた。
「そこまでご立派な身分じゃないさ。趣味なんだよ、メーヴェにいやがらせをするのが」
そう言って立ちあがり、床に放ってあった地図を拾いあげた。
二人は顔を見合わせて狂喜した。抱きあい、唇で互いの頬に触れ、幸運に感謝した。男がニヤニヤしながら、独り者はさびしいぜ、などとつぶやいたので、あわてて二人は離れた。
「じゃ、さっそく方法を教えてやる」
男は、ツィリマハイラ軍の目を逃れて入国する方法を語りはじめた。このツィリマハイラ人がいうことには、メーヴェに源流があり、ツィリマハイラから海に流れでる川が、この近くに流れているという。その川というのが急流で、ひとたび流されると、ツィリマハイラの下流にたどりつくまで止めることはできない。その流れを利用するのだと。
「趣味のために危険は冒したくないからな。川までの道程は覚えて、自分たちで行けよ」
とどのつまり、二人して川に流されろということだった。
「離ればなれになったりしないの?」
そう不安そうに尋ねたのはリュン=リエだ。
「そりゃ可能性としてはある。途中、一人が岩やら草やらに引っかかるとかな。それが怖けりゃ、紐で互いの手首を結んどきゃ大丈夫だろ、たぶん」
趣味というだけあって、やることがずさんだった。
それでも、いったん流されてしまえばもう誰も止められない、と確信をもって語ってくれたので、二人はもういちど幸せを手につかむ希望をもつことができた。しかも、その希望がほぼ確実なものになりつつあることも、二人は感じていた。
「ありがとう、おじさん」
クラウディナは、今度は心から言った。
「おじさん、このドレス、もらってくださらないんですか」
「マジでいらん。そんなもん持ってたら疑われちまう。それより早く出たらどうだ? もう皇帝の騎士はここまで来てるかもしれんぞ」
「はい」
二人はツィリマハイラ人の家をあとにした。
外に出ると、すでに黄昏時であった。そのうえ、雨が降りだしている。それでもまだまだパリリアは続いており、街は人の往来が激しい。この人ごみに乗じて街を出て、男が指示したとおりに街の南にある川をめざす。二人は終着点を目前にして足をはやめた。
そのとき、誰かが叫んだ。
「銀髪に紫眼だ! 『クラウディナ』だ! 誰か、捕まえろ!」
二人は、声とは逆の方向へ走りだした。パリリアの人ごみをかき分けて進むのは難儀した。追われる者も、追う者も。
「くそっ! オレの千ダール!」
誰かがまた叫んだ。クラウディナとリュン=リエはお互い声をかけあうこともしなかった。声をかけあい、励ましあえば、周囲の人ごみにもそれと知られてしまう。
誰かがクラウディナの手をつかんだ。リュン=リエは、鞄に入れて持参したナイフ――クラウディナの髪を剃ったナイフである――をとりだすと、ためらうことなくその手を傷つけた。鮮血が散って、誰かが悲鳴をあげた。そんなものにかまっている場合ではなかった。二人は走り、阻もうとする者たちの手を切り、足をかけて転ばせるなどして、街を逃れた。
街を出てもなお追ってくる者たちがいる。二人は足を休めることができなかった。川の方向だけはまちがえないように気をつけながら、二人は一心不乱に走りつづけた。リュン=リエもクラウディナも、今までこんなに長く全速力で走ったことなどなかった。
走りながら、理不尽へのいらだちに襲われることもあった。どうして、幸せになってはいけないのか。どんなに訴えようと、聞き入れてくれる者はない。走らなくてはならない。逃げなくてはならない。幸せになるために、二人で幸せを得るために、今はひたすら走るだけ。
追手たちは、一人、また一人とあきらめていった。そもそも、楽をして大金を手に入れることが目的なので、容易に手に入らないとなると意欲も失せるらしい。街の外の雑木林、川に続く小径が、降りだした雨のためにぬかるんでいたのもその理由かもしれない。
二人も何度となくぬかるみに足をとられた。リュン=リエなど、賞金狙いの追手をまいた直後に、安堵したのか、はでに転んで服が泥にまみれてしまった。ともあれ、あらかたの追手をまいた二人は、やっとひと息つくことができたのだった。
「雨が、降ってて、よかった」
リュン=リエは息が切れている。
「大丈夫かい? リュン=リエ」
「平気平気。あとちょっとだもの、へばれないよ」
二人は背後を確認した。誰も追ってこない。
「あとは、川で溺れ死なないことを祈るだけね」
リュン=リエは笑ってみせた。無理に笑ったわけではない。先の明るいことを見て、心から笑ったのだ。クラウディナも微笑みを返した。
それから二人は手をつないで、小径を早足で歩いた。いくら先が明るく見えても油断は禁物だと、本能的に感じていた。
しばらくして、クラウディナが急に足をはやめた。
「どうしたの?」
「たぶんだけど。――皇帝の騎士だ」
空気が緊張した。二人は同時に走りはじめた。クラウディナは耳もいい。日ごろ音楽に合わせてからだを動かすことばかりしていたからだ。彼は遠くで馬の蹄の音を聞いた。街の方角から、こちらに近づいてくる蹄の音を。おそらくそれは、ついに追いついた、皇帝の騎士だった。それも、ぬかるんだ道を気にかけることなく走る馬に乗り、まっすぐに自分たちを目指している。
彼の頭に、かつてのアリィシアの姿がひらめいた。自分も、あんなふうに殺されるのだろうか。それともまだ皇帝はそこまで怒っていないだろうか。とすると、あんなふうに殺されてしまうのはリュン=リエか。
クラウディナはつないだ手にいっそう力をこめた。死などで未来を分かちたくない。リュン=リエも、握りかえしてきた。
馬に乗って、騎士がやってくる。勲章を着け剣を帯びた、皇帝の騎士。殺されてなるものか。囚われてなるものか。理不尽にも個人の欲望で他人の幸福を妨げるなど、叶わないことなのだと、証明してやる。
二人は走った。しかし、人間の足が馬の足に敵うはずもなかった。騎士は追いついてくる。蹄の音は、走っても走っても、遠くなることはなくても近づいてきていることが、耳のいいクラウディナにはいやというほどわかる。
追いつかれてしまう。そう思い、クラウディナがうしろを見ると、一人の騎士がそこまで来ていた。
「来た……!」
彼は叫んだ。
「絶対、幸せになりたいのに」
彼女はぼやいた。「もう少しなのに!」
ツィリマハイラ人の男の教えてくれた道筋だと、林の中の小径を銀杏の大木まで行って、川音のする側の林に入り、川に下りていくとのことだった。その銀杏の大木が眼前にあった。
「殺されるまで行ってやる!」
クラウディナは叫んだ。銀杏の大木の下で林に躍りこむ。
騎士はそこまで迫っていたが、林のなかまで馬は使えないので、そこで馬を下りなくてはならなかった。
「待て! 今ならまだ皇帝も赦される。まだ皇帝の寵愛はきさまにある。亡命などあきらめて後宮に参れ! 逆らう者には死が待っているんだぞ」
騎士は林に入る前に説得を試みた。二人は耳を貸さない。
クラウディナとリュン=リエは、滑り降りるようにして林を下っていった。ところが、二人は走る方向をまちがえていたのかもしれない。進んだ先には、崖が待ちかまえていたのだった。
「どうして」
崖を目の前にして、しばし唖然とする。我に返って方向を換えようとしたとき、騎士がそこにいた。崖と騎士に挟まれ、いよいよ逃げ道は途絶えたのである。
騎士はひと息ついてから述べた。
「まず、皇帝陛下がおっしゃったことを伝えよう。――『余は、クラウディナに魅了された。だからこそ、クラウディナの愛すものは余も愛そう。ただし、それはクラウディナ自身が余の掌中にある場合である。もしクラウディナが余の騎士とともに登城するならば、クラウディナも、ともに逃げたアン=リエの娘も、舞踊団も赦そう。しかし、もしクラウディナが余を拒むならば、クラウディナが私の手に入らないのならば、クラウディナをこの世から消してしまえ。余の手に入らない美しいものなど、いっそないほうがよい。余のものになるはずだったクラウディナを唆した娘も、ともに消してしまえ』――。
皇帝陛下は、選択肢をお与えくださった。決断せよ」
クラウディナもリュン=リエも、選択肢はひとつしかないと最初から決めていた。しかし、その選択肢を選べば、この騎士の剣が自分たちに下されるのだ。
「選ばんか!」
皇帝のものにならず、かつ生き残る方法など、二人には浮かんでこない。
そして、アリィシアの二の舞になるのが恐ろしくとも、選択肢はひとつ。
「僕はリュン=リエのものだ。精神的にも肉体的にも、僕のすべてがリュン=リエに属している」
クラウディナは、真実を述べることしか思い浮かばなかった。そのように断言してしまったあとになって、死の恐怖を思った。
「愚か者め」
半ば嘆息して、騎士は腰に帯びた剣に手をかけた。皇帝の紋の入った、騎士の証。それは、偽りの威光に輝いていた。
クラウディナは目を閉じた。リュン=リエと一緒に死ぬつもりだった。アリィシアはひとりで死んでいったけれど、自分にはリュン=リエがいる。だから、死ぬことは恐怖ではない。むしろ、この理不尽な世界からの解放なのだ。
「だめだよ! クラウディナ! あたしは絶対あきらめない。絶対幸せになるって決めたでしょう。舞踊団を犠牲にしてでも幸せになるつもりでいたでしょう!」
リュン=リエの絶叫が頭に響いた。クラウディナを目覚めさせる、彼女の叫び。
確かにそれは、クラウディナを覚醒させた。クラウディナははっとして目を開けた。
その刹那、クラウディナが見たものは、斜めに揺らいだリュン=リエのからだと、血――。
リュン=リエが次にあげた叫びは、クラウディナを罪悪感の底に突き落とす苦痛の叫びだった。ぬかるんだ土のはねる音がして、リュン=リエは倒れた。この騎士も、現皇帝には不満を禁じえないらしく、その不満が手元を狂わせ、急所を外したのだ。しかし、皇帝の命令をまっとうしないことには、彼の命もまた風前の灯火である。
「次は急所を狙う」
騎士は、自分に言い聞かせているようでもあった。
が、クラウディナにはそんなことはどうでもよかった。自分が早々にあきらめてしまったせいで、リュン=リエが傷ついている。そして、目の前のこの男こそ、リュン=リエに手を下した。ここに散ったのは、アリィシアの血ではない。彼自身が確かに幸せになりたいと願った、少女リュン=リエの血。それは、彼を逆上させるには十分だった。
彼はリュン=リエを一瞥すると、素早く彼女の鞄からナイフを抜き取り、騎士に殺意をもってかかっていった。騎士は油断していた――ナイフは騎士の胸を貫いた。リュン=リエのものよりも、さらに多量の血液があふれでた。
その血でリュン=リエを汚さないように、クラウディナは彼女を抱きかかえると、すぐに瀕死の騎士のいる崖から離れた。
――騎士を殺した。これで僕も、罪人の仲間入りだ。
彼は空しさを覚えながら、林を下り、川にたどりついた。河原に至ると、彼はリュン=リエの傷口を、ドレスをちぎった布できつく縛った。応急処置の方法など知らないので、流れ出る血を止めたい、という一心のみで彼は布をひきちぎった。
「ごめんねクラウディナ、あたし鈍くて……」
ときおり、リュン=リエが声をかけた。クラウディナはただ微笑んで返した。
林のほうから人声がした。次の追手がやってきたのだ。
「そろそろ行こうか」
クラウディナは、リュン=リエの傷を縛ってから、最後に自分の手首と彼女の手首に布を巻きつけ、結んだ。それから彼女を抱きあげ、今にも濁流に飛びこもうとしたとき、リュン=リエがささやいた。
「あきらめないでよかった。これで幸せになれるんだよね」
「そうだよ。少しのあいだ苦しいけど、そのあとに今までなかった幸せがあるはずだよ。これもリュン=リエのおかげだ。だから一緒に幸せになろう」
確認しあうように、言った。人を殺したあとだというのに、リュン=リエに接して穏やかな気持ちに戻ることができた。
そしてクラウディナは、彼女を抱きかかえて、雨のため増水した川に飛びこんだ。上のほうで男たちが騒いでいるのを耳にしたが、どうでもいいことだった。
川に流されることは、ずいぶんと気分の悪いものだった。
泥水が、目や鼻、口など、あらゆる穴から入ってくる。ときどき、石か何か、硬いものがからだを打っていく。リュン=リエと離れないように、もっと彼女を引き寄せたいが、そう簡単にからだが動かない。水の流れるままにするしかない。当然のことだが呼吸しにくい。彼は、リュン=リエを離さないように、との意識だけを残して失神した。
* * *
クラウディナは、夢か幻かを見た。
リュン=リエが笑っている。何の束縛もない、解放された笑み。
「ごめんねクラウディナ」
また、何をか謝罪している。何を謝っているの? 謝らなくてはならないのは僕のほうだ。リュン=リエがけがをしたのは、リュン=リエが鈍かったからではなく、僕があきらめたことが災いしたんだ。
「ごめんねクラウディナ、」
なぜか、彼女はそれしか言わない。
* * *
次に彼が目覚めた場所は、寝台の上だった。
目覚めると同時に、体のあちこちに痛みを覚えた。流れてくるときに打ちつけたようだ。
「やあ、起きたね」
逃亡の手順を教えてくれた男と同じ青銀髪の、ツィリマハイラ人の中年男が目覚めに立ち会った。どうやら助けてくれたらしい。
「ここはどこですか?」
「ちゃんとツィリマハイラに着いてるよ」
「僕たちがメーヴェからの亡命者だって、知ってて迎えてくれるんですか?」
「ああ、そうだよ。ただし、事情は上に話してもらうけどね。ところで、メーヴェのサリメントで、ケルンという男にこの川で逃げることを教わったんだろう?」
リュン=リエの言ったとおり、ツィリマハイラという国はメーヴェからの亡命者を快く迎えてくれるようだった。しかもその中年男の話によると、彼とサリメント――国境近くの街――で川を教えてくれたツィリマハイラ人――ケルンというらしい――は組んでいて、川を流れてツィリマハイラに流れついた者をこの中年男が救う、という段どりであるらしい。そのうえこの二人はツィリマハイラ上層部の命でこの仕事をしており、あとでその上層部の人間が話を聞きにくるというから、クラウディナは驚いた。
そこまで亡命者を歓待するとは、さぞメーヴェに恨みがあるんだろう、ツィリマハイラという国は。
「それで、彼女はどこですか? 僕と一緒に流れてきたはずなんですが……」
リュン=リエが同じ小屋の中に見当たらないので、クラウディナは急に不安になった。まさか別れ別れになってしまったのか。
「そこにいるよ」
中年男はぽつりと言い、小屋を出ていった。
そこに? どこに。クラウディナは小屋を見まわす。小屋の中には、ベッドが二つ、テーブルに椅子。それと――棺。
クラウディナは頭の中が真っ白になった。
「リュン=リエ?」
彼は泣き声に近い叫びをあげ、棺に駆け寄った。棺の蓋を開いて、中を見た。
中で眼を閉じて横たわっていたのは確かにリュン=リエだった。しかし、眠っているようにしか見えない、安らかな顔だ。彼は、男が冗談でやっているのだと思った。
「あの」
外で座りこんで葉巻を吸っていた男に声をかける。「おじさん……冗談きついですよ」
男は葉巻を揉み消して立ちあがった。小屋に入り、リュン=リエの眠っている棺に近づく。まず、手首に触れた。続いて、首。それからクラウディナの手をつかみ、強引にそれらに触れさせた。
脈がない。体温がない。リュン=リエが冷たい。
「どうして……?」
クラウディナは呆然と尋ねた。男は答えた。
「失血死だよ。川を流れてくるとき、腹の傷から血が出たんだろう」
男の声は淡々と重く、クラウディナの頭に響いた。足の力が急に抜けた。景色が回転した。クラウディナは力なくその場に倒れそうになった。おっと、と男が彼を抱き止める。
リュン=リエの死を、彼は頭の隅では理解していた。だが、あまりにも理不尽な彼女の死を、どうしても認める気にはならなかった。
「そんな……ばかな。先にあきらめてしまったのは僕だ。なのになんで、あきらめなかった彼女が死ぬんだ。こんなことがあってたまるか。こんなことがあってたまるか! 僕の前に……リュン=リエがいないなんて、こんなことでは、せっかくツィリマハイラに逃げたのも意味がなくなってしまうじゃないか……。君がいないんなら、皇帝の側女になろうが、何でも同じなのに、とんだ骨折り損ってわけか」
男は、錯乱しかけているクラウディナをなんとかなだめようとした。
「骨折り損なんて言うなよ。おまえは皇帝の追跡から逃れ、自由になれたんだぞ」
「ふざけるな! 彼女のいない自由なんて、僕には意味がないんだ……」
そこで、男は黙した。
涙は出ない。まだ彼女が目覚めるような気がしていたからだ。
「リュン=リエ」
(あきらめないでよかった。これで幸せになれるんだよね)
そう言ったのは彼女ではなかったか。僕よりも、幸福の到来を信じてやまなかったのは、彼女ではなかったか。そう言った彼女が逝ってしまうのか。どう考えても不自然じゃないか。今後の幸福を確信してから死ぬなんて。
何もかもが不自然だ。男が女になれるなんて、なんと不自然なことか。皇帝の位に就いてさえいれば何をしても許されるなんて、なんと不自然なことか。信じる者が救われず、信じなかった者が救われるなんて、なんと不自然なことか。矛盾だらけだ。この世には何の道理もない。いや、外面だけのものだということか。白鳥城のように、外見は限りなく美しくとも、内部には汚れた者が棲まう、あの奇妙さ。それと同じもの。それのみで世界は構成されている。
緑も街も城も、美しい。美しいものに相応しいのは美しい人。リュン=リエ――僕の美しい人。美しいものに相応しい美しい人が滅び、醜い、僕や皇帝のような者が生き残っているのはなぜなんだろう。
――そのようになっている。それが世界なのだ。美しいものと醜いものが混在するようにできている。
そう無理に自分を納得させても、リュン=リエがいま目の前にいないことは耐えられなかった。そこで、なぜ彼女が死ぬことになった? と、振りだしに戻る。
「リュン=リエ、君のいない場所が僕にとってどんなに空虚な場所であるかわかるかい……?」
幾度となく、振りだしに戻る。
何度も何度も繰り返し考えて、ようやく少年は我に返った。
――僕と幸せになるはずだったリュン=リエは死んだ。
もう動かない。それだけだ。
彼女が死んだ、その事実だけを受け止める以外、彼の思考は何もかもむだなものだった。そうして事実を受け止めたあとで、彼は涙した。
「さあ、もういいかい? 彼女を葬ってあげよう」
クラウディナはうなずいた。
男と二人で、棺を外に出す。外は深い森で、小屋のまわりには小さな墓が点在していた。川からの逃亡に失敗した者たちの墓だよ、と男は言う。
「あとは僕が」
リュン=リエの棺をおいてもらい、クラウディナは男を小屋に帰した。
男は道具も貸してくれたが、クラウディナは手で土をかきはじめた。道具を使って、リュン=リエとの別れを早めるのはいやだった。手も、ゆっくりと動かす。彼女の眠る場所を、丁寧につくってやる。雨で湿った土にまみれながら、クラウディナはときおりリュン=リエを確認した。まだ彼女が目覚めることを期待している自分がいた。
――リュン=リエ、愛してるとか、そんな大仰な言葉は使えないけど、僕には君が必要だった。
クラウディナの目から、熱いものがあふれだした。彼は土に伏して泣いた。耐えられなくなり、ついに彼は道具を使って一気に穴を掘った。そこに棺を押しやると、そっと蓋を開け、彼女の顔を確認して――最初で最後、彼女の唇に唇で触れ、そして蓋を閉めた。大急ぎで土をかけた。あの男が探してきてくれて、墓碑銘を刻んだ石を、上に乗せた。
リュン=リエは、これ以後、目覚めることはない。彼はまた、土に伏した。このままこの土になってもかまわないとさえ思った。むしろ、願った。
クラウディナはそうして、土の上で眠っていた。ふと、人の足音に気づいて目を覚ました。森のなかを、若い男と少年がやってくる。少年は、青銀の髪だった。ツィリマハイラ人らしい。突然の来訪者も、彼にとってはどうでもいいことだった。もう一度、彼は眠ろうとした。
「君かい? 『クラウディナ』とかいう亡命者は」
十歳かそこらにしか見えない少年が、自信たっぷりに言った。背後から木漏れ日がさして、青銀の髪が輝いている。今のクラウディナにとってその光は、いらだちを誘うものだった。
「そうだよ。でも君には関係のないことだ」
「こら! ユトレヒト様に無礼な口を聞くんじゃない! おまえ何様のつもりだ」
クラウディナがやや不機嫌に返事をすると、若い男のほうがクラウディナを叱責した。
「いいよ。思ってもいない敬意を示されるよりはこっちのほうがよっぽどいい。で、その子が『リュン=リエ』だね、アレフに聞いたよ」
クラウディナは、もはや何も答える気が起きなかったので黙っていた。「で、いつまでそうしてるつもりだ。これから君は、この国で新しい人生を始める気で来たんだろう。だらだら眠っていても何にもならない、とにかく起きろ。コーズウェイ、こいつ抱えてうちに戻るぞ」
コーズウェイと呼ばれた男は、はい承知しました、と言ってクラウディナを抱きあげた。
「は? おいっ……」
クラウディナが抵抗する間もなく、コーズウェイという男に抱えられ、クラウディナは連れられていった。
どこに連れていかれるのかはわからない。この少年の家ではあるらしいが。これも別にどうでもいい。いま思うことは、彼女の言葉だけだ。あの日の、彼女の言葉。
(あたしたちが幸せになることは、そんなに罪深いことなのかな)
――ちがう。罪深きは僕たちじゃないんだ。メーヴェ皇帝、それにメーヴェの、パンドロソス大陸の法だ。罪深からざるものを罪深きとする、罪深き法だ。
――いつか、壊してやる。必ず、罪深きもの、すべてを壊してやる。
美しい少年のなかに、またひとつ、ちがう感情の生まれた一瞬だった。
* * *
「ごめんねクラウディナ、」
「幸せになってね」